ised議事録

01-083. 倫理研第2回: 白田秀彰 講演(3)

題目:「情報時代の保守主義と法律家の役割」

E2:情報時代の保守主義と法律家の役割
(開催:2005年1月8日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年3月12日)

4. 統治の術としての法学

4-1. 基礎構造を電脳になぞらえる

 それでは、こうした状況に対して法学は、そして法律家はなにを為すべきなのでしょうか。

 いままで日本における法学は、閉じた体系としての法律の諸概念を厳密に適用する手続き、そしてその正しさの体系性を保持してきたわけです。それは非常に緻密で閉じた学問として成立してきました。

 しかし、法律の一種自己閉鎖的な作動には限界があります。なぜなら現実界の基礎構造はいまや崩れかかっている。アーキテクチャの改変が社会的な問題としてせりあがってきている。また、情報技術によって個人の自由度は拡大の一途を辿っている。もはや法学は閉じた法の体系のみに専念しているわけにはいきません。

 そこでこれからの法学のイメージを比喩的に表現しますと、社会を「プログラミングする」方向に向かわなくてはならないのではないかと考えるわけです。つまり、アーキテクチャ・基礎構造の部分の決定と、その上部で動くアプリケーションとしての法律、この両方ともを見ながら記述していく、コーディングしていく必要が出てきている。むしろ2つを総合した統治のあり方こそが求められているのではないか。

図6:基礎構造を電脳になぞらえる
図6:基礎構造を電脳になぞらえる

 何度か参照しているこの図を再び使いましょう(図6)。法律、法、規範という上部構造はアプリケーション・ソフトウェアとします。そしていままで帰還回路を形成し、常識を担保してきた部分はオペレーティング・ソフトウェア、すなわちOSだというわけです。そしてその下にハードウェアがある。こうしたメタファーで捉えたとき、現状とはOSが崩壊しつつある状態なのです。そしてハードウェアに関しては、その自由な組み換えと改変ができる時代が訪れている。つまり、これからはOSレイヤーでの制御ではなく、ハードウェアの直接制御に踏み込まねばならないのではないか。つまり、我々を文化的にコントロールすることができなくなっている。それならば、ハードウェアを機械語で直接制御すればよい。東さんのおっしゃっている「環境管理型権力*1はまさにここでいう「ハードウェアの直接制御」とほぼ同義です。つまり法学は環境管理型へシフトせねばならないのではないでしょうか。

 いったん、ここでレッシグが主張する四規制力説を確認します。それは既存の法的価値が信じられているうちに、その法的価値に沿って、それを保持しうる環境、規範、市場のバランスを法律の強制力で維持・創出しようとするものでした。そして法律は民主的な手続(平等・公開・討議)で選択されるため、他の規制力に任せて秩序を形成するよりも(新領域説であれば市場の自由に任せるわけですが)、より妥当な法を実現しうると説いていたのです。

 こうした発想のベースになっているのが、英米法における手続き重視の発想です。大陸法というのは、実現されるべき、あるいは実現してもよい状態をあまねく記述した法律というイメージを持ちます。ここでは私の造語で「目的としての法律 objective code」と呼んでおきます。それに対して、英米法では「手続としての法律 operational code」とでもいうべき性格を持つ。すなわち、目的としての法を実現するために、あるいはその目的を維持するために行うべき手続きを記述したのが英米法的な意味での法律なのです。

 そして手続き重視型というのは、最終的な価値に関しては問わないシステムなんですね。ある価値観を維持するような状態を法律の手続きとして記述しておき、そこに民主的な手続きをビルトインしておけば、民主的な意思決定によって望ましい状態が実現されると考える。たとえばレッシグは『CODE』(翔泳社、2001年 asin:4881359932)のなかで、法律が優位なのは民主的だからだというのです。民主的な手続きによる選択は、他の市場や環境、規範による秩序維持よりもはるかに手続き的に正義を担保されるものだという発想をとる。

