ised議事録

10-301. 倫理研第1回: 鈴木謙介 講演(1)

題目:『情報社会倫理と民主主義の精神』

E1:鈴木謙介講演
(開催:2004年10月30日 東京大学本郷キャンパス / 議事録公開:2004年11月30日)
鈴木謙介

鈴木謙介 SUZUKI Kensuke

http://www.asvattha.net/soul/
国際大学グローバル・コミュニケーション・センター 研究員(助手)

1976年生まれ。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。専攻は理論社会学。著書に『暴走するインターネット』(イーストプレス、2002年)、共著に『21世紀の現実(リアリティ)』(ミネルヴァ書房、2004年)。最先端のインターネット上のトピック・事件に対し、人文・社会科学の思想的伝統まで立ち返りつつ、ディープな論考を展開している。

0 報告にあたって――「倫理」とは何か

 「倫理」という言葉をタイトルにつけていますが、この註釈から講演を始めたいと思います。通常、倫理という言葉を耳にするとき、それは『守らなくてはいけない何事か』として捉えるのが普通かと思いますが、それは「道徳」とか「規範」と呼ぶべきものであって、ここでの倫理の定義とは異なります。では何か。私はこのタイトルを社会学者マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』*1から取ってきているのですが、これは規範や道徳といったもののさらに前にあるもの、つまり個人の内面を司る駆動要因、行動原理という意味の下に採用しています。

 なぜ、わざわざ倫理という言葉に但し書きをするのか。情報社会倫理というとき、我々は得てして「個人の行動と倫理」という側面に重きを置きがちです。電車のなかでのケ-タイは控えなくてはいけないといった主張が代表的なものでしょう。また最近であれば、まだ記憶に新しい長崎佐世保での女児殺害事件を受けて、小学生にはサイトを見せてはいけない、チャットのマナーを教えなくてはいけない……といった物言いがみられましたが、これもまた然りです。これらは全て、社会成員である個々人がそれぞれ規範遵守というものを徹底すべし(=さすれば社会秩序は正常たりえる)という議論です。そしてこのような言説は結局、いままでの社会を大事にしましょう、新しい現象は古くからある規範で律していきましょうという態度へ収斂します。

 ――しかし、そうではないのではないか。こうした留保をまずつけることが、我々ised@glocom倫理研の立場であると考えています。そしていま私たちは、もっと根本的な話をするべきではないのか? 情報社会と呼ばれる社会がいま目の前にあるとき、何に突き動かされているのかを見つめる必要があるのではないか? 今日の研究会開催までに、委員の皆様と議論させていただいたなかで確認されたのはこうした前提でありました。

 またさらに倫理研では、「民主主義」というキーワードを立てています。以上のような前提を踏まえたとき、問題となる「集合的決定のベース」すなわち民主主義の根幹に対する検討なくしては、情報社会そのものを検討することはできないのではないかと私たちは考えます。ウェーバーが強調したのは資本主義の成立要因としての宗教倫理の役割でしたが、それにならえば、民主主義の駆動要因としての「情報社会倫理」に対する批判的考察を以下に展開していくことになるでしょう。

1 『情報社会』という社会認識の再検討

 情報的差異という価値

 次に情報社会という言葉です。情報社会ということが言われはじめて、まだ歴史が浅い――産業社会のような言葉に比べると――こともあり、定義もさまざまな状態ですが*2、まずここでの定義を明示します:

 「モノの流通から情報の流通へ社会の比重が移動する」

 たとえば自動車であれば、「スピードが速い」といったものはモノ的、「スタイリッシュ」といったものが情報的です。モノ的性能は同じですがデザインが違う車があるとして、その両者の売り上げに格差があるとき、その差になって現れているものを「情報的差異」と呼ぶわけですが、この「情報的差異」が価値として流通する社会が情報社会というわけです。

