ised議事録

10-3012. 倫理研第1回: 質疑応答

E1:質疑応答
(開催:2004年10月30日 東京大学本郷キャンパス / 議事録公開:2004年11月30日)

質疑応答

東浩紀(以下、東):

 それでは最後に、会場からの質疑を受け付けたいと思うのですが、まずは設計研の委員である鈴木健さんが今日いらっしゃってくれています。鈴木さんは、なんと、早くも今日の早朝、この研究会が開催される前に(笑)、ご自身のPICSY blog鈴木謙介氏の発表への反論をアップされているのですね。その点をあらためて伺ってみたいと思います。そのプリントアウトが、みなさんの手元にあると思うので、参照しつつお聞きください。それでは健さんどうぞ。

鈴木健

 さきほど話が出ていたと思うんですが、僕のポジションとしては「保守主義」だと思います。というのは、ただ保守主義というのはblogにも書いたとおり「つねに異なるものを取り込んでいく」ということで、ひとつの方向性として、今日さまざまに挙げられたものというのを取り込んでいけるのじゃないかなと思っていました。そんなところです。

東:

 なんだか改まったコメントですね。blogではもっと語気荒いですよ(笑)。「お前らの話はスケールが小さい」とかそういう話をしていただいた方が、議論も発展するので、是非そういったご意見を。

鈴木健

 まあ、そうなんですけど(笑)。どちらかっていうと、ぼくはスケールの大きめの議論が好きです。よく300年後に伝播投資貨幣PICSYとか使えたらいいなとか言っては、地に足がついていないとか、何様のつもりだとか、みんなから怒られているんです。ただ基本的に、物を考える時には時間的なポートフォリオを考えていかなければならないと思っていて、実際に政策的な立場をとるという段になれば保守主義を取らざるをえない。

 しかしながら、実際にネットというものが広く社会的に使われるようになって10年くらいしか経っていないわけですが、過去の歴史を見ると、新しいメディアができてから、それがこなれてくるまで大体100年とか200年とかかかる。その萌芽というのは実は最初のころにできていたり、あるいは30年から40年経ったあたりで決まったりする。たとえば映画というメディアでは、だいたい1895年に生まれ、1925年ぐらいに整備されるという感じで、30年かかったわけです。そういうのに似たことが、ネットでもこれから起こっていくんだろうと思うんです。

 1995年ぐらいに僕はWebに触り始めたんですが、その時にWebはこんなに面白い未来を持っているという空想的世界があり、そのあとにITバブルというのがそれに対するアンチテーゼとして起きたんです。その反動というのをもう一度、地に足を"ある程度"つけた形で戻していきたいと思っているんですね。これから、僕は設計研でいろいろな議論をすると思うんですが、僕としては多重人格的に、いろんなタイムスパンの上で考えていきたいという所信表明です。

 今朝書いたblogでのエントリーについて言うと、まず創発性への信頼という点では、ネットワークの創発特性というものを、こういう風な見方で見るというのは、ちょっと偏りがあるかなと感じます。僕の専門の研究は複雑系なのですが、複雑系というのはもっとニュートラルな考えだと思っていて、この論文を読む限りでは、創発性に「価値」が乗っかってしまうというのが、ぼくとしては非常に困ってしまう。そういうことがない考えとして読者に伝わればいい。

 また所有権に関しては書いたとおりで、非常に明らかだと思うんですが、基本的には地域通貨のようなコミュニティと、GNU/GPLというような考え方のオープンソースコミュニティは、そもそもレイヤーの違うコミュニティで、それは「公有」という概念を導入することによって分離できるのではないか、と思っています。

 つぎにコスモポリタニズムという点ですが、三項図式ではなくて、もうひとつ項(コスモポリタニズム)をもってくるとよくて、オープンソースとかそういう考え方は、むしろこっちに近いと思っています。これは鈴木謙介さんともさきほど話をしてリベラリズムと言い換えてもいいと思います。そういう性質を持ちちつ、実際には保守主義的観点から適用されていくのではないかと思っています。

