ised議事録

01-084. 倫理研第2回: 共同討議 第1部(1)

E2:共同討議 第1部
(開催:2005年1月8日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年3月12日)

ポストモダンの二層構造』とサイバースペースの法律――不正アクセス禁止法のケース

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

鈴木謙介
E2:鈴木謙介

 ありがとうございました。白田先生の講演は倫理研第1回での私の報告に対して正確に応答して頂いたものだと思います。第1回で私は、情報社会にはサイバーリバタリアニズムサイバーコミュニタリアニズムという動きが現れてくるという整理をしました。たとえば今回の白田先生のご報告でいえば、サイバーカスケードや民主主義プロセスの機能不全といったかたちで言及されていたものです。

 そして私は、その両者の立場は、情報技術によるエンパワーメントに注目するあまりに、技術の闘争と暴走を止めるロジックがないことを指摘しました。そこで結論では、技術的な解決を急ぐ前に「社会的価値についての検討」を行うべきであると主張したんですね。このテーゼを、白田先生は法律の世界から「保守主義」というかたちで明確に照らし直して頂いたと思います。

 また情報社会は人々をより個人化・個別化していくために、法を支えてきた様々な下部構造が崩れていくという根本的な問題意識を提示してくださいました。そこで白田先生としてはある種の伝統主義的な枠組みを、それを情報技術によってアーキテクチャとして実装するかたちで現代に拾い上げるという提案をなさっている。この保守主義と伝統主義という言葉は、通常とはだいぶ異なる意味合いで使われているのがポイントになると思います。

 それでは共同討議のほうに入っていきましょう。ちなみに今回の研究会の司会は私が務めることになりましたので、よろしくお願いします。まず、さきほどの白田先生のご報告のなかで東さんの「ポストモダン社会の二層構造」や「環境管理型権力」といった用語が参照されていました。そこで東さんのほうから直接説明していただきたいと思います。

東浩紀(以下、東):

 わかりました。この「ポストモダンの二層構造」(図:ポストモダンの二層構造)というのは、本来であればいまごろとうに出版されているはずだった論考(笑)、『情報自由論』の中心的なアイデアです。『情報自由論』の主題は、情報社会あるいはポストモダン社会は人を自由にするのか、それとも人を管理する方向に向かうのかという問いですが、それに対する僕の答えは「自由にもするし、管理も強化する」ということなんですね。これは一見いいかげんな答えのようですが、その背景にあるのは、ポストモダン社会では社会が二つの領域に分けられるという考えです。そして、情報技術は、その一方の領域で自由を強化するとともに、他方の領域では管理を強化するのですね。それがポストモダンの「二層構造」というわけです。

図:ポストモダンの二層構造
図:ポストモダンの二層構造

 ちなみに、2003年に京都大学助教授の大澤真幸氏と共著で出版した『自由を考える』(NHK出版、2003年 asin:4140019670)では、僕は、近代社会からポストモダン社会への移行に従って、権力は規律訓練型権力から環境管理型権力に移行する*1という表現をしています。しかし、いまではちょっと考えを変えています。重要なのは、前者から後者への移行ではなくて、両者のバランスが変わったことだ、というのがいまの考えです。

 こういうことです。「規律訓練 discipline」型の権力とは、価値観やイデオロギーといった内面的な部分を通じ、ある特定の行動を主体的に選択する個人を作り上げていく権力です。近代国民国家における「臣民化」*2の過程などと言われるのは、まさにこのタイプの権力の典型です。他方、「環境管理」型の権力とは、そのような内面を必要とせず、ある特定の行動以外が不可能になってしまうように社会環境を整えることで、人間を身体的かつ無意識に――『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001年 asin:4061495755)の表現を使えば「動物的」に――コントロールする権力です。この2つのタイプは、社会秩序を維持するために、いつの時代にも並存して使われていたと思われます。

東浩紀
E2:東浩紀

 実際、規律訓練の概念を提示したフーコーも、近代社会では規律訓練と「生権力 bio-pouvoir」*3が対になって作動していると考えていました。生権力とは、僕がいう環境管理型権力に近いものです。では、近代社会とポストモダン社会の差異はどこにあるのか。僕はそれは、前者では規律訓練環境管理の両者が調和してひとつの目的=大きな物語に奉仕していたのに対し、後者では両者の作動域が分けられ、規律訓練の目的と環境管理型の目的が解離してしまっていることにある、と考えています。

