ised議事録

12-128.設計研第1回: 共同討議 第2部(2)

D1:共同討議 第2部
(開催:2004年12月12日 国際大学GLOCOM/ 議事録公開:2005年2月11日)

創発的秩序はインセンティブの調達から生まれるか

東浩紀(以下、東):

 その問題提起はとても重要で、ぜひ倫理研のほうに引き継ぎたいと思います。

 井庭さんの問題提起をあらためて要約すると、資源配分の効率化の局面と、問題設定あるいは問題発見の局面を分けて考えるべきだ、という主張になると思います。あるいはこうも言えます。

 脱社会的な存在ばかりで、構成員のあいだに社会へのロイヤリティがまったくないにもかかわらず、資源配分が効率的に行われる社会システムを構築することは可能かもしれない。たとえば、前回は、Winnyがそのような逆説を解決しているアーキテクチャだと言われていたわけです。実際、Winnyのユーザはだれもネットワークへのロイヤリティなんてもっていないと思うけど、どんどんコンテンツがたまっていく状態が作られている*1。しかし、脱社会的な存在ばかりで、構成員のあいだに社会へのロイヤリティがまったく存在しない状態で、しかも新しい問題を次々と発見していくシステムをつくることは可能なのか。これはまったく別の問題だ、ということですね。

 確かに、その区別は、倫理研の議論では話題になっていなかったと思います。

井庭崇(以下、井庭):

 そうですね。そしてそれが可能ならばその可能性を模索していきたいし、むしろそういうものが社会には必要なのではないか。こういった問題を、倫理研設計研の両方で考えていく必要があるのではないかと思ったんです。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

鈴木謙介
D1:鈴木謙介

 そこで倫理研の場合であれば、むしろ脱社会的存在も参加できるような場は「なくてもよい派」という立場もあるだろうし、「昔はあったのだから、それを再利用すればいいのだ派」という立場もあるだろうと思うんです。そして前回の倫理研では、「昔はあったのだから、もういちど呼び出すのだ」という立場――保守主義という立場*2で呼ばれていますが――の方が次から次へと出てきて、なるほどな、と思っていたところなんです。「倫理」ということばに引っ張られたのかもしれませんけれども。

 ある種の「脱社会的」といってもいいし、「loyaltyがない」と表現してもいいのですが、そういう人々もある種のクリエイティブな動きのなかに引き込んでいこうとするためには、「国家のような強力な価値がなければならんのだ」という人たちのほうが多く出てきているのが現状であるという感じがします。やはり非常にイメージしやすいということもあるのでしょう。ただ井庭さんの場合は、そういう国家や伝統を呼び出すこと以外にも道があればそれを模索したい、と。

井庭:

 そうですね。さきほどのvoiceの3つの分類でいえば、クレームのvoiceをいう機会は現代の情報社会では大きく開かれていると思うんですよ。たとえば2ちゃんねるやブログで不満を表明するというのも然りです。ではアイデアに対してはどうだろうか? あるような気もするし、ないような気もする。いま存在しないカテゴリーのことを提案できる場はあまりない。だれかが決めたカテゴリーに対して、投稿することはできたとしても。そう考えると、「検索はてな」では、疑問とそれに対する回答というプロセスで、いま存在しないものの可視化をしているという点で面白いと思います。そこでは、「あるものをどうするか」ではなくて、ないものをどうやって共有しオープン化して、みなで考えていけるのだろうか、という点がうまく実現されていると捉えることができます。

東:

 重要なのは、否定するのでも肯定するのでもなく、新しい問題の発見だ、ということですね。さきほどの「不満」と「アイデア」と「目的」というのは、いいかえれば否定と肯定と発見ですが、この最後の発見のレイヤーはどう整備されるのか。

井庭:

 そうです。それがないとしたら、誰がどんな目的で設計するんだという話になり、それが不透明であるとなると、すぐにエリート主義の問題が云々という話になってくると思います。しかしそうではなくて、そこもオープン化するということは可能なのかというテーマこそが非常に面白くてかつ重要なテーマではないか。

鈴木謙:

 それがはじめにおっしゃっていたゲーム理論からの離脱ということの意味でしょうか?

井庭:

 いえ、けして離脱ということではなくて、両方必要だとは思うんですよ。最適化の話はもちろん必要です。ただその最適化から抜け落ちる部分というのは必ずあって、さきほど八田さんがおっしゃったような、「オープンソースの定義を再定義できる」というような「新しさ」への着目、その両方がなくては社会というのは廻らないのではないかと思うんです。

東:

 とはいえ、第三世代システム論の議論では、ここで言われる「目的」、すなわちヴィジョンやミッションこそがオートポイエティックに生成してくることになっていたのではないでしょうか。

井庭:

 うまく回ればです。しかしそれをもっと、なんといいますか、社会的にうまく生み出していくことはできないか、と。いまそういう空間はないと思うんですね、草の根のアイデアとかヴィジョンをボトムアップで吸収するというようなものです。もちろん、一部の知識人がヴィジョンを語っているというのはいまでもあると思います。しかし、かといって全員がヴィジョンを語ってしまったら、当然ものすごい量になってしまってまとめられないわけですね。こういう可能性は、実現できないものかというのが昔から興味がある。

 そしてこれは、新しいコンセプトとは何かということでもあると思うんです。たとえば商品の場合であればわかりやすい。バンドエイドやサランラップ、あるいはポストイットであったりと、その商品名が自ずからそのカテゴリー名になってしまうとき、それはほかに名指しようのない新しいコンセプトの商品だということですね。さきほどまでの話で「はてな的」ということがテーマになりましたが、それははてなが新しいからでしょう、というように。こうした新しいものが生まれるプロセスを、個人の頭の中に求めるのではなくて、社会的にオープン化することははたして可能なのか。まだ、具体的な実現案はこれから模索することになるんだと思うんですが。

東:

 とても興味深い問題提起、ありがとうございました。

 ところで、いまの井庭さんのような議論は、ともすれば「やはり新しい目的は天才によって生み出されるしかないんだよね」的な通俗的な話に落ちてしまう。それを避けるためにも、あらためて議論を整理したいと思います。

 今日のテーマは、情報社会に相応しい組織設計の哲学とは何か、ということだと思います。僕の思うに、そういうときの議論はだいたい3つのタイプに分けられてしまう。ひとつは、放っておいてもうまくいくという立場。オープンソースへの素朴な信仰、いわゆる「バザール」主義がこれに当たる。二番目は、ひとりひとりがしっかりいればオッケーという立場。EAはこれですね。そして最後に、とにかくリーダーの存在が重要なんだ、という立場。オープンソースの実体はこちらだった、なんて話もよく聞きますね。

 しかしここで、井庭さんは、その3つのいずれでもなく、リーダーが生み出されていく条件を問うている。そういう条件が整えられなければ、真の意味での創発的な社会秩序とは言えないのではないか、という問題意識ですね。

井庭:

 そうです。

東:

 そして逆に、そのように考えると、今日の石橋さんの講演にあったIETFのケースにも留保が必要なように思えます。

 IETFはまさに新しい目的やコンセプトの連続で、それを基準に考えると、すぐれた場さえ作れば問題発見のプロセスは自動的に動くように思えてくる。しかし、実際にはIETFの経験を新しい設計思想のモデルとして範例化するのは、いささか危険なのかもしれません。というのも、インターネットの誕生の歴史というのは、自分で自分の靴ひもをもって飛び跳ねるという、いわゆるブーツストラップ的なきわめて特殊なプロセスだったように思うからです。コンピュータ・ネットワークという新しいインフラが登場し、その新しいインフラのうえに新しいコミュニティが生まれ、つぎにそのコミュニティが新しいインフラをますます改良していく、というプロセス。コミュニティがインフラを作り、インフラがコミュニティを作るという循環が存在したわけです。しかも、その結果として生まれたものが急速に世界中に普及した。こういうケースは、世界史的に見てもとても稀なのかもしれない。

 普通は、インフラがコミュニティの性格を決定してしまう。そういう点で、井庭さんの問題提起はとても重要ですね。

楠正憲(以下、楠):

 素朴な疑問になるのですが、「loyaltyがない状態を前提として、そこで創発的な何かを生んでいく」ということよりも、もっとシンプルに「loyaltyが生まれる仕組みを考える」という方向があるべきかと思うんですが。

東:

 なるほど。それもまた重要な指摘ですね。議論はむしろインセンティブ論に向かうべきだということですか。

楠:

 そうです。

 さきほど八田さんのほうからプロプライエタリの代表といわれてしまって、そこに若干違和感があるんですね。若干違和感があるというのは、マイクロソフトWiXWTLのように、いくらかCPL (Common Public License)に準拠したオープンソースのプロダクトは出していますし*3、Windows Services for UNIXのようにGNUのソフトウェアが含まれている製品も持っているという事実確認をまずしておきたい、と。確かに主力製品であるWindowsは、いわゆる商用ソフトとして開発しています。知的財産権が守られるような形で、パートナー企業や学術系にソースコードを開示するShared Source Programという仕組み*4も用意していますが、現在では基本的に開発そのものは社内で行っています。

 けれども僕が思うのは、オープンにしてもうまくいくものといかないものがあるということです。オープンソース的な、プロジェクトにコントリビュートすること自体が楽しいからコラボレーションがまわっていくというのは、そもそもプロシューマー的な――ユーザ(消費者)でもあり、生産者でもあるという――要素が強くないと働かないのではないか。