 最後に時間概念に関してなのですが、保守主義は非常に誤解されがちで、ネガティブ意味で捉えられることが多いんですね。僕は昔から保守主義について勉強をしていて、これをポジティブに捉えなきゃいけないという点をフォローしたかったというのが意図です。

東:

 ありがとうございます。まずディレクターとして僕のほうから短いコメントを挟むと、鈴木健さんのblogでは、実は最後に「情報社会倫理は大学院における科学者コミュニティのなかにある」という主張がなされている。しかし、ised@glocomとしては、そのような前提が無くなったところから議論を始めなければいけない、と思うんです。

 情報倫理と題される本はいくつかあり、そのなかでは往々にして、初期のネットを支えた科学者やハッカーのコミュニティは倫理的であって、インターネットが大衆化した結果そのような良きコミュニティが破壊されたという話がなされている。しかし、それはとても後ろ向きな議論ではないか。ハッカー倫理が素晴らしかったとして、その何が普遍化できて何が普遍化できないかを腑分けしないと、単なるエリート主義になってしまう。そこらへんが気にかかっているところです。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

 健さんは4点挙げてくださったので、順番に応答していきたいと思います。まず創発への信頼というところでいうと、「創発ニュートラルである」という立場自体がひとつの価値だと自分は思っています。つまり価値ニュートラルという立場はそれ自体が立場を表現していて、どんなコミュニティでも価値観を問わずに乗るよというのは、それは価値を選ばないという価値を表明していると思うんです。創発への信頼というのはたしかに偏った表現があるんだと思うんですが……。

鈴木健

 それは業界による言葉の使い方の違いだと思います。

鈴木謙:

 うーんそうですね。所有権に関してはご指摘の通りで、この点についてはまとめなおす必要があります。所有/共有というふうに分けるわけにはいかないし、経済学では昔から「貸与」という概念もありますし、といろいろあるわけです。所有という概念を「事態」だとみなすのか「概念」だとみなすのか、実際に持っているやつはこいつだが、所有しているやつはこいつということもありうるわけです。

 また第4項というものは、僕も必要だともちろん思っていたんですが、僕の言葉で言えばそれはリベラリズムに当たるだろうと思いました。保守主義にしても、「サイバー保守主義」などといった言われ方が出てきたように、第4項にしても第3項にしても、色々な見方・括り方があるというなかで、情報社会というベースの上でどう見たらいいのかという理念型を提示しているので、第4項は意図的に外した、ということです。

 最後に時間概念と保守主義については、たしかに保守主義の内容自体はとても複雑です。今日も国家主義なのか保守主義なのかという話が今日も出たように、ものすごく素朴な「右」とかといわれてしまうような保守から始まって、「国家が面倒を見ろ、国家にみんながコミットしろ」という種類の国家主義や、「昔からのやり方がよいのであってアホに政治を任せるな」という保守主義、そういうものはひとくくりにできないのですが、今日わざと社会民主主義国家主義もあえて全てを保守主義のなかに突っ込んでみたのは、20世紀的なものが蓋をしていたものがポーンと外れた時に何が出てくるのかという図式で話がしたかったので、こういう構造をとりました。確かにこんな単純な話はないと思っています。

東:

 ありがとうございます。

 ところで、さらにコメントを挟むと、いま謙介さんが最初に言った「価値を選ばないことにより価値が生まれる」点に対して、それは「業界の用語の違いである」と健さんが反論し、謙介さんが同意した点。それは、システム論の立場からはそう安直に同意してはいけないことではないかと思いますが……とはいえ、この話は長くなりそうですので、横に置いておきます(笑)。

 では、つぎの質問の方、どうぞ。

崎山伸夫:

 崎山です。白田先生のお言葉で、法の完全実行という問題が指摘されていました。しかし、法はそもそも貫徹していいのかと思うんですね。憲法というのは、法というものが国家が貫徹することで暴走しないようにするために存在するわけです。これはレッシグも『CODE』で展開していた議論ですね。今日はこのあたりの議論が展開されていないように思ったので、次回以降にされるのだとは思うのですがとりあえず指摘させていただきたいと思いました。