 あらためて図を見てください。上の層は人間の主体的管理=規律訓練の作動域を、下の層は人間の身体的管理=環境管理の作動域を示しています。

 時間がないので詳細な説明は差し控えますが、ポイントはこういうことです。一方で私たちの社会は、国際的なレベルでも国内的なレベルでも、単一の価値観による支配を拒絶し、多様性の共存を善とみなすようになっています。裏返せば、私たちの社会は、ひとつの大きなコミュニティから、たがいの関心が関連しない無数の小さなコミュニティの集合へと急速に変容しつつある。キャス・サンスティーンが指摘したように、インターネットはその状態をますます加速しています*4。これは言い換えれば、規律訓練の層=コミュニティの層では、私たちの社会は分裂を志向しているということです。また、ポストモダン社会が自由の拡大をもたらすように見えるのは、この部分では確かに管理は弱まっているからです。

 ところが、他方では、私たちの社会は「接続」や「統合」を志向しているようにも見える。経済のグローバル化がそうですが、9.11以降の世界的なセキュリティ強化も注目すべき要素です。インターネットは国境を越えてコミュニケーションの網の目を張り巡らせ、世界中のヒトとモノの動きが刻一刻と巨大なデータベースのなかに記録される。細かいところに目を向けても、ハワード・ラインゴールドが注目した「スマートモブズ*5の誕生や、ブログやソーシャル・ネットワーク・サービスの普及など、ひととひとを繋ぐサービスは急速に拡大している。ICタグGPSの普及も同じ流れに支えられています。つまりは、環境管理の層=アーキテクチャの層では、私たちの社会は統合を志向しているわけです。ポストモダン社会が「監視社会」だと言われるのは、この層での動きに注目してのことです。私たちの社会は、確かに、以前よりもはるかに高密度に監視され、また同時に他人を監視するような社会になってきている。

 そして、僕がこの図を示すことで言いたいのは、分裂を志向すると同時に統合を推し進め、自由を拡大すると同時に管理を強化し、ひととひとが切り離されると同時に繋がっていく、このような矛盾する特徴は、決して短期的な混乱によるものではなく、むしろポストモダン社会の本質を表しているということなんですね。それをひとことで表現したのが「二層構造」です。

 あと付け加えますと、この図のもうひとつのポイントは、右上に赤く描かれ、インフラに繋がっていない「フリーライダー」あるいは「テロリスト」の存在です。これは、アーキテクチャにタダ乗りし、アーキテクチャを蝕む「脱社会的」な成員の存在と、それに対するポストモダン社会の厳しい対応を示しています。ポストモダン社会は多様な価値観の共生を善としていますが、そのかわりに、共生の基盤であるアーキテクチャを蝕むものに対しては断固たる態度で臨みます。テロのことを考えれば分かりやすいと思いますが、実際には、この集団の範囲は拡大する傾向にある。たとえばいまの日本では、僕が第1回で「ウィニート」と呼んだ若者たち――あの言葉は結局流行ってませんが(笑)――などは、このような危険集団と見なされ始めています。ポストモダン社会は、その構造上、多様性の裏側に必ず排除の動きを抱えているので、排除の対象が不必要に拡大しないように監視――またもや監視ですが――する必要がある。

 そして、このような二層構造は、ポストモダン化によって社会的に要請されたものであると同時に、情報化によって技術的にもサポートされています。従来の研究では、ポストモダン社会論と情報社会論は――サイバースペース論やヴァーチャル・リアリティ論のような印象論的なものを除いて――あまり接点をもってきませんでした。しかし、この両者は実は本質的に親和性が高い。なぜかというと、白田さんの今日の講演でも強調されていたとおり、情報技術は、地理的・物理的制約を乗り越えることを可能とし、身体から価値観やコミュニケーションだけを切り離すことができるからです。言い換えれば、インフラの層からコミュニケーションの層を切り離すことができる。そこに、情報技術の社会的利用の本質があるように思います。

