ised議事録

01-087. 倫理研第2回: 共同討議 第1部(4)

E2:共同討議 第1部
(開催:2005年1月8日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年3月12日)

情報社会の『法と正義』――国家の唯一性の破綻と島宇宙化

東浩紀(以下、東):

 ここでもうひとつ補助線を引きたいと思います。

 白田さんは講演の冒頭で、法と法律を分けるべきだというお話をされていました。その両者の区別は、ラテン語ではlexとjusだと書かれていた。lexが「法律=書かれた法律」を、jusが「法=調和した状態」を指すというわけです。

図:lex(法律)とjus(法)
図:ポストモダンの二層構造

 ところで、jusというラテン語は、言うまでもなく英語やフランス語のjusticeの語源にあたる言葉です。つまり、これは正義という言葉です。白田さんは「法律」と「法」を分けるという言い方をされていたわけですが、これは翻訳の仕方を変えれば「法」と「正義」の問題でもある。多くの聴衆や読者にとっては、むしろそのほうが分かりやすいかもしれません。この研究会は「倫理研」と冠しているんですが、そういえば正義という言葉はほとんど出てこなかった(笑)。しかし、白田さんはここで、情報社会における正義の問題をさりげなく提起してくれたと思うわけです。

 白田さんの説明によれば、英米法におけるlaw(法/正義)とは、正しい状態、ものごとが調和された状態を意味する。そして個々のcode(法律)は、そうした調和の感覚がないかぎり機能しようがない。したがって、その感覚を情報時代においてどのように確保するのかが重要になる、と白田さんは言うわけです。これは要するに、情報時代における正義=調和とは何か、という問題なんですね。

 実際に、正義(justice)を調和の感覚に見いだすというのは、現代思想的にもありうる解釈です。本題から外れるので参照するだけに止めておきますが、デリダが『マルクスの亡霊たち』(未邦訳 asin:0415910455)のなかで、ハイデガーが使う「Fug」という言葉を巡って面白い解釈を述べています。

 いずれにせよ、ここで「正義」「調和」という観念が登場するのはとても面白く、また必然でもあるように思います。法と経済学の研究などによって、特許法や著作権法の経済的効果については詳細なシミュレーションが行われ始めている*1。しかし、著作権に関する正義、プライバシーに関する正義はどこにあるのか。市場の論理やセキュリティの論理では届くことのない正義なるものが、情報時代において構想されうるのか。今日の議論のテーマは、そのように言い換えられると思うんです。

 さて、このように展開していけばわかるひとにはわかると思うんですが、つぎは北田さんに振りたいな、と(笑)。『責任と正義』(勁草書房、2003年 asin:4326601604)という大著も書かれていますし、ぜひお願いします。

北田暁大

 いやはや、途中から嫌な予感がしておりました(笑)。

 さて、いま東さんがおっしゃっていたことを、まさに僕も白田さんにお聞きしたいと思っていたんです。地理的な分割統治が不可能となった電網界において、正義の感覚はどのようにして担保できるのか、という問題です。

 一口に正義といっても色々な意味がありますが、とりあえずここで問題にしたいのは、非常に広い意味における正義です。つまり、「公的なルールと私的な格率があるというときに、公のほうがとりあえず優先されるべきであろうことが認知できる」という意味での正義です。「正義のため能力」と言ったほうが正確かもしれません。もちろん、公的なルールは具体的な行為場面において必ず優先されるというわけではない。しかし、少なくとも「私的な格率に優先する公的なルールが存在するということを認知する能力」が共有されている、と仮定しないことにはリベラルな共同体を構想することはできない。おおよそ凡庸な犯罪者というのは、こうした意味における正義のための能力を持ち合わせているわけで、かれらもまた広い意味における「リベラル」であるということができる。こうした「正義の能力」を持つ人々からなる社会空間、規範作用域内部における、公的ルールの内実をどう設定するか、という点でリベラルな理論家たちの見解は分岐するわけです。

