ised議事録

12-1210.設計研第1回: 共同討議 第2部(4)

D1:共同討議 第2部
(開催:2004年12月12日 国際大学GLOCOM/ 議事録公開:2005年2月11日)

無限のメタ化という情報社会の本質

鈴木健

鈴木健
D1:鈴木健

 そして、第3期の話ですが、これは僕にとってどういう問題であるか、さらに抽象化しておきます。要するに、いまはルール自体がどんどん変わっていくような世界であるわけですが、これはソフトウェアというものからきている本質的な問題であると思うんですね。どういうことかというと、ソフトウェアやプログラム、というよりはそもそもの「計算機」というコンセプトを最初に考えたのは、アラン・チューリングです。そして彼は有名なチューリングマシンというものを考えた。そこで議論されていることの本質というのは、実はチューリングマシンという「装置」がメインの議論なのではなくて、ヒルベルト・プログラムというひとつの数学的な問題に対する計算論的なアプローチなんです*1

 では、そこでいったい何か起こっているのか。まず、チューリングマシンというものがあって、そのチューリングマシンを真似するユニバーサル・チューリングマシンというものがあるんです。そのユニバーサル・チューリングマシンというのは、ありとあらゆるチューリングマシンをイミテーションできると考えたというわけですね。これはつまり、ありとあらゆるものをメタメディアとしてもってくることができるということです。このように、実はメタ化を永遠にやっていけるということをソフトウェアは計算論的にある程度保証しているんです。つまりそれはどういうことかというと、現実的にはデータとプログラムの分離ということを通しておこなわれているのですが、ところがプログラムというものはデータである、というところにまた落ちるわけです。プログラム自身をデータとしてあつかって書き換えていくということが、メタ化していくということです。たとえばこういうことを、ゲーム理論の文脈でいうと京都産業大学の舛本現さんというかたがラムダゲームというゲーム論をいまつくられていて*2、このラムダ計算というのはチューリングマシンと等価なものです。このように、メタ化していく、つまり自らさらに書き換えていくというような性質が本来ソフトウェアにはある。

 この問題というのは、実はチューリングマシンということが言われるもっと以前から考えられてきています。それは啓蒙思想の時代なんです。あの時代には自然権の議論が出てきたのですが、そこでなぜ自然権の話をしているかというと、自然権というのはつまり書き換えてはいけない権利なんですよ。つまり、どこまでのルールを書き換えてよいのか、どこまでのルールは書き換えてはいけないのかということをちゃんと議論しましょうという議論なんです。そしてその時代、たとえばルソーやモンテスキューやロックが議論したことというのを、いまもう1回新しいアーキテクチャのうえで議論しなおさなくてはならない。これが僕の、新しい社会契約論という考えの根幹です。

 こういうことを議論している面白いケースというのを紹介しておきましょう。『ゲーデルエッシャーバッハ』(白揚社、1985年 asin:4826900252)を書いたダグラス・R・ホフスタッターが、『メタマジック・ゲーム』(白揚社、1990年 asin:4826900430)という本をその後に書いています。そこに紹介されているものに哲学者で弁護士のピーター・スーバーが考えた「ノミック」というゲームがあるんですね。これは何かというと、いくつかの条文があって、プレイヤーが、その条文をつかってほかの条文を書き換えていい、というゲームです。ところが、そのなかでノミックというゲームを成立させるためには、ある程度の条文は消してはいけない、書き換えてはいけないということを議論するんです。

 つまり、ルール自体を書き換えていく世界において、いままでは自然言語というアーキテクチャ、あるいは憲法というアーキテクチャのなかで、ルールを書き換えていく限界はどこまでなのかということを考えてきたんですね。しかしこれからはソフトウェアという新しいアーキテクチャにおいて、200年とか300年というスパンで何のルールを書き換えていいか、何のルールを書き換えてはいけないかということを考えていくこと。これが僕にとっての社会を設計するということのひとつなんではないかと考えているんです。

