ised議事録

10-308. 倫理研第1回: 共同討議 第2部(3)

E1:共同討議第2部
(開催:2004年10月30日 東京大学本郷キャンパス / 議事録公開:2004年11月30日)

思想の実装可能性とマッピング

石橋啓一郎
E1:石橋啓一郎

石橋啓一郎(以下、石橋):

 ここで設計研的な視点から横槍を入れさせてください、設計研モデレーターの石橋です。今日はオブザーバーとして発言させてください。ここまでお話を伺っていて、「まず、いくつかの思想的な立場がある。そして現代の社会にある対立は歴史的なり思想的に位置づけなおすことができる」という話の流れであるわけですよね。

 しかし、もちろんいままでの歴史のなかで思想の変遷というものがあったわけです。そしてその変遷は、この思想の方が優れているからというよりは、色々な要因のなかで、たとえば実際にそれが実現可能か、それが強いか、という観点でその時代にいちばん合ったものが選ばれてきたのではないかと思うんですね。実際には3つの立場のなかにも、我々が持つ技術のなかで、実現しやすいものと実現し難いものがあると思うんです。たとえば、ポピュリズムの問題は解けそうもないのであれば、それは要するに実現不可能ということなのであって、よって思想的立場としても弱いのだ、という結論の導き方もあるのではないでしょうか。

東浩紀(以下、東):

 なるほど。保守主義を推し進めるとポピュリズム的な困難が必然的に生じるのだから、基本的に弱いのだ、といったようなイメージですね。

石橋:

 つまりそれは机上の空論なので、実現できないという話がありうるのかもしれないですよね。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

 でも、その実現可能性がいちばん高いのはネオリベラリズム的・自由至上主義的なもののような気がするのですけれど……。

東:

 自由至上主義=リバタリアニズムは、放っておけばよいという考えですからね。そりゃもう実現可能性は極端に高い(笑)。

白田:

 まさにその実現可能性をベースに、カリフォルニアン・イデオロギー*1と呼ばれるようなサイバー空間の自由至上主義者たちは現れ、実際それが受け入れられてきたのは事実ですよね。インターネットはそもそも、その考え方に沿ったアーキテクチャですが、当然このまま放っておけば自由至上主義の方にいく。そこで共同体を大事に思う人は巻き返しをはかっている、という図式だと思うんですよね。

東:

 リバタリア二ズムの立場というのは、乱暴に要約すれば、「いままで放っておいたからこそうまくいってきたのだ。人類社会がいま成功していることによって我々の思想の正しさは証明されている」という感じですからね。これは絶対的に強いでしょう。

白田秀彰(以下、白田):

 ある意味、この図式で捉えるならばインターネットのアーキテクチャは透明で中立なものではなかったということでもありますね。

東:

 僕はそう思っています。インターネットのアーキテクチャは、最初からリバタリアニズムのほうにかなり強力に価値づけられていて、むしろいまそのイデオロギーといかに手を切るのかで苦労している、というのが僕の考えです。レッシグの議論も、そういう文脈で再検討する必要がある。

白田秀彰
E1:白田秀彰

白田:

 ただ実際はそれが居心地もよく、大規模に発展もしてしまったので、そこを否定して別のアーキテクチャに移行しましょうというのはけっこう難しいでしょうね。しかし別のアーキテクチャを採用してうまくいくのかと言えばそれはわからないし、わからないではどうにもならない、で終わりですからね。

 ただ、さきほど東さんが問いかけた問題はとても面白かった。私自身は全体的価値形成をした方がよいという立場なのですが、ネット上でもその方法でうまく制御できないものかと考えているので、次回はそれを発表してみたいと考えています。ちょっと予告的に議論を展開してみますね。

 いま考えているのは、ひとことでいえば「やりすぎない」ということ、つまりサイバーカスケードポピュリズムに走って、全員揃って何かやれ、というのはやめよう、ということです。たとえばつぎのようなことです。全体的価値があっても固定しない、あるいは流動させるということをネットで実現できないか。全体的価値を流動的に決定できないか。あるいは排除をしないことはできないか、つまり全体主義であれば全体的価値に関しての決定から民衆を排除してしまうのですが、その排除がなくてもうまくまわるようなアーキテクチャをつくれないか、……云々といったアイデアです。こういった政策決定プロセスに関わる議論だけでなく、決定したことがらをわかりやすく伝える方法についても、情報技術でなんとかできないものかと思っています。

 やはり私僕は、さきほどもいったサイバー保守主義だと思うんですね。つまり保守の「全体的な価値を設定して社会を維持する」というやり方をもう少しうまくやりつつ、盲目的独裁者のような価値の旗振り役がいつまでも旗を振り続けてしまう状況を避けるための、情報流通のアーキテクチャの設計でできないものかと考えている。というのは、たとえばリバタリア二ズムやコミュニタリアニズムが欠陥じゃないかと思うのは、たとえばコミュニタリアニズムであればどんどん自分たちの仲間を少なくしていく、組織をどんどん小さくしていくわけですよね。そうして自分の好きな人の枠を小さくしていくと、ある程度大きな社会的、経済的、自然的な災害が起きた時、対応能力がどんどん落ちていくと思うんですよ。だからある程度の大きさの人間集団を、人工的にでも維持しておくということはやはり必要だと思うんです。

 たとえば、今回の新潟の地震で、もし日本がサイバーコミュニタリアンの集まりだとしたらどうなるかというと、こうじゃないかと思うんですよ。基本的には各県ごとに、好きな人間が集まって独立して県をつくっているんだけど、新潟以外の県の反応は、「新潟コミュニティの地震は知らない、たがいに我々はリバタリアンだから自律自助でやればいい」となってしまうと、新潟県は県域全体がやられているわけで、自分でどうにかしろと言われてもどうにもならないわけですね。私はこういう時のために国という単位があると思っているんです。戦前ではそれが逆に戦争の原因になってしまいましたけれど、それは避ける方法があるのではないか。

鈴木謙:

 いやあ、その発想はしかしヘーゲル的だな……。

東:

 そうでもないんじゃないかな。

白田:

 いままでの保守主義、つまり全体に関しての決定を行い、決定の届く範囲をある程度の共同体の規模を維持することで保つ、というやり方に欠陥があったのならば、それをうまく乗り越える方法があるのではないか。少なくとも、自由至上主義や共同体主義よりはマシな気がしていますね。

鈴木謙:

 もちろんさまざまな立場で相互補完的にやっていこうという動きは、理論的には色々あると思うんです。「基本的にはリバタリアンの路線だけれども、リバタリアンのなかにもいろいろなコミュニティがあって、コミュニティがさまざまなレベルで連合していると国になる。」こういうことを言ったのが、僕がよく依拠しているアンソニー・ギデンズの『第三の道*2という政治的立場なんですね。

東:

 この点について僕自身の考えを補足しておくと、最終的に問題になるのは、国家を再興することよりも、それら小さなコミュニティからの個人の離脱可能な帰属対象の変更可能性をいかに確保するか、ということだと思っています。リバタリアンが考える価値中立的なアーキテクチャロバート・ノージックの言葉でいえば「メタユートピア*3が出現するとして、その上で複数のユートピア=コミュニティが固定されてしまったら意味がない。個人がコミュニティ間を往復する手段を確保しなければならないわけで、リチャード・ローティだとそれが「リベラルなアイロニー」*4ということになるわけですね。

白田:

 となると三つの立場がうまく調和する方法を考えろ、ということになりますかね。

東:

 というより、情報社会について発言する時には、まず自分がどこの立場に立っているか反省しろ、ということではないでしょうか(笑)。さて、ここまで抽象的な思想史的議論が続いていますが、そろそろ北田さんにコメントをいただきたいと思います。北田さんは、まさに昨年、リベラルコミュニタリアン論争やノージックを扱った大著『責任と正義』を出版されたわけですが、ここまでの議論を聞いていていかがでしたか?

北田暁大
E1:北田暁大

北田暁大(以下、北田):

 ここでまた話を大前提に差し戻したいのですが、さきほどから議論の参照先になっている、鈴木さんが作成された情報社会の思想的配置図の見方が実はよくわからないんです。いえ、もちろんその各立場の内容についてはよくわかるんですね。たとえば白田先生がおっしゃったように、ここにサイバー保守主義というものが加わると、見取り図としてはわかるな、という印象です。

 しかし、メタユートピアの離脱可能性のお話とも関連すると思うんですが、たとえばハイエクみたいな人をこの図式のなかに入れるとどこに位置づくんでしょう。彼の思想のなかでは、法や道徳や価値に根づいたルール尊重的な態度を目指すことと、見えざる手的な「自生的秩序」の実現を目指すということは両立するわけですよね。となると彼はいったい何者なのだろうか? と思いはじめるとわからなくなってくる。

 現代が情報社会であると言う時、「サイバー」と名のつく空間に対して、リバタリア二ズム、コミュニタリアニズム保守主義――あるいはリベラリズムでもいいですが――こういう思想的ラベルを持ち出した上で、我々の価値判断を再考しようという議論それ自体の前提がまだ見えにくいという印象なんですね。というのはつまり、鈴木さんはこの図式をどういう意味で提示されているのか。色々なタイプの思想家に関して、誰がどこにいるのか、ポジションをくくりだすための理念型として出されているのか。それとも、「この立場のうちどこかに比重を置いたような価値理念にもとづいてアーキテクチャを設計していくのがよい」といった感じで、鈴木さん自身の価値選択を含んだものであるのか、ちょっとわからないので、伺いたいと思うんですが。

鈴木謙:

 僕が最初に考えていたことは、前者の、とにかく理念型というか、議論のモデルをつくりたいということです。技術がさまざまなところに転移して応用される時に、それはいかようにも用いることができるけれども、いったいどういうことなのか誰もわからない。かつて20世紀的な枠組みであれば、政治的に右だ左だと言えたわけですよね。しかしそれがねじれてきているわけです。たとえば、いまの政治状況を見渡しても、右というのは知らない間に規制緩和を主張して改革主義者になり、左というのは知らない間に、かつての福祉を守れという保守主義的発言をするようになり、……とぐるぐるとねじれた状況ですね。だから情報社会においても、サイバーリバタリア二ズムというものは実は左側の発想なのに、いまや右側に寄与するようなことが起きている。

東:

 そういうねじれはハイエクに関してよく言われてますね。

鈴木謙:

 そうです。こういう状況では理念型として提示しておかないと、結局誰が何を目指しているのかわからないし、当の本人もよくわかっていない、ということになる。つまり不完全でもいいからマッピングをしたいということなんですね。もちろんこのマップに足りないものはいっぱいあるだろうし、たとえば19世紀がこんな簡単なものではないことは、僕自身もわかっています。あまりにも単純すぎるというご批判は甘んじて受けますが、ここでの企図はいまあるものを見取り図としてつくりたいということであって、個人的な価値としてどこに依拠したいであるとか、どれがこのなかで優位である、といったことではないつもりです。

北田暁大
E1:北田暁大

北田:

 よくわかりました。ただ、私がハイエクの名前を出したのは、仮にこのようにマッピングができたとしても、巧妙な人というのはたぶん、「保守主義かつサイバーリバタリア二ズム」というような選択肢をうまくつくるんじゃないかと思うんですよ。ハイエクはその一例です。このマッピングに位置づけ難い立場こそが、情報社会の言説の成り立ちにとって重要で、厄介なもののように思うんです。そうした立場をあぶり出すためにマッピングする、マッピングすることによってマッピングを解体するというのが鈴木さんの狙いということですね。

東:

 まさにおっしゃる通りですね。ただ、そのような事態を逃れるためにこそ、僕たちはここでいちどマッピングを行わなければならない。情報社会について語られる言説が、実のところ思想史的な典型を無意識のうちに反復しているという事態そのものを可視化することで、僕たちはむしろその解体を目論んでいると思うんです。来年夏の北田さんの講演では、ぜひそのような作業をやっていただければ、と思います。

 という感じで、重い宿題を各自に投げかけたところで(笑)、いちど議論を締め、ふたたび具体的な話題に戻りたいと思います。



*1:註:isedキーワードカリフォルニアン・イデオロギー」を参照のこと。

*2:註:アンソニー・ギデンズ著『第三の道――効率と公正の新たな同盟』(佐和隆光 訳、日本経済新聞社、1999年)。鈴木謙介 修士論文社会民主主義における共同体概念の問題性-現代イギリスにおける社会構想を中心に-」の概要より引用すると、第三の道とは「旧来の福祉国家が持つ限界と、80年代におけるサッチャー政権の新自由主義政策がもたらした歪みをともに乗り越え、「市民社会の刷新」を訴える新しい社会民主主義の政治理念」のこと。

*3:註:isedキーワードロバート・ノージック」を参照のこと。

*4:註:isedキーワードリチャード・ローティ」を参照のこと。

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