ised議事録

01-081. 倫理研第2回: 白田秀彰 講演(1)

題目:「情報時代の保守主義と法律家の役割」

E2:白田秀彰「情報時代の保守主義と法律家の役割」
(開催:2005年1月8日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年3月12日)

白田秀彰 SHIRATA Hideaki

http://orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/indexj.htm
法政大学社会学部 助教授

 1968年生まれ。一橋大学大学院博士後期課程単位修得退学。法学博士。専門分野は知的財産権法・情報法。主著に「コピーライトの史的展開」(信山社出版、1998年)。現在HotWired Japanにて「白田秀彰 の 『インターネットの法と慣習』」を連載中(http://hotwired.goo.ne.jp/bitliteracy/shirata/)。 情報社会において噴出している近年の著作権・知的財産権にまつわる問題に対して、ネットカルチャーの文脈への参照を行いつつ、民主主義システムと法の歴史的背景といった、総体的視点から考察・検討を加えている、数少ない法学者の一人である。

はじめに

 今日は、「情報時代の保守主義と法律家の役割」と題して大きく分けてふたつの話をしたいと思います*1。ひとつは情報時代と呼ばれるような状況が訪れることで、法秩序がいかなる変化を遂げていくのかということについてです。これは前半の1章から3章をかけて、その問題を摘出していきます。そしてもうひとつは、こうした状況に対する法学者からの応答として、情報時代における新たな法学とは何か、その素描を行いたいと思います。これは残る後半の4章5章になります。

0. 用語定義

 お話を始めさせていただく前に、この講演内で使用する特殊な言葉の定義をしておきます。特にアスタリスクをつけたものは私の勝手な造語でして、あまり一般的でない用法も含みます。他の場所では通用しない可能性が高いのでご了承を、ということです。

  • 「電脳 computer」
    • 「コンピュータ」と書くと表記が長くなるので短く「電脳」と表記。
  • *「電網界 network world」
    • 人と人が電子機器を経由して関係をもつことによって構成される世界。その関係は、何らかの形態の電脳による制御の下での「取り決め rule」によって制御されている。
  • *「現実界 real world」
    • 人と人が電子機器を経由せず関係をもつことによって構成される世界。その関係は、自然法則の下での「取り決め」によって制御されている。
  • *「認標 identifier」
    • ある客体を識別する記号。識別が必要となる客体に対して一意 uniqueに付与される。
  • ユビキタス界 ubiquitous world」
    • 電子機器を現実界の諸客体に組み込むことで、電網界での諸客体と同様の管理・制御が可能になった現実界。「ユビキタス・コンピューティング ubiquitous computing」の概念よりも広く、電脳のみならず監視カメラや各種記録技術によって管理・制御が実行されている世界。もともとの「ユビキタス ubiquitous」という語が「神は遍在する」という意であったことを想起すれば、神なき世界に「遍在し我々を見つめる目」を生み出すものと言いうる。→ この論点については以前私が書いた「グリゴリの捕縛」という論文*2を参照してください。
  • 「法 law」
    • 実行されている状態、あるいは諸力の調和状態。
  • 「法律 code」
    • 何らかの主体によって実行が強制される可能性のある人の行為に関する「取り決め」。法を強制するものが「権力 power」。権力は最終的に国家に帰属する。
  • 「規範 norm」
    • 人々によって実行が望ましいと考えられている人の行為に関する「取り決め」。規範の根拠となるものが「権威 authority」。
  • 「規約(プロトコル) protocol」
    • 「取り決め」だが、その内容の善悪は問題とならないもの。一定の形式が守られることに価値がある。
  • 「市場 market」
    • 財が交換される機構。人々は財の状態によって行動を変化させるため、市場の状態は間接的に人々の行動を制御する。
  • 「環境/基本設計 environment / architecture」
    • アーキテクチャ。人の行為以外の方法で、人にある行為を強制するもの。基本設計というとき、とくに人為的に設定される環境を意味する。
  • 「認知 / 認識 recognition / cognition」
    • 事物の状態を把握することを認識、認識を意識的に構成して理解することを認知と使い分ける。
  • *「法空間 legal space」
    • 法が対象とする認知枠
  • *「目的としての法律 objective code」
    • 実現されるべき、あるいは実現してもよい状態を記述した法律。
  • *「手続としての法律 operational code」
    • 目的としての法を実現するために、あるいはその目的を維持するために行うべきことを記述した法律。