 しかし、単にそれだけをガッチリと議論するのではなくて、そこには第1期に生まれてきた潜在的な価値観というものがあるんです。どういうものを許してどういうものを許さないかというものの潜在的な価値観というのがあるとき、それを僕はすごく大事にしたいと思っているんです。今日のここまでの議論は面白かったんですが、視点として「何が生き残る」であるとか「何が強い」という話題が多かったのではないか。それはつまり、どうやったら生産性が高まるのか、何が強いかという話ですね。

 けれども僕が感じるそもそものところというのは、第1期のもっている人々の価値観というものを、今でも皆がすばらしいと思っていることなんですよ。たぶんレッシグもそう考えていると思いますが、そのすばらしさというものをちゃんとグラウンドできる方向、その安定状態というのはどのあたりにあるのかということを、ちょうどモンテスキューやロックが議論したように議論したい。そしてそのためのツール自体を自分でつくっていきたいということが自分の考えていることです。以上です、長くなりましたが。

東浩紀(以下、東):

 ありがとうございます。

 司会の枠を超えますが、ひとつコメントさせてください。お話に出てきたダグラス・ホフスタッターの『メタマジック・ゲーム』は確かに面白いんですね。これは有名な『ゲーデルエッシャーバッハ』の続編にあたるのですが、この二つは実は同じテーマを扱っていながらも微妙に手さばきが違う。

 『ゲーデルエッシャーバッハ』は、タイトルどおりゲーデル不完全性定理を扱ったエッセイ集で、『メタマジック・ゲーム』のほうは人工知能やゲーム理論の話題が中心になっています。この差異は重要なんです。というのも、ご存じのように、ゲーデル不完全性定理チューリングの停止問題は数学的に等価なものなんですが、この二つは――文系の僕から見ると――まったく異なったイメージに基づいている。コメントなので詳細を端折っていうと、ゲーデルのほうが、メタレベルへの遡行の最終審級がないことによって否定神学に行ってしまうのだとすれば、チューリングのほうは、同じ欠如を、世界全体がひとつの計算機として表象されるような新しい世界観の提案として使っている感じがする。

 まあ、それは余談として、ゲーデルの定理もチューリングの定理も、コードとメタコード、計算されるものと計算するもの、変数と式を同じ形式で書くことができる、というアイデアによって中核を支えられています。したがって、鈴木健さんがいまおっしゃったように、コードとメタコードが両方ともコードになってしまう、言い換えれば、メタレベルがたえずオブジェクトレベルに組み込まれてしまうのが情報社会の本質なのだ、というのはまったく正しい認識ですね。

鈴木健

 それは情報社会の本質ではなくて、世界の法則みたいなもので…

東:

 それは、むしろ、情報社会になったことによって、僕たち自身が世界の法則をそのように認識するようになった、と言うべきだと思います。

鈴木健

 というよりは、単にいままで顕在化していなかったけれども、数千年スパンのレベルで顕在化したというだけなんですよ。いまの現実社会自体も、そう動いているはずです。

東:

東浩紀
D1:東浩紀

 それはそれで分かるのですが、人間は、つねにある種のフィルタを通してしか世界を理解できない。したがって、世界について新しい真理が明らかになったときには、「世界はずっとそうなっていた」とも言えるけれど、同時に、「いまだからこそそういう真理が発見できた」とも言える。僕はいま後者のレベルで話をしています。

 そこで、レッシグを援用された鈴木さんの議論を整理すると、つぎのようになると思うんです。そもそも、情報社会化の革命的な意義とはなにかといえば、それは「社会の規制要因が3つではなく4つである」と人々に意識させたことにあるのではないか。従来の人類社会においては、市場と法と規範しか規制要因が想像されていなかった。それは言い換えれば、規制するものと規制されるものがはっきりと分かれているような世界だった。しかし、アーキテクチャ=コードという第4の要因が可視化されたことによって、規制する環境と規制されるアクターがともに同時に規定されてしまうような、まさに「コードとメタコードの違いがない」世界の生成が意識されるようになった。

鈴木健

 なるほど。ただ、我々の生活はあまり変わっていないですけれどね。

東:

 とはいえ、コードが法や規範し市場のモデルになれば、生活も変わってくる。鈴木さんの問題提起は、情報社会化を単に新しいインフラやメディアの登場として捉えるのではなく、インフラやメディアの概念そのものを変えるものとして、より本質的なところで議論しよう、というものですね。今後の設計研の議論に深く影響を及ぼす問題提起だと思います。

 ただ、ひとつ疑問に思わなくもありません。コードとメタコードが区別できない、というのは確かに情報社会の本質だけれども、具体的に目を向けた場合、自らが住まうインフラを生みだしていくコミュニティとして挙げられるのは、やはり今日の講演にあったインターネット誕生の歴史だと思います。しかし、それはもしかしたら、歴史的にただ1回しか起こりえないことなのかもしれない。

鈴木健

 確かにあれとまったく同じことはもう2度と起こらないでしょうけれども、自らそれをつくることによって生み出すということブーツストラップな現象自体は、これからたぶん何回も続くでしょう。最初のステップが違うだけなのではないでしょうか。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

鈴木謙介
D1:鈴木謙介

 いまお話されていたことというのは、いってみれば組織ガバナンスのような話からはじまって、「構造機能主義」から「機能構造主義」へ、あるいは「構造の構造化」*3というようなフェイズがあるだろう、と。これは自分がよく依拠するアンソニー・ギデンズ*4がいっていることです。そうした「構造の構造化」という話というのは、いわゆる素朴な「まかせときゃなんとかなる」というものでもないし、かといってトップダウン型の指令でもなく、オートポイエーシス*5としかいいようがないようなシステム作動である、と。そこに新しい社会システムのモデルを見出すわけですね。

 こういった議論の展開になるとき僕がいつも健くんの話でわからないのは、「社会契約」に言及する部分なんです。つまり、オートポイエティックなシステムというのは、ルーマン的にはもう「記述」(観察)されるしかないというわけです。記述されるしかないということは、システム作動がまわりはじめれば、それはその作動を記述できるという意味ではうまくいく。しかし、そもそもそのシステムがまわりはじめたきっかけ、つまりイニシャルステップはいったい何であるのかわからない=記述できないということになるわけですよね。

 しかし、社会契約というのは社会を成立するときの「イニシャルステップ」として想定されるわけです。では、オートポイエティックなシステムとして新しい社会を把握すると同時に社会契約を生み出すというとき、その関係はどう把握されているんでしょう。つまり、組織がまわるというのはわかった。しかし、そこで組織をまわしだすとき、さきほどの井庭さんの話でいうと最初のオリジナルというのはいったいどこなんだろうか? と。

鈴木健

鈴木健
D1:鈴木健

 そもそもですね、そこで組織自体が議論の前提になってしまっていると思うんですね。つまりですね、僕はアンチ組織というかアンチコミュニティなんですよ。ちょっと近藤さんに悪いですけど(笑)。

 どういうことかというと、みなさん組織をどう変えるか、どうつくるかという議論されていますよね? そうじゃないんですね、僕がやりたいのは。僕が第3期でやりたいことというのは、組織ではなくて、個人がどうつながるかなんですよ。だからソーシャル・ネットワーキング・サービスだといっているし、PICSYというのは組織を仮想化するための貨幣なんですよ。そして新しい社会契約論というのは、かつて啓蒙時代の議論が扱ってきた「個人と社会の契約」ではないんです。かつては、組織というものがあって、国家というものがあって、国家と自分がどう契約するかということをずっと議論してきていた。

 しかし新しい社会契約論はそうではない。例としてGPLの伝播性がいかにすばらしいかということについて簡単に触れたいのですが、GPLの伝播性は法律ではなくて「契約」、ある種ソーシャル・ネットワーキング的にノード間を伝播していくものだったんです。そのソーシャル・ネットワーキング的な契約によって生まれた秩序というものが、どこまで我々の社会というものを担保してくれるのかという話なんですよ。たとえば安全保障的な問題についてもそれは当てはまるのか、それで大丈夫なのかとかということを考えなければいけないんです。