北田暁大
E2:北田暁大

 しかし、白田さんのお話にも出てきたように、電網界ではもはや単一の規範作用域といいますか、最低限の正義感覚を共有している人々の共同体なるものを想定することが難しくなっている。それは自由主義理論そのものの危機を意味するのではないか。

 たとえば、ノージックが『アナーキー・国家・ユートピア』(木鐸社、1995年 asin:4833221705)のなかで「最小国家」を導いてますね*2。前に書いた本のなかで、最小国家を導く議論のなかにみられるいくつかの問題点を指摘したのですが、ここで注目しておきたいのは最終的に導き出される最小国家そのものの規範論的な身分についてです。最小国家はいやしくも国家なわけですから、自らのルールの局所性を自覚している私的な保護協会と違って、自分たちのルールの非局所性を欺瞞なく誠実に主張できなくてはならない、国家が複数同時に存在してはならない、と標榜できるのでなければならない。国家が複数存在することを認めたとたん、その国家はたんなる私的な保護協会に成り下がってしまいます。「私的なルールに基づく処罰を断念させ、公的な国家が成立する過程をみる」というノージックの論理を突き詰めていけば、「国際関係など存在しない」ということになるはずです。

 しかし、現実的には国家と国家とが地理的に引き離されていることで、「国家の複数性の不可能性」という問題が偶然的であるにせよ解決できている、複数の国家が存立することの規範論的な奇妙さが覆い隠されているわけです。きわめて緻密に構成されているノージック的「契約論」「正義論」は、ある種の偶然によって担保されているのではないか……。 

 そうしたある種の「正義論」につきまとう問題を露呈させてしまったのが、電網界なのではないか。電網界では地理的要因に基づく分割統治はできない。となると、「公的なものを私的なものより優先する」という最小限の正義能力を持つ人々によって構成される集合体としての最小国家は、電網界をベースとするかぎりにおいて成り立たなくなってしまう。あらゆる「公的」ルールは、つねに「私的」なものとして相対化される可能性から逃れ出ることはできない。そんななかで、白田さんのいう「手続としての法律」に適ったものは優先されるべきである、という最低限度の当為感覚を共有する共同体はいかにして構成されうるのでしょうか?

東:

 白田さんは、そうした共同体はもはや確保できない、と述べているんじゃないでしょうか。そのうえで、共同体が共同体を環境を使って自分で作り上げるような、いわばブートストラップ(靴ひもを自分で持って飛び上がる)的なプロセスを提案している。コモンセンスがデュープロセスを支え、デュープロセスがコモンセンスを支えるという再帰的な循環構造をつくるしかない、とおっしゃられているわけですね。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

 根本的なところはおそらくそこになると思います。しかし、問題はその循環構造のイニシャルステップだと思うんですね。エンジンがそのように回るのはいい。しかし、最初にそのエンジンをいかにして起動するのか。誰がそれを行うのかが問題となるのですが……。

東:

 その点は、今回は乗り越えられていると思うんです。白田さんは前回は――乱暴に要約すれば――情報技術に卓越したエリート・ハッカーが集まって一発決めようぜ、という主張だったわけですね(笑)。しかし今回は、正統性の検討を行っている。だからこそ再帰的な構造が必要になるわけです。

鈴木謙介

 コモンセンスとデュープロセスが再帰的に循環する構造が必要だという議論は理解できます。しかし、その「再帰的な構造」の内容については、また別の問題が生じると思うんですね。

 たとえばウルリッヒ・ベックというドイツの社会学者の『Individualization』(未邦訳 asin:0761961119)という本の序言で、スコット・ラッシュという人がこういうことを言っています。社会学がこれまで想定してきた「個人」というのは、他人から見られている自分(客我 me)と、それを反省的に捉え返す自分(主我 I)との間の循環構造が前提になっていた。これがいわゆる「我思う、ゆえに我あり(I think, therefore I am)」という近代的自我の構造です。