 そしてレッシグは、こうしたやり方が世界一般に通用すると考えているかもしれません。ところが、大陸法の発想にはどうも馴染まないところがあるんですね。大陸法の法律の発想というのは終局的な価値というのを決めてもらわないとその後ができてこない構造になっていますので、手続きのみを守ってあとは放置しておけばいいんだと割り切れない。

4-2. 動物化と直接制御

 では環境管理型へシフトする方向性はどうでしょうか。環境管理型社会では、人の認知枠、抽象枠というハードウェアを直接に管理・操作し、また人の自然環境での行動を管理・操作することで、法律に記述された状態を実現しようとします。現代人の認知が電網界に依存していること、またユビキタス技術が人の緻密な管理を可能にすることから、様々な留保はつきますが有望な手法といえましょう。

 ここでいう留保とはつまり、次の4つの問題点に縮約できます。

  • 1)誰かが環境を管理・操作する必要性。
  • 2)何が解決されるべき問題かを認知することもできなくなる危険性。
  • 3)環境全体にわたる問題については、民主的な手続による解決の不可能性。
  • 4)法の完全実行による窒息状態。

 順に見ていきましょう。

 1)まず、環境管理型社会は避けようがなくエリート社会になります。誰かが環境をコントロールして、社会における紛争や対立を起きないようにするから環境管理型であるわけですが、これをはたして誰が担うのか。環境の設計はきわめて専門的な内容になりますから、民主的な合意でどうにかなるものではない。逆に、すべてを一切の人格性を持たないシステムに任せてしまうという可能性もなくはありませんが。

 2)さらに大きな問題はここにあります。環境管理型社会においてはそもそも問題が存在するという事実に直面しないように環境が整備され、多様な関心を持った社会集団たちは相互無関連化を強めていきますから、社会全体としていま何が問題なのかを把握できなくなる、そもそも把握する必要性が失われていきます。これはまさに倫理研の第1回でも言及されていた、キャス・サンスティーンが『インターネットは民主主義の敵か』(毎日新聞社、2003年 asin:4620316601)のなかで問題にしていた「デイリー・ミー Daily ME」*2の問題です。たとえば貧困や飢餓といった問題が起きていても、そういった情報自体が自ずから遮断されていくわけですから、問題自体が認知枠のなかに存在しないということになってしまい、民主的な討議は不可能になる。こうして社会全体を見通せる透明性は人々のあいだから失われるわけです。

 3)そして環境全体に関わるような、つまりそのシステムの認知枠を超えるような問題が起きたとき、その問題のしわ寄せは訪れます。すでに市民達が連携できる共通の認識枠組みは引き裂かれていますから、市民どうしの連携は難しい。このように、環境管理型社会に移行してしまうと、レッシグが依拠するような民主的討議によって問題を解決するという道筋はいよいよ立たなくなることを意味します。

 4)最後に、法の完全実行に我々はおそらく耐えられないのではないか。

 何度もこれまで示唆しているのですが、法律は私たちの合理的な状態というのを記述しています。その法律によって、曖昧で不合理な人間、偶然で不確定な自然という非合理的な存在を縛ってきました。いままでは、常識という認知枠がその両者の媒介となって均衡を保ってきたといえるでしょう。我々人間は生物として不合理かつ曖昧な部分があり、そこは法律が完全に実行されない「ゆとり」の部分に追いやっておくことでバランスが保たれてきたのです。しかし、環境管理型権力によって、上部構造だけでなく下部構造も合理的な手続きによって管理されるとなると、両者が媒介なしに強固なループを形成することになり、果てしない合理と理性状態が実現される状況になります。果たしてこうした状況の到来を防ぐには、なんとかしてこの「ゆとり」をあらかじめビルトインする必要があると思うのです。

 この章では、情報時代における法学と法律家が向かうべき2つの方向性について検討してきました。

  • レッシグの、法によるアーキテクチャらの制御という提案(英米法的):
    • その正統性は、あくまで民主主義的な合意形成プロセスが作動している(と信頼できる)ことに依拠する。しかし、情報化が進むなかでその正統性維持のためのプロセスは作動しなくなるのではないか。
  • 閉じた法体系の正統性維持(大陸法的)から、法の下部構造である「ハードウェア」の直接制御も含めた法体系の新たな設計という提案:

 このように、いよいよ問題は法律の枠を超え、法が法でたりうるその正統性、あるいはその正統性を調達するプロセスそのものに向かっていきます。

5. 法律の正統性はいかに担保されるか

 最後に、新たな法学が環境管理型へとシフトするとするならば、果たしてその正統性をどうすればよいのか。この問題ついて検討したいと思います。

 まず、いままでの法の正統性をめぐる学説を簡単ですが列挙します。

  • 権力者命令説=権力者の命令が法律を生む。
  • 伝統説(民族的確信)=集団に、基礎構造から緩やかに積みあがってきた常識が法律を生む。
  • 内的規範説=個人に内在する善悪理非の感覚が法を生む。個人の認知枠および抽象枠が社会的なものだとすれば、伝統説と同じとなる。
  • 社会契約説=平等な市民間の理性的契約すなわち社会契約から導かれた権力の理性的展開が法律である。
  • 社会プログラム説=社会のあるべき目的を実現するための道具として法律が設定されたとする。

5-0. 権力者命令説について

 少し回り道になるのですが、直観的に理解しやすい考え方として、2番目にあげた権力者命令説というがあります。要するに、「偉い奴がいる。その命令だから従う」という非常にシンプルな考え方です。過去の歴史を見ますと、たとえばその時代時代において、もっとも大事なものを与えてくれるものが権力を握るシンプルな状態でした。たとえば身体や財産の安全を守ってもらわなくてはという時代には、実効的な暴力を持っている集団のリーダーが権力を握りました。それからある程度社会が穏やかになり、象徴的な意味での社会統合が重要になると、(実際には軍事力を背景にしていたとしても)たとえばルイ14世のような象徴的な意味合いでの王権や、あるいは宗教的な権威が問題となり、そしてこれを安定的に動作させるために官僚制のようなものが出来上がってきます。そして現代においては、産業の振興や経済発展が重要な課題となってきたわけですから、経済や政治といった非常に複雑なシステムを制御できる知識や情報を持った人々がトップにいるわけです。

 では電網界ではなにが一番大事か。それはいうまでもなく設計や制御ができることであり、これはプログラマやエンジニアたちであるわけですね。そして私たちがいま彼らに最も求めているものは「安全」になっている。ならば、暗号やセキュリティ技術をもって我々の電網界における安全を保障してくれる主体こそが権力を握るのが道理です。しかし、現状はそうではなく、国家が引き続きその任を担おうと躍起になっている。

 どうも、ここにズレがあるという気もするんですね。いまのところ、国家がこういう暗号やセキュリティ技術を持っている人々を傭兵のように雇って統治をさせるという構造になっている。しかし、ローマ帝国の崩壊を見ても、最初は傭兵だったはずの者がいつの間にか権力を握るというプロセスはありますから、もしかするとそういう現象が緩やかに進行しているのかもしれません。

5-1. 小共同体の規範強制力

 次に、電網界における伝統説(民族的確信)あるいは内的規範説というものはありうるのかを検討しましょう。電網界において、人は地理的な理由でなく知識的類似性を軸に集うようになると先述しました。またその参入・退出は容易であり、かつ現実界の一主体が、複数の集団に同時参入することができます。ですから、地理的近接性が規範の第一の軸であれば、多様な知識と背景を持つ個人がひとつの集団に参加し、その共通知識は中和されることがありえますが、知識的類似性で構成される集団の知識はどうしても多様性に乏しくなってしまいます。

 たしかに、同質性の高い小共同体内部での内向きの規範強制力は強くなるでしょう。しかし入退出が容易なために共同体への帰属意識、拘束性は弱くなりがちです。たいてい、ネットワーク上の処罰というと「追放」が多いことを見てもこれはわかる。

