ised議事録

02-126. 設計研第2回: 共同討議 第1部(4)

D2:共同討議 第1部
(開催:2005年2月12日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年4月9日)

可視化という生産プロセスの革命――鈴木健からの応答

東浩紀(以下、東):

 つぎは鈴木健さんのコメントです。

鈴木健

鈴木健

 はい。今日のテーマはオープンソースということもあって、ちょっとストールマンを意識してヒゲをはやしてきました(笑)。さっそくですが、僕なりの解釈では、オープンソースとは生産プロセスの革命だと思うんですね*1

 今日の八田さんの講演を自分なりに整理してみます(図:オープンソースをどう解釈するか)。ここでオープンソースをどう解釈するかというフリップを見てほしいのですが、まずオープンソースにおける内面、つまり規律や規範というものについて、ストールマンに代表されるハッカー倫理的なものがまずあったということですね。そしてオープンソース・ライセンスが内面に関与しない環境として機能しているんだということでした。そしてこの環境が、間接的にプログラムの生産プロセスや開発プロセスを制御していると八田さんはおっしゃっていた。実はこの生産プロセスの部分こそが、オープンソースを語るときにもっともフィーチャーして語られるところですよね。たとえばエリック・レイモンドが『伽藍とバザール』で論じたのはまさにこの生産プロセスの話でした。GNU的な開発のプロセスとLinux開発プロセスを伽藍型とバザール型として語るというもので、この辺りの議論はすでに語り尽くされた感もあります。八田さんの講演は、生産プロセスだけを見て説明するのではなく、その内面的規制から環境的規制へと至る歴史をフォローしつつ整理するというもので、非常に面白い議論だと思いました。

図:オープンソースをどう解釈するか
図:オープンソースをどう解釈するか

 ここでオープンソースがどのような歴史的な背景にあるのかを簡単におさらいしておくと、まずストールマンが内面のパッションからフリーなソフトウェアを書きはじめて、GNU GPLというライセンスも考案した。つまり、内面からライセンスという環境管理型権力が生まれてきたわけですね。さらに、Linuxの成功によって意味が転じてしまい生産プロセスの新しい革命の苗床になるわけです。レイモンドたちがしくんだことですが、IBMやHPなどの企業がオープンソースにコミットするようになって、市場が成立した。さらにこの研究会では、オープンソース的な生産プロセスを組織論に応用しようなんてことまで話されるにいたっているわけです。

 このように、ひとつのオープンソースという言葉に対して、いろいろな意味が絡まっているわけです。八田さんはオープンソースにおける多様性の話をされていましたが、まさにいま、多様なモチベーションを持つ人々がオープンソースという言葉に群がっているという状況が起きている。これはどういうことかと考えるに、オープンソースは一種の「コミュニケーション・メディア」として働いていているんだと思うんですね。つまり、ひとつの記号に対して、全く別の役割が人それぞれ与えられてしまっている状況ということです。

鈴木健

 こうした状況の決定打になったのは、オープンソースの自律性というものではないかと考えています。つまり一度オープンソースとして世に公開されれば、八田さんのいうフォークが起きて、自律的に変化をしていく。原著作権者によるコントロールを規制することで、自律的なコードの進化を促しているわけです。これは言ってみればコードの自律的な反応ネットワークとみなすことが可能で、あるAというソースコードとBというソースコードを組み合わせる化学反応が、オープンソースという構造によって制御されている。

 これは実は貨幣が果たしている役割と同じものなんですね。僕はいまやっているPICSYなどをやる前から貨幣についていろいろと考えていたんですが*2、貨幣が現実社会で果たしている役割というのはこの自律的な反応ネットワークの制御ではないかと思う。貨幣論と呼ばれるジャンルの本もたくさん読みましたが、貨幣とはこういうものだという理論が千差万別に存在していて、結局のところ貨幣には究極の理論はない、どれも正しいものであるというのが僕の結論です。つまり、それぞれの人にとっての貨幣の捉え方や貨幣理論は違うんだけれども、ひとつの貨幣というメディアを通してコミュニケーションできるということこそが、貨幣のすごいところなのではないかと思ったんですよ。