 リアルとヴァーチャルの切り離しについての議論は、いままでは幻想的な話に行き着きがちでした。しかし、その切断がもっている社会的意味を、規律訓練環境管理の乖離といして捉え直すことで、従来のサイバースペース論もまた違った視点で読み返すことができるのではないかと思います。いずれにせよ、私たちの世界は、主体と身体、規律訓練環境管理、ヴァーチャルとリアルを切り離しつつ、前者の自由と後者の管理をともに強化していく方向に進んでいると言えるでしょう。

 僕からは以上です。

鈴木謙:

 そして白田さんの報告ではその二層構造を踏まえたうえで、近代社会であれば複数のコミュニティを束ねるに足る地理的制約が存在したけれども、情報社会ではその制約が取り払われるために、価値観抜きのプロトコルによる制約をかけていくしかないのではないかと指摘されていました。ただし、そのプロトコル化した、手続きとしての法律とは、英米法には馴染みやすくとも大陸法的な体系とは質を異にします。日本はいわずもがな後者のほうです。

 ではどうするか。我々が依拠してきた法が抱えてきた価値の部分を受け継ぎつつ、ある種のプロトコルとして実装せよ、と白田さんは提案されていました。確かに伝統を用いて法を実装するというのは、抽象的議論として通りのいい議論だと思います。ただし、具体的な実装の手段を検討したり、運用するにあたっては問題も数多く出てくるはずです。そこで実際にプライバシーやセキュリティの世界でこうした法とアーキテクチャの問題に関わってこられた高木さんに、まずお話を伺いたいと思うのですが。

高木浩光(以下、高木):

 私は白田さんのお話を非常に抽象的に整理された議論としてお聞きしていたのですが、お聞きしているうちにサイバー世界で起こった具体的な事例がちらほら浮かんできましたので、そこから話題提供してみます。

 たとえば、「無断リンク禁止」という話があります。「ホームページに勝手にリンクをするな、リンクをする前には事前にメールなどで連絡せよ」という無断リンク禁止派の人がいたとき、それに対して「無断リンク禁止は禁止だ! 本来のハイパーテキストの理念からすればそれは滑稽だ!」と主張する人たちもいる。つまり無断リンクをめぐる一種の紛争状態というわけですね。

 しかしこの問題には、リアルの世界に善悪の基準はありません。これがどのようにして解決してきているのかというと、やはり「経験の差」が圧倒的にあると思うんですね。「最近ホームページをはじめました」という人と、もう10年近くもやっている人との間では、こうした紛争を経験したことがあるかどうかも含めて相当な経験の差が生まれてしまう。となると「どうするべきか?」という結論も経験に応じて変わりますから、対立になってしまう。これに対してリアル世界の法律は千年単位の歴史を踏まえたものですから、経験もならされていきます。白田さんのおっしゃる通り、サイバースペースでは経験のムラから常識が形成されにくい傾向がある。

 

高木浩光
E2:高木浩光

 一方、リアルの法律がサイバー世界の倫理を規定した例として、不正アクセス禁止法*6が思い浮かびました。これは2000年に施行されたのですが、まさにこれからサイバー世界に一般の人が入ってくるというタイミングでした。ちょうどこの法律ができた頃に私もいま取り組んでいるセキュリティの問題に首を突っ込み始めたので、まさにこの法律とともに私の倫理観は育ってきた感じがあります。

 さて、この法律を読むと興味深いのは、なにか悪いことを取り締まるという感じには書かれていないということなんです。単に「これをやってはいけないことにします」という書き方なんですね。たとえば「他人のID・パスワードで入ったらそれは不正アクセスということにして、これを行政的に禁止します」というふうに書かれている。

 どうやら当時の背景を調べてみますと、たとえば他人になりすましてログインし、その情報をみること自体を悪とする、情報窃盗罪という罪をつくることも検討したようなんですね。しかし、やはり従来の刑法とのすりあわせができないために見送られたそうです。だからといって「法律なし」というわけにもいかないので、いろいろと試行錯誤した結果、「アクセス制御機能で守られているはずのものを台無しにしてしまうのでは、社会的な不安が起きる。それはよくない」という法益に基づいて規制するという、一見すると奇妙な作り方になっている。

 ですが私は、これはよくできた法律だと思っています。実際、2000年以降はサイバー世界でも考え方が変わってきていて、「パスワードがかかっていたら入ってはいけない」という常識が確立してきているようです。それ以前は本当に酷い状況だったという話も聞きますので、これは、この法律がサイバー世界の人々の倫理観を誘導してきた例だと思います。

