ised議事録

10-302. 倫理研第1回: 鈴木謙介 講演(2)

題目:『情報社会倫理と民主主義の精神』

E1:鈴木謙介講演
(開催:2004年10月30日 東京大学本郷キャンパス / 議事録公開:2004年11月30日)

4 情報社会と社会思想史

 自由主義から自由至上主義へ(創発主義=新アダム・スミス主義)

 第2節で見てきた「情報社会の政治」、そして第3節で見てきた「情報社会の経済」、それぞれをめぐる対立点は、思想史的には18世紀のヨーロッパに遡ります。当時のヨーロッパは、産業革命を間に挟み、「経済」と「合理性」をてこに、新たな社会の到来を予言する時代でありました。

 そのひとつがアダム・スミスが『国富論』で展開した「神の見えざる手」という発想です。スミスの経済社会観のベースにあるのは、「自由」と「合理性」ですが、この「自由」とは、重商主義という保護関税貿易政策の失敗を背景に生まれた、重農主義者達の「自由放任(レッセ・フェール)」の思想を前提にしたもので、「あるがままに任せておけば秩序は神の意志に従って自然と生成する。人間は何も行わないのがよい」とする立場を表しています。むろんこうした素朴な主張だけではうまくいくはずもなく、自由放任という名の無策と現状肯定が祟って、フランス経済は再び危機に瀕することになりました。

 しかしスミスの議論は、重農主義者達の神秘主義的な現状肯定の代わりに、「合理主義」を秩序生成の基礎として持ち込んだところがミソです。つまり、人々がみな合理的な経済人(ホモ・エコノミクス)として振る舞うことによって、需要と供給は価格均衡点において一致し、神の見えざる手によって秩序が完成する、と。

 スミスの社会観が当時からして驚異的だったのは、要するに人々が個人的な動機づけにもとづいて行動しても、社会は人々の意図を越えて秩序を生み出すという点に存していました。ただし留保をつけますと、この時代のスミス流の自由主義と、現在の創発主義とのあいだには重要な差異があります。スミスは『国富論』の前に書かれた『道徳感情論』において、あくまで人々の内発的な道徳感情によって利己心が抑制されることが社会秩序の根幹なのだと主張しています。たとえば、市場において人々はもちろんできるだけ高い価格でモノを売りたい。これは価格を上げようとする力ですが、それに対して、一般の人々の感性に照らして自分の価格が高すぎやしないかどうかをチェックする機制――これが道徳感情がもたらす働きですが――というものが挟み込まれている必要があるとスミスは考えました。

 しかし、完全なる自由放任でも秩序が成立すると考える場合には、人々が利己心に従って自由に行為することこそが全体的な市場均衡をもたらすとされます。通常は前者の思想が「自由主義」、後者の思想が「自由至上主義」と呼ばれます。自由至上主義の立場に立てば、秩序を成り立たせるのは道徳ではなく自由そのものです。

 こうした異同はありますが、このような18世紀の自由をめぐる考えと、先に紹介した創発秩序への信頼という主張を重ね合わせるとき、現代の創発主義とは合理的経済人の代わりに群れ行動するアリをメタファーにした、俗流化した新アダム・スミス主義とさえいえるのではないでしょうか。

 また、著作権の部分で触れた「所有権」についても、すでに17世紀、ジョン・ロックによって経済的な概念として定義され*1、この時代には定着していたものです。ロックに従えば、労働して得られた生産物はまさに労働者の所有物そのものであり、こうした私的所有を前提としてしか経済社会は成立しないといいます。歴史的には、経済的所有権は当時勃興しつつあった中産階級の商人たちにとって「王によって不当に課税されない権利」の理論的根拠として機能し、イギリスは結局、中産階級の議員を多く擁する議会によって革命を達成したという流れがあります。いわゆる自由至上主義者が自由の根拠として「所有権」を強く主張するのも、こうした背景があるわけです。

 さらに言えば、創発主義への批判として登場している保守主義のルーツも、この時代です。18世紀の保守主義とは、要するに人々の合理性を信頼しない立場のことです。合理主義に対して保守主義者達は、これまでの国家を支えてきた伝統を重視します。つまり、いままでうまく作動していた(と彼らがみなした)政治システムを、経済合理性のみによって置き換え可能だとする主張は、彼らにとって受け入れがたいものだったというわけです。

 中間集団主義による私的利害の抑制

 18世紀が「合理性」と「自由」にもとづく経済の時代、すなわち「無媒介性」をよしとする時代であったとするならば、19世紀はその反省にもとづく「非合理性」を重視する政治の時代、すなわち「媒介」によって人々の非合理性の中和を志向する思想が登場した時代であります。そのひとつが情報社会における思想的ルーツとしての「共同体主義」(ないしアナーキズム)です。ここでは、その代表的思想家としてフランスの哲学者ピエール・J・プルードンの主張を見ていきましょう。