 また、同質性の高さは先鋭的な意見の収斂を招き、これも倫理研第1回で言及された「サイバーカスケード*3が起こりやすくなる。つまり、規範強制力が強くて拘束性が弱いということは、どんどん共同体は細分化する傾向にあるということです。こうした事情から、大きな共同体というものは作りにくくなる環境となっていきます。

5-2. 広域法は存在しうるか

 これまでの社会においては、地理的な状況や生産手段の状態によって集団の規模は変わってきました。たとえば農場を経営しなくてはいけない時代は大家族制、サラリーマンであれば核家族・個人が働けるようになってしまうと単身世帯になっていくという具合です。そして電網界の向かう方向は、おそらく個人という最小単位にまでバラバラになっていくでしょう。

 するとどうなるでしょうか。もととも国家の法律は、自然発生的で多様に存在していた共同体を、国民として強制的に均質化し、紛争当事者個々人を単位として取り扱うことで小共同体の枠を超えた広域に適用可能な規範として機能してきました。法律が機能するために、認知枠を教育によって枠にはめ、また地理的近接性を国境というかたちで操作することで、国民国家という幻想を作りあげてきたわけです。

 しかし電網界によって次々と共同体が解体していってしまったとき、広域的な法律は存在しません。異なる規範のあいだを統合的調停するような法律は無いのはなぜかというと、それは異なる集団のあいだに共通した常識をベースとしなければ、広域的な法は機能しないからです。細分化が進めば進むほど、そうした共約的な常識は目減りしていくばかりです。

 となると、残るのは常識を必要としない規約(プロトコル)しかないわけです。つまりある価値に従って法的な判断を下すのではなく、「Aという小集団とBという小集団の間に対立があったときには、Cという手段によって紛争解決を行う」という手続き的な規約以外には残らない。そして英米法はそれに近いやり方で紛争を処理してきたのですね。つまり終局的な価値というのは問わずに、手続きの部分において紛争解決をするのが英米法のアプローチであったからです。

 想像するに、大陸法のヨーロッパの学者達はサイバースペースの法律というものに恐怖感を持っていると思われます。対してアメリカ人の学者達がサイバースペースの法律なるものを早い段階から検討し、一般の人たちまで巻き込んだ議論を盛んにしているのは、おそらく彼らは脅えていないからなのでしょう。つまり、自分たちのやり方はサイバースペースでも同じように機能すると信じている。実際、とくにアメリカ社会にはたくさんの小集団がバラバラに存在する状態でしたが、英米法はそういった社会の中でもちゃんと機能してきました。だからこういう状態が電網界で生じていても別に問題ないと思っているのでしょう。

 アメリカはいいかもしれない。しかし、大陸法を使っているような国、たとえば日本のような国はどうすればいいのでしょうか。ひとつはそういった英米法的なやり方、手続き型に全て移行するという方法があります。最終的に何を目標として法律を作るのか、つまり目的としての法律は要らないのかといえば、不要だという立場になるでしょう。しかしこれは、冒頭で指摘した自由至上主義者の発想と紙一重になります。価値は不要だ、手続きだけが正統性を保障するというわけです。こうした手続きとして法律は、情報社会の特質には相性がいいと思います。

5-3. 法の目的の正統性

 そして環境管理型権力としての法へと新たに移行するとき、法の目的としての側面は必要ないのでしょうか。私はそれは既存の価値から呼び出される必要があると思うんですね。となるとレッシグの発想と近くなりますが、こういうロジックになる。一応私達の世界はまだ完全にユビキタス化はしていない。共同体も生き残っているし、国家という枠もまだ生きている。法の歴史もあるではないか、と。つまりこれまでの法律の中で機能している部分、破綻していない部分、いいかえればワーキングコード(これはプログラミングの世界の用語で、バグは無いと証明されているわけではないが、無さそうだと思われるコードをこう呼びます)を抜き出して、環境管理型の基本構造のなかに実装していくしかないのではないか。