 さてこの情報的差異という価値の創出は、情報流通の重要なファクターとなるわけですが、これはつまり、情報流通を司ることが、価値の創出のカギを握るようになることと等しいわけです。そしてこの価値創出に関する「権限委譲」が起こってきているのではないか。というのも、いままで商品流通の基礎となる価値の創出の主体は、主としてマスコミなどを通じた広告や報道であるとみなされていました。しかしこれは、マスコミが媒体を独占し、一挙に、かつ集中して大衆に送り出すことができたからです。

 価値創出の権限委譲

 しかしいま起きていることは、こうした価値創出・流通を促す主体は、むしろ個人の側へと分散する過程です。たとえばテロの時代と呼ばれるいま、国際テロ組織アル・カーイダが行うのは、具体的な破壊を伴う殺戮活動だけでなく、インターネットやCD-ROMメディア、衛星放送などを通じた情報戦であるというのは皆さんもご存知の通りです。情報社会における個人のエンパワーメントは、ある意味個人対国家の戦争を行うことさえも可能にしている。高度情報化社会は、集中していた権力が個人へと委譲するプロセスであるとは、まさにこのような意味においてです。

 また、こうした権力分散によって私たちの社会を支える理念も揺らぎはじめています。代表的な例として挙げられるのは「著作権」でしょう。いままで送り手が希少で、かつ送るモノが物質的に固定されている状況においては、著作権を守らせることは相対的に容易だった。しかしいまや流通能力が個人に開かれることで、著作権の保護を可能にしていた社会的基盤は危機にさらされています。

 さらにプライバシーについても、本来は「他人から放っておかれる権利」としてアメリカで誕生し、日本でも70年代頃に登場していました*3。しかしいまやプライバシーの保護というとき、むしろ個人情報がうかつに外に漏れ出さないように自分でコントロールするべきである、という議論に変質しています。

 また理念だけでなく、広い意味での政治のあり方も変容しているといえるでしょう。インターネットと直接民主制というのは観察される機会の多いテーマで、たとえばジャーナリスティックには韓国の大統領選挙でインターネットがもたらした側面は民主主義的によきこととして語られています。しかし日本では、イラク人質問題や北朝鮮問題をめぐるインターネット上での批判など、情報流通の主体となる個人の声の集約がある種の「ナショナリズム」や「ポピュリズム」を生み出す危険も指摘されており、政治の領域ではネットワークが持つ光と影の両面がいよいよ認識されている状況といえましょう。

 繰り返しになりますが、このように私たちの社会に対して情報化がもたらすインパクトというのは、単に問題であるとか危険であるといったレベルでなく、私たちの社会を支えてきた根本的な理念に対する再考を促すようなものになっています。それゆえ情報社会に対する検討も、個別の問題に関するレベルと、その前提となっている価値に関するレベルを峻別して行われなければならないと考えます。以下では、その価値的レベルに照準して、経済と政治の領域の整理しつつ(第2節)、思想史に立ち返る(第3節)という形で検討していきます。


2 情報社会の政治――衆愚政治創発民主主義

 サイバーカスケードがもたらすポピュリズム

 昨今注目されているものとして、ネット上の集合行動的現象というものがあります。集合行動とは社会学・心理学の用語で、個人の個別の意図にもとづいた行動が寄り集まると、全体としては誰も意図していなかったような帰結が生じるという振る舞いです。たとえば取り付け騒ぎなどに典型的なように、個人の「預金を引き出す」という行動も、集合的に発生した場合には「銀行の倒産」という帰結を生み出しえます。このような現象がネットにもみられはじめている。

 たとえば今年であれば、2ちゃんねるなどにおける右傾化した発言が問題視され、とくに2004年の前半にはイラク人質事件に対してネット上で人質狂言説や人質・家族批判などが噴出し、マスコミでも注目を集めました*4。この問題を、日本社会全体、とくに若者の右傾化傾向の現れであると見る立場も存在します*5。しかしこれは右傾化なのでしょうか。というのも人質問題の直後には同じような批判が、北朝鮮拉致被害者家族を巡って再噴出したのであり、その政治的主張が一貫しているとはとても言い難いからです。

