ised議事録

10-3010. 倫理研第1回: 共同討議 第3部(2)

E1:共同討議第3部
(開催:2004年10月30日 東京大学本郷キャンパス / 議事録公開:2004年11月30日)

脱社会的存在」としてのウィニート(Winny+NEET)

東浩紀(以下、東):

 もうひとつ、この文脈で見逃せないのは、今年物議をかもしたWinnyでしょうね。実は僕の事務所で、Winnyニート(NEET)を組み合わせて、ウィニートという言葉を考えたスタッフがいるんだけど(笑)。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

 ちょっと流行らせようとか思ってません?(笑)

東:

 いや、思ってませんよ(笑)。

東浩紀
E1:東浩紀

 ただ、これは意外と本質をついていると思うんです。Winnyは、マスコミレベルでは反社会的なソフトだと思われているようですが、実際には脱社会性を強力に推し進めるツールだと思うんですね。ネットワーク上にはさまざまなコンテンツが大量かつ雑然と存在していて、ユーザーとしては、とくに強い目的意識もないまま、ただコンテンツをダウンロードし消費して、どんどん時間が過ぎていく。まさに繋がりのリアリティだけを純粋化したようなソフトウェアで、社会的なコミュニケーションからの離脱をとても容易にしてくれる。そして、そもそも日本というのはそういう環境がとても発達していて、コンビニとかファーストフードとかもそういうもののひとつだと思うんです。ニートの増加は、そういう社会環境の整備と切り離せないわけですが、Winnyはそういう環境の特徴をソフトウェアの形でみごとに可視化してくれた。

鈴木謙:

 つまりそうしたものというのは、家族システムが備給してきた機能というものを外部化していくわけじゃないですか。とりあえずTV番組を見損ねたからWinnyで落とす。娯楽はこれで十分だと。腹が減ったからコンビニに行けば事足ります、と。あとは寝るだけです、という生活が可能だというわけで、最小限な労働で自足が可能なわけです。

 ここでなぜ家族という言葉を使ったかというと、脱社会性を批判する立場というのはこう考えるわけです。繋がりの社会性という点からいうと、逆に「繋がっていて引き剥がせない」という、ある種のプリミティブなものに引っ張り戻すということが重要なんだ、と。Winnyの社会性というのは、あくまで繋ぎたい時に繋いで、切りたい時に切る。そうではなくて、切りたい時に切れないし、繋ぎたい時に繋がれないというプリミティブな価値を提示して、たとえば「家族」だとか「本当の友人」こそが重要なんだといった話になってくる。

 たぶんWinny的なものはポイントというのは、「繋がっているけれども『流動的』だ」ということだと思うんです。流動的な関係というものは流動性に対する期待も高めてしまうので、「こいついまはすごく俺と仲良くしてるけど、まあ別に俺じゃなくても仲良くするんだろうな」という醒めた見通しが生じ、どうしても関係が継続しない。そして継続しない関係からは価値が生まれないじゃないですか。いまこの場の関係さえうまく繋がればスルーできるのだから。しかしプリミティブで引き剥がせない関係というのは、何か共通の価値をつくったり立てたりしていかないと、どうにもならないものとして捉えられてきたわけですね。

東:

 そこに情報技術の本質的な問題があるのかもしれない。誤解を恐れずに、そして幾重もの留保をつけていえば、「インターネットが社会にとって危険である」という凡庸で反動的な言説は、理論的な水準で実はけっこう「正しい」のではないかと思うんです。なぜというと、北田さんの仕事で指摘されていることだけれども、ネットを介したコミュニケーションは本質的に「繋がりの社会性」と結びつきやすいからです。ケータイやネットはメタ価値観の伝達に適していて、価値観の伝達を無効化してしまう。むろん、理論的にジャック・デリダが言っていたように*1、人間のコミュニケーションはもともとそういう危険性をはらんでいるわけですが、インターネットやモバイルのコミュニケーションは――それはもしかしたらインターフェイスのせいかもしれないけれど――その危険性をおそらく飛躍的に高めている。こういう言い方が技術決定主義的で危険だということは重々承知しているけど、その上でも、やはり、ケータイ的な繋がりの社会性はある種の技術抜きでは問題にならなかったものなんだとと思うんです。