 また「不正アクセス禁止法は建造物侵入のサイバー版である」と主張する法律家の方もいらっしゃいますが、システム屋としての私は違うと思うのです。しかしその根拠を語ると長くなるのでここでは省きますが*7、それはあくまで、サイバー空間での私の体験からするとそのように思えます。まだサイバー世界の歴史はいまだ短いゆえに、こうした法と実装のすりあわせの状況は混沌としていると思うんですね。

石橋啓一郎(以下、石橋):

 不正アクセス禁止法には「アクセス可能なコンピュータをネットワークに公開している場合は、必ずログを残しておかなければならない」といった話は含まれていたと思いますが?

高木:

 当時の警察庁はそうしたかったようですが、反対が強くて見送られたんですね*8

石橋:

 そうでしたか。ただ、そうした運用も含めたアーキテクチャそのものを法によって設計するという発想があり得るというのは興味深いと思いますね。

白田秀彰(以下、白田):

 高木さんのお話にあった不正アクセス禁止法の根拠を確認しますと、現代ではコンピュータがかなり社会のなかに入ってきており、それをコントロールしているのがセキュリティシステムであるという前提がある。そしてそのセキュリティシステムが壊されれば当然システムの不安定性が生じる。それは社会的に好ましくないので禁止する、というロジックなわけですね。それを法益とするのは筋が通っている。

 しかしすぐにリアルワールドのアナロジー、たとえば建造物進入に似ているという類推からコンピュータへの侵入を悪だと考えてしまうのは筋の悪い発想だといえます。きちんとその情報システムの機構にまで踏みこまなくてはいけない。そういう意味では、その不正アクセス禁止法を設計した方はなかなかいい筋をしていますね(笑)。

鈴木謙:

 つまり「建造物侵入」のアナロジーというのは現実界で積み重ねられた常識なんだけれども、その常識を法にあてはめていくというプロセスがもはや壊れてしまっているというわけですね。むしろ高木先生のお話では、不正アクセス禁止法は一生懸命現実界の基準を電網界に適用されたのではなく、現実の側からの法の制定によって新たな常識を現実的につくっていったプロセスなのではないかと捉えたのですが。

白田:

 なるほど、私の講演では抜け落ちてしまっていた部分ですね。

高木

 ただ、リアルの世界の法律がサイバー空間での常識や振る舞いに影響を与えた例というのは、他にはまだないと思うのですが……

東:

 ちょっと口を挟ませてください。

 いま議論が「サイバースペースの法律」についての方向にシフトしていますが、今回の白田さんの発表は決してそこに止まるものではなかったと思うんです。白田さんの問題提起はより大きく、情報技術が生み出す「開放系」的な世界においては法の存在そのものが難しくなるのではないか、というものだった。来るべき情報社会においては、サイバースペースについての新しい常識をつくるのが難しいだけではなく、情報技術の存在が社会全体の常識を拡散させてしまうために、サイバースペース以外の事例についても立法が難しくなる。その点を議論したほうがよくはないですか。




*1:註:isedキーワード環境管理型権力」あるいは「規律訓練」参照のこと。

*2:註:たとえば日本であれば皇国臣民化あるいは皇民化教育などと呼ばれるプロセス。近代ナショナリズム研究の基本的な前提。近代化の過程のなかでは、国家(経済)というシステムの作動のためにナショナリズムが駆動される。すなわち単一の国民という「想像の共同体」を仮構し、言語や歴史などの教育を通じて国民の主体化・均一化・動機付けを行ってきたと把握されている。

*3:註:isedキーワード環境管理型権力」参照のこと。

*4:註:isedキーワードサイバーカスケード」参照のこと。

*5:註:isedキーワードスマートモブズ」参照のこと。

*6:註:法案の正式名称は「不正アクセス行為の禁止等に関する法律」。解説は以下を参照のこと。→セキュリティ用語事典[不正アクセス禁止法]

*7:註:高木による解説は以下。→「高木浩光@自宅の日記 - 不正アクセス禁止法 立法者の意図(推定)」「不正アクセス禁止法 数理的理解の試み」「不正アクセス禁止法 続・数理的理解の試み」

*8:註:インプレス - 不正アクセス規制法案、ログの保存義務は見送り。企業の負担が大きくなるために、ログの保存は努力義務となった。

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