楠正憲
D1:楠正憲

 たとえばストールマンが最初につくったのは、コンパイラとエディタですね*5。これはとても示唆的で、コンパイラもエディタも実際に開発者がユーザとして使用するものなんですよ。実はマイクロソフトも最初につくったのは、1974年にMITS Altair(アルテア) 8800向けのBASICインタープリタです*6。MITS Altair 8800というのは、世界で最初のパソコンともいわれていますが、現在のパソコンとはだいぶ勝手が違っていて、まず組み立てるのが難しい。出来上がって無事に動いても、トグルスイッチで機械語を入力してのプログラミングであったりとか、プログラムを紙テープで読ませたりだとかというような、ものすごくマニアックなセットでした。

 こうしたプロシューマー的世界というのは、比較的オープンソースでも回りやすいのかも知れない。それでも、さきほど革新性の話が出ましたが、最初に登場したCコンパイラもEMACSエディタも、マイクロソフトにとって最初の製品であるAltair 8800用のBASICも、オープンソースより前に商用ソフトとして開発されたという歴史的事実があります。

 もうひとつ、プロシューマーが自分で自分の欲しいものをつくるという観点だけでは、おそらくデジタル・ディバイドの問題というのが出てくるのではないかと思っています。たしかにプロシューマーはユーザでもありプロダクトを生み出す側でもありますが、あくまでハイエンドのユーザなんですよ。既存のものよりも、「こんなに使いやすくなってよかった!」と思う人たちであって、すでにその商品が届いているという意味では困っていない存在である、と。

 しかしコマーシャリズムの下では、よりマーケットの裾野を拡げるインセンティブが生まれます。となれば、さらに使いやすいコンピュータであったり、目が見えないひとも扱えるように喋る機能をつけましょうというものや、お年寄りでも見えるように字が大きいものをつくりましょうという方向に向かって、企業のインセンティブは働く。そうした組織の下でのモチベーションというのは、どうしても「もっと儲かれば評価される、給料が増える、株価が上がる」といったような、とても単純なところもあるでしょう。

 たしかに内発的にモチベーションやインセンティブが生まれ、それでどんどん新しいものが出てきてというのはすごく美しいし、心地よい世界なんだけれども、そこから生まれてこないものというのもやはり多々あるのではないかということですね。

 ただ、おそらく結論のところは八田さんと同じで、両方必要だろうけれども、その上で制度間競争をしていけばいいわけですね、このあたりが落としどころではないかと思うんです。

八田:

 しかしそうなると「いまの世界ってけっこういいじゃん」と現状を肯定して議論が終わってしまうんですよね(笑)。だた、そのようなインセンティブをめぐる構造を可視化して――ということばが正しいのかはよくわかりませんが――みなが情報としてもっているのは非常にいいことだと思いますね。

井庭:

 さきほどの楠さんのお話で、なぜloyaltyを高める方向にいかないのかということに応答したいと思います。たしかにそれは重要ですし、すでに議論されてきていることでもあると思うんです。しかし、まだないものに対してloyaltyはもてませんし組織化もできないですよね。でも、その新しく生まれてくるものに対して、どうやってみながそれに関わっていけるのかなんですよ、重要なのは。たしかにヴィジョンなりコンセプトが出てしまえば、それに対して共感する人がみなで集中することはできるでしょう。しかし、そもそもの新しいヴィジョンやコンセプトを生み出すための社会的ブレインストーミングのようなことが可能なのか? というところにこだわって考えたいんですね。

東:

 うーん。これは難しい話になってきましたね。一方には、現在存在しないものを存在させる、つまり「新しいもの」を生み出すためにこそ、インセンティブが必要なんだという考えかたがある。しかし、他方には、新しいものとは、むしろ既存のインセンティブの彼方にあるものなのだから、インセンティブの設計で支えられるものなわけがない、という考えかたがある。その二つの立場が対立するわけですね。

井庭:

 ですから究極的にいってしまえば、この現実世界をよりよいものにしようという現実世界に対するloyaltyということになってしまう。

東:

 いずれにせよ、インセンティブ論という補助線を引くことで、井庭さんの問題提起はさらに明確になったという気はします。

 楠さんと八田さんが指摘されたように、オープンソース運動におけるインセンティブ調達のシステムは、既存のソフトウェアの置き換え、もしくは問題解決型の開発に関してはきわめてうまくいった。つまり、インセンティブの設計は、現存するニーズを処理する局面ではうまく働くということです。しかし、発明型の開発、すなわち、いま目の前に存在しないニーズを発見し、そこに向けて新しいものを生み出す局面においてはどうか。なにかを発明するというのは、言い換えれば、その時点ではだれも使いたいと思っていないものを作ってしまうことです。そこにはあらかじめ調整すべきニーズがない。だとすれば、これはインセンティブ論では扱えない領域なのかもしれません。

 前半の討議では、全体最適志向型の組織設計(EA的なもの)と部分最適指向型の組織設計(オープンソース的なもの)という、二つの設計思想の違いが議論になりました。しかし、後半では、そのどちらも支援できない「発見」「発明」という領域があるのではないか、というきわめて本質的な問題提起がなされたわけです。

東浩紀
D1:東浩紀




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