ised議事録

10-307. 倫理研第1回: 共同討議 第2部(2)

E1:共同討議第2部
(開催:2004年10月30日 東京大学本郷キャンパス / 議事録公開:2004年11月30日)

サイバー保守主義宣言」

東浩紀(以下、東):

 ここらあたりで、さすがに白田さんにご登場いただきたいのですが(笑)。

白田秀彰(以下、白田):

 いやいや、まだまだ(笑)。

東:

 ええっ?(笑)白田さん、何を喋ろうと思っていたんですか?(笑)

白田:

 いやもうね、次回にまわそうかなと、いま思ってたんですけどね(笑)。では鈴木さんの講演への質問という形で口火を切らせてください。

 最後に「情報社会と社会思想史」という整理をされた図がありますよね。さきほど高木さんが、分類すると自分は保守主義になるのかな、とおっしゃったんですけど、サイバーリバタリアニズムサイバーコミュニタリアニズム、そして保守主義が等置されるのがよくわからない。この保守主義の中身を見ていると、どうも国家主義っぽいんですよね。

 また設計研鈴木健さんから、コスモポリタニズムという立場を追加されるべきだという部分に「レッシグはコスモポリタニズムに近いんだ」ということが言われているんですが、僕が見る限りでは、レッシグはめちゃめちゃ保守的な憲法主義者なんですね。僕が最近CPSR(社会的責任を考えるコンピュータ専門家の会)の山根さんあたりと嘆いているのは、日本にはちゃんとした保守がいないのではないかということなんです。利益配分型の適当な仲間サークルはごまんとあってそれが保守だと名乗っているんですが、本当の意味での、「伝統的な価値を絶対に守っていかねばならんのだ」という意味での「保守」がいないんです。で、鈴木さんがここで言っている保守主義国家主義のことのようで、この図式はどうなのかと思う。

 ……ということで、いま僕の言っていることってわりとまともにテーマに沿っているでしょ?(笑)

東:

 (笑)いやいや、いままでも沿っていましたから大丈夫ですよ。

白田:

 そう?(笑)。そこでまたもうひとつ思ったのが、サイバーリバタリア二ズムとサイバーコミュニタリアニズムの頭についている、「サイバー」が何を意味しているのかということです。「もしかしてアーキテクチャ・ドリブン、つまりアーキテクチャに依存して自由主義共同体主義が成立しているってことなの?」と思ってしまったんです。

 たしかにここでいうところの保守主義が本当に保守主義かどうかはわからないけれど、少なくとも「サイバー」とついているこの二者に関しては、何かアーキテクチャというかネットワークの構造で、自由至上主義に行くのか共同体主義に行くのかが分岐していて、結局はアーキテクチャの選択の問題になってしまっている気がするんです。つまりアーキテクチャが選ばれると自動的に創発的な効果によって、自由至上主義もしくは共同体主義に流れていくのだ、という論理になってしまっているのではないか。

 しかし自分としては、そんなに創発とはよいものだろうか、という疑問があるんです。つまりアーキテクチャを決定すると勝手に共同体主義なり自由至上主義が生まれて、それでオッケーなんだ、とすることには、全然人間の主体的な選択というのは入ってこないのではないのか。いまのところネットはその両方に対して使えるようになっていて、アーキテクチャの争奪戦――共同体主義者は共同体主義に沿うようにアーキテクチャを変えたいと思っており、自由主義者は自由主義に沿うようにアーキテクチャを変えたいと思っていて、そのケンカをやっているのではないかと思う。ただね、ではその人たちはそのアーキテクチャが生み出す最終的なものに関して、ちゃんと考えているのだろうか? 放っておけばいつの間にかいいものができてくるだろうなどという発想でやっているのではないか? ということを考えているんです。

白田秀彰
E1:白田秀彰

 さて、このised@glocom倫理研設計研とあることを考えると、おそらく設計研の方でアーキテクチャの設計をやるということになっていて、そして倫理研はそのアーキテクチャの目的を確定していくという仕事を分担している、と。そして手順としては最終的に我々が何を目的にするのかを考え、それを受けて設計研がそれに沿った創発的な構造をどうやってつくっていくのかということを考えていき、そしてできたものを倫理研がもういちど批評する。その繰り返しがこの1年半やることになっている研究会になっているのかなと考えていたんですね。

 ただし、そのなかで、価値や目的の確定ということに関しては誰がやるのか。素人にはやはりできないという問題がある。こういう言い方は極端かもしれませんがあえて述べますと、素人ができることは、選ばれた選択からイエス・ノーを言うくらいのことだと思うんです。ただこのイエス・ノーの選択でさえも、そこもアーキテクチャに相当左右されてしまうというのが創発的な議論の方向だと思うんですね。そうすると、価値や目的をある程度誰かが考えて設定するところまではやらなければしょうがないのでは、と自分のHotwiredの連載で論じたのですが、そうしたらファシストと言われてしまいました(笑)*1