 事態を整理するのには、およそ3つの論点を挙げる必要があります。ひとつめは、ネット上で噴き上がった種々の批判は、必ずしも2ちゃんねるでのみ噴きあがったものではないということ。人質問題の場合には、2ちゃんねるではマスコミの各種報道やblog?などを通じた「分析」が話のネタとして消費されていたのであり、全てが「2ちゃんねる原作」というわけではない。むしろマスコミ報道、blog2ちゃんねるといった情報エージェントが共振し、特殊な解釈フレームを駆使する形で「自作自演?説」の謎解きが演出されていた、と見るほうがしっくりきます。

 この「謎解き」というのがふたつめの論点になります。ネット上での人質批判の声があれほど注目されたにもかかわらず、現実の運動には波及しにくい。たとえば、「人質を救済せよ」と主張するデモに対して、さらにそれに2ちゃんねらーが抗議しよう、という意図で企画されたデモでは、実際に集まったのは10名足らずだったと伝え聞いています。単に多くの人々は、単なるタブロイド的娯楽として、情報量の乏しいマスコミ報道から「人質事件の真実」を探ろうとしていただけなのではないか。かようにネットはタブロイド娯楽メディアになりつつあるわけです。

 では実際の行動としては貧しい帰結しか生み出さなかったのに、なぜ言説のレベルで「人質批判」がこれほどまでに巨大なうねりになったのか。ここにインターネットの言説空間の持つ重要な性質が見え隠れしていると考えます。すなわち、ひとりひとりの小さな疑問の声が、ネットを通じて増幅され、全体として大きな力になるという傾向です。アメリカの憲法学者キャス・サンスティーンは『インターネットは民主主義の敵か」(毎日新聞社、2003年)という書のなかで、これを「サイバーカスケード*6と名づけています。カスケードというのは、小さな小川やせせらぎが寄り集まることで、濁流に変貌してしまったような状態を指します。サンスティーンは、このカスケードのようにネット上での言説がさまざまに圧縮され非常に狭隘な視野が全体を覆うような状態を危惧しているのです。

 ということは、「ネットの右傾化」という捉え方自体は、あくまでこのサイバーカスケードの下流、つまり結果の部分にだけ着目した見方であるといえましょう。換言すれば、現在のネットを席巻しているのは、右か左かという政治的立場と連動した「ナショナリズム」というよりもむしろ、感情的なフックを引き金として噴き上がる「ポピュリズム」なのである、と。

 創発性への信頼

 一方ネットの持つこうしたカスケード性を、ポジティブに捉える議論も出揃ってきています。たとえばハワード・ラインゴールドスマートモブズ』(NTT出版、2003年)がその代表的議論です*7。そこではインターネットや携帯電話を通じた有権者の集合行動が、政権打倒にまで至った韓国やインドネシアの例を挙げています。また、目下日本での現象として、先日の新潟の中越地震に対する救済支援活動のネット上での展開を見やると、たとえばはてなダイアリーの「キーワードシステム」を駆使する形で、各地域や町村の情報がまとめられていく。また2ちゃんねるのバイク板で、車の入らないところへ毛布などの物資を運び込むといったボランティアが行われていく、といった現象が見られます。

 こういった既存のメディアでは成しえない情報共有と社会的ネットワークの形成というものをポジティブに捉える時、これを「創発的秩序」と呼び習わし、積極的に評価する潮流があります。創発とは、システム理論では個々の要素の集まりが全体として持つ働きのうち、要素に還元できないような特徴を呼びます。