 そして、まさにオープンソース・ライセンスは、この貨幣にあたるものではないか。つまり内面的な規範や生産プロセス、それから市場、組織といったそれぞれ違うモチベーションの人々が、まったく違うアプローチで群がることができる状況、それがオープンソースはコミュニケーション・メディアであるということの意味なんですね。

 それでは、この内面(規範)、オープンソース・ライセンス、生産プロセスという3点にわけてコメントしつつ、八田さんの意見をお聞ききしたいと思います。

 まず内面についてです。オープンソース・ライセンスのコアについて八田さんは強調されていたと思うんですが、その内面的な起源を辿っていくと科学者コミュニティの倫理に行き着くんですね。その歴史自体も古く、それこそ古代ギリシアまで遡れる。現代にこれを継承しているのは大学というコミュニティですが、たとえばストールマン自身はMITのAIラボで研究開発活動をすることで科学者の倫理を受け継いでしまった。

 このことは、オープンソースの運動に関わっている人々も自覚的なんです。たとえば『オープンソース・ソフトウェア――彼らはいかにしてビジネススタンダードになったか』(オライリージャパン、1999年)という題で邦訳された本があるんですが、ここの「はじめに」を読むと、リーナス・トーヴァルズというLinuxカーネルプログラマーの名前の由来についてのエピソードが書いてあるんです。リーナスの両親は尊敬していたノーベル賞科学者リーナス・ポーリングの名前を取ったそうなんです。DNAのらせん構造を発見したのはワトソンとクリックというこれも著名な研究者なのですが、このときワトソン・クリックの研究チームと、リーナス・ポーリングのチームがあって競争をしていたわけです。その2つのチームを行き来していたデルブルグという人がいるんですが、ワトソン・クリックがいち早く発見した研究内容を聞いた彼は、口止めされていたにも関わらず喋ってしまう。デルブルグは、科学に秘密主義はあってはならない、知識を共有することで発展するものだという倫理を持っていたからだ、という話なんですね。そしてこの本の「はじめに」は、こうした科学は情報を秘密にしてはいけないという倫理は、オープンソースにも受け継がれているんだというわけです。

 またリーナス自身の言葉を引用すれば、「製品と知識は別物だ」「西洋科学が古代ギリシアから踏襲してきた伝統的な延長線として位置づけられるべきだと思う」と、ある講演で発言しています*3。「自分は科学者だと思っている、だからお金は儲けられない」と明示的に発言している。こうした点からもわかると思うのですが、オープンソースに関わる者の倫理や内面の原点は、古代ギリシャからの科学者コミュニティにあるというとき、そのこと自体が持つ限界はないだろうか、ということについて意見を伺いたいというのがまず一点目です(図:規律(内面)について)。

図:規律(内面)について
図:規律(内面)について

 二点目はライセンスについて、八田さんが例に出されていたフォークを進化生物学的に解釈できるのではないかという話をしてみたい。さきほどソースコード自体が化学反応ネットワークのようなものを形成していると表現しましたが、これはつまり、ソースコードはネットワークとハードウェアのうえを自律的にコピーしていき、途中でコードとコードが合体したり分かれていくというイメージです。そしてオープンソースにおいては、変更する前のライセンスとソースで開発を続行することが可能なわけで、OSDはコードの自律性を明示化しているものだといえます。

 そこで、コードを一種のDNAのようなものだとみなすと、自律的に振る舞うコードは生物的な多様性を発展していくというわけです。となるとプログラムとコンパイラーはたんぱく質のようなもので、DNAとの相互作用が議論できるのではないか。このように、科学者コミュニティにおけるミーム(文化遺伝子)を現実化したのがオープンソースといえるのではないでしょうか。

 そこでオープンソースとは自律的なコードの化学反応ネットワークとその進化とするならば、OSDというのはその力学系の性質を定義するものではないか。つまり、進化の進化という、メタ進化的に制御しているのではないかと思うわけですね。実際、進化生物学の世界では、八田さんは経済学をやられているのでご存知だと思うんですけれども、ここ20年程のあいだゲーム論によって記述されています。そこで、コードをオープンにするかクローズドにするかということについて、ゲーム論的なスキームが使えるのではないかと思うんです。

 たとえば、性淘汰の例を考えてみるといいんですが、性というのは要するに異なった性とマッチングしないかぎり自己を増殖できないという仕組みです。そういう単性生殖にはない不便さがあるにも関わらず、遺伝子を交叉させてコードの多様性を生むことでメリットを獲得するということが、メイナード=スミス*4によって議論されています。