東:

 話がまた拡がってきました。

 とはいえ、議論は繋がっています。司会として指摘しますと、鈴木健さんと鈴木謙介さんの差異は、今日延々と話題になっている全体最適部分最適か、という話の延長線上にあると思います。

 鈴木謙介さんが指摘したのは、従来「社会契約」と呼ばれてきたものは、社会という全体――それを国家と呼んでもほかの名前で呼んでもいいのですが――と個人、つまり、全体と要素の契約を指していた、ということですね。ところが鈴木健さんは、全体を経由しない要素と要素の契約を考えている。つまり、鈴木謙介さんは、社会契約の前提には全体最適の発想があるはずだと指摘し、鈴木健さんは、全体最適なんか考えない「新しい社会契約論」が構想されるべきだ、と主張しているわけです。

 おそらく鈴木健さんは、そのような部分最適化した社会契約はむかしからあったと主張すると思います。しかし、僕としては、やはり、そこで言語化されている発想の歴史的位置が気にかかる。社会は、ひとつの全体性をもつのではなく、要素と要素の組み合わせから創発するという発想。その発想は、やはり――さきほど井庭さんも言及された河本英夫氏によれば、実はその起源は19世紀ドイツの生気論にまでさかのぼれることになっていますが――、マトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシス*6が出た1970年代以降に強くなったものだと思うんです。そして、それは奇しくも、インターネットの誕生とほぼ同時期です。部分最適化した社会契約の理論的整備と社会的実践が、ほぼ同時に始まっている。オートポイエーシス論とオープンソース運動には直接の繋がりはないと思いますが、だからこそ、逆にこの歴史的同時性は注目すべきだと思います。

鈴木健

 こうした議論は発想としてはそんなに古いものではなく、新しいものだとは思うんです。ただそれは科学として新しいということです。たとえば人類が細胞というものを認識したのは比較的最近ですが、細胞それ自体は40億年前に生まれているわけですよね?(笑) この2つの議論は分けておきたい。つまり、存在と当為を分離しましょうということです。

東:

 むろんそうですが、その部分だけ強調すると、自分の議論は正しいがゆえに、40億年前からも正しかったのだと聞こえてしまう(笑)。

鈴木健

 いやいやいや、それは断じて違いますよ。

東:

 いずれにせよ、オートポイエティックな社会観そのものはそれほどむかしからあるものではない。この事実には同意していただけると思うんですね。重要なのは、その新しい認識のうち、どこまでが科学的で、どこまでが宗教的で神話的なものであるかをきちんと見定めることだと思うんです。

鈴木健

 その差異についてもお答えしたいのですが……とにかく一言だけ。まさに分離しなければならないというのが僕の主張です。むしろいまここでおこなっている議論というのも、存在と当為が分離していないことこそが問題だと実は僕ずっといいたいのですが……

鈴木謙:

 ……しかし、存在と当為がむしろ分離していないからこそ、うまくいったのではないかとも思うんですよ。健さんから社会契約論の話がでたので補足しておきますと、ホッブズが最終的に主張するのは、社会契約へと至る――つまり人々が自己の権利を移譲するに至ったという――プロセスではなく、そうしたプロセスが「教育」によって人口に膾炙し続けるようになっていなければならないということだったと思います。ここではむしろ、意図的に存在と当為をすりあわせることが目指されている。

鈴木健

 それはたしかにそうかもしれない。

東:

  鈴木健さんが進められている伝播投資貨幣プロジェクト「PICSY」の例で考えると分かりやすいですね。PICSYのモデルでは、実際に行われているのはひとりひとりのユーザが取引相手に対して下すばらばらの評価であるにもかかわらず、各人のネットワーク全体への貢献度がマルコフ過程モデルによって計算可能になっている*7。つまり、各人の貢献度は本当は一対一でしか図られていないはずなんだけど、強力な計算力を媒介にすることで、社会全体に対する貢献度がいわば「数学的に」出現してしまう。このような社会観は、歴史的にはとても新しいものです。