 しかし近年生じつつある「個人化*3のプロセスは、そうした反省の契機を欠いた「我は我なり(I am I)」と無根拠に断定する「反省なき自己」、つまり再帰的な自己を生み出しつつある。ここで重要なのは、いわゆる再帰性というのは、その回転のイニシャルステップにおいて参照されていた価値を、次第に必要としなくなっていくということなんですね。

 白田さんは言ってみれば、大陸法的な「価値の選択」というイニシャルステップを踏んだ上で、英米法的なデュープロセスとコモンセンスの循環構造へ移行させようと論じておられる。しかし、その循環構造においては、「価値の選択*4という契機はいずれ風化させられてしまうのではないかと思うんですね。

東:

 うーん。僕と鈴木さんのあいだで議論しても仕方ないんだけど(笑)。

 議論を整理するために用語を整えたいのですが、僕は、鈴木さんと白田さんがよく用いる「価値」という言葉は誤解を呼ぶと思うんです。それは「正義」や「倫理」と言い換えたほうがいい。というのも、「価値」の概念は、個人の「快楽」と結びつきやすいからです。各人の価値=快が最大になるような、功利主義的な行動原理が想起されてしまう。各個人はそれぞれの快楽原則=価値観にしたがって動けばいい、というようなときにもこの言葉は使われる。しかし、そのような功利主義的な倫理観こそ、いま市場の論理とセキュリティの論理が強化しているものです。

 それに対して、白田さんや鈴木さんが「価値」という言葉を使うときには、そうした功利主義的な価値とは異なる、超越論的な何かを指し示しているように思うんですね。個人にとっては不快なものでも、それを「あえて」選択するような価値。問題は、この「あえて」の感覚を、環境管理型社会においてどうやって個人にビルトインするのか、ということなのではないか。このように整理すると――北田さんはさっきそこまで触れてくれなかったんだけど――、白田さんや鈴木さんの議論が、北田さんの問題意識と密接に繋がることもよく分かります。つまりは、環境管理型社会におけるアイロニー*5の役割は何か、という問題ですね。

白田秀彰(以下、白田):

 まさにおっしゃる通りだと思います。

東:

 もうひとつ。次回の倫理研は北田さんの講演なので、別の補助線を引いておきます。

 さきほど北田さんは、国家の唯一性が基本的な条件としてあるとおっしゃいました。しかし、リバタリアンの夢、あるいは情報社会の夢とは、まさにその唯一性を崩壊させるものではないでしょうか。

東浩紀
E2:東浩紀

 リバタリアンはこう考えている。たとえば、警察のかわりは警備会社でいい。複数のセキュリティ企業がひとつの地域のなかに複数存在し、個人個人が自分の身の安全を保証してくれる企業と契約すればいい。サービス的にも、社会保険は別の企業、年金サービスはまた別の企業というかたちで、行政機能をどんどんモジュール化し、市場にまかせていけばいい。国家はなかなかなくならないだろうけど、いま国家が担っている機能の多くは市場で代替できる。実際そういうプロセスは始まっていますね。だとすれば、個人が複数国家に所属するという話は、いまや決して空理空論ではないと思うんです。

 それは近代化の必然だとも言えます。そもそも、近代社会は、ルーマン的な表現をすれば機能的分化*6を高度に遂げた社会なわけです。今日の講演とも絡みますが、法は法で、市場は市場で、政治は政治で閉鎖的システムとして独立する、ということで近代社会は成立している。にもかかわらず、これらのシステムをすべて貫く「国家」という存在があるかのように仮構し続けていたのが、近代国民国家のイデオロギーというものでしょう。社会全体としては秩序だっているのが近代社会である、と。しかし、そのようなイデオロギーが機能しなくなったいま、社会の機能的分化が荒々しいかたちで顕在化している。

 また、今日の白田さんの講演においては、情報社会においては共同体が地理的な近接性を前提にすることができない、という点が強調されました。これは、ひとつの共同体が地理的に拡散するというだけではなく、ひとりの人間が複数の共同体に多重所属できるようになることも意味していますね。ポストモダン社会における小さな共同体の乱立は、このような「共同体への多重所属」で裏打ちされている。このような状況において、地理的にも、またひとつの地域のなかでも、あるいはひとりの人間のなかでさえも、複数の共同体のルールが相次いで衝突している。それが、僕たちの問題だと思うんです。