 こうしたメタファーをソフトウェア開発の世界にも当てはめることができるのではないか。たとえばプロプライエタリな企業同士が提携することによって発生するメリットも当然あるわけですし。ただ、こういうメタファーがどこまでオープンソースの話と一致するものなのか。そして、これは「生態系を設計する」ことを議論するのに近いわけで、生物学のなかでも議論を呼ぶような話なんですね。このあたりについてどう考えるのかを聞きたい(図:環境(ライセンス)について)。

図:環境(ライセンス)について
図:環境(ライセンス)について

 三点目は僕がいちばん興味あるところで、生産プロセスの革命としてのオープンソースについてです。重要なのは、僕は可視化、つまりVisibilityの上昇ということだと思うんですね。ソースコードというのは単なる成果物であって、ソースがオープンになっているだけではないと思うんです。ソースを生み出す生産プロセス、たとえば議論した内容やコードを書いた途中のコードといったものも含めて全て公開されるということ。この生産プロセス全体を通じた可視化するのが、いちばん面白いところだと思うんですよ。

 江島健太郎さんのCNETのblog(CNET Japan Blog - 江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance)で、K社のYさんというかたの言葉が引用されているのですが、ここでの議論に通じるものなんです。「人は見られていると、キレイでいようとする。例えば、在庫がいつでも誰からでも見えるようになれば、現場に緊張感が生まれて在庫がだぶつかなくなる。だからITでビジネスを可視化するんです」*5という言葉です。まさにこの可視化がどこまで有効かというものを考えたいんですね。

 ひとつはコピーコストの問題があって、ソフトウェアには無駄が認められるから、可視化をするメリットは大きい。もうひとつは、コースという経済学者の「取引コストの経済学」というのがあって、要は市場での取引と企業組織の内部での調整という2つの経済活動があるとき、その両者のバランスは取引コストの多寡によって決まるというものです。可視化によって取引コストの扱いはどう変化し、組織のサイズや最適化のありかたはどう新しく変化していくのか。また設計研の第1回でも触れたんですが、アジャイル開発手法というのがある。これは組織内プロジェクトに対しての可視化の手法です。こうした可視化がどこまで有効かということですね。

 こうした生産プロセスの可視化という議論は、オープンソースのライセンスをめぐる議論とは別のものとして、独立的に議論できるはずです。これを一般社会に敷衍化したとき、組織の生成消滅変化や、情報の越境性といったテーマが出てくると思うんですね(図:生産プロセス)。

図:生産プロセス
図:生産プロセス

 また僕は個人的に「世界を滑らかにする」というテーマを掲げていまして*6、情報化によってコミュニティが蛸壷化するのではなく、滑らかになるにはどうすればいいのかを考えています。要はオープンソースの面白いところは、その滑らかさに皆感動しているのではないか。少なくとも僕はそこに感動しているんです。オープンソースは滑らかで蛸壷化していないコミュニティを形成していて、そういう生態系が生まれているところが人々を惹きつけてやまないのではないかと思うんですね。取引コストの低下ということは、この世界を滑らかにすることに通じていくのかどうか。といったあたりでコメントを終わります。

八田:

 いや、予想と違って、などというとすごく失礼なんですが(笑)、非常に感動しながらお聞きしていました。とてもわかりやすいコメントをどうもありがとうございます。

 まず内面的な部分についてのご指摘、科学者コミュニティの倫理を継承している限界について。これは僕の解釈では、……だんだん「俺オープンソース*7状態になっているんですが(笑)、科学者コミュニティの倫理を継承できていたのは、フリーソフトウェアの世界までなんですよ。Linuxのリーナスはオープンソース世代の人間ということになっていますが、もしかするとフリーソフトウェアの感覚でやっているのかもしれません。

 僕の見解では、オープンソースが少なくとも普及したという点に関して、企業を取り込んだとのはあきらかに大きかったと思います。つまり科学者コミュニティの倫理にとどまっていたとしたら、どうしてもそれを共有していない人を越えては普及しないわけです。フリーソフトウェアはそういうものだった。その倫理性をはずした瞬間に、倫理がなくても一種のシステムとして維持できるということを示した瞬間に、ビジネスのプレイヤーたちが入ってきたわけですよね。