 プルードンのもっとも有名なフレーズは「所有とは盗みである」というものです。この時代、マルクスが主張したのがいわゆる「生産手段の共有」だったわけですが、彼と同じくプルードンも、「所有」ではなく「共有」の重要性を説きます。もちろん「所有権」は自然権の一部に数えられる重要な権利であり、何人も犯すべからざるものだと考えられていました。しかしプルードンは、その前提となるロック流の「労働-占有」モデル、すなわち自分が働いて得たものは自分のものだ、という所有権の根拠づけそのものを批判するのです。

 というのもロックが主張する所有権の不可侵性を可能にするためには、誰のものも奪わずに労働し、生産し、その成果を所有できるような、無限のフロンティアが不可避に必要とされます。しかし実際には、近代社会に生きる私たちは、資源が限定されているためにひとりで商品を生み出すことなどできないし、その意味では、あらゆる生産物は労働者によって「共有」されたものに他ならない。それを最終的に私的に所有するということはすなわち、所有権の侵害=盗みと呼ぶべき出来事なのだ、とプルードンは主張するのです。

 さらに、彼の政治社会に関する構想も興味深いものです。プルードンが彼の想定する社会の対極にあると考えるモデルは、ルソー流の社会契約説です。各構成員に自らの持つ全ての権利とともに自らを一般意志の最高指揮に委ねよ、と説くルソーの議論は、「人民主権」を謳ってはいるものの、一方的に個人の権利が剥奪される片務的な契約に他ならない、とするのがプルードンの批判でありました。そしてのちにルソー流の一般意志の実現を目指す動きは、「ル・シャプリエ法(団結禁止法)」として制度的に結実するのですが、このルソーの思想を基礎にした中間集団の否定も、彼の批判の射程に入っていきます*2

 つまるところプルードンの想定する理想の社会とは、人々の相互信頼にもとづく小さなアソシエーションが連合してつくり上げる、「中間集団によって媒介された社会」だったのです。そうした思想にもとづき、プルードンが考えるのが「交換銀行」または「一般銀行」と呼ばれるシステムでした。これは「交換券」という流通範囲の限定された貨幣を用いた、信頼にもとづくネットワークの創生を志向する銀行システムです。これはまさに地域通貨のはしりといってよいでしょう。資本主義や交換経済といったものは、匿名性と流動性を高める貨幣によって貫かれているわけですが、それに対し、流動性を限定して価値の共有にもとづくネットワークを形成することにこそ、資本主義の矛盾を解決する糸口があるとみなしていました*3

 再確認しますと、自由主義とは国家と個人の間にある領域を、自由な経済圏であるとみなし、そこでの私的利害にもとづいた振る舞いが抑制されないことこそが重要だと考えます。しかしプルードンのように中間集団の力を強調する立場は、自由主義者が個人に内在するとみなす道徳の源泉を、共同体の抑止力に求めるという噛み合わせになっています。

 プルードンたちの議論は一言で言えば、資本主義社会=経済社会の矛盾を政治的に解決しようとするスタンスです。また晩年のプルードンが高く評価したのがトクヴィル*4の考えるようなアメリカ社会、すなわち地方自治の重要性を訴える議論であることには注意を払う必要があるでしょう。こうした思想が、いままさに情報社会における新たな地域主義のロジックとして再生しつつあるのです。

 保守主義社会民主主義:「国家」の20世紀

 さて、以上までに見てきたとおり、現在の情報社会をめぐるさまざまな立場は主として18世紀の「自由主義」と19世紀の「共同体主義」にその思想的ルーツを持つことを確認してきました。しかし、なぜこのような大きな思想の枠組みが、現代において再来しているのでしょうか。そのためには、20世紀について考える必要があります。両者の思想の本質は、別のものによって覆い隠され、置き換えられていったからです。

 それは何かといえば、「国家」です。20世紀においては右も左も、国家が国民の面倒を見るという大枠、つまり「社会主義」でありました。たとえば資本主義がもたらす不平等の是正を求めてプルードンらは共同体主義を構想しましたが、これは国家の福祉政策によって実現されることになります。さらに私的所有がもたらす根本的矛盾という批判も、無限の経済成長という神話の下に無効化されます。このようにいままでの社会思想史的な矛盾はすべて国家の下に回収するというのが20世紀という時代だったのです。

 まず、社会主義とセットに、総動員体制論の確認をしましょう。一般には、20世紀前半は自由主義ファシズムの戦いであり、後半は自由主義社会主義の戦いの世紀だったとみなされていますが、これは誤りであることをまずは確認せねばなりません。政治学の成果が明らかにするところによれば、第二次世界大戦までの時代は連合国も枢軸国も、国家総動員体制にもとづく戦時国家であるとみなされます*5。このような体制下では、誰もが国家を挙げての戦時事業に参加していました。