鈴木健

 ですが、PICSYをどうガバナンスするかという問題が残るわけです。

東:

東浩紀
D1:東浩紀

 といったところで、そろそろ第二部も締めくくるべき時間のようです。議論は尽きませんが、司会として強引にまとめさせていただきます。

 あらためて振り返りますと、今回の討議は、石橋さんの講演を受けて、全体最適の設計思想と部分最適の設計思想を対立させるかたちで進んできました。情報社会の新しいガバナンス、石橋さんの言葉を使えば「場の設計」を行うときに、全体最適の視点というのは必要なのかそうでないのか、もし必要でないならばそれはなぜなのか。これが中心にあるテーマです。

 そして第二部では、その議論を踏まえながらも、さらに抽象度を上げる問題提起が二方向から行われました。鈴木健さんは、部分最適の設計思想という問題を、情報社会第3期における「新しい社会契約」という観点からより広く考えるべきだと指摘されました。他方、井庭さんが指摘されたのは、そのような設計思想の外部に「発見」や「発明」があるのではないか、という問いです。ともに、今後の設計研で議論を展開するうえで、避けて通れない指摘だと思います。

 そのうえで最後に僕なりのコメントを加えると、今日議論されてきたような世界観や社会観、実はそれそのものが現在の情報社会特有の問題設定なのではないか、という自己相対化の視点が必要なような気がします。設計研の参加者は、経済学やプログラミングを基礎教養とされているひとが多いのですが、そこで暗黙に了解されているシステム論的な発想は実は人文系の伝統のなかではきわめて新しい。社会学でそういうことをはっきりと言明しているのはルーマンくらいだと思いますが、ではその「新しさ」を無条件に言祝いでいいのか。そこで、倫理研第1回の鈴木謙介さんの発表に繋がる、メタ情報社会論的な視線が必要になるのかもしれません。

 とりあえず、このようなまとめでいいでしょうか?(笑)

鈴木健

 はい(笑)。

東:

 それでは、つぎに質疑応答に入ることにしましょう。



*1:註:ドイツの数学者ヒルベルトが提示した問題は、「(n個の未知数を含む整数係数の多項式)=0が整数解を持つかどうかを、『有限の手順で判定する方法』を求めよ」であった。英国の数学者チューリングは、この問題を「計算している人」を、無限の長さのテープ(メモリ)と有限個の状態(人の「心」の状態)を持つ装置として想定し、この問題を証明したのである。チューリングマシンについての詳細な解説は、以下を参照のこと。→チューリング機械(Turing machine)

*2:註:池上高志研究室:G.Masumoto and T.Ikegami, "Lambda Game System -- An approach to a meta game"

*3:註:アンソニー・ギデンズ社会学の新しい方法規準―理解社会学の共感的批判」(而立書房、2000年)。社会学における主観主義と集合主義(客観主義)の対立を克服する理論として提案されたもので、「社会構造は行為の媒体であると同時に、行為によって再生産されるという『二重性』を持つ」という主張。→筒井の社会学研究室:「社会学入門 第2回 基礎理論」

*4:註:アンソニー・ギデンズはイギリスの社会学者で、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス・アンド・ポリティカル・サイエンス(LSE)の最高責任者を務める。英ブレア首相の政策に大きく影響を与えた「第三の道」(日本経済新聞社、1999年 asin:4532147719)や、世界的に用いられている教科書「社会学」の編纂などが著名。→「第三の道」については、鈴木謙介「active概念と市民社会」(『社会学論考』、2001年)を参照のこと。

*5:註:isedキーワード機能構造主義」参照のこと。

*6:註:Varela, Maturana, and Uribe, "Autopoiesis: theorganization of living systems, its characterization and a model",BioSystems, 1974. 邦訳で読めるものはヴァレラ/マトゥラーナオートポイエーシス――生命システムとは何か」(国文社、1991年)。以下などを参照のこと。→寺中誠「『オートポイエーシス論』の法学分野への応用」

*7:註:PICSYとは?>モデル

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