ised議事録

01-088. 倫理研第2回: 共同討議 第2部(1)

E2:共同討議 第2部
(開催:2005年1月8日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年3月12日)

『開放系としての情報社会』その新たなフィードバックの模索――地域共同体、身体性

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

 それでは第2部です。共同討議の第1部では、不正アクセス禁止法に著作権といった具体的問題から、市場原理と法の問題や、国家の唯一性の崩壊といった抽象的な議論を経由してきました。そこで白田さんの提起された問題とは「法と正義」についてであるという再定義が行われました。

 さて倫理研委員には一通り発言が回ったので、ここで石橋さんに設計研の立場からご意見頂きたいと思うのですが。

石橋啓一郎(以下、石橋):

 設計研の立場からですか、うーん。

東浩紀(以下、東):

 前回までの司会の立場から補足します。

 isedの議論には2つの軸があります。ひとつは、情報技術が社会を変える、その結果として倫理や正義はどうなってしまうのかという問題です。もうひとつは、情報技術が新しい社会問題を引き起こしており、それにいかに対処するのかという問題ですね。そして後者は前者の問題と関わらざるをえない。なぜなら、情報社会の未来についてのヴィジョンがなければ、管理も規制もやりようがないからです。そこでまず、前者について考えを深めよう、ということになっていると思います。

 それでは、情報社会の未来として何が想定されているのか。そのひとつが、情報技術の普及は、社会を細分化し、個人を多元化し、結果として市民から公的な関心を奪ってしまうという悲観的なヴィジョンです。その対策として、技術そのもので人間を工学的に管理すればいい、という発想がある。たとえばいまユビキタス社会の構想は、裏を返せばそういう監視社会の整備という側面を持つわけです。そのような流れのなかで、技術者の社会的責任も今後はより厳しく問われてくるでしょう。そこらへんなど、設計研の目的と絡めてお話いただければよいと思います。

石橋:

 わかりました。僕は地域情報化の研究者という立場でもあるので、設計研的な見方と絡めつつお話したいと思います。今日の議論を聞いてずっと思っていたことは、正義感覚や価値観を共有するには、白田さんは地理的な近しさと表現されていましたが、身体的なものを通わすことが重要だと感じるんですね。同じ自然を共有するであるとか、同じお神輿を担いで育つといった共通体験はやはり非常に強力に体に残るものだと思うんです。

 地域情報化の事例を見ていると、先進事例の中心人物たちはその地域のなかで非常に多元的な人間関係を取り持ちながら地域活動をまとめていくのですが、あまりアイデンティティの危機といったものは起こしていないように見受けられるんです。

 今日の白田さんのお話というのは、いままで法は社会全体に通用するために常識という共通感覚を基礎にしてきたが、それが崩壊してしまうと、社会全体を串刺しにできるようなものはアーキテクチャしか残らない。だからその共通感覚を過去から抽出して、アーキテクチャに埋め込もうというものだったと思います。

石橋啓一郎
E2:石橋啓一郎

 しかし、身体的、あるいはコミュニタリアニズム的にしか正義感覚が養われないのだとすれば、それをアーキテクチャに還元して社会全体に普遍化するのは、原理的に無理があるのではないかと思うんです。白田さんもそれは指摘されていて、いままで法律がはたしてきた役割のなかでも、手続き的な部分での正統性の保障という、正義と関連性が薄い部分だけはもしかしたらアーキテクチャに組み込めるかもしれないというわけです。たしかにいままで法が果たしてきた全ての役割をアーキテクチャに埋め込むのは無理があるのではないか。

 というのも、アーキテクチャは自動的に作動するものですから、単純な条件を押しつけるのは簡単ですが難しい条件を押しつけるのは相対的に難しくなります。たとえば全員が入ってはいけないというアーキテクチャを実現するのは簡単で、ファイアウォールであるポート以外のものは破棄するという設定をすればよい。これは非常に簡単にできるんです。ところが、このユーザの場合にはこれしか許してはいけないというふうに条件が複雑になるに従って、その設計は難しくなっていく。

 たとえば著作権の場合であれば、もし両者間で合意ができればどんなことをしてもいい、ただし合意のやり方は両者間で無限の交渉のパターンがあるというかたちをアーキテクチャに押し込めようとすれば、複雑かつ予測不能性が多すぎるため実装不能です。だからクリエイティブ・コモンズもあらかじめ限定された形でのライセンス形態しか選べないようになっているんだと思うんですね。このように、アーキテクチャに現実のすべてを予期したうえで埋め込むというのは、そもそも現実的でない側面が多々あると思うんです。

鈴木謙:

 そもそも、クリエイティブ・コモンズの認識についてですが、あれは人々の相互契約を誘導するために実装されたアーキテクチャという性格なんですね。つまりコミュニケーションがアーキテクチャに埋め込まれているわけではなくて、むしろアーキテクチャに沿ってコミュニケーションをしてほしいんだ、と。つまり、あらかじめ合法/不法というコードの境界領域をアーキテクチャ上に線引きし、この境界領域にいる限りはユーザ間の相互契約にまかせるというものなんです。

 またレコミュニ(Recomuni)というサービスがあります。ソーシャルネットワークというか、お友達関係でこの曲を聞かせたいという欲求を合法的にどうやって満たすかというときに、ここではSNSというアーキテクチャを選択しているんですね*1

石橋:

 なるほど、クリエイティブ・コモンズは比較的穏やかな方法論だと思うんですけれど、たとえばDRM技術に、オリジナルは著作権管理者の手元に一元管理され、ユーザの手元では1度しか再生できないようにコントロールするというアーキテクチャを導入するとしましょう。これは本来あったユーザの自由が失われるという問題もあるんですが、複雑な権利問題をアーキテクチャに落とし込むことで誤謬が発生する可能性のほうも大いに問題だと思うんですね。

 もちろん要件定義の部分をしっかりと固めればあとはエンジニアがうまくやってくれるかもしれない。しかしそもそも要件定義からして非常に難しいところがありますから、安易にアーキテクチャに押し込めるという選択をしないほうがいいのではないか。

鈴木謙:

 このあたりの事情について、高木さんいかがでしょうか。

高木浩光

 要件定義が簡単なものしか普及していないということですよね。あんまり何も考えずに、直観的に作られたものが普及しているのが現状でしょう。設計図を描く人が理想に燃えて複雑なものを設計したはいいが、そういうのに限って普及しないということが起きている。

 それに関連して思いだしたのですが、さきほど金さんのブログの機能のお話と、共同体の分断化というお話がありましたが、SNSでも達成できていない何かが必要だけどそれはまだ実装できていないのではないかという議論が以前ありました。

 どういうことかと言いますと、まず通常のWebでは情報を書くと即座に完全な公開状態を意味してしまいます。リアルワールドにある友達関係のような小さなグループが、サイバー空間でも育っていくような仕組みを実現したいという要望は間違いなくあると思うのですが、SNSが登場したとき、これはその要望に応えてくれるかもしれないと期待したんですね。

高木浩光
E2:高木浩光

 しかし、実際はというと、最初の会員登録が紹介制になっているだけで、会員がどんどん増えて巨大になってくると、その部分は普通のWebと違わなくなってくる。あとは、その中にメンバー限定の会議室もあるわけですけども、それは従来からあるアクセス制限付きの会議室と違わないアーキテクチャにすぎないですね。知らない人が入りたいと言って来たときにどうするのかは難しいところですし、もし、リアルの知り合いだけを許可するのであれば、そのサイバー空間はただのリアル空間のツールでしかない。

 興味深いのは、無断リンク禁止文化圏では共同体の微妙な成長が実現できるということです*2。アクセスを制限していない普通のWebページで無断リンク禁止としておくことで、知らない人がやってくることを緩やかに避けつつ、サイバー空間での共同体の成長も可能にしている。ところが、無断リンク禁止を認めていると、批判されてしかるべきことや無責任なことを書く人も出てくるため、やはり無断リンク禁止を前提としてWebを使うのはよくないという意見が出てくる。結局、第三者に見られたくないならアクセス制限するべきだということになります。しかしそれでは共同体の成長が止まってしまうんですね。

 無断リンク禁止というやり方とアクセス制限付き会議室の中間にあるはずの何かが欲しいねという議論がときどき出てきているのですが、それを実現するものはまだ出てきていないのではないかと思います。単純なアーキテクチャしか普及しないからなんでしょうか。

石橋:

 話を戻すと、今日は社会全体の話になっているんですが、地域であれ、ある程度コミュニティに特化したかたちであればアーキテクチャに落とし込むことは可能だと思うんですけれども……。

東:

 確かに、石橋さんがおっしゃるように、コミュニティの力を上昇させるために情報技術が使われる局面は無数にあると思います。ただそれは、順序が逆かもしれませんね。地理的条件で人々が集まっていれば、何となくエートスは生まれる。もともとその心理がうまく働いているところに、それをさらに強化するものとして情報技術が使われた、ということなのかもしれない。

 それはそれで検討すべき事例だとは思いますが、今回の議論ではむしろ別のレベルに照準してみたいんです。もともとエートスを共有していない人間どうしが、情報技術によって地理的限界を超える能力を身につけてしまった結果、正面から衝突してしまう。あるいは、当初は共同体の運営がうまくいっていた事例でも、コミュニケーションがサイバーカスケードを引き起こして突然崩壊してしまう。そういう問題にいかに対処するのか。