 ここで、コミュニケーションの形態と技術の関係という話題になってきたので、高木さんに話を振りたいと思います。というのも、プレ・ミーティングの段階で高木さんとはWinnyの話題になって、Winnyの真の問題は、実はコンテンツを違法に共有することではなく、もっとその前の水準、ユーザーに無意識的に嘘をつかせる装置をつくり出したことにあるのではないのか、という意見をいただいたのですね。これはとても重大な問題提起だと思ったので、ぜひもういちど伺いたいのですが。

高木浩光(以下、高木):

 えーと、どれの話でしたかね。今別の話をしようとしていたところなのですが、わかりました、では最後にそこに持っていこくようにつなげて話します。

 まず思想的立場の議論なんですが、私はいろいろと「こういう問題があるんですよ、なんとかしなければいけませんよ」という啓蒙活動を始めた時にですね、2ちゃんねるに私のスレがあって、いろいろ言われたのですが、「この人はリバタリアンですか?」ということを言われていました。そもそもそのような言葉自体も知らない私でしたので、そんな意識は自分にはありませんでした。一方で、さきほどの議論を見ると、私は「保守主義」なのかということになる。なぜこうした認識のギャップが生じるのかと。

 考えるに、私が技術的な興味からコンピュータソフトウェアの欠陥を調査し指摘している部分というのは、日本ではこうした活動は盛んではなく、欧米で議論されているものを見て勉強しているわけなんですが、その勉強の過程で自分でも無意識のうちに「サイバーリバタリアニズム」のような思想などにもとづく、ある種の「こういう技術はダメだ」という強い主張を体得してしまったわけです。そのうちのいくつかは、極論であるけれどいくつかは納得できるものであり、改善できるから改善しましょうという立場で話をしているつもりなんですが、そうした文脈を踏んでいない方から見れば「高木という輩は自由至上主義者か」と見られてしまうということがあったのだろうと思いました。

東:

 なるほど。

高木:

 次に、さきほど、インターネットがおおもとからサイバーリバタリアニズムにもとづくアーキテクチャだったという話があったかと思うのですが、それはどうでしょうか。そもそも技術というのは、汎用的なプラットフォームの上に特殊なものをつくるのがカッコいい、という非常にシンプルなセオリーがあります。たとえば昔のパソコン通信というものがありましたが、あのやり方の上にWebブラウザをつくろうとすると非常に変なものになってしまいます。ですが、その逆にまったくなんでもできる自由なIPというプロトコルの上で、――村井純先生などもよくおっしゃいますが――「最初にEnd-to-Endというものを設計すればあとに何でもできるんだ」というシンプルな原理の上で発展してきた*2、ただそれだけのことだと思うんです。

高木浩光
E1:高木浩光

 たとえば、i-modeから始まったタイプのWebブラウザというものは、実はインターネットとは全然違う感覚でつくられているんですね。それがインターネットに半分進出していて、それが非常に簡単にできた。それはそもそもインターネットが何でも応用できるように設計されていたからです。実はケータイのインターネットというものはインターネットではないと言ってもいいぐらい、制限され、完全に監視されたものです*3。サブスクライバIDというものによってキャリア事業者に管理された世界です*4。ただ、これも、遅い通信や電話機の貧弱なCPUといった技術的な原因もあるのかもしれません。アーキテクチャ上の都合で仕方なく制限されているだけなのかもしれない。そうだとすると、今後ケータイの技術が進歩して、いまのPCと変わらない性能を持つようになれば、いまのインターネットと変わらない世界になるかもしれません。

 あとこれは私が担当する回でお話ししようと思っていたのですが、ここにきて、国または国に群がる人々、昔ながらの旗振り役の人たちというのが、おかしな動きをしている事例があります。たとえば、「安心・安全インターネット推進協議会」*5というものがありまして、そこの設立趣意書にはこう書いてあるんです。現在のインターネットというのは、個人情報が漏洩して、見覚えのない請求書が来たり大変なんだと、それはインターネットの匿名性が原因であり、人々のプライバシーを守るためには、通信相手が誰であるかが確実にわかる新たなインターネットが必要なのだと。

