ised議事録

01-082. 倫理研第2回: 白田秀彰 講演(2)

題目:「情報時代の保守主義と法律家の役割」

E2:情報時代の保守主義と法律家の役割
(開催:2005年1月8日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年3月12日)

2. 法の構造

 それでは、なぜ情報化をめぐる法思想はこうした困難にぶつかるのでしょうか。ここからは法の根本的な構造について理解することでその問いに迫っていくことにしましょう。

2-1. 基礎構造 infrastructure

図3:法の基礎構造
図3:法の基礎構造

 この図3は私が大学で講義をするときに出すものなんですが、法が一体どのような階層構造を前提に作動しているかを表現したものです。法学部に行きますと法律の構成とその論理展開についての授業をみっちりと教え込まれるんですが、ここでお話するのはそのような法律内部の構造ではなく、人間の認識や知識という大枠のなかで法律はどこに位置するのかについてです。そして結論を簡潔にいってしまえば、法は常識という下部構造を前提にしているということを説明しています。

 解説していきましょう。まず上部構造として法・法律・規範の3つをおくことにします(青文字)。この順番は微妙ですが気にしないでください。そして最も基底にある下部構造として、自然環境や人間の認識・身体能力をおきます(赤文字)。自然環境については説明不要かと思いますが、たとえば火を付けると家が焼け落ちる状況が発生するから放火犯というものが設定されているわけで、もし焼け落ちることもなければ放火は犯罪にはならないでしょう。

 また、人間のハードウェアとしての認識能力と身体能力の限界というものもあります。たとえばナノマイクロ秒で動作しているものに対して人間は到底対応できませんし、それから赤外線や紫外線の領域に入ってしまうと我々の目はそれを認識できなくなってしまいます。こうしたものがもっとも基本的な所与の前提条件として働くわけです。

 さらに階層構造を上昇していくと、紫でカバーした領域に入っていきます。ごく初歩的な認知科学の前提になりますが、たとえば私たちの眼球という器官は世界を写し取っているけれども、その情報をそのまま全て受け入れているわけではありません。まず、認知の枠を縛っている認知能力があり、そこから概念を作り上げていく抽象能力があります。聞いた話によると人間の脳というのは相当ビット数が低いらしいんですね。脳というハードウェアはいってみれば性能が悪い。しかしなぜこれほどのリアルタイム処理ができているかといえば、感覚器官から得られた情報のほとんどを捨て去り、抽象化した上で処理しているから何とかなっているわけですね。逆にいえば、感覚器官が取ってくる情報をいちいち処理していたら脳は間に合わないはずなんですね。こうした認知能力や抽象能力のフィルターを経由することによって、はじめて世界はどういうものかという認識が生じ、知識となって蓄積されていくわけです。

 さてこうして生まれた個人の認識が集合し、社会集団を形成する段階に目を向けていきましょう。人間は自然環境という限界がありますから、物理的・地理的な近接性で集まるのが通常でした。日本とアメリカにいる人間が集まるということは現在の電網界では容易ですが、通信手段が生まれる以前の社会段階ではなによりも物理的近接性ありきでした。

 そしてだんだんと集団が大きくなるにつれ、集団の中でも同じように知識が抽象化されていくプロセスがあります。これが「常識」*1の形成プロセスになります。私たちはこの常識によって認識と抽象化の制約を受けているわけです。

 たとえば浮世絵を見ますと、いまの我々にとってあれはリアリズムではない。しかし恐らく江戸時代の人々はあれをリアリズムとして把握していたはずです。ひるがえって現代日本のアニメ画を想像して欲しいのですが、あのような存在がリアルにいたとしたら、それはもう目は巨大なうえに口は極小なわけできわめて不気味なわけですね(笑)。けれどもそれは現代日本文化の枠において美少女だと認識されている。

 そして大事なポイントはここです。つまり「世の中とはこういうものだ」という集団的な認知、了解の形成過程がフィードバック・サーキットとして表現されているところに着目してください。電気回路に詳しい方はご存知かと思いますが、ネガティブ・フィードバック・サーキット(負帰還回路)*2を用いる目的は、プロセスを徐々に収束させるためなんですね。

 つまり、私たちの認知能力・抽象能力がまっさらである状態に対して、私たちを取り巻く社会集団が枠をつくります。地理的な近接性に基づいた集団が集合的な世界観である常識を形成し、その常識によってさらに認識・抽象能力への縛りは強化されていく。こうした「常識」というものが下部構造となることで、上部構造である法や法律、規範が動作していると考えられるわけです。