 ここでは、「法」と「法律」を使い分けます*3。通常日本語では「法」と「法律」は区別されずに使われることが多いのですが、西洋法の起源であるローマ法を記述してきたラテン語においては、jusとlexという二つの用語があります。jusとは「正義が実現した状態」のこと、lexとは「書かれた法」のことを指しており、この区分けにのっとって英語・ドイツ語・フランス語などでは両者の使い分けをしているんですね。

 たとえば英語では“Law and Right”つまり「法と正義」に該当するものを、ドイツ語ではRechtフランス語ではDroitと一語で表します。一方「書かれた法」のほうは英語でstatuteやcodeと呼び、ドイツ語ではgesetz, フランス語ではloiという具合に使い分けられています。

 さて、この場合の「法 law」というのは英米法的な意味でのlawだとイメージしています。「この世の中はこまごまと紛争はあるにせよ全体としてはおおよそ調和しているのだ」という状態、この調和が実現している状態のことをlawと呼びます。ですから自然法則のこともlawと言いますし、法律のこともlawと言う。だから、自然法則がこの世で実現しているかのごとく、世の中でいまある状態のことをlawと呼び習わしているのだと考えてください。

 次に「法律 statute / code」というのは、要するにこの世の中に色々と不都合が起きてきたのに対して当てる「パッチ」だとイメージしてください。世の中は放っておくだけでは良い状態にならないので人為的な手当てをして調和状態を操作している。それを「法律 code」だと理解して頂きたいと思います。

 また、法律とは違う意味で「規約 protocol」という言葉を定義しています。「プロトコル」とはつまりこういうことです。たとえば車は右を通るか左を通るかは、本質的にはどちらを通っても構わないわけですが、両方とも可にしてしまえば確実に交通事故が起こってしまうわけで、必ず任意のどちらかを選び決めなくていけません。しかし、右と左のどちらを選ぼうとも、どちらがいい悪いというのはないわけですね。このように、とりあえず定めておかねばならないもの、決めることそれ自体に価値があるものを「規約」と呼んでいます。

1. 情報技術はどのような影響を法に与えるか。

 それでは今日の講演を始めていきます。まず現状認識も兼ねて、情報化が法に与える影響についてどのように考えられてきたのか、確認しておきましょう。ここでは部分社会説、新領域説、四規制力説の三つの立場にまとめていきます。

1-1. 電網界=部分社会説 (法曹の発想)

1-1-1. 法の権力強制と正統性

 はじめに、電網界は現実界のあくまで「部分」に過ぎないという部分社会説と呼ぶ立場から見ていきましょう。「電網界」とはいささか特殊な言い回しですが、“network world”の訳で「人と人が電子機器を経由して関係をもつことによって構成される世界」を指します。一方「現実界」とは、「人と人が電子機器を経由せず関係をもつことによって構成される世界」のことを意味しており、英語をあてれば“real world”になります。

 この部分社会説の立場とは、電網界に対しても現実界と同じ法律を適用することが可能であり、かつ適切であるという思想です。それはこういう考え方をとっています。まず、現実界が存在している。そしてそのなかの一部の人間が電網界に参入し、独自のルールを運用することがある。しかしそれはあくまでも大きな現実界に包含されることがらにすぎないのだ、というわけです。

 こうした電網界の捉え方はごく常識的なものです。また、たとえば「法律とコンピュータについて考える」といったようなテーマの講演等に出向いてもわかるのですが、大方の法律家、法曹界も同様に考えているようなんですね。そこで大方の議論の方向性は「現実界の側からどのようにして電網界をコントロールすべきか」に向かうわけです。しかしみなさんご存知のように電網界というところは現実界の権力が及びにくい要素が多分にありますから、なかなか法律がうまく適用されにくい。それはなぜかといえば、電網界のコントロールがうまくいかないのは、法律を遵守させる「強制力」が行き渡っていないためであると、この立場の考えは行き着くわけです。

 だとするならば、国家などの権力機関がもっとネットワークに力強く介入していくべし、という解決案が出てきます。しかし、これはそう簡単なことではありません。そもそも権力的・暴力的に強制すれば法律が守られるかといえば、これまでの現実界の歴史を見てもそうではない。理不尽な法律は過去数多く作られましたが、だいたい省みられずに埋もれていくか、反乱や暴動の原因になってしまうのがオチなんですね。

 まとめますと、この立場は法の本質とは権力による強制であり、権力が秩序を生むと考えている。しかしこれは法の正統性という要素をあまりに軽視したものと要約できましょう。