 さてこうした創発性への信頼にもとづくネットワーク社会論をもっとも極端なところまで押し進めて考えると、既存の民主主義に対する理念は根底から揺さぶられることになります。どういうことか。まず、創発性の重要な考えとして、個々の要素は全体を把握する必要がない、個々が勝手に振る舞っていても全体の秩序は生まれるというものがありますが、頻繁に持ち出される例として、アリの生態のアナロジー*8――女王アリはけして個々の兵隊アリに逐一命令を出しているわけではなく、統一的視点を持った指導者は存在しないのにも関わらず、全体としては系統立てられた秩序が存在する群体――がその基礎になっています。

 この主張を展開していくと、人々を縛る余計な法や規範は取り払うべきであって、各人が自由に振る舞い、ネットワーク形成を行える環境そのものを設計することこそが、最重要な課題となります。つまり政治的主張の基礎となりうるのは、個人の政治的志向や集合的利害への関心ではなく、新たなルールを形成しうるネットワーク環境それ自体である、というテーゼに行き着くのです。

 保守主義からの反論

 むろん、創発されたルールにもとづく新たな秩序生成、たとえば政権交代のような事態を「革命」と呼ぶか「クーデター」と呼ぶかは、相対的な問題で一意には決定できません。また、当然批判も存在します。

 創発主義から引き出される「全体的な動向を個々人が認識しなくても秩序は生まれる。個々人は自らのローカルな利害関心にのみ注意を払えばよく、全体的認識は必要ない」という政治的立場に対して、ネット・コミュニケーションのもつ創発特性がカスケード的な衆愚制に陥る危険性を指摘する人々の立場はこうです。「全体的な認識はどこかで担保されねばならない。人々が政治的関心や公共性への志向を喪失し、個別の利害関心のみを行動原理として集合的決定に参加するような事態は、端的に言って民主制の崩壊を意味する」、と。

 先に「サイバーカスケード」という言葉とともに紹介した憲法学者サンスティーンも、人々がネット上で個別の利害関心だけに集中し、狭い世界に閉じこもっていくことが可能となっていく事態を「共和制」への危機と見なしています。彼はそうした事態への対策として、ネットをより他者へ開かれた空間とするべく、自分と異なる主張を行うホームページに対してもリンクを貼るといったような法的義務が必要であると主張しています。たとえば中絶反対論者のページには、必ず中絶賛成論者へのリンクが存在するべきである、というものです。

 こうした主張は、一般に保守主義と呼ばれる立場になります。ここで言う「保守主義」とは、これまで培われてきた政治的伝統が失われることを憂慮し、政治への自由の担保こそがよりよい近代社会の政治的作動を可能にする要素だとみなす、一連の主張を指します。アメリカの政治思想史的に言っても、サンスティーンのような主張は、「民主主義的価値の擁護」を訴える思想として連綿と存在し続けてきました。

 しかし、ここには、一言で言えば「民主的価値の擁護を民主的には決定できない」というジレンマが見え隠れしています。つまり、肯定的であれ否定的であれ、いまや押しとどめることが困難になったインターネットのポピュリズム的傾向や、ルールをつぎつぎと創発するネットワーク運動に対して、保守主義の立場から民主的な価値を守ろうとすれば、「民主主義という価値を守るべく、人々に非民主的な形で命令しなければならない」というわけです。


3 情報社会の経済――所有のコントロールとコミュニティ

 著作権をめぐる私有と共有

 ここまで、情報社会における政治を考える場合には、ネットワークによる創発特性の生成を信頼する立場と、従来の民主的価値を遵守させようとする立場とが存在し、対立しているという筋を素描してきました。両者に共通するのは、私たちの社会が持ってきた政治的社会の運用がもはやそのままでは維持することができない段階に達しているという認識といえます。そして、こうした認識は政治のみならず、すでに経済の分野においても重要な対立軸として現れているのではないか。それが次の話題になります。