 また、「法の貫徹が不完全になる場所をつくる」ということのために、技術的に匿名性を担保し生み出す必要がある、という方向がありえます。ただもちろん匿名性は政治的な目的ではなく、Winnyのようなある種堕落した使われ方もしてしまうわけですが。ともあれ、匿名か実名かは問題ではなく,

その出処を遡行的に追及できればよいという議論があったかと思うんですが、これは微妙なところだと思うんですね。

 これは極端かもしれませんが、責任を追及するということは、技術的に突きつめると全てのパケットを追跡監視するということになるのではないかと思うんです。オーバーレイネットワーク上にどんどん中身のわからないものが流れていくなかでその責任を追及するという時、責任が分散するのか積み重なっていくのかというのは分かれるところだと思うんですね。後者を選んでしまった時どういうことになるかというと、みなが積み上がって膨れ上がった責任を負わされることを回避したり、あるいは法の貫徹を行い合うよう、たがいに創発的に振る舞ってしまうのではないか。その時、どういう社会になってしまうんだろうと思うんですね。

東:

 いまのご質問は、今日の討議には出てこない文脈を前提にしていますね。ご存知ないみなさんのために補足すると、以前高木さんと崎山さんがWinnyの匿名性についての論争*1を行ったことがあり、その議論を知らないとわかりにくい質問かもしれません。

高木:

 いえ、崎山さんが指摘されたような議論はたいへん重要だと考えています。私としてはそのどちらの結論を取るべきというよりは、そういう論点があるということ自体に注目しています。崎山さんと同じ立場の方はけっこういらっしゃるのですが、崎山さんの反対側から主張する人というのは見渡してもあまりいなかったので、自分としては反対側の主張をしたわけです。

 匿名性をどうするのか、そして何か起こった場合にその責任をどこまで遡及し、どこまで射程を広げるのか、といった話題は、しかし本当に重要な議論であると思います。もしかしたらオーバーレイネットワーク自体を禁止するべきなのかもしれないし、しないとすればどうするのか。このような議論は難しいし、やる場所もない。そして一方では捜査機関がアクションを起こしてしまって、少なくとも考えるきっかけというか、問題提起が行われた状況だと思うんです。

東:

 それに、この研究会は全部で十数回もあり、実は今日は初回にすぎません(笑)。その過程では、具体的な問題提起や運動論を含め、いま崎山さんが指摘されたような面も議論されていくことと思います。

 それでは、最後の質問の方。

坪田知己(慶應義塾大学大学院):

 慶応大学の坪田です。感想を最後にひとつ言わせてください。今日の議論はたいへん面白かったんですが、とくに「反社会」と「脱社会」の区別をつけていくべきという話は興味深かったし、ここが設計の肝になっていくという感じがしました。

 また私が昔から気になっているのは、日本における自由とはなんだろうか、という問題なんですね。日本では自由という概念は血で争われていないんですが、韓国ではむしろ相当にいろいろな紆余曲折を経て自由に至ったという歴史がありますので、硬質な手触りをもった自由なんですよね。それに比べると、日本というのは液状化した民主主義になっていて、そもそも日本では自由というものが脱社会的色彩、つまり責任感のない自由であるという性格が強いわけなんですよ。西洋や韓国であれば、歴史的なものもそうですし、韓国は今でも兵役制度などがあって制度的なものが強く、それゆえに自由ということを実現しようとすれば、「それをやるなら反社会的な性格を帯びてでも腰を据えてやれよ」となるわけで、要するに根性が入っているわけです。しかし日本はそうではないし、それがもたらす悲劇というものを痛感するわけです。たとえば香田さんのイラク人質事件は、海外のメディアであればどう見るのか? といま思っていて、日本人としてもある種の責任を持たねばならないのではないかと思うんです。

東:

 たいへん重い問題を提起してくださったと思います。思えば今日の討議も、情報社会の問題なのか、日本社会の問題なのか、その点が曖昧に混同したまま行われた面があったと思います。それに、自由といえば、僕もさすがにそろそろ『情報自由論』を出さねばならないな……と思いながらお聞きしてしました(笑)。さまざまな意味で、自分も責任を果たさねばなりませんね。

 というところで、第1回の倫理研は閉会させていただきます。長時間の議論、ありがとうございました。



トラックバック - http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/00121030