ised議事録

10-309. 倫理研第1回: 共同討議 第3部(1)

E1:共同討議第3部
(開催:2004年10月30日 東京大学本郷キャンパス / 議事録公開:2004年11月30日)

繋がりの社会性」と「脱社会的存在」

東浩紀(以下、東):

 さて、ここまでの議論の展開を振り返りますと、韓国や日本のネット事情を比較しつつ2ちゃんねるの社会的意味を検討したあと、「全体的な価値形成」を目指すサイバー保守主義の困難という問題をめぐって議論してきました。

 ところで、ここまで情報社会の事例としてネットの話ばかりしてきたのですが、他方ではケータイのようなテクノロジーもあるわけです。ここからは、そこまで視野を広げて情報社会倫理の問題について考えていきたいと思います。まずは、ケータイがいまの若い世代に与えている影響を、統計的なことも踏まえつつ、専門で研究していらっしゃる辻さんに、ご意見を伺いたいのですが。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

 辻さんはケータイ電話と若者の利用構造などについて調査されていらっしゃいますが、ざっくばらんな形でけっこうですので、前提的にどういう感想をお持ちでいらっしゃいますか?

辻大介(以下、辻):

 最後にはケータイの話に繋げていきたいと思うのですが、まずこれまでの話を聞いて私自身少し混乱しているところがありますので、それについてお話させて下さい。

辻大介
E1:辻大介

 ひとつは、全体的な価値形成のことはどうするのかという問題が出てきました。ある種保守的な立場で見れば、こうした価値というものの源泉ということを、国家というよりは、伝統なり慣習なりといった部分に求めるものであろうと思っています。つまり国家は人為的ですが、伝統や慣習とはそもそも自生的な価値として浮上してくるものだと見なされていますよね。

 ここで我々が立ち止まって考えるべきことは、(全体的な)価値が自生的あるいは創発的に生まれてくる構造、それがうまくいくようなアーキテクチャというものを考えるのか、あるいは、これまでの日本という範囲のなかで伝統的・慣習的に求められてきた価値、自生的に立ち上がってきた価値というのは何だったのかをまず確認し、その上で、そこからさらに先へと具体的に議論を立ち上げ展開していくためのアーキテクチャというものを考えるのか。私としては前者なのか、それとも後者に限定するか判断しかねるところがあるわけです。

 一方、若者におけるケータイの利用構造についてつぎのようなことが指摘できます、北田さんの用語でいうとそれは完全に「繋がりの社会性*1というものだと思うんですね。これは調査結果などでもわりとわかりやすく出ていまして、どういった価値観なりメッセージなどをやり取りするかというよりも、端的に他人と「繋がっている」こと自体が価値になっていく。結果どうなるかというと、たしかに利用する人ほど孤独感は少ないことが確認されています。しかし、その背後にあるのは、ある種の孤独への恐怖、すなわち「繋がれない=見られていないかもしれない」という不安であって、実際いくつかの調査では、そうした孤独恐怖の高さ、あるいは孤独耐性の低さと、ケータイ――とくにメール――の利用頻度との間には高い相関がみられるという分析結果*2が見受けられるのです。

 日本のいまのIT社会の方向性を考える時、こうしたケータイ的繋がりの社会性を伸ばしていくとなると、こういう問題もあると思うんです。ケータイとPCを比較する時、PCでのインターネット利用の場合というのは具体的にもどういった形で議論が形づくられていくかというのがイメージしやすいんですね。俺はこう思う、いや私はこう思う、というような、ある種のメッセージの交換としてのコミュニケーションとしてイメージしやすい。しかしケータイ的なコミュニケーションというものを考えると、「そもそもそこから何かが自生的な価値観として立ち上がってくるのだろうか?」という疑問を抱くんですね。つまりいま人々が求めているのは実は「繋がれるためのアーキテクチャ」ということではないか。

 そうすると、こうしたケータイ的な繋がりのなかで、いままでの議論というものをどうインプリメント(実装)していけるのか、というまた違った問題提起も可能ではないかと思うんです。

東:

 つまり、ケータイ/ネット的なコミュニケーションにおいて伝達されるのは、実はメッセージや価値ではなく、「メタ価値」とでもいうか、「伝わっているということだけが伝わっている」という状態である、と。そして、そのメッセージの意味はほとんど無効化されていく。

辻:

 非常にコミュニケーションや行為・行動を脱力化させていくというか……。

東:

 これは、本研究会にとってとても重要な指摘だと思います。

 昨年、GLOCOMのチームで翻訳出版した本に、ハワード・ラインゴールドの『スマートモブズ*3という著作があります。面白い本ですが、そこで決定的に見逃されていたのがいま辻さんが指摘されていた特徴です。ラインゴールドは、創発主義的な議論の典型とでもいうべき立場をとっていて、ケータイやモバイル機器でのコミュニケーションが新しい繋がりや社会性を創発すると主張している。たとえば、テキスティング(ショートメール)を使ったコミュニケーションが、フィリピンではクーデターのきっかけとなった、どこどこではどうなった、とさまざまな事例が紹介されていて、それとの連続で日本の渋谷の風景も紹介されている。しかし、ラインゴールドは事態を混同している。日本ではメールのやりとりは、メッセージの交換というより、「繋がっている」という事態そのものの確保に使われていて、なかなか創発的事態を生み出さないんですね。

辻:

 ここで適当な例かどうかわかりませんが、鈴木さんも挙げられていたイラク人質事件という事例をあえて出したいと思います。たとえば3人の方が人質として捕らわれ――無事救出された――数ヶ月前のケースでは、彼ら・彼女らの行動は、一般大衆からはある種の価値観なりにもとづいたものだと、とりあえず見なされている。逆に言えば、この人たちとの対話というか議論というものが成り立つところがまだあるんだと思うんですね、つまり国家と個人との間の思想・信条・価値観といった軸の上での対立がある。

 しかしつい先日起こった人質事件の場合、詳細な実態や背景はわかりませんが、彼には、少なくともいまの報道を見ていると国家と対立するような思想・信条的なものはまったく感じられない。非常に脱文脈的で、ある種突発的な思いつきでイラクに行ってしまっている。あくまで、これまでになされた報道上での人物像=表象として、という留保つきでの話ですけれども。だから、各種新聞の社説を見ていても、彼の行為をイラク戦争や日本政府の今後の対応というマクロな文脈にどう位置づければよいのか、扱いあぐねているところがあります。またそれこそ2ちゃんねるなんかを見ていても、今回はいまのところ前回ほど大きな「祭り」は起こっていないようです。つまり、ある種彼の行為に対して「トホホ」と脱力せざるをえないような状態に置かれていると思うんですね。

 これがある種ケータイ的な繋がりの社会性を象徴するような気がするんです。つまり、誤解を呼ぶ表現かもしれませんが、前回の3人のケースが国家や世論にとって「反社会的」な存在だったとすれば、今回のケースは、――宮台真司氏の世代論に従えば――「脱社会的*4な存在だったのではないか。

辻大介
E1:辻大介

 宮台さんのいう「脱社会的」な存在というのは、元は酒鬼薔薇聖斗事件などの少年犯罪を背景に語られたものですが、彼らは実に理解不能で不気味なおどろおどろしい存在だと思われているし、過剰にそう演出されているんだけれども、むしろより一般的な水準に引きつければ、基本的には「トホホ」な存在なわけです。たとえば「『人を殺してみたかった』ということで本当に人を殺しちゃうのかよ、トホホ」というのと同じで、「『行ってみたかった』というだけで本当にイラク行っちゃうのかよ、トホホ」というある種その存在の前で脱力・脱臼してしまうような感触があるわけです。しかしここで問題なのは、その「トホホ」という感覚は簡単に「バカヤロー」に転移しうる、ある意味「脱社会的」な存在が「反社会的」な存在へと容易に読み替えられていくということではないか。事実これからもそういった形での社会的な反応が続いていくんじゃないかと思うんです。

 我々がここで「倫理」というものを問題として立てた時に、こうした脱社会的存在のことも包含した上で考えていかないといけない。つまり道徳であれば「反」道徳という態度が成り立つ。しかし倫理はそこからもこぼれていく「脱」を問題にしなくてはいけないのではないでしょうか。いささか抽象的な結論ですが。


東:

 つまり、「社会的」「反社会的」「脱社会的」という三項で考えなくてはならないというわけですね。

 いまの話を聞いていて、加野瀬さんどうでしょうか。ネットの世界に大量に流れ込んでいるのは、日本では脱社会的な人々だと思うんですね。今日の討議の前半にも繋がりますが、日本において、ネット上でのコミュニケーションがなかなか社会的な価値形成に繋がらない理由はそこにあるのではないか。アメリカでも韓国でも、ネットは反社会的な人々の発言の場として機能した。ハッカーには、その起源からもともと反社会的な価値観がついてまわっていたけど、日本ではそれにあたる集団はおそらく「オタク」と呼ばれてきた人々で、彼らは反社会的というよりむしろ脱社会的志向が強い*5。ここらへんは岡田斗司夫氏の本にも書いてありますが*6

加野瀬未友

 なるほど、そしていま一番脱社会的な人といえば、「ネットゲーマー」だと思うんですよ。実際彼らは「廃人」*7とか呼ばれているわけだし、最近ではネットゲーでの活動でリアルマネーを稼ぐ*8という動きもあるそうですけど、基本的には脱社会性に繋がっているのではないでしょうか。

鈴木謙:

 ネットゲーマーがネットゲームにハマっていくプロセスというのは、まず繋がりというのがあって、繋がりのなかでのレベル上げ競争があって、レベル上げ競争の追いつけ追い越せで、とくにゲームへのコミット時間が増え、中毒性が高まっていくとだいたいのところでは言われていますね。



*1:註:isedキーワード繋がりの社会性」を参照のこと。

*2:註:isedキーワード繋がりの社会性」を参照のこと。

*3:註:isedキーワードスマートモブズ」参照のこと。

*4:註:isedキーワード脱社会的」を参照のこと。

*5:註:アメリカの「ハッカ」ーと日本の「オタク」は、公文俊平情報社会学においては「智民」として捉えられている。isedキーワード智民」を参照のこと。

*6:註:岡田斗司夫「オタク学入門」(太田出版、1996年)

*7:註:ゲーム用語で、プレイのレベルも高く、特に有名なプレイヤーのことを「ハイプレイヤー」と呼ぶが、自嘲気味に「廃プレイヤー」と呼ぶこともある。ネットゲームには中毒性が高く、それこそ会社や家族のことも忘れて、廃人寸前までプレイしてしまう人も少なくないという。韓国ではPC房でネットゲームをひたすらプレイし続けた結果死亡してしまうという事件も起きた。

*8:註:RMT(リアルマネートレーディング)と呼ばれる。

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