1-1-2. 法の完全実行

 またもうひとつ問題があります。第1回でもお話したのですが、電網界においては「法の完全実行」をやろうと思えばできてしまうということです。この研究会でも何度か参照されるレッシグの「アーキテクチャ」という概念を想起してほしいのですが*4、たとえば「逮捕する」というような一種の暴力的脅威に基づいた強制力ではなく、そのように従うほかないような環境として電網界を構成していけばいいという発想ですね。

 法律に書かれていることは守らねばならないのだから、脱法行為は一切許されない環境になって何が問題なのか、という意見もあるでしょう。しかし、法の完全実行は「法の過剰」とも呼べる事態をもたらします。というのも、現実界では軽犯罪法など見てもらえばわかるように、私たちが日常的に行っている些細なことも犯罪として括られています。たとえば下品な話ですが、立小便はしっかり軽犯罪法違反に含まれています。道の真ん中で数人が集まって進路を妨害するということも軽犯罪法違反です。それからビラを配りにマンションの中に立ち入ると住居侵入罪が成立する可能性もあるということで、それらを逐一処罰していれば、相当息苦しい状況になることは想像がつくと思うんですね。

 このように、法律と現実の間には適度な「ゆとり」がなくてはなりません。むしろ現実界では、完全な法の実行は不可能だということが前提になっていたのです。

1-1-3. 国家による電網界の分割統治?

 また従来までの「部分社会説」の考え方では、最終的な帰結として「国家による電網界の分割管理」を要請します。なぜなら現在のところ法律が機能するべき最上位の権力主体は国家であり、その国家の上位組織は存在するものの、実体的な強制力を持っていないからです。では、電網界を国家管理のもとに置けるように領域分割すべきなのはその通りだと仮にしても、はたしてインターネットを国家によって分割統治することは可能なのでしょうか。しかしインターネットの性格を考えれば、それは現実的には難しいわけですね。 

 以上の3点に渡って「部分社会説」の問題点を洗ってきました。どうやら、現実界の法律をそのまま電網界に持ち込むという素朴な発想は、根本的に難しいのではないかというイメージはなんとなく掴んでいただけたかと思います。

1-2. 電網界=新領域説 (自由至上主義者の発想)

 こうした部分社会説とは異なり、電網界を現実界とは全く異なる自由な世界とみなす立場というものがあります。倫理研の第1回では「自由至上主義者(リバタリアン)」として総称されましたが、おおかたのネットワーカーのみなさんはこの立場なのではないでしょうか。簡単にいってしまえばリバタリアンとは全てを市場に任せ、個人の自由はできる限り保障すべきという発想ですが、サイバースペースの自由と、市場の自由とを重ねる思想的傾向については『カリフォルニアン・イデオロギー』という論文*5でも指摘されています。その論文では、サイバースペース(電網界)の自由を称揚するというハッカーの左翼的で反体制的な思想は、単に権力からの自由を志向するだけでなく、アメリカの情報経済の好景気を背景にした市場経済称揚のムードと奇妙に融合していると批判されている。

 ともあれこの人達の発想はこうです。電網界というのは現実界と大いに基礎条件が異なっている。だから現実界と同様の法律を適用するのは困難であり、不適切である。そこでの秩序は、要するにたくさんの人々がワイワイガヤガヤとインタラクションを起こしていくなかで創発的に生まれてくるのだと考えられている。電網界が生まれてまだ最も初期の時代から数えて40年ほど、そして一般人の参入がここ10年ほどの若い出来事ですから、まだまだ法律を固める時期ではないんだというわけですね。

 つまり、電網界における法は現在生成の途上である。ではその生成プロセスはいかなるものかというと、淘汰のモデルでイメージされています。つまり、環境に適応するかたちでルールや規約といったものが発生し、そして多くの規約が競争的に働き、そのときに応じて適応度の高いものが自然淘汰され、最終的には法律ができるというわけです。

 この立場のコアの部分とは、法の本質を環境に適応した「規約」の集合体として把握するものと表現できます。ここで私が、価値が内包されない取り決めという意味で「規約」という言葉使いをしている点に留意してください。そして秩序は環境に応じて創発されるものである、と把握するのが新領域説の特徴です。

 こうした新領域説=自由至上主義に対する私の考えとは、「現実界ではこうしたリバタリアン的な見方があてはまってきたが、これからの電網界ではそうはならない」というものです。ただ、これは一般にサイバーリバタリアン*6が考えていることとは逆なんですね。

 サイバーリバタリアンは、電網界という自由な世界であればこそ、ますます自由な個人たちがさらに自由に活動できるのだし、望ましい秩序が生まれると考える。たしかに法律や法の歴史を見ましても、新たに社会集団が発生するのに応じて法律が生まれてくるという現象はもちろん見られるのですが、私の考えではそれは現実界という制約があればこそ可能だったものです。これについては後に詳述しましょう。