 このロジックはレッシグの四規制説とほとんど同じなのですが、異なる点は民主的な価値判断のプロセスへの信頼があるかないかです。私は民主的な意思決定のプロセスが環境管理型社会においてはうまく動かないと予測しています。であるとするならば、過去の事例からワーキングコードのエッセンスを抽出するという作業こそが重要となるのではないでしょうか。とはいえ、探求や抽出というのは法学のなかでも伝統的かつ基本的な作業でありましたからこれは特段突飛な提案をしているつもりはないんですね。

 それでは結論になります。

 電網界で「熟慮ある民主主義 deliberative democracy」*4が実現し難い状態にあるのならば、これまでの法の歴史を参照、抽出し、多様な法律の比較(比較法)することで、過去の熟慮を利用できるのではないか。実際、ローマ法が近代法のベースとなったときも同じような作業が行われたのですが、この伝統主義、伝統説こそが法律の正当性を担保するいくつかのパターンのなかでも最も初期の発想になります。いわばこれを現代に復活させるべき、というよりもそうするほかないというのが現在の私の結論なんですね。

 ただその抽出作業が不透明ではまずいわけです。どういうソースからいかなるエッセンスを抜き出してきたのか。それをどのようなプログラミングでアーキテクチャやコードに実装していくのかは、公開手続き的な方法を採用する必要があるでしょう。こうした法律の精神の抽出過程および実装過程については、手続としての法律あるいは規約のかたちで合意を形成することは可能でしょうし、それら過程を援助するための機構も、ある程度合理的に設計可能なはずです。こうした議論は設計研のほうに引き継いでいただけるのかなと思います。

 こうした抽出作業こそが、私が第1回で述べた「保守主義*5の内実なんですね。過去の人類の歴史をベースに法のエッセンスを抜き出してきて、それを電網界やユビキタス界のアーキテクチャとコードの部分に実装していく。それによって、第1回でも憂慮されたサイバーカスケード、つまり民主的なプロセスの暴走に対する重石になるのではないかと期待しているわけです。

 また、法律が完全実行されてしまった場合、我々は生き残っていけるのかと何度かこの講演を通じて問いました。保守主義の立場からは、次のように答えることができると思います。

 いわゆる部分社会説の発想は、現実界と同じ法律をそのまま電網界やユビキタス界に適用するというものでした。しかしそれでは法の過剰に歯止めがかからない。しかしそうではなく、現実界において成立している均衡状態とは何かをまずは把握したうえで、その均衡状態を電網界でも実現できるアーキテクチャやコードについて考えるべきではないでしょうか。

 いままで現実界における均衡は、曖昧不合理な下部構造に、合理的な法体系を上部からマウントさせることで保たれてきました。情報社会においては下部構造の部分まで完全にコントロールできるのであれば、むしろ逆に今度は上部の法律やコードの部分を緩めることで均衡をとるべきではないか。あるいは、アーキテクチャのなかに一定の曖昧性を強制するような方法論を構築していくべきではないかと考えています。




*1:註:isedキーワード環境管理型権力」参照のこと。

*2:註:isedキーワードデイリー・ミー」参照のこと。

*3:註:isedキーワードサイバーカスケード」参照のこと。

*4:註:政治学の議論である“deliberative democracy”とは一般に「討議民主主義」と訳され、「現代の民主主義の機能不全を問題視し、その再生のためには熟慮ある市民による議論(の場)が必要」とみなすもの。その理論的なベースは、ハーバーマスの「討議倫理学」や『公共性の構造転換』において現代メディア・ジャーナリズム産業の批判を行った「公共圏論」などが参照される。こうした市民たちのオープンで民主的世論形成のための討議の場(公共圏)の再興を情報社会論と重ね、インターネットにその具体的な実現を期待する「インターネット公共圏論」と呼ばれる研究の潮流も存在する。しかし、サイバーカスケードを危惧するサンスティーンなど、インターネットで公共圏が可能とする立場に対して懐疑的な立場を取る立場も多い。こうした議論の詳細については、3月開催の第3回倫理研北田暁大講演)にて展開される予定。

*5:註:isedキーワードサイバー保守主義」参照のこと。

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