2-2. 宗教法の法構造

 それでは、こうした法構造を前提にしつつ、前近代的な宗教法、そして現代法の構造について見ていきましょう。

 まずここで「宗教法」が具体的に示しているのは、たとえばイスラム法などのことです。(ただし法学で宗教法といえば、通常は教会の法律のことを指すので一般的な使い方ではありません。)かつてのヨーロッパにおいても、キリスト教の教義が法の枠を作っていましたが、宗教の教義が法規範となっている法律をここでは宗教法としておきます。

 宗教というのは何かしらの宗教的な目的、たとえば解脱をする、天国に行くといったようなものがありますね。そしてこの宗教的目的から、演繹的に法的な概念や命題が導き出されます。たとえば中世の頃のキリスト教とイスラム教の神学論争を見てみますと、互いの経典から論理展開をしていった場合に、より真理を実現しているのはわが宗教の方だとケンカを延々とやっているわけです。

 次に、宗教法は経典の内容を「法空間」とします。つまり、経典に記述されている善悪の基準以外は、そもそも法の問題にはならないと捉えている。そしてこの法空間、つまり経典が示している事物というものは全て真であると想定するわけです。なんといっても経典を信じると言うことが宗教のベースですから、ごく自然な流れですね。そのなかから日常生活や社会的問題の判断基準となるような概念・諸命題を準備していき、これを現実界で起きているさまざまな問題に適用して判断を下すというのが宗教法の使い方になります。

 ところがキリスト教にせよ他の宗教にせよ、宗教法の概念や命題のなかにはさまざまな矛盾が存在するわけです。そして神学というのはこうした経典内に存在する論理的矛盾をいかに無矛盾なものとして説明するかという学問として発展してきた側面が非常に大きい。この神学によって、経典と宗教法の全体的な論理性を担保しているわけです。

 さて、次に法的な判断はどうでしょうか。まず、個々の事件を要素に分解します。そして分解した要素を、宗教の法典が用意している概念・命題に当てはめていき、真偽が決まっていきます。それを推論を行って組み合わせていくことで、こちらが正しい、こちらが正しくないという結論が出ます。

 ただしここが宗教法の特徴なのですが、最終的な結論は宗教的な価値基準によって評価されるということです。そして、宗教法には書き込まれていない新しい事象が発生した場合には、さまざまな解釈手法を用いて概念・命題の当てはめを行います。これができないということは経典の完全性が破綻するということになりますから、なんとしても論理的に認められない。キリスト教の教義には世界の終末まで書き込まれているわけですから、それ以外のことは起きてはいけないわけです。

 ざっと流れをみてきましたが、宗教法における事件の発生から判決にいたるまでの正統性とは、経典そのものが正の体系であるということに依拠しています。そして法律は経典という枠に包含される閉じた体系でもある。要は、宗教を信じているから経典は正しい、経典が正しいからそれをベースにした法律も正しいという考え方なわけですね。

 そしてここでは宗教と宗教法がフィードバック・サーキットを構成していて、お互いがお互いを強めあうという関係になっている。つまりこういうことです。「正しい」と信じられている宗教の経典をベースに宗教法がつくられ、宗教法が現実世界に対して実行力として効いてきます。今度はその実行力としての宗教法に基づいて、宗教が予定していた秩序状態が生まれ、維持され、「だから経典は正しい」と理解される再強化的な回路がここにはあるわけです。宗教がうまく働いていた時代においてはこれでよかったのですが、ところが西洋におきましては近代合理主義が神を殺してしまいます。つまり宗教法の正しさも危うくなってしまう。そこでどうするかというのが次の問題です。

2-3. 大陸法の法構造

 ここでは、近代法のなかでも特に大陸法に焦点を絞っておきます*3。神が死んでしまったあとに近代法というものが出てきますが、神が死んだとはいえキリスト教の教義が社会のインフラストラクチャーとして残ったところからスタートしています。ですので、まずは、法の目的として完全なニヒリズムに陥らないであろうと思われたものが設定されました。例えば権利の実現、公平、平等といった、いくつかの原則としての目標が設定されます。これを数学でいうところの公理のように考えたのが近代法の発想なわけです。そしてこれ自体は論証不能なわけですね。なぜかというと法の基礎構造のなかから、「これは良いものだ」ということを選び出して決めてしまったわけですから。