 これは余談ですがファシストの問題点はさきほども出てきていて、面白いなと思うのは、旗振り役がいつの間にか旗を振っているだけになって、振っている中身がわからなくなるという危険が十分あるというのは、ヒトラースターリンもおそらくそうだったのかなと思うんですけどね。

 さて最後に、最初に出てきた「保守とは何か?」という話に戻るんです。僕もレッシグと同じく、たぶんウルトラ保守主義者なんでね、アーキテクチャをつくってそこから創発的な結果が出てくればよいというのは、どこか怖い。つまり保守の立場というのは、ここで鈴木さんが提出されている国家主義的な話云々ではなくて、価値オリエンテッド――最終的に何を価値として設計していくのかということを前提に、アーキテクチャの選択を指導するという立場が保守主義なのではないだろうかと思うんですよ。この三者のなかに、サイバー保守主義というものがないかと思うんですよ、保守主義だけサイバーがなくて寂しいなあ、と思って(笑)。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

 たぶん、情報社会に対してアンチを言うという意味で、国家主義という言葉を保守主義と絡める形で持ち出してしまったのは強引な図式なのは確かです。以前『波状言論』で座談会をした時にも言ったことですが*2、18世紀的な保守主義というのはまさに白田さん的な保守主義だと思いますが……。

白田:

 うん、ただ少し違うのが、18世紀的な保守主義というのは、ローマ時代より連綿と続くいわゆる父祖の遺風が――つまり「父、そのまた父、そのまた父……」というのが継続していった延長上にある、「わが国民、わが民族……」の伝統を保守するのだ、という――ベースとしてもともとはあったと思うんです。

東:

 いま白田さんがおっしゃっているのは、鈴木さんが好みそうな言葉でいえば、「再帰的保守主義」となるのかもしれませんね。自分でつくった価値を自ら選択する、自己言及的な保守主義

白田:

 ふむ……、ちょっとその概念についてはよくわかっていないかもしれませんが、まず言いたいことを全部言わせてください(笑)。伝統的に「保守主義」というのは単に守るだけだけれど、もしここに新しい形の保守主義があるとすれば、自分たちがいったい何を目的にこの社会をつくってきたのかを問いなおすこと、これもかなり保守的なことだと思うんですよ。そしてその上で価値に沿った形でアーキテクチャをどう設計すればよいのかという立場になると、頭に「サイバー」がつくのではないか。わりと高木さんや僕はその辺を狙っているのではないかと思うんですが、たぶんいま、まともに保守ということを考えている人であれば、こういったことを考えているのではないかと思っているんです。これに比べると、さきほど出てきた2ちゃんねるで右翼的言論をやっている人というのは、単に右翼趣味の方々で、保守という名前を名乗るのも遠慮していただきたいという感じがあるんですよ(笑)。

東:

 よくわかります。

 議論を整理するために、ここで問題の図式を再考してみたいと思います。価値を選びなおすと言っても、選びなおした価値が適用される範囲が問題になりますよね。その点を考慮に入れると、鈴木さんが記したサイバーリバタリア二ズムとサイバーコミュニタリズムの関係は、図式ではたがいに対抗するものになってますが、むしろ共犯関係にあると考えたほうがいいと思うんです。そもそも、リバタリア二ズムは価値には無関心であるという立場。それに対して、コミュニタリアニズムはそれぞれ自分たちがよいと思ったコミュ二ティを選べばよいという立場。この両者は――政治思想史的にはあまり指摘されていないことだと思うんですが――完全に両立可能なわけです。むしろ問題は、その両立関係を前提としていると、「僕はこういう価値を選ぶことを自己決定しました」「そうか。ならば君はその価値を支持するコミュニティに行ったら?」という話になってしまって、国家という大きな単位での合意形成には繋がりようがないことです。これが価値の適用される範囲の問題です。

 しかし、真の問題は、そのようなリバタリアンコミュニタリアンな世界が本当に実現していれば話は早いんだけど、現実にはいまだ国民国家という政治的単位はどうしようもなく存在し、そこでさまざまな法令なり規制が生み出され施行されているということですね。したがって、そのような大きな単位をコントロールするのはどうすればよいのかというと、いまやポピュリズムに頼るほかなくなっている。今回の討議では、その問題が最初からずっと繰り返されていると思います。

東浩紀
E1:東浩紀

白田:

 ううーむ、なるほど……。いい話ですね。

東:

 さらに別の言い方をしましょう。わかっている人間が、わかっている価値を選ぶ、さらにそこに、その価値の素晴らしさがわかる人が次々と参入してくるという構造は、いまでもネット上で実現していると思うんです。問題は、そこで鍛えられた価値観が、それを理解できない人々にまで影響を及ぼすようなレベルでの決定に移行しようとするときの問題です。そこではもう、「価値を問いなおす」などという高級かつ面倒な作業には誰もついてこない。結局、「3秒ルール」でポピュリズムという話になる。さきほど、鈴木さんが挙げたCCCDの例がそうですね。

白田:

 たしかにそうですね。

東:

 僕としても、個人的には正直「啓蒙」しかやりたくありませんが、「運動」の話も考えざるをえない。

白田:

 ただまあ、悲しいかな、やはり政治というのは頭のよい人が大衆がイエスかノーがいえるところまでは問題を簡素化して、最終的にどちらを選びますか? というのを提示するというのがこれまでの民主主義の形で、これは避けようがないのではないかと思うのですが……。

東:

 たしかにその話はそれでいいと思います。ただ、僕たちが持っている意志決定のシステムは、実はそのレベルまでもいっていない。とりあえず選挙区があり、そこで選挙をしているだけなわけですよね。個々のイシューについてのイエス/ノーではなく、多くのたがいに独立したイシューが強引にバンドルされて、集合的に選ぶ形になっている。そして、それへの異議申し立てはネット上ではあるんだけど、政治運動になるとポピュリズムに頼らざるをえない。

白田:

 それで言いますとね、最近、情報社会が出てきて制度や法に対する異議申し立て、構造変化が起きているということが、ここでの議論の大前提になっていると思うんです。そこでみなさんお気づきのように、現代の法制度というのは限界にきている。その歪みを解きほぐすとき、ふたつの系統があると思うんです。ひとつに法というのは非常に法実証主義的な形式主義で、条文に書いてあればその通りに動かすのだ、というものです。もうひとつに、形式主義のあとにビルトインされたものですが、社会福祉というか、とにかく人にやさしく、愛と平等を掲げる寛容主義というもので、この両者が奇妙に混交した構造物になっています。明治に輸入されたものは前者の実証主義的な形式主義の冷徹に動くシステムで、戦後になって後者の社会民主主義的な福祉のシステムがマウントしてきたというわけです。

 また実際に法が実行される場面に視点を移してみますと、「法律というものがこうあるにしろ、でも実際の現実はこうだよね」という、法と現実の間の「ゆとり」の部分があったわけですよね。法律と現実の乖離、というのはどこの世界でもある話ですから、みなさんにも納得してもらえる話だと思うんです。ところが、いまコンピュータやネットワークだのが出てくることで、法の完全実行がだんだんできつつあるような新しい構造に移行しつつあると思うのです。つまり、それまでは見過ごされていたようなものが、なんとなく実行可能になってくる。「法には実際書いてあるのだから守らねばならない」という感覚の下に、アーキテクチャが変更していくなかで、法の圧迫感が高まっている。こうした流れのなかに、著作権法も含まれているんだと思うんですね。プライバシーもそうでしょう。いままであれば噂が漏れても所詮は近所で留まっていた話が、世界中にばら撒かれる危険が出てきている。

白田秀彰
E1:白田秀彰

 そういうなかで一方、さきほどのポピュリズムという話とも重なるんですが、ネットワークという構造のなかで法律や政治に参加できなかった人たちの決定権や発言力が上昇するなかで、既存の制度への非常に大きな異議申し立てが起きてきてしまっている。そのこと自体はいいのですが、むしろまだ、いまのところハッキリと自覚されていないという意味では啓蒙してもらわなければいけないと思う。つまり自分たちがなぜ息苦しいのかというところの構造を説明されないと、なぜ息苦しいのかがまずわからない。それが終わってようやく、――僕はもともとイギリスをずっと研究してきたので、近代的な法が目的としていた自由というものを大事にする立場なんですけれど、――日本という国が実際には何を価値としていままで動いてきたのか、立ち止まって考えるという話がここで出てこなくてはいけないと思うんです。

 もうひとつ言えば、国民国家という枠にとらわれなくてもいいけれど、国境で区切られてるわけではないにせよ、ただ厳然たる枠として日本というものはなんとなく在ると思うんです。だからその辺が追究されないと、ある意味で価値を問いなおす、という「価値オリエンテッド」なアーキテクチャの設計はできないのではないのかな。ただそれをどうやってやればよいのかはまだわからないけれど。

東:

 いまおっしゃった「法の完全実行」はキーワードではないかと思います。著作権やプライバシーを別にしても、ネオリベラリズム的な犯罪抑制の方向、いわゆる「破れ窓理論*3なんかはまさに法の完全実行をサポートする議論ですね。

鈴木謙:

 ただ、サイバーというものとの関係と、保守主義国家主義という話と絡めると、僕は情報技術が綺麗に明文化された形で3つに分かれるとは思っていません。たとえばすべての立場に寄与しうるような技術というものがあると思うんです。たとえば「監視技術」というのは典型的にそうです。「破れ窓理論」はたしかに黒人や貧乏人をニューヨークから排除する意図を持っています。しかし同時にあれはコミュニティ再生のための理論でもある。つまり貧乏な人や治安にとって脅威になりそうな人間を排除する代わりに、古くなった学校の破れている窓を修復して、そこをアートスクールにして若者を呼び込み、コミュニティを活性化させましょう、という政策とワンセットになっている。つまりこれは監視が一方で強力な排除exclusionを呼び出すネオリベラリズム的なものであると同時に、コミュニティ内部への包含inclusionを強めるものとなっているという図式です。

東:

 それがまさに、リベラリズムコミュニタリアニズムの共犯関係なわけですね。一方では流動性を高め、他方ではコミュニティを守る。このふたつを両方とも確保するために監視技術は使われている。

鈴木謙:

 もちろん国家主義的にも使うこともできるだろうし、技術はどういうところにも転移して役立ってしまう、ということが起こりうる。そのときに、両立不可能だという話をするのではなく、それは共犯関係にはあるだろう、という東さんの主張はその通りだと思います。ただ、そのときにはそこから具体的な水準に落とすことができないと思うんです。たとえばこのような反論がありうるのではないか、つまり「それは結局コミュニティが問題なのか、ネオリベラリズムが問題なのか」という宙ぶらりで無効化された話にならざるをえないのではないかという気がするんですが……。

東:

 もういちど議論をまとめると、白田さんの問題提起はとても明確だと思うんです。リバタリア二ズムとコミュニタリアニズムは共犯関係にある。それは、価値中立的なアーキテクチャを整えることで、全体的な価値形成をしないという共犯関係です。一方、保守主義のほうは、国家主義と違うとしても、全体的な価値形成をするという選択です。このように、いまここでは、全体的な価値形成をするのか、しないのかというオプションが問われている。そして、現代社会はいま、全体的な価値形成を避けたまま、監視技術を使って秩序維持を進めようという方向にガンガン動いている。それが問題なのではないか、というのがさきほどからの議論です。

鈴木謙介
E1:鈴木謙介

鈴木謙:

 だと思います。ただなぜここで私があえて保守主義国家主義を一緒くたにして議論したのかというと、ひとつは「全体的な価値を呼び出す仕組み」は、20世紀のある時期が高度に完成させていたものであって、ヘーゲル的なものにしても「理念」であるわけです。ただ世界的に全体的な理念をいつも呼び出そうとする国は、実はアメリカぐらいしかない。アメリカはいつもアメリカの民主主義的価値に照らした上でそれが合うものかを問いかけ続ける国だけれど、そういうことをいつもいうのはアメリカぐらいなんです。アメリカの保守主義とは、トクヴィルもベラーもそうだけれど、結局アメリカ的とは何かということを常に反省的に問いかえしている。

東:

 それはレッシグも同じでしょうね。

鈴木謙:

 でもそうしたことは、アメリカ以外で完成したことがあるのか? ないだろう。それは僕の考えで言えば、(日本では)単に経済成長していたので考えなくてよかっただけなのではないだろうか、と。

東:

 そこは微妙で、一時期のドイツや日本ではそれなりに完成していたわけですね。だからファシズムになった。

白田:

 完成させるとどうもやりすぎる傾向が人間にはあるというかね。

東:

 ちょっと議論を戻しますが、一部の専門家がネットそのほかを使って創発的な啓蒙活動を行う。それはいいとして、しかし、全体的な価値形成に移行しようとするとポピュリズムしかない。となると、問題は、全体的な価値形成をどのようにして行うのか、というシステムの話になると思うんです。あらためて立場を明確にすれば、白田さんは全体的な価値形成をするべきだとおっしゃっている。では――これは今月号(2003年10月号)の『波状言論』でもお尋ねしたことですが*4――、いったいそのシステムはどのようになるべきでしょうか?

白田:

 うーん……そこですね。

東:

 具体的に考えると、教育改革だとか、政策形成過程の専門家を入れるとか、パブリックコメントの充実だとか、そういった話になっていくわけです。しかし、そうなるとさまざまな障害が中途に控えていて、具体的にはどうも全部機能しなそうだ、というニヒリスティックな話にならざるをえない。これが我々のジレンマなのではないか。



*1:註:isedキーワードサイバー保守主義」を参照のこと。

*2:註:isedキーワードサイバー保守主義」を参照のこと。

*3:註:isedキーワード破れ窓理論」を参照のこと。

*4:註:isedキーワードサイバー保守主義」を参照のこと。

トラックバック - http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/00071030