ised議事録

01-086. 倫理研第2回: 共同討議 第1部(3)

E2:共同討議 第1部
(開催:2005年1月8日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年3月12日)

再帰的なサイバー保守主義――クリエイティブ・コモンズのケース

東浩紀(以下、東):

東浩紀
E2:東浩紀

 司会を奪うかたちになってしまいますが、今日の白田さんの講演を僕の観点から整理します。ひとことで言うと、白田さんはふたつオプションがあるとおっしゃっていたと思うんです。

 一方には大陸法的な考え方がある。目的、価値、伝統、倫理、何でもいいですが、なんらかの「こうあるべきだ」という当為(Sollen)を設定し、そこから演繹するように法を定めていく。情報社会でもこの方法はむろん可能だけれども、環境管理的な技術が組み合わさることによって、法の完全実行が可能になってしまうことです。

 他方には英米法的な考え方がある。大文字の当為を設定せず、その場その場の英知で問題を解決していくのであれば、法の完全実行はそんなに心配しないでもいい。しかし、英米法的なデュープロセス(due process 「適法な手続き」)*1は、コモンセンス、白田さんの講演の言葉を使えば「常識」を前提とします。したがって、情報技術を用いた効率のよいデュープロセスが動くためにはコモンセンスの領域を確保することが必要になるわけだけど、ではそれをどうやって確保するのか。規律訓練の力が衰えるポストモダン社会においては、実はその実現こそが難しいのではないか。そのような反論を念頭に置いたうえで、それでもコモンセンスをアーキテクチャの上で再生産するようなアクロバティックな方法はないものだろうか――言い換えれば、限定された規律訓練環境管理的に再生産する方法はないものだろうか。それが白田さんの問題提起だったと思うんです。

 はたしてそれが実現可能かどうか、それこそがいま議論すべき問題ですが、この問題提起は、少なくとも前回の白田さんご自身の発言よりかなり前進していると思うんです。白田さんは前回、サイバー保守主義を標榜するなかで、大文字の価値を呼び出すことの必要性を主張されていましたよね。

白田秀彰(以下、白田):

 そう、そうです。

東:

 ところが今回は、大文字の価値を呼び出す構造を環境管理的に作る必要がある、という表現になっている。ちょっとこう、メタ化されているというか、ねじれてきていると思うんですね。

 大文字の価値をそのまま呼び出すと、情報技術によってエンフォースされて法の完全実行に直結してしまう。それはさすがに危険だ。他方で英米法的なデュープロセスを実現するためにはコモンセンスがなければならない。だとすれば、デュープロセスとコモンセンスがたがいを支え合うような構造を、アーキテクチャのなかにビルトインすることは可能だろうか? これが白田さんの問いだったと思うんです。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

 いまの話というのは、レッシグクリエイティブ・コモンズCreative Commons)の発想につながっていくんだと思うのですが、白田さんが最後にお話されていたことのイメージはそこに近いのでしょうか?

東:

 補足しますとね、こういうことだと思うんです。クリエイティブ・コモンズは、新しいライセンスを新しいアーキテクチャとして提案する運動です。言い換えれば、それはひとつの環境管理型権力です。しかし、このライセンスが普及すれば、現在の乱暴な著作権管理の拡がりを阻止し、ネットワーク上に新しい共有地(コモンズ)が形成される。それは結果として、規律訓練の層においても、情報の共有についての新しいコモンセンスを育てていく。そして、そのコモンセンスの拡がりが、ふたたびクリエイティブ・コモンズのライセンスを後押ししていく……。クリエイティブ・コモンズの戦略には、そんな循環構造が組み込まれている。

白田:

 ふむ、しかもレッシグはアメリカの非常に古いタイプの著作権法理論をきちんとふまえたうえで、クリエイティブ・コモンズに正義ありと考えて実装に踏み込んだわけですから、考えてみると私の提案したことはクリエイティブ・コモンズで実践されているといえますね。

鈴木謙:

 著作権であればそういう実装がありえるかもしれない。つまり実装するアーキテクチャが価値を再生産するように設計するということですね。しかし社会全体の話となるとそれはどうか。先ほど東さんは市場の論理のお話をされましたが、要するに著作権者やコンテンツホルダーが損をするというロジックから、著作権違反を防ぐ完全実行が強化されていくのに対して、私たちの社会にはまだ呼び出す価値があるんだといえるかもしれない。しかし、それは社会全体として可能なんでしょうか?

白田:

 同じ手法が、社会全体の設計に使えるのか……。

鈴木謙介

 そして、社会全体に及ぶ価値はあるのか。それは非常に疑問なんですね。

白田:

 うーん、いまの段階ではなんともいえないんですけどね。ただ、かつて19世紀に近代ドイツ法がつくられたときには、法学者たちはローマ法大全から多くの概念をひっぱりだし、精緻な学問的研究を重ねたんですね。そして基本公理を整え、そこから論理演算をすることで「全部の概念が説明できる」という体裁をとる、パンデクテン法学*2という体系を築きあげた。でもね、それにかかった年月はおおよそ100年なんですよ(笑)。

東:

 いいですね(笑)。その100年をもういちど始めようというわけですね。

白田:

白田秀彰
E2:白田秀彰

 というかですね、法学者はある意味仕事に困っているところがある。知り合いで民法を学んでいる博士課程の学生がいるのですが、彼はこう愚痴っていたんです。民法という体系はすでにびっしりと理論がつまっていて、あらためて研究する必要がある領域は残らないほど精緻にできている、と。

 そこである種の法学の伝統を守る運動といいますか、いまは逆にチャンスだと思うんですね。せっかくこうしていま情報社会という新しい時代に入り、しかも私たちが数千年間依拠してきた環境(=アーキテクチャ)自体も変更しつつあるという状況において、「情報時代における基本的な法の精神は何か」を問いなおすということをやろうじゃないか。100年かかってもいいから、かつてのドイツ法学者の作業に取り組もうではないか。講演タイトルの「情報時代の保守主義と法律家の役割」には、こうした提案も含ませているつもりで「法律家」としているんですね。

 そしてこの作業は法律家だけのものではもちろんありません。過去にさかのぼって、いったい何のためにこの制度があり、なにを目的に我々は動いてきたのかを吟味するという作業は、哲学を含んだ人文諸科学すべての問題として提示されてくると思うんです。

 ともあれ、できるかできないかというフィージビリティについては、いまの私からはなんともいえない。私は著作権歴史をさかのぼって検討するという研究をしたんですが、少なくとも著作権法を一言でいえば、「情報流通環境を整備するための産業法である」と結論づけています。その意味で、いまの通信規制などとまったく同じ目的からスタートしたとみることができる。ですから私は自分のウェブページでは、著作権法についての提案を通信や電波法の話と結合して展開しているんですね。こうした分野間の連携はいまからでもすることができるはずです。

東:

 さきほど市場の論理とセキュリティの論理という話を出しましたが、現状では、法の整備に際してこのふたつの論理しか機能していない。それに対して、白田さんは価値や目的を見つめよ、とおっしゃる。簡単に言ってしまえば、市場の論理でもセキュリティの論理でもない、別の基準があるだろう、と。

白田:

 そういうことなんですよ。




*1:註:ここでは白田秀彰講演での英米法的な「手続きとしての法律」という性格を指している。isedキーワードデュープロセス」参照のこと。

*2:註:パンデクテン方式とは、民法典の編成方式で、各則から共通規定を取り出し、総則という上位概念して先に配置する構成をとるもので、論理的にきわめて精緻に構成されている。日本の法律もこのパンデクテン方式を採用している。

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