 あとは数学の発想そのままにイメージしていただければよいわけです。かつて近代法が形成される時代では哲学者は数学者でもありましたが、法律の世界でもこれは同じで、公理さえ決まれば演繹的に概念・命題を導くことができる。また、法空間としてはヨーロッパ世界には「ローマ法大全」*4という千年にわたる法律の蓄積、事例という伝統的遺産がありました。ヨーロッパの人々はこのなかに全ての法的な出来事というのは起きていたという発想をとりました。あくまでもローマ時代においてローマ法は個々の事件の積み上げに過ぎなくとも、これが中世を経由して再発見されたときには世の中で起きうる事件の総体として、宗教法でいうところの経典のようなものとして把握されたわけです。このように、近代法のベースには宗教法が色濃く反映されていることがわかると思います。

 特にドイツで近代法を作るときにはローマ法がベースに採用されました。ただ、古代のローマ法と近代的なローマ法で決定的に異なっていたのは、19世紀のドイツは法空間を全て充足するような諸概念・諸命題を全部書き出す、という発想をしたところでした。法典は完璧であり、世の中でどんな事件が起きたとしても、法典の条文と概念を組み合わせて全て説明できるのだ、と。

 そして法判断においては、まずは何か法的な問題が起こったときに事件をバラバラに分解して、分解された要素を概念・命題に当てはめていく。ここまでは宗教法的な考え方と全く同じです。そして推論を行って結論を出す。しかし宗教法と異なるのは、この結論を規範的に評価することはしないわけです。なぜなら、「正しい公理から正しい推論を行って出てきた結果は必ず正しい。ゆえに、現実の問題と法的な推論がずれていたとしても、法的な推論の結果の方が真なのである」という発想を取ってしまったわけですね。

 法律や法学というものに対して非常に冷徹で冷たいものだという感覚は、おそらくこうした性格からくるのでしょう。「大岡裁き」のような温情的なことをなぜやらないのかというと、それをやってしまうと法の体系全体の正当性が破綻してしまうからなのです。正しい前提から正しい推論を行い、正しい概念適用を行うのだから結果は正しい。その一点において近代法は正しさを担保しているわけですから、そこから後の評価をやってはいけない。

 そして一般に大学の講義で教えられる法学、法律学というのは「法解釈」といって、準備された法概念や法命題の正しい運用法を学ぶためのものなのですが、学問一般としての法学は何をしているかといえば、「法空間の拡大に対処すること」といえます。

 こういうことです。時代が変わればもちろん新しい事象が発生します。そうしますと、完璧だったはずの法典に抜け落ちも同時に生じます。これは法の体系が完璧であるという前提を破綻させてしまいますね。これを法の「欠缺」(法学の専門用語で要は「欠落」のことです。)と呼びます。たとえば学説によってこれはこういう説明ができる、もしくは抜け落ちた部分に対して新たに立法をしましょう、というかたちでこの穴を埋めていく。こうして法体系全体の無矛盾性を維持するのです。

 かようにガチガチの近代法の基本発想は、法的論理演算のための概念体系であり、他の要素とは独立した閉じた体系にほかなりません。たとえば法学のなかでも「法と経済学*5といった境界的な分野があるのですが、法学内部からは批判の声も根強い。なぜかというと、法の神聖性とは体系の完璧性に存していたのにも関わらず、経済学的な評価や社会学的な評価を入れてしまうのでは不純物が混入してしまうという発想をしているわけです。 

 また法が閉じた体系であることを、次のようにも説明できます。なぜ物事が法律的な紛争になるのか。それは、市場的にも道徳的にも規範的にも解決できなかった問題であるから裁判所にいくわけです。であるならば、その前の段階で解決できなかった判断基準を入れるということは無駄である、と。このようにして近代法、特に大陸法系は、法律を神聖な閉鎖体系として築きあげてきました。

 ところが私たち生身の人間というのは、合理的な生き物ではありません。社会はきわめて不合理かつ曖昧で多様な人々から構成されている。よって、無矛盾な法律がはたして現実界に適合するかどうかは保障されない。であるならば、とにかく法は論理的で正しいのだから、適用された結果はどうあれ法は正しいものだと納得してもらえるような人をつくる、という方向にどうしても走っていく。

 たとえば経済学という体系は、「合理的人間」というものを想定しているから理論として無矛盾なく動作している。そして現実においても、合理的人間が多いほうが社会がよりよく動くという学問的含意を背景にしています。法律の学問も全く同じ事情です。現実界における法の妥当性は、法の推論を受け入れるような合理的な人間を作ることによって担保されていったといってよいでしょう。つまりここにも、近代合理主義(合理的個人)と近代法のあいだにフィードバック・サーキットが構成されているのです。