 しかもここは強調しておきたいんですけれども、ビジネスが入ってきたといっても、別にビジネスに屈したり妥協したわけではなく、もともとのオープンネスというのは保たれているわけですよ。たとえばプロプライエタリなものが大挙して導入されたというわけでは必ずしもない。つまりフリーソフトウェアには科学者倫理の裏返しとして反商業的な思想を持っていたという限界があったわけですが、オープンソースが面白いのは、そういう枠組みを飲み込んだところです。反商業的なグループがいてもいいし、商業的なグループがいてもいいということですね。さきほど僕の発表でも述べましたが、参加者はどんな考えの持ち主でもいいというところが、オープンソースの普及する契機となったのではないかと思うんですよ。

 つぎにライセンスの進化生物学的な解釈についてですが、これはまったくおっしゃる通りといいますか、流行っていますし、面白い世界ですよね、はい(笑)。といいますか、そもそも僕がこういうスキームに影響されて講演のような話を考えているわけでして、トートロジー的な感じではありますが。そして、進化生物学的なメタファーをどこまで適用できるのかという問いについてですが、これはできると思います。ゲーム論を用いて、社会システムや法律、ルールを記述・分析しようという研究プログラム*8は有力なものです。ただ、僕自身はあまりゲーム論に能がなくて自分では展開できないものですから(笑)、どなたか数理的なモデル組んでくれるといいのですが。

 コメントのなかで一番に感動したのは、OSDを「力学系の性質を定義するもの」とおっしゃた部分でした。ああ、なるほどその通りだな、実はそういうことが言いたかったと思ったんです。つまりOSDは重力のようなものであるということですよね。

鈴木健

 そうそう。

八田:

 ここはまさにおっしゃる通りだと思います。さらに生態系を設計するという話なのですけれども、僕は「設計する」という話がどうも引っかかるんですね。設計するのはいいのですが、それでうまくいったからといって、また別の二回目がその通りに再現できるのか。端的にいうと、オープンソースを再発明できるのか。オープンソースの経過を再現できるのか。あるいは計画的にオープンソースを実現できるのか。これ、僕はできないような気がするんです。けれどもこの部分は明確にお話することができません。まだ思考中の段階です。

 最後に生産プロセスの可視化というご指摘ですが、これは僕も思いつかなかったことですね。たしかに見られているということは重要で、たとえば汚いコードを書いているとバカにされますからキレイなコードを書こうという動機が多少生まれるというのはある。また、セキュリティの問題なんかに関しても、――迂闊なことをいうと高木浩光先生に攻撃されそうですが(笑)――要は公開されているためにいい加減なことができないわけです。ですから可視化が大きな意味を持っているのはその通りだと思います。

 また取引コストの経済学自体は僕が学問的なベースにしている部分ですから、共通するのはむしろ当然ですね。ただし、可視化を一般社会に敷衍したとき、組織の生成消滅変化と情報の越境性はどうなるのか。これはおっしゃることはなんとなくわかるのですが、難しい問題なので返答しにくいですね。世界は滑らかになるのか……。

鈴木健

 僕もよくわからないので聞いているんですけどね(笑)。

八田:

八田真行

 うーん、滑らかになるといいですよねえ……(笑)。なんて冗談はさておきですね、これは楠さんも指摘されていた設計者コミュニティの脆弱性という話にもつながると思うのですが、個人的にはオープンソースというのはかなり変な前提に乗っかってしまっている話だと思うんですね。ですから、一般社会に敷衍して皆が幸せになるかというと、あまりそうは思えない。けれどもその根拠を示すことが、いまは残念ながらできないんですよ。ただ、さきほど述べたのはオープンソースに参加してる集団というのはある程度均一で、価値観や考えていることが基本的にはそんなに変わらない、といった前提が暗黙のうちにあるのは確かです。あやふやなお答えですが。




*1:註:自身のブログでも議論が展開されている。→PICSY blog: オープンソースの本質

*2:註:鈴木健ネットコミュニティ通貨の玉手箱」(2001年)という論文にその思考がまとめられている。

*3:註:以下の講演。→News:「クズのような発言」とTorvalds氏――MS vs. オープンソースの舌戦

*4:註:イギリスの生物学者。