 このような文脈を踏まえたうえで、僕が北田さんにお訊きしたかったのは、そのような衝突をいかに調停するのか、という問題です。これはきわめてポストモダン的な問題であると同時に、また原理的な問題でもある。

 さきほども名前を挙げたデリダは、『法の力』(法政大学出版局、1999年 asin:4588006517)のなかで「法は脱構築可能だが、正義は脱構築不可能だ」と記しています。これは、「正義」とは、あるシステムのなかで与えられるものではなく、特定のシステムの外に出る=システムのメタに立つ機能を意味するということです。脱構築はなんらかの中心性と安定的構造を持ったシステムに対して働きかけるが、正義とはそもそもそういう存在ではない*7。このような議論は、思弁的で哲学的な話でありながら、いまやきわめて具体的な問題でもあるように思います。無数の共同体が乱立し、多くの個人が複数の共同体に多重所属している現代社会では、ある一定のルールにしたがって巧みなコミュニケーションを行う能力よりも、ルール同士の衝突を調停する能力のほうが問われているのではないか。

 次回の講演では、北田さんには、できればそこらへんの問題にまで踏み込んでいただきたく思います。

鈴木謙:

 たとえばタックスヘイブン(Tax Heaven)を使って納税先を選べるというように、現実に多重所属の可能性は増大しているわけですね。ここでいったん休憩をはさみまして、こうした多重所属の問題をからめて、若者論の観点から辻さんにお話をお願いしたいと思うんですが(笑)。

辻大介(以下、辻):

 ええっ! そんなアクロバティックな振り方って……(笑)。

鈴木謙:

 コミュニティの島宇宙化と多重所属の問題というのはつまり、抽象的に表現すれば「個人 individual」が、分割不可能な(in-divid-ual)ものから、ディバイド可能な(divid-ual)ものになっていくということだと思うんですね*8。そこで辻さんに、こうした個人のあり方の変化を若者研究の文脈からご紹介頂ければと。

辻:

 そうですね、多重帰属の問題や、これまで統合されていたパーソナリティや人格がばらけていくという話は若者論のなかでも指摘されていまして、たとえば「多元的自己」という言い方がなされます。もともとこの多元的自己という言葉を使われたのは学芸大の浅野智彦さんですが、大雑把にいいますと、まず、若者たちの人間関係が、つきあいの場面や状況を限定した局面的なものになってきているという流れがある*9。そのなかで、たとえば携帯電話は、そうした複数の局面的な関係を使い分けるためのツールになっている面があります。いわば、多元化した関係性をあやつる「リモコン」ですね*10

 この人間関係の多元化が進むにつれて、それぞれの関係に応じた自己の使い分けも進んでいるのではないかというのが私の仮説でした。たとえば大学生を対象にした調査では、関係の切り替え志向と、相手ごとにキャラを切り替えるという志向とが実際に相関していたんですね*11

 こうした人間関係の多元化・相対化に応じて、ある種の対人関係スキルとして自己を使い分けるようになる傾向は、たとえば浅野さんの92年あたりの調査*12でも出ていたんです。しかし最近の調査では、関係の切り替えとキャラの切り替えとの相関が弱くなってきている*13。各時点での調査手法が違うので一概に時代的変化とは断言できませんが、むしろ、多元的な関係を保っているという人ほど、旧来的な表現をすればアイデンティティが不安定で、自分らしさをはっきり掴めないという傾向が見えてきています。ちょっとここでの議論の流れとは関係しないかもしれませんが。

(左から)辻大介鈴木謙介
E2:鈴木謙介

鈴木謙:

 10年スパン単位でみたとき、情報社会化が進み、人々の繋がりは拡がったけれども同時に流動性が高まったことで、キャラの使い分けが困難になると同時にアイデンティティの不安に耐えられなくなっているということでしょうか。

