ised議事録

10-306. 倫理研第1回: 共同討議 第2部(1)

E1:共同討議第2部
(開催:2004年10月30日 東京大学本郷キャンパス / 議事録公開:2004年11月30日)

啓蒙から運動にこぼれるとき――サブ政治ポピュリズム

東浩紀(以下、東):

 ではここで、白田さんはあらためてどう思われますか? おそらく、白田さんの考えだと、情報の信頼性が担保されなければいけない領域がある。そしてその領域がなぜ必要かといえば、それは、全体的な意志決定の場面では情報の信頼性を確保するコミュニケーションが行われなければならないからである、ということだと思うんです。逆に言えば、そうした領域以外のところでならば、ネタ的なカスケード現象が起きてもまったく問題ない、という立場もありうる。

白田秀彰(以下、白田):

 ネタと言ってもそのネタがどんなものかが問題ですよね……。うーん、この話の方向性はいったん保留にさせてください(笑)。というのは、自分はいままったく違う問題を考えていて、それがうまくまとまらないんですが……。

東:

 そうですか。では、その話をぜひ聞かせてください。

白田:

 いやそれは置いておいて(笑)、まずね、ちょっとわからないのが、「情報社会倫理と民主主義の精神」というテーマで、なぜこれまで2ちゃんねるの話がずっと続いているのか(笑)。そもそもそこがわからないんですよ、どうしても。

高木浩光
E1:高木浩光

高木浩光(以下、高木):

 そこでちょっと話をずらしたいと思いますけどね。さきほど鈴木さんのご講演を伺っていて、ネット上の集合行動的現象について視点が欠けていたと思ったのは、「専門家からの話や指摘がどう波及していくのか」という観点なんです。それはどういうことか。結局人々は自分の知識のなかでものを考えているわけで、分野によると思いますけれども、知っている人と知らない人という差が明らかにあるはずです。そして、知らないがゆえに違う考え方をしてしまうということがある。まさに、セキュリティを専門とする関係でプライバシーについて言いたいことがいっぱいある私としては、いまそのような状況の真っ只中にいるので、こうした問題を強く感じるんです。

 たとえば、自分が経験して思うのは、結局誰にでもわかる話しか2ちゃんねるでは盛り上がらないんですよ。本当にちょっとでも難しいと、もう全然盛り上がらない。3秒で答えられないとダメだ、という話*1がありますけれども、そういう状況です。そうしたなか、blogがようやく流行ってきた中に、「やっぱり2ちゃんねるでは無理だ」という思いを溜めてきた人々が、たとえば、著作権に関する色々な活動が――著作権審議会パブリックコメントを出そうというような運動*2ですね――出てきているという経緯があるのではないか。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

 ドイツの社会学ウルリッヒ・ベックが「サブ政治」という概念*3を出しています。これは専門家と市民とのいままでの民主的プロセスにはなかった共振的議論形態というものが描かれているんですが、そういった「サブ政治」が2ちゃんねるではうまく軌道に乗らなかったのが、blogでは可能になってきているということですね。たしかに著作権の問題についても、おっしゃられたようにパブコメ提出運動とか、あるいはCCCD反対運動というものはたしかにある。

 しかし実際、そのような運動のなかで動員される、つまりパブリックコメントを出そうとかイベントに行こうという人々の内実もやはり、「3秒ルール」ではないか、と自分は疑念的ですが、思うんです。たとえば、とあるCCCD反対イベントに行った時も、主催者に向かって参加者のひとりが「闘いはこれからですから!」と高らかに叫んでいて、自分などは「いや著作権の話はそういう話じゃないだろう……」などと冷静に思うんですが、ここでの図式はやはりある種の単純化された善悪図式のようなものになってしまっている。すなわち「著作権の保護を強める悪い奴がいて、そこから自由を守るために俺たちは闘うんだといった「3秒ルール」的な図式に落とし込まれているわけですね。

 そこでは、著作権の理念は何なのかとか、どういう水準での政策議論にすればいいのかとか、あるいは、著作権の問題ではなくて著作隣接権の問題じゃないか、といったような具体的な水準にまで遡ったような話が出てきようがないという気がするんですよ。2ちゃんねるからblogへという流れのなかでサブ政治が可能になってきたように見えるといえど、単に外見が真面目になった、ということなんじゃないかともいえると思うんです。

東:

 白田さんが提出された疑問に差し戻すと、なぜさきほどまで2ちゃんねるの話が続いていたかというと、それは決して脇道の余談というわけではなくて、やはりここには本質的な問題があったからだと思うんですね。いま僕たちが話していたのは、2ちゃんねるに特殊な問題というより、ポストモダン社会におけるポピュリズムの問題についてだと思うんです。

 鈴木さんがおっしゃったように、ウルリッヒ・ベックが言う「サブ政治」や「サブ公共性」がインターネット上に多数出現することは可能であるし、まさに実際高木さんがやられているように、専門家がblogを書いて良識ある市民たちがそこに結集していく……という動きはいま実現している。

 しかしここに重要な区別をつける必要があります。それはあくまで「啓蒙」の段階での話であって、「運動」の段階になった瞬間に、全然違うロジックでいかざるをえない。運動の段階になると、それこそ、ローレンス・レッシグの著作が『CODE』から『コモンズ』、そして『Free Culture』へどんどん議論がわかりやすくなっていく*4のが示しているように(笑)、もう「3秒ルール」の世界にならざるをえない。つまり、大衆動員を目的とすると、さきほどまで話題になっていたような、2ちゃんねる的でネタ的なコミュニケーションに突然直面せざるをえなくなる。そういう逆説というかジレンマがあると思うんですね。創発的な情報発信とサイバーカスケードはここでも表裏一体なわけです。