 以上この第2章をまとめておきましょう。前半は、法律を支える「常識」についてでした。自然界や人間の認知条件といった制約条件にくわえて、地理的な近接性に基づいた社会集団のあいだで常識が形成され、その常識が我々の認識を制御するというフィードバック・サーキットの存在を確認し、それを法の下部構造として認めたわけです。そして後半では、その「常識」をめぐるフィードバック・サーキットが、前近代の宗教方から近代法の大陸法にいたるまで存在していたことを確認したわけです(図4)。

図4:宗教法・大陸法・英米法
図4:宗教法・大陸法・英米法

3. なぜ情報技術は法を揺さぶっているのか

3-1. 情報技術が許す自由度

 それでは、いよいよ現代の情報技術はなぜ法を揺さぶるのかについてお話します。それはなぜかといえば、前章で確認してきた常識形成のフィードバック・サーキットが開放回路に変わってしまうからと表現できる、というのが私の考えになります。

図5:情報技術が許す自由度
図5:情報技術が許す自由度

 どういうことでしょうか。図3を基にした図5を見てください。まず情報技術がこの構造において直接変化を与えうる部分は、一番下層の環境です。いまのところ電網界は、現実界に対するシミュラークル、つまり自然界に似せられたものとして構成されていますが、そこに必然性はありません。コンピュータの処理能力とプログラミング次第で、いかようにも表現できるわけです。たとえばゲームの世界を想像してもらえばいい。火が燃えれば燃えるほど温度が下がる設定の世界を作るということができるように、自然環境や物理法則を無視した世界を構築可能です。しかしそれはあくまでコンピュータのなかの話ですね。ただ、それに対する私たちの生得的な認識能力、身体能力は変わりません。

 ただ情報技術によって、ある情報を得てからそれをどのように頭の中で組み立てていくのかといった部分は拡張されます。たとえば私が学生時代に所属していた研究室では、電波望遠鏡を利用し、宇宙からやってくる電波を受信し、コンピュータで解析・プロットすることで、人間の目では見えないような宇宙の状態を描き出すということをやっていました。これはコンピュータの計算能力によって初めてできるようになった宇宙の把握の仕方ですね。ここまではいいわけです。

 ところが、次の段階が問題です。現実界において、人々は物理的・地理的に近いところで集団を形成して、そこでお互いの知識や世界観のすり合わせを行うと先ほど述べました。しかし、ネットワークは物理的・地理的な限界をやすやすと超える。するとどうなるか。「世界の認識のあり方が近い者どうし」で集まるはずなんですね。たとえばブログやSNS、特定のオンラインゲームをやっている人々というのは、同じネットワーク上で場所と世界観と価値観を共有して集合している。しかしこれでは、価値観が似たような人達だけが集合し拡散していく動きに歯止めがかからないのではないか。

 再度確認すれば、現実界における常識形成のフィードバック・サーキットはこういうものでした。「世の中とはこういうものだ」という認識が人々に共有され、その常識に制約を受けた人々が相互行為する結果、実際に社会もそのように営まれ、そうした生まれた「社会」を認識・抽象化して常識が形成され……というものでした。そしてこの帰還回路を支えているのは、地理的近接性という有限な枠があってこそだったのです。

 しかし電網界ではこの物理的近接性に縛られる必要がないために、このフィードバック・サーキットは社会全体というような枠で働くことはありえません。それまで、国民的な常識という枠で収束していた帰還回路は解き放たれてしまうのです。

3-2. 近代法が機能する前提条件

 電網界の存在は、近代法の機能する前提条件を困難にしていくことを引き続き論じていきましょう。

 まず法は、そもそも法律による解決を受ける当事者たちが存在する空間を、法空間が包含している必要があります。しかし電網界には地理的境界が存在しないために、もし電網界を包含する法を想定するならば、なにより現実界においても分裂した諸文化、諸法に従属する人々を包含せねばなりません。

 また法的な解決や結論が出た場合に、それを当事者たちが「一般的に通用するものである」と認識すること、つまり常識が共有されている必要があります。しかし、電網界ではさきほども述べたように人々が知識的類似性によって集合するので、異なる集団において共有されるような常識が形成されない。