 ここでは次の点を指摘しておくに留めておきます。環境から自ずからルールが生まれてくる、淘汰されるという自然淘汰のモデルは、はたして常に最適解なのかどうか疑問と不安が残るということです。そしてこの立場には、既存の法が目的としていたはずの「望ましき価値」を引き継ぐという発想が抜け落ちてしまうことも気にかかるんですね。

1-3. 四規制力説 (新シカゴ学派の発想)

 さいごに部分社会説と新領域説、いずれの立場も取らないものとして、ローレンス・レッシグの考えを紹介しておきましょう*7。たとえばレッシグは近年の知的財産権強化の動きに批判的な立場に立つなど、一見すると新領域説と同様に「サイバースペースの自由を守るべき」と主張するように見えますが、彼は自由放任・自由至上主義者ではないというのがポイントです。どういうことでしょうか。

 彼は有名な法律・規範・市場・アーキテクチャ(環境)という4つの規制権力が結集して秩序を形作っているという発想をしていますが、ポイントは4つの規制権力のうち最も法が強力である(=その他の規制権力に働きかけることができる)という認識です(図1)。

図1:レッシグの4つの規制権力(Lawrence Lessig, The New Chicago School, Journal of Legal Studies, June 1998, P.667 http://www.lessig.org/content/articles/works/LessigNewchicschool.pdfより引用。)
図1:レッシグの4つの規制権力

 そしてレッシグは自由放任的な立場を取らずに、いままでの法秩序が目的としていたあるべき状態とは何かを問いかけます。その上で、その望ましい(規範的)秩序を生み出すためにこそ、最強のパワーである法律によってその他のパワーである規範・市場・アーキテクチャを制御すべきだ――そうでなければ市場の論理によってアーキテクチャが恣しいままにされてしまい、本来法律が想定していたはずの理念が崩れてしまう――というのです。

 この説の信頼できるところは、新領域説で指摘していた「いかなる社会を創っていくべきか?」という価値選択の問題を解決しようとする態度にあります。もちろんこうしたプロセスは独裁的にではなく、民主的なプロセスを経て展開されるものとして想定されています。つまり法律は一応であれ民主的な手続きによって選ばれていくわけですから、民主的なプロセスが動いてさえいれば、恐らく望ましい目標に向けて合意形成されるだろうというわけです。

 ところが問題がふたつあります。ひとつめに、現実界では仮にうまく働いていた民主的決定のプロセスは、電網界においてもはたしてうまくいくのだろうか、価値選択は可能なのだろうかという問題です。私自身、以前はレッシグの議論に従って価値形成ができるのではないかと思っていたのですが、東さんの「ポストモダン社会の二層構造」という構図のもとで議論を深めていくなかで、もしかしたらそれは無理ではないか。いや、むしろできないということを前提にしておいたほうが安全であろうと考えるようになりました。そして四規制説にも多少批判的な立場を取るようになったのです。これも後に詳述いたします。

 ふたつめに、これはレッシグの議論でも抜けている部分だと思いますが、法律を使って他の状態をコントロールするということの強制力の根拠も、やはり国家ということになる。

 ここで再び、現在の法律の最高権力主体は国家であるがゆえの、電網界の分割管理という問題が再び頭をもたげてしまうのです。ましてこの世の中には複数の国家、複数の価値選択のかたちがあるわけですから、統一的な価値を選べない以上、領域分割せねばならない。では、どうやって正統なる領域分割をするのかというループ的な問題にはまってしまうことになります。

 ここまで紹介してきた、情報技術が法に与える影響に関する現在の考え方は、部分社会説、新領域説、四規制力説の3つにまとめられるでしょう(図2)。

図2:部分社会説・新領域説・四規制力説
図2:部分社会説・新領域説・四規制力説



*1:註:Hotwiredで連載中の白田秀彰の「インターネットの法と慣習」にて、今回のised@glocomでの発表について「ラジカルな保守という態度について I」という解題コラムが発表されている。

*2:註:以下の論文、白田秀彰「グリゴリの捕縛 あるいは 情報時代の憲法について」(2001年)のこと。

*3:註:法と法律の区別については、白田による以下の解説も併せて参照のこと。→「法と法則」

*4:註:isedキーワードアーキテクチャ」参照のこと。

*5:註:isedキーワードカリフォルニアン・イデオロギー」参照のこと。

*6:註:isedキーワードサイバーリバタリアニズム」参照のこと。

*7:註:isedキーワードレッシグ」参照のこと。

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