 たとえば、高木さんのはてなダイアリー(id:HiromitsuTakagi)*5はたいへん啓蒙的で役立つので、僕もしょっちゅう読ませていただいているんですが、それを運動化しようと思えば、肝心のその議論が役立たなくなるところまで話を圧縮せざるをえないという問題があると思うんです。

高木:

 そこでですね、さきほど鈴木さんが提出された3つの立場を整理した図式がありましたが、私の立場は実は「保守主義」なのかな、と思うんです。結局、ある程度の世論を味方につけて、そこそこまでもっていったところで、役所の人の理解を得てですね、そこからルールをつくっていくという発想にとらわれているのかもしれないな、と思いますし、ただそれが現状では効率がよいかな、と思っています。むしろここで一歩間違って、住基ネット騒動の時のように、「何かよくわからないけれども番号がつく。気持ち悪い」という反対運動になってしまった時点で、良識ある人たちはそっぽを向いてしまったと思うんですね。そういう風になってしまってはいけないとは常々思うのですが、今後似たような問題を、どういう風にやっていったらいいのか、本当に難しいな、と思っているところですね。

北田暁大(以下、北田):

 それはつまり運動化せずに啓蒙を続けられるかどうか、ということですよね?

東:

 そういう立場もありますね。それは、運動をやめてしまおうということですか?

北田暁大
E1:北田暁大

北田:

 運動をやめざるをえない臨界点もある、というニュアンスです。たとえば「ゲーム脳の恐怖」(森昭雄 著、生活人新書、2002年)と呼ばれる新書がありましたが、その内容が持つトンデモ科学性を暴くムーブメントというのが、ゲームを支持する世代を中心にネットで起こりましたよね。精神分析医の斎藤環氏による脳科学的にきっちり批判した文章*6というのがネット上にあって、これに皆でリンクを張ることで、検索エンジンの検索結果で当の本の紹介ページよりも上位に来るようにしようという運動*7で、みんな盛り上がって参加していました。しかし、たぶんあそこに参加した人の99%は、批判の内実をわかっていないと思うんですよ、それはつまり非常に専門的なことなので、相当に勉強した人じゃないとわからない。もちろん僕だってわかりません。だけれども、とにかく善悪図式だけが存在し、わかりやすいキャラクターがいて、敵もはっきりしている。こうして運動だけが自律化していくということは、逆に、内容が専門的になればなるほどにありうることだと思うんです。

鈴木謙:

 いま、先端的な科学であるとか、それこそ辻さんがご専門にされている統計技術であるといったものが、まさにそういうものとして使われているのではないか。さきほどの報告で倫理という話をしたひとつのきっかけが、今年の佐世保の事件のあと、「子どもがキレるのが危ない」ということで、新生児から5歳ぐらいまでの子どもの脳を全部スキャンして、キレる子どもの脳の特徴を見ようというプロジェクトを文部科学省が進めているんですね*8。そして僕は共同通信の記事でも痛烈に批判記事を書いたんですが、つまり、我々の社会は「科学的」な根拠にもとづいて主張を突きつけられた時に、いったいその技術と科学にもとづいて何をしているのか、すぐに忘れてしまう傾向にあるのではないかということなんですよ。

 たとえば、ちょっと普通に考えてみてほしいんですよ。脳の傾向を調べる云々ではなくて、毎年毎年新生児の脳をスキャンしているという光景をお前らはどう思うんだ、ということを誰も考えない。こういうことが起こってしまう。そうした時に、技術といったものを技術的に脱臼するという方向はありえます。しかしたとえば、バリー・グラスナーという社会学者がそうであるように――彼は『ボウリング・フォー・コロンバイン 』の元ネタになった本である『アメリカは恐怖に踊る』*9(松本薫 訳、草思社、2004年)の著者ですけれども――統計に対して逆統計を投げて、それが正しいか正しくないかという水準よりも、より「説得的」であれば多少メッセージなどが歪んでいてもいい、といった「科学をめぐる情報戦」になってしまうんですね。そして、そうした情報戦に勝った方が、結局銃規制で勝つんじゃないの、みたいな話になってしまう。たしかに運動であるのならば、別に科学の内容自体ではなくて、わかりやすさとか、伝わりやすさとか、面白さといったような「3秒ルール」でいいのでは、ということになってしまう。しかしそれも何か違うのではないか。

北田:

 そこでぜひ、『反社会学講座』(パオロ・マッツァリーノ 著、イースト・プレス、2004年)帯の執筆者の辻さんにお話をしていただきたいんですね*10。というのもあの本がうけている理由も、いまおっしゃったことと無関係ではないと思うんですよ。啓蒙的でいい本だとは思うんですが、「科学をめぐる情報戦」に巻き込まれている感じもしなくはない。

辻大介
E1:辻大介

辻大介

 まさに『反社会学講座』の一般読者層での受容のされ方というのが、「これまでマスコミが流してきた統計の使い方はやっぱり嘘っぱちだったんだ、ヤッター!」で終わりなんですよね。そこから先の議論、では少年犯罪が減ってないとすれば本当にこれは安心していいのか、どういう風に考えていけばいいのか、という議論がまったくそこから出てきていないんです。そういう点でたしかに北田さんもおっしゃったように、専門知を持ったオーソリティーというのが運動の「旗印」にだけ使われて、旗を振っている人自身は旗の中身がわかっているのか、ただ旗を振っているだけ、という形の危険性が十分にあるんじゃないかと思うんですね。つまり、オーソリティーが「啓蒙」の旗を掲げることが、逆に「啓蒙」に結びついていかずに、「権威」のみが取り出され、内実がブラックボックスのまま不問に付された錦の御旗化してしまう。



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