辻:

 そうかもしれません。またこれは今日の議論の主題である公益的な感覚や正義の感覚とは少しズレてくる話かもしれませんが、いくつかの社会調査でも人々の関心が公的なものから私的なものへ移っていくという時代変化がみられるんですね。

 たとえば戦後まもない時期のニュース映画を観ると、「みんなで生産力上げなくちゃいけないんだ、働け働け」といったオチが最後に用意されている。その前には、我々はどれだけいま貧しいか、ひもじいかという社会状況が前提としてあって、この時代にはやはりある種の常識として、国民単位で統合された公益的な目標や価値観があったわけです。みんなで一致協力しないと、死ぬかもしれない、飢えるかもしれない。これは非常に動物的で生理的な欲求ですから、個々人を公的な目標へと向かわせる動機づけが容易に成立したともいえるでしょう。

 しかし、ある時点から日本社会はひとまず飢え死にすることはないという状態を達成したことで、そうした公的な目標や価値観の共有が強調されるべき契機がなくなってしまった。そこで大事になってくるのは、ごく身のまわりの問題、つまりどの自分の価値観にあった集団に帰属するのかということになってきたんだと思うんですね。

鈴木謙:

 ありがとうございます。辻さんにそのことを聞いたのは、いわゆる公益的な目標が失われていくということ、そのことによって個人が自分の価値観にあった集団に帰属するということと、そして帰属している複数の集団の間の調整が必要になるということには、おおいに関係があるのではないか、と思ったからなんです。

 それではここでいったん休憩をはさんで、第2部へつなげていきたいと思います。




*1:註:isedキーワード法と経済学」参照のこと。

*2:註:isedキーワードロバート・ノージック」参照のこと。

*3:註:isedキーワード個人化」参照のこと。

*4:註:isedキーワード価値の選択」参照のこと。

*5:註:isedキーワードリチャード・ローティ」を参照のこと。

*6:註:ルーマンの社会システム論では、機能ごとにサブシステム(法・政治・経済……)が複数存立していると捉える。社会システムを複数の機能的必要ごとに下位システムを分出させることを機能的分化と呼び、近代化を「産業化」と区別し、この機能的分化を遂げることを指す。→連載第一七回:下位システムとは何か? - MIYADAI.com Blog連載第一八回:宗教システムとは何か?(上) - MIYADAI.com Blog

*7:註:馬場靖雄『正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築』(「長崎大学教養部紀要(人文科学篇)」第37巻2号、1996年)

*8:註:isedキーワード個人化」参照のこと。

*9:註:「自分らしくあれ」「個性的であれ」という社会的な価値観と、関係の流動性の上昇から「場面に合わせて自分を転調することでやりすごす」という矛盾する振る舞いを切り離して考えるようになっているのではないかと浅野は論じている。→自己の多元化が進む若者 浅野智彦・東京学芸大助教授 リクルートワークス研究所

*10:註:顕著な行動として、「番通選択」が当初ケータイが若者のあいだで普及した際には取り上げられていた。→若者の友人関係と携帯電話利用 -関係希薄化論から選択的関係論へ-。また、以下の記事などを参考のこと。→「通話派」と「メール派」の違いとは 辻大介・関西大学社会学部助教授 リクルートワークス研究所

*11:註:辻大介「若者のコミュニケーション変容と新しいメディア」、橋元良明・船津衛編『子ども・青少年とコミュニケーション』(北樹出版、1999年)

*12:註:自己の多元化が進む若者 浅野智彦・東京学芸大助教授 リクルートワークス研究所によると、「東京都杉並区と神戸市灘区、東灘区で、16歳から29歳の男女を対象に実施。身近な人間関係、大きな社会との関係、メディアをめぐる行動などについて質問。調査方法は92年が郵送、2002年は訪問留置。有効回答と回収率は、92年が1116、22.3%、2002年は1100、55%。」

*13:註:辻大介若者の親子・友人関係とアイデンティティ」(2004年)。

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