鈴木謙:

 そうした調停として、「社会的な『正義』よ再び」、という、僕の言葉で言うところの「保守主義」がある。ただですね、僕が保守主義という言葉をうかつに使ってしまったせいもあるのですが、ここでは、いわゆる「保守」というか、右と呼ばれるタイプの話はしていないんですよ。ところが、いわゆる右的な保守が目指すものと、我々の話している正義をめぐる議論は、かなり紙一重という気もする。

 というのも石橋さんから身体や地域という話が出ているんですが、individualなものからdividualなものへ移行するとき、そこに抵抗する理論的なフックは身体なんですね。しかしこうした、身体性や対面の関係が重要だという議論は、ふたつの相反する帰結を導いていると思うんです。ひとつめは、これは『監視社会』(青土社、2002年 asin:4791760085)を書いたデイビッド・ライアンが言っていることですが、監視社会化によって人間の存在が情報化されてあやふやなものになっていくと、最終的な個人認証は、バイオメトリクスのような「身体」を使った形でしかあり得なくなる、ということ。もうひとつは、2ちゃんねるで起こっている「祭り」のように*3、身体的な熱狂状態、「泣ける」というような出来事がフックになって、サイバーカスケードのような事態が生じるという、素朴な、快楽的身体性への回帰。このように考えると、石橋さんがおっしゃっているようなコミュニティ的身体性というのは、安易に寄りかかるのは危険なのではないかという気がするんです。つまり、やっぱり情報化の身体じゃなくて、運動場で直接体を触れ合わせるような身体だろう、と。

東:

 鈴木さんの意見は、地域共同体の強さを強調する石橋さん的な反論には理論的な弱さがあるのだ、というものですね。それはそれで展開していきたいのですが――司会を乗っ取ってしまっていますが(笑)――、ここは、白田さんの問題提起にあらためて戻りましょう。

 白田さんは「閉鎖系」と「開放系」という話をされました。これが今日の話の鍵だと思うんです。サイバースペースの出現以前には、物理的な「大地」「身体」が社会生活の基盤を提供していた。言い換えれば、人工物の層と自然物の層がフィードバックの回路をもっていた。ところが、情報技術の進展によってコミュニケーションが地理的条件から切り離された結果、このフィードバックが働かなくなってしまった。したがって、現在僕たちが問題とすべきなのは、そのフィードバックを回復させる方法である、と。これはきわめて明晰な現状把握だと思うんです。

 そのうえでいまの鈴木さんの話を言い換えると、一方にはバイオメトリクスが、他方には「祭り」的な熱狂があり、この両者はともに、サイバースペースと物理的世界を身体=快楽の水準で繋げ、そのフィードバック・ループを閉じようとする動きなのだ、ということですね。そして、サイバースペースと物理的世界のこのような接合は、まさに監視社会化と動物化を強化してしまう。

 では、これとは異なるフィードバック・ループはありうるのだろうか。それが今日の主題になっていることです。

鈴木謙:

 そして、異なるものはありうるだろうかという議論と、実際その方法が可能だとしても、アーキテクチャに埋め込もうとした瞬間に、実は環境管理型権力をエンハンスするだけに終わってしまうのではないか、という議論のあいだで揺れ動いてきたわけですね。

北田暁大

 白田さんは、法のなかの「使える」部分をアーキテクチャに実装するという戦略を選ばれている。しかしこの「実装していく」という戦略そのものが、環境管理型権力の方法論と危うい裏表の関係にあるわけですよね。このとき、法による対処と環境管理型権力による行為統制とを分かつ基準はどこにあるのか、「異なるフィードバックは可能か」という問題とともに、詰めて考えみたい論点です。

鈴木謙:

 ここで金さんにお話を伺いたいんですが、昨今の日本の若者論のパターンとして、たとえば若者にボランティアを強制させ、失われた身体性と社会性を一気に回復させるべきだという話が無数にあります。しかし僕からみれば、個人の分断化と快楽的身体を単純にエンハンスするだけに終わる気もするんですね。

 そしてさきほど辻さんが社会的目標の話をされていたんですが、この点を金さんに伺いたいんです。というのも、韓国には徴兵制があります。たとえば日本で行われている、ボランティアを強制するべし、子どもに運動させるべしといった議論は、煎じ詰めると最終的には徴兵制に収斂する性格を持っている。日本でも、徴兵制を復活させるべきだといった空気が、必ずしも国防問題とは関係しないままに醸成されつつあるといっても過言ではない。

 そこで韓国社会では、さきほど辻さんがおっしゃっていたような社会的目標の問題と徴兵制の関係はどのようにリンクしているのか、お聞きしたいんですね。

東:

 ひとことで言えば、韓国でネット上での政治的言論が活発なことに、徴兵制の存在は関係しているのか(笑)。

金亮都(以下、金):

 いやぁ……、どうですかね(笑)。

東:

 日本では身体的な自己管理があまりに緩いために、ネットを与えても、2ちゃんねるやらWinnyやらネトゲーやらで、かなりカオティックなことになってしまった(笑)。しかし、韓国だと徴兵制で鍛えられているからそんなことはないのか。

加野瀬未友

 それはまた粗雑な議論ですね(笑)。

東:

 とはいえ、そのような粗雑な議論が横行しかねないのが日本の現状でしょう。インターネットやゲームは、いまでもひきこもりの象徴として語られる。徴兵制とまでは行かなくても、奉仕活動や強制的な政治参加を通じて何らかの公的感覚を若いうちに体に叩き込め、という主張はかなり広く支持され始めているように思います。

白田:

 なんというか、韓国だったら、いざとなれば何事かはやらなくてはならないという感覚はありそうですが、いま日本で事が起これば、「さあどこへ逃げようか」となるに違いないわけです(笑)。

金:

金亮都
E2:金亮都

 白田さんのお話のなかに、目的ではなくて、手段あるいは手続きとしての法があるという話がありましたけれども、徴兵制というのは目的がどうというよりも、まずはプロセスを教えられる仕組みとして韓国社会のなかでは位置づけられると思うんですね。ただ、それとネットワークの関係を語るのは正直非常に難しいことだと思います。

 ただはっきりしているのは、韓国ではまだまだ近代化していこうという目的意識が強い。なぜ韓国でネットワーク社会が大きく発展したかというと、この近代化を情報化にすりかえたうえで、政府も熱心に推進してきたところが大きいと思うんです。

 また韓国では、近代化とは異なり、情報化は知的な活動を支援するものというイメージが強かったんですね。そこで韓国にもともとある、教育熱心な社会的雰囲気とフィットしてきたと思うんです。韓国ではパソコンの普及率が高いのですが*4、これはパソコンで何をするのかわからないけれども、とにかく子どもの知的能力拡張のために何か役に立つだろうという親心が起爆剤になったと言われます。

東:

 韓国もあと5年か10年ぐらいで経済発展が一段落し、日本と同じようなダラダラと弛緩した社会に突入するわけですね。しかしそれでも、北朝鮮情勢が急展開しないかぎり、徴兵制は残り続ける。そこではじめて、徴兵制が若者の社会化装置としてどれほど有効なのか、検証できるかもしれないですね。キャッチアップ型の目標が失われたあとでも、徴兵制は人々に公的な感覚を与え続けるのか。

金:

 ただ、私は徴兵制だけが突出した要因ではないと思うんですよね。

東:

 それはぜひ日本に向かって言ってほしいですね(笑)。

金:

 韓国では徴兵制による身体性というよりも、国民全体のコモンセンスの問題があると思いますね。5年後10年後は変わっていくと思いますが、ただし徴兵制がなくなることはないでしょう。どうしても国際情勢の問題がありますから。

鈴木謙:

 日本はコモンセンスということでいえば、実は世界的にみてもコモンセンスのない国だと思うんですよ。欧米の方と話していても、彼らは一般常識を非常に重んじる印象がある。それは宗教によるものかもしれないし、宗教を核にしたコミュニティによるものかもしれませんが、ともあれいまの日本社会はコモンセンスを消失した状態にある。

 一部の右派の議論では、それは団塊親の世代が全ての価値観を崩壊させたからである、けしからん、ということになっていますが、そうした事実関係はどうあれ、少なくともコモンセンスが共有されていない日本社会では、法がうまく働かなくなっているという議論は現実的だと思いますね。日本社会においてコモンセンスの問題を持ち出すことの意味を考えることもまた重要だということです。

東:

 つまり、ポストモダン的状況や情報社会論とは別に日本社会論が必要だ、ということですね。それはまったくその通りだと思います。




*1:註:インプレス - “性善説”で運営する音楽ファイル流通コミュニティ「レコミュニ」

*2:註:比較的小規模の段階で、ネット上でのコミュニケーションをある程度熟成させるには、文脈を把握できない第三者がそのコミュニティにあまり大多数入ってこないように制限をかける(この場合は無断リンク禁止が手法としてあがっている)ことが重要であるという経験則はよく知られている。

*3:註:isedキーワード祭り」「個人化」「カーニヴァル化」参照のこと。

*4:註:韓国は、韓国ネット利用人口3000万人 - [韓国インターネット事情]All About。日本は、平成15年 通信利用動向調査報告書 世帯編(PDF)

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