 そして世界大戦が終結したあとも、引き続きこうした体制は重要であり続けます。社会主義国家においては、国家的な総動員体制は「計画経済」の名の下に維持されます。また資本主義国家の側にあっても、戦時下において成立していた完全雇用を維持し続けるための、社会民主主義政策を採らざるをえなくなります。両体制ともに、「戦争」に代わって「経済成長」が、国民的動員のための目標として設定されたわけです。

 こうして現在まで続いている社会(民主)主義体制とは、国家が国民の生活を保障する体制にほかなりません。それゆえこうした体制の内部においては、政治問題であれ経済問題であれ、すべて国家への権利要求という形で不満を解消することになります。経済社会における労働者の貧困問題も、そうした経済成長を前提とした再分配政策によってある程度まで解消されてきたことは周知の通りです。

 またこうした国家主義的なあり方のルーツは、一種の保守主義であるとみなされています。保守主義のルーツが18世紀において、自由主義的人間観に対峙していた思想にあることはすでに述べたが、こうした考え方はヘーゲルに至ってひとつの完成をみています。すなわち、自由主義者達が自由な経済活動の場であるとみなした市民社会を「欲望の体系」であると捉え、国家あるいは公共的なものへのコミットを人々に涵養しつつ、私的利害に任せているだけでは救済されない人々に対する国家的な福祉の必要性を説いたのです。

「国家」の行き詰まりと情報社会

 しかしながら、経済成長の停滞とそれに伴う福祉国家体制の行き詰まりは、20世紀の後半以降、それまで覆い隠されていた種々の矛盾を浮き彫りにすることとなったことも周知の通りです。そうしたなかでまず登場したのが、「新自由主義(ネオ・リベラリズム)」ないし「新保守主義(ネオ・コンサバティブ)」と呼ばれた、自由至上主義的な経済を称揚する政治的立場でした。彼らが主張するのはいわゆる「小さな政府」、つまり国防・警察に関する最小限の機能だけを国家が果たし、福祉についてはできる限り個人に――とりわけ「家族」などの伝統的だとみなされる価値を復権することによって――担ってもらおうというものです。新自由主義が保守の思想と結びつくのは、そうした理由によります。

 とはいえ、そうした新自由主義政策にもとづく福祉切り捨てや自己責任原則の強化は、いまだ国家への権利要求以外に庇護の手段を持たなかった個人にとっては、貧富の格差拡大のような形で現れてきています。結果として20世紀の後半には、「国家か自由か」、「福祉か経済か」といった、いわゆる右派/左派の対立として、この問題は理解されることになっています。また、かつては右派=保守、左派=革新と呼ばれていた政治的スタンスの対立の有り様は、福祉国家の解体と規制緩和などの「革新」を訴える保守と、現状の福祉政策の維持・拡大を目標として掲げる「保守」化した社会民主主義という、ねじれた対立になっているといえましょう。

 最後に、ここで大きく話を情報社会に戻していきます。

 21世紀、現在の情報社会においてみられる、源流を18世紀や19世紀に持つ思想たちの再来とは、いったい何を意味するのか。それはいまや、情報技術の進展を含めた、価値創出の主体の権限委譲により、人々は20世紀型の福祉国家をあてにするか、しないかといった選択以外にも、オルタナティブな選択肢を持つことが可能になったということではないでしょうか。情報社会における「自由至上主義」と「共同体主義」の再来とは、つまるところ「社会(民主)主義」という、政治と経済を統合したシステム(国家)がこれまで蓋をしていた種々の矛盾の現れを、情報技術によってあがなおうとする動きなのではないか。これが私の結論となります。

表1
E1:表1

 以上のように情報社会的な観点から思想史的立場を俯瞰すると、上の表1のようになる。また下の図1は、20世紀的な立場、すなわち広義の保守主義と、現代における情報化された思想――サイバーリバタリアニズムサイバーコミュニタリアニズム――との関係を表しています。上からおさらいしていきましょう。

図1
E1:図1

  • 保守主義においては、
    • 道徳:国家が公共心を涵養し、教育していくことで生み出していく
    • 経済:国家が経済を統制していく
    • 政治:福祉政策による再配分と国民の統合を行う

このように、国家の力が非常に巨大化するのが保守-国家主義ラインになります。

  • 共同体主義
    • 道徳:共同体の伝統やルールによって、利己心を抑制する
    • 経済:流動性を下げ、ローカルな地域に限定された範囲で価値を共有する
    • 政治:アメリカ流のフェデラリズム(連邦制)、つまり各地域が自治を行った上で、国家はその連合として捉えられる
  • 自由至上主義
    • 道徳:個々人が利己心に従って行動することで、全体的な道徳的秩序が生まれる
    • 経済:市場における自由が至上価値であり、私的所有権の絶対性が主張される
    • 政治:小さな政府へ