 また法は、当事者を均質な主体であるとして取り扱い、公平であるとすることが期待されます。実際には国家による国民の「均質な主体」へと馴らしていく教育というプロセスによって、一定の認知枠に人々をはめこむ必要がありました。しかし、電網環境に「教育」というプロセスを持ち込むことは難しいでしょう。また、多様に分散分裂した認知領域を、共通の軸のもとで関連させることも困難になります。

 最後に、法はそれ以上分割することのできない「近代的個人」という単位が成立していないと作用しないということです。しかし、「権利や義務や責任を負う主体は、統合的な人格である」という近代的前提は、複数の主体を分裂してかつ並列的に用いることができる電網界では崩れてしまいます。

3-3. ユビキタスで結合する電網界と現実界

 もうひとつ指摘しておきたいのが、ユビキタスと呼ばれるような情報時代の段階についてです。私はユビキタスの専門家ではないため誤解を含むのかもしれませんが、次のようにユビキタスというものを把握しています。それはひとことでいえば、電網界であれ現実界であれ、全ての存在するオブジェクトが必ず「一意の認票 unique ID」を持っているということです。それによって、電網界・現実界を問わず、統一的な管理が可能となる。そして、全てのオブジェクトが自分自身の「属性 property」を、常にコンピュータによって処理できる状態になるということです。

 こうした意味での状況を、「ユビキタス界 ubiquitous world」と呼ぶことにしましょう。ここではいわゆるユビキタスコンピューティングの概念よりも広くとって、電脳のみならず監視カメラや各種記録技術によってオブジェクトの管理・制御が実行されている世界という意味です。もともとのユビキタスという語が「神は遍在する」という意味であったことを想起すれば、神なき世界に「遍在し我々を見つめる目」を生み出すものと言いうるでしょう。これを私は別の場所で「グリゴリの捕縛」と表現しています。

 このユビキタス界は、自然環境という根本的な層の性質を変えてしまうことを目標とするものです。現在、コンピュータのなかで起きている問題に対する法律は「サイバー法」という名の下で議論していますが、このユビキタス構想が実現してしまえば話は現実界と完全にマージすることになります。

 そこで述べておきたいのは、このユビキタス構想に逃げ場の無い部分があるということです。なぜなら、もともと私達の理性というのは世界を制御しようとして生まれてきたわけです。コンピュータのなかであれば、その発想はそこで完結していましたが、ユビキタス界はそれを現実界でも実現しようとしています。歴史的には、法律によって合理的に世の中をコントロールしたいけれどもできない、そこをなんとかコントロールしようとしてきたのが人類の歴史といってよいでしょう。ところがユビキタス界が実現してしまうと、いよいよ完全なコントロールへの欲望は歯止めがきかない。合理的で何が悪い、理性的で何が悪いということに対する反論は難しいからです。先に「法の完全実行」、「法の過剰」と呼んできた事態がますます不可避となるかもしれない。

 さらに、よく電網界での議論に関しては「コンピュータのスイッチを切ってしまえば逃げられるじゃないか」と言われます。しかし、ユビキタス界が実現してしまえば、世界を構成するすべてにチップが入って我々の状態を監視、コントロールするわけですから逃れられなくなってしまいます。

 この章では、情報技術が物理的近接性から人々を解放するために、常識形成の帰還回路を開放させてしまうということ、そしてそれが近代法を支えてきた条件を脅かしてしまうのではないかという議論を展開しました。さらに情報化が進み、電網界と現実界が融合するユビキタス界では、「法の過剰」がもたらされる可能性も示唆しておきました。


*1:註:白田秀彰の「インターネットの法と慣習」の第1回コラムでは「法が正当性を保つ背景」と題して、ネットワーク上における共通合意や文化に基礎をおいた「慣習」を抽出検討する作業を行うことで、情報社会における法のあり方を巡る議論を展開している。ここで白田のいう「常識」や「慣習」とは、「コモンセンス common sense」や「エートス ethos」といった概念とほぼ同義。エートスについては、isedキーワード倫理」参照のこと。

*2:註:isedキーワードフィードバック・サーキット」参照のこと。

*3:註:大陸法と英米法の違いについては、白田秀彰の「インターネットの法と慣習」第10回「法律の重みについて I」第11回「(同題)Ⅱ」にて解説されている。

*4:註:東ローマ帝国初期皇帝、ユスティニアヌスⅠ世の命により、紀元後6世紀に編纂されたもので、ヨーロッパの法学の基礎となっている。福岡大学図書館に画像データベースとして公開されている。→ローマ法大全について

*5:註:isedキーワード法と経済学」参照のこと。

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