白田秀彰

 それって誰が旗振ってるんですか?(笑)

高木:

 それはちょっとお答えしたくないです(笑)。どっかの国がお金を出して、どっかの先生が旗振り役なんですが(笑)、ともかく、これは技術的にも社会的にも相当アウトだと思うんですね。もしこれをやってしまえば、消費者のプライバシーはまったくなくなってしまうわけですよ。そんなものはありえない。ただメンバーの人たちはすでに、私がボロクソ言いそうだ、ということに気がついたようで、あちらから「我々も気をつけて考えてますよ」とそういうコメントをいただきましたが(笑)。

 こういうおおもとの部分での大きな勘違いから始まるこの種の危険というのは、いつもあると思うんですね。国がどうやって価値を決めていくかという話は、ちょっと間違えるとあまり事情をわかってない先生がやってきて、役所がどんとお金を出して始めちゃって、結果として出てきたものが本当に普及しちゃって、後戻りできなくなって大変なことになったりするわけです。

 こういった危険に対して、本来はサイバーリバタリアニズム的な人々が、そういうプロジェクトの報道があった時点で、ボロクソに叩くというのがあっていいはずなんですね。アメリカとかだったら間違いなく叩かれますよ、これ。でも日本では誰も言わない。なぜなのか。気づかないのか、あるいは、ひとりひとりが思っていても声を出すほどまでには理解していないのか。言う気がしないのか、他人にまかせて面倒なことはやり過ごしているだけなのか‥、まあ、そういうことの諸々の集積なのかなと思っています。こういう調子で、技術的にある方向づけがされて普及されてしまうと、RFIDやケータイもそうですが、あとから振り返ってもどうしようもなくなってしまう。

 そこでWinnyの話に繋げますと、一方に技術至上主義的な考え方の人たちがいて、技術が世界を変えるんだということを本気で主張される。RFIDを普及させたいという人のなかにもそういう人がいらっしゃって、堂々とそういうものが好きなんだといわれる。たとえば何もしなくとも自分のお勧めのものがマーケティングによって出てくる、そんな世界がいいんだという人がいます。Winnyの開発者が幇助罪で刑事告訴されたとき、「Winnyは悪くない」「まだ将来性のあるこれからの技術である」という議論が盛んに起きましたが、私は、技術論で分析してみても、それには何かしら嘘があると思うんです。

 たとえば「キャッシュ」という言葉がありますが、これは本来は「あってもなくても同じように作動するけどあれば高速化されるもの、隠された場所においてある」という意味でした。コンピュータのキャッシュ・メモリーから始まってWebではプロキシサーバのキャッシュというものもあって、この辺りまでの言葉の使われ方は妥当だと思ったんですが、とある検索サイトで「キャッシュ」というものが検索結果のところにあって、そのページのコピーが閲覧できるようになっていますね*6。すぐに消したはずのものがたまたま検索サイトにコピーされて長時間閲覧できるようになってしまうなんてことが起きてくる。これを技術的にキャッシュと呼ぶのはおかしいと思うんですね。ところが、キャッシュと呼んでおけば、批判を回避できるだろうというわけです。

 そしてWinnyも、ファイルをコピーして拡散させる仕組みを「キャッシュ」と自称しているわけです。しかしあれはキャッシュなのか。あれは、誰も消せないようにコントロール不能にするための分散化されたストレージである、というのが本来の狙いであるにも関わらず、それをあえて言わないでいる。「キャッシュ」と呼ぶことで何か適切でまともなことをやっているということを錯覚として起こさせている、という議論が立てられると思うんです*7。そこで科学者や技術者というのは本来そういった偽りに対しては敏感なもので、決して許さないはずなんですが、最近のこういった軋轢のなかで技術至上主義を持っている方は、そこらへんには目をつむっているという面があると思うんです。

東:

 なるほど。ところで、プレ・ミーティングのときの話を少し僕のほうから補おうと思います。そこで高木さんが指摘されたのは、つぎのようなことです。

 たとえば、Winnyとそれ以前によく使用されていたWinMXを比較してみます。P2Pネットワーク上に、コンテンツを持っていないがダウンロードだけはしたいというフリーライダー的存在の「くれくれ厨」と、大量のコンテンツと高速の回線を持っている「ネ申」の2タイプの人間がいるとしましょう*8WinMXは基本的に一対一でユーザー同士がコンテンツを交換する仕組みなので、自分がリスクを犯すか、見返りを用意しない限り、いいものは手に入らない。しかしWinnyの場合は、その交渉の必要がない。夜寝る前にWinnyを立ち上げ、キーワードを入れて睡眠する。朝起きると、自動で落とされたものが溜まっているといった具合で、とにかくフリーライダーが生活しやすい、使いやすい装置として設計されている。そしてこの設計は、ほとんどがROMで匿名的存在という「2ちゃんねる的な精神」を、みごとに反映させたものであって、2ちゃんねるからWinnyの設計思想が出てきたのは必然である、という話*9をされていました。

 ところで、ここで問題は――と高木さんはおっしゃったのですが――、Winnyの仕様においては、著作権侵害の違法コピーがハードディスク上に蓄積されているにも関わらず、本人としては単に起動してスイッチを入れているだけで、検索しなければそれが蓄積されているかどうかもわからないことです。つまり、実際には違法行為を犯していても、意識の上では違法行為を犯していないかのように思い込むことができる。つまり、自分が悪いことをやっていない気にさせる。逆に、だからこそ、ユーザーはどんどん増えていく。この「現実と意識の乖離」こそがWinnyの設計思想の肝だと高木さんは指摘されていて*10、これは非常に的確な分析だと思いました。このWinny論は、同時にいまの日本のネット社会についての一般的な議論になっていると思います。

東浩紀
E1:東浩紀

 というのも、いまの僕たちの社会は、とにかくみながフリーライダーになりたい、つまり脱社会的存在でありたいが、しかし社会全体はまわってもらいたい、という都合のいい欲望を抱えているわけです。そのご都合主義が露骨に表面化したのが2ちゃんねるなわけですが、Winnyは、まさにそういう精神でまわる箱庭をつくってしまったわけですね。だとすれば、おそらく、いま多くの人々がひそかに期待しているのは、リアル・ワールドまでもがWinny化していくことだと思うんです。「自分は何もリスクは冒したくない、働きたくもない、でもなんとなくコンビニに行けばメシは手に入る、あとは家で寝ていれば何とかなる」というような(笑)。

 こうした脱社会的存在の台頭を前にして、さらにさきほどの話に繋げれば、白田さんがおっしゃったように「社会的になれ」という立場がある。せめて社会的にならずとも反社会的になれと。しかし人々の欲望は確実にWinnyアーキテクチャに向かっている。WinMXWinnyの利用形態を、それぞれ「交換型」と「共有型」と呼び比較する見方がありますが、ここでの文脈で言えば、WinMXは「反社会的」だけど、Winnyの方はむしろ「脱社会的」だということになるでしょう。そして、今後はその差が非常に重要になってくると思います。

石橋啓一郎(以下、石橋):

 さらにつけ加えますと、Winny脱社会的な行動をサポートするのは確かですが、脱社会的な行動をしながら本当にそれを極めようとすると、各人が公共的なリソースを提供してしまうというアーキテクチャを裏側に秘めているということに、より巧妙さを感じます。

石橋啓一郎
E1:石橋啓一郎

 どういうことかと言うと、各ユーザーが利己的に活動していると、キャッシュをたくさん持っている状態になる。キャッシュは第三者への中継というWinny内的には公共的な目的にも使われるもので、これのための領域を多く提供するほど、自分もより多くダウンロードできるというインセンティブまで用意されている*11。そうしてWinnyというのは全体的に活発になっていくわけです。たとえば僕の知り合いはハードディスクをそのために買った人というのがたくさんいまして、Winnyの普及によって日本のハードディスクの消費は非常に上がったというのは間違いないんですが(笑)、これはそれぞれの人は公共的に振る舞おうとしてハードディスクを買っているわけではないはずなのに、いつの間にかそういった状況に誘導されるアーキテクチャを後ろに秘めている。そのような部分が非常に両面的であると思っているわけです。

東:

 まさにアダム・スミスの「神の見えざる手」ですね(笑)。

鈴木謙:

 同様に、いわゆる分散型で公共的になれるものとして「UD解析ツール」*12というのがありましたよね。インストールしておいて起動しているだけで、各人のPCの余ったCPUパワーを用いて白血病の解析を行うなどに役に立つ、というものです。こういうものは、2ちゃんねるなんかだと「しない善よりする偽善」というスローガンのもとに「team 2ちゃんねる」という名前で普及していました。

 これはまだ公共的なものだけで存在していますが、さらに利己心というスパイスが加わる形で、Winnyは発展するわけですね。つまりWinMXの場合は欲しいものを交渉して手に入れる世界なので、ゼロ共有のフリーライダー、いわゆる「くれくれ厨」と呼ばれるダウンロードするだけの連中は忌み嫌われ排除される仕組みでした。しかしWinnyの場合は、各人が利己心にしたがってWinnyを使う人間が増えると、Winny全体で占有するハードディスクの容量が増え、共有するキャッシュが増えていく。

石橋:

 これはまさに、みんなが脱社会的になったら困るよねという問題を、技術的なアーキテクチャで誘導していくことによって解決できるという例なのかもしれない(笑)

鈴木謙:

 というよりかは、みんなが使えるリソースを物理的に提供しているだけということ、この状態をはたして公共的と呼ぶかどうかという問題なわけです。

東:

 このあたりはとても面白い問題ですね。2ちゃんねるという巨大な実験場を持ってしまったがために、日本のインターネットにはある種の欲望がきわめて先鋭的な形で突きつけられている。Winnyはそれを結晶化したソフトウェアなわけです。

鈴木謙:

 つまり人々が公共心を働かせなくても社会的なものが生成するツールということですね。ここでおそらくふたつ方向があると思います。ひとつの方向は、Winny的に人々が利己心に従って行動すると共有リソースが増えてみんなハッピーになるというパターン。もうひとつは「しない善よりする偽善」というように、辻さんのおっしゃるように感情的なフックを使って、ポピュリスティックな形式の下に人々をボランティアにいざなうようなパターン。この両方向の実験について、少なくとも2ちゃんねるはかなりの大規模で完成させていて、しかも成功させている。



*1:註:東浩紀存在論的、郵便的――ジャック・デリダについて』(新潮社、1998年)

*2:註:「エンドシステム」、「e2e (end to endの略)」とも呼ばれる、インターネットの設計思想のひとつ。通信当事者であるエンドとエンドをつなぐネットワークは、単に情報を中継するだけ構成されるべきとする考え方(この思想を「Stupid Network」=バカなネットワークと呼ぶこともある)。

*3:註:ケータイのネットワークとPCインターネットの思想の齟齬については、k-tai lab - 天笠邦一「マクロなケータイ論02 :夢見るインターネット・恋するケータイ」が平易に解説している。

*4:註:一部のキャリアの携帯電話に搭載されているインターネット・ブラウザは、サブスクライバIDと呼ばれる契約者固有のIDをWebサーバーにアクセスするたびに送信するアーキテクチャとなっている。またサブスクライバIDについては、はてなダイアリー - 「高木浩光@茨城県つくば市の日記」跡地 - 「携帯電話の固定ID」で具体的な問題が指摘されている。

*5:註:安心・安全インターネット推進協議会 http://www.scat.or.jp/stnf/

*6:註:IT用語辞典 e-Words : キャッシュ。キャッシュCacheとはフランス語で、「隠し場・隠れ家・内緒」の意。また、「とある検索サイト」とは言わずもがなGoogleのことを指す。

*7:註:以下で詳細に議論を展開しているので参照のこと。→「はてなダイアリー - 「高木浩光@茨城県つくば市の日記」跡地 - 技術用語「cache」が政治的な言葉として拡大利用される

*8:註:isedキーワードWinny」参照のこと。

*9:註:「高木浩光@茨城県つくば市の日記」跡地:良心に蓋をさせ、邪な心を解き放つ ―― ファイル放流システム

*10:註:「高木浩光@茨城県つくば市の日記」跡地:良心に蓋をさせ、邪な心を解き放つ ―― ファイル放流システム

*11:註:isedキーワードWinny」参照のこと。

*12:註:以下のサイトを参照。→「UD-Team2chWiki - UD Team2ch

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