 具体例として、いまもっともホットな問題のひとつである、著作権をめぐる問題を考えてみましょう。情報社会における著作権は、音楽などの違法ファイル交換などの問題がすでに取り沙汰されています。その根本的問題はいったいどこにあるのでしょうか。

 事実的なレベルでいえば、情報社会における著作権の危機とは、著作物の制作・流通に関わる力関係が崩壊したことに端を発します。著作物を複製することや流通させることが物理的な困難を伴っていた時には、「著作権(とりわけ著作隣接権と呼ばれる権利)」は自然と守られていたわけですが、著作物のデジタル化(コピーの簡易化)とネットワークの普及により容易に破られることになった。こうしたネットの特性をネガティブに捉え、抗せんとする立場のロジックはこうです。先述したように、流通する商品がモノから情報に移行した社会では、情報化された商品の流通をコントロールすることが産業的な富の源泉となります。よって著作権の保護はデジタル環境の整備に伴って、より強固な技術によって保護されるべきであるということになり、実際にそうした技術が次々と導入されていることはご存知の通りです。

 また、著作権がこれまで体現してきた理念の保守を訴え、ユーザーにより広い啓蒙を促すというプログラムが、これに併走するわけです。しかしこれらは、「著作者の権利を保護する」といいながら、著作財産権=著作物でお金を稼ぐ権利を保護せんとするものであり、著作権という言葉が含意する「文化」的領域の問題として捉えることはむしろ適切でない――文化問題ではなく経済問題である*9――という印象すら受けます。

 一方で、情報社会が可能にする創作活動の新たな可能性を積極的に評価する主張も存在します。こうした立場は、著作権のベースとなる「所有権の個人主義的前提」に疑問を呈する。すなわち全てのモノは誰かしらの個人(ないしは法人格)に帰属するべし、という大前提自体を相対化しようとするわけです。

 では、個人の所有物でなければ、何であるのか。オープンソース運動などの、著作物を「共有財産」として管理していくべきだとみなす立場が代表的です。その背景には、Linuxコミュニティによって協働的に開発されてきたオープンソースソフトウェアが一定の成功を収めているという事実があります。また、ローレンス・レッシグは『コモンズ』(翔泳社、2002年)や『FREE CULTURE』(翔泳社、2004年)といった著作を通じて、あらゆるイノベイティブな創作行為はそもそも、誰もが自由に利用可能な共有資産をベースにしてしか成り立たないと主張し、著作物を積極的に共有財産として流通させるためのライセンス、「クリエイティブ・コモンズ」の運動を推進しています。

 ここで主要な対立軸となっているのは「所有とは何か」をめぐる議論です。情報社会に広がった広大なネットワークは、個人に紐づけられて流通していた情報を、ネットワーク全体の共有物にしていく作用があります。ここでは、あくまでこれまで通りの所有のあり方を護持しようとするか、新たな社会に見合った所有の形を模索しようとするかが問われているわけです。

 価値のコミュニティ

 ネットワークを用いた「所有」から「共有」への流れを評価する場合、「著作権」の問題を超えて、情報の共有によるコミュニティの生成こそがネットワーク社会の本質的な意義であるとみることができるのではないか、という話へとステップを進めましょう。

 たとえば、インターネット上の辞書として有名な「Wikipedia」というものがあります。Wikipediaとは、"Wiki"という誰でもブラウザ上でhtmlの編集ができるウェブページ作成ツールを用いた、百科事典サイトのことです(Wiki + encyclopedia)。通常であれば辞書の編纂には、もちろん巨大なコストと知識人の動員が必要になりますが、Wikipediaはそれをネット上の多数の人々のボランティアによって達成しています。そしてこうしたネット上の協働は、そこでのコミュニティ感覚――互いにどのようなノリを持っているのか、それとなく信頼しあえること――が重要な役割を果たしているといわれます。

 こうしたボランタリーな価値共有にもとづくコミュニティ生成を積極的に評価し、現実のコミュニティにも活かしていこうとする立場が、とくにヨーロッパなどから生まれています。それがいわゆる「地域通貨」などを通じた地域社会の再生を推進する運動です。地域通貨、あるいはエコマネー*10と呼ばれる通貨は、いわば「肩叩き券」の延長のような仕組みを持った貨幣で、あるコミュニティの範囲内だけで通用する通貨を用いて、たとえば「人助け」のような価値を、別のものと交換可能な価値として具現化する。こうした限定された範囲での価値流通がコミュニティ内のコミュニケーションを活性化させるものとして、現在注目を集めているのです。

 ネットワークを用いた新たな社会の創生を促すツールだと考えると、地域通貨も秩序の創発性を信頼していると言えなくはない。しかし一点、重要な相違が存在する。それは情報共有を用いたコミュニティ再生は、あくまで限定された範囲における流通を前提にしています。共有というとき、その共有できるコンテクストの限定化なくして達成できないということです。

 平等と排除

 そこに問題はないのでしょうか。もっとも大きいのは、それがあくまでコミュニティ単位の価値共有であるため、コミュニティの内外における格差を生じるということでしょう。つまり、コミュニティの価値はそのコミュニティのなかでしか通用しないため、その価値の流通する範囲に交換したいモノや価値が乏しい場合、より広い範囲で通用する一般的な通貨を利用する方が得であるような場合が往々にしてありえます。

 また、価値の共有を促すためには、共有するメンバーがある程度面識のある人間に限られ、かつそのメンバーの流動性が低くなければなりません。しなしながら情報社会とは価値=情報の流通コストと障壁が低く、どうしても流動性を高める傾向にあります。共有によって閉じたコミュニティを維持するためには、何かしらの「排除」を常に行わなくてはならない、という問題が生じます。これはこれで、また新たな所有をめぐる線引きの問題を引き起こすことになるわけです。

 以上までに見てきたとおり、情報社会における価値の流通、すなわち経済を巡ってふたつの立場を確認してきました。ひとつはより広域な範囲で流通を可能にするための理念として「所有」にもとづいた、いわゆる従来型の社会を維持しようとするテクノロジーの利用法。もうひとつには、限定された範囲での価値の「共有」を前提としたローカルな社会を生成しようとするテクノロジーの利用法。両者はたとえば「著作権」のような場面でコンフリクトを生じている。ざっとこのような整理が可能かと思います。

 さて、ここまで政治と経済での事例を通じて、情報社会における対立点を見てきました。以下では、これらは実は、歴史的に何度か繰り返されてきたバリエーションのなかで理解可能なものであるという視座にもとづき、こうした対立点をどのように捉えればいいのかについて、政治と経済の近代思想史を参照しながら再検討していきたいと思います。



*1:註:isedキーワード倫理」を参照のこと。

*2:註:isedキーワード情報社会」参照のこと。

*3:註:isedキーワードプライバシー」参照のこと。

*4:註:isedキーワードイラク人質事件」を参照のこと。

*5:註:たとえばW杯での日本の若者の熱狂ぶりなどに象徴されるような「イデオロギーなき右傾化」については、香山リカぷちナショナリズム症候群』(中公新書ラクレ、2002年)などで指摘される。

*6:註:isedキーワードサイバーカスケード」参照のこと。

*7:註:isedキーワードスマートモブズ」参照のこと。

*8:註:isedキーワード創発」参照のこと。

*9:註:ここでの鈴木謙介の論点は、東浩紀責任編集のメールマガジン、『波状言論』17号所収の「白田秀彰×真紀奈17歳×鈴木謙介×東浩紀『知的財産権とネット・コミュニティ』前編」でも展開されている。→isedキーワード波状言論」参照のこと。

*10:註:加藤敏春「エコマネーはマネーを駆逐する―環境に優しい『エコマネー資本主義』へ」(勁草書房、2002年)などで提唱されている。

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