 そしてこのような3つの立場が、現在の情報社会では「三つ巴」になっていると考えます。

 保守主義は20世紀的な枠組みの延長です。国家へ向けた公徳心の涵養、私的利害を国家へ権利要求する形で調停する、といったスキームです。これに対して、情報技術のエンパワーメントを背景に、サイバーコミュニタリアニズムサイバーリバタリアニズムが21世紀の転換点において出現しつつあるわけです。前者は、私的利害を共同体によって抑制し、情報共有によるコミュニティを生み出していくという立場です。そして後者は経済的自由を重視し、自由な個人の振る舞いから生まれる創発性を信頼します。そしてそのような創発性を生むようなアーキテクチャを設計しなくてはならない、というわけです。

5 いま必要なモラトリアム

 さて、こうした見取り図にもとづいて、私たちは情報社会をどのように考えていくべきでしょうか。

 重要なのは、サイバーリバタリアニズムサイバーコミュニタリアニズム、いずれの立場も、ともに情報技術によって自らの立場をエンパワーしうると考えている点です。現代では、情報技術のエンパワーメント運動を担う当事者でさえ思想的立場に無自覚であることは珍しくありません。これは裏を返せば、自らの思想的な前提に配慮することなく、より人々に流通し普及する技術、そしてより包括的な技術を掌握する側こそが、このイデオロギー闘争に勝利することができるということでもあります。つまりかつてのイデオロギー闘争は、技術の闘争に置き換えられていく。

 いま私たちの社会がどのようなデザインにもとづいて、どのような社会を設計しようとしているのか。こうした問題についての一切の思慮を欠いたまま、単なる技術論として情報社会の問題が捉えられていくとすれば、私たちは断固として抵抗しなければならないと考えます。「普及しているから」「便利だから」と、次々と技術を採用していく果てには、おそらく私たち自身も「望んでいなかった」、あるいは「望んでいるとは思いもしなかった」事態をいつの間にか呼び寄せているということがありうる。はたしてそれでよいのか、立ち止まって考える必要があるでしょう。

 いま必要とされているのは、現前する問題の技術的な解決方法を考えることだけでなく、その解決方法が目指す社会像や社会的価値についての検討ではないか。こう主張するとき、もちろん情報技術の発展速度はめまぐるしく進展し、逐一そのコンセンサスを取ることは難しいという事実を受け止めねばなりません。ここでは、いま直面する社会変革の契機を前に、社会的な価値のレベルにまで立ち返った、人文的な知にもとづいた理念的な議論のためのモラトリアムこそが求められるべきであると主張したいと思います。本研究会がそうしたモラトリアムの議論の場になることを望んで、この報告の結びとさせていただきます。



*1:註:古典的自由主義リバタリアニズムの理論的始祖であるジョン・ロックの主著、『統治論』(『統治二論』、『市民政府二論』とも訳される。英題は"Two Treatises of Government")の第5章にて、キリスト教的に基づき身体の自己所有(自分の身体は自分のもの)を正当化することで、私的所有が基礎づけられている。

*2:註:鈴木謙介の論文、「アンソニー・ギデンズのactive概念と市民社会」(『社会学論考』2001年11月)にてル・シャプリエ法については触れられている。またフランス革命の失敗を受けて生まれた社会学が「中間集団」を重視する点については、「社会学の理論で斬る『ネットの不思議』 第12回:インターネットは人を幸せにするのか(下)」で簡潔に説明されている:引用すると、「なぜ社会学にとってこのような中間集団が重要なのか。それは、社会学のそもそもの起こりと関係がある。社会学が登場する以前の社会は「啓蒙的理性」の時代と呼ばれていた。ルネサンスを通じて「人間」の価値を再発見したヨーロッパ人は、科学や理性の発達によって迷妄の時代を逃れることができれば、この社会も人間ももっと素晴らしいものになるのだと素朴に信じていた。しかしながらこのような考えは、フランス革命を期に頓挫することになる」。

*3プルードン情報社会の関係についてはGLOCOMウェブサイトでのコラム、鈴木謙介『反・私的所有』の思想」でも展開されている。

*4:註:アレクシ・ド・トクヴィル。フランスの政治学者。1830年代に訪米した体験を元に叙した見聞録、『アメリカの民主政治』はアメリカ研究・民主主義論における不朽の古典。アメリカの民主主義においては、草の根の市民による結社活動(タウンシップ)から始まった自治の伝統が、ボトムアップ式に州制、連邦制を通じて生かされていることを描いた。

*5:註:山之内靖 他「総力戦と現代化」(柏書房、1995年)や「再魔術化する世界―総力戦・“帝国”・グローバリゼーション」(御茶の水書房、2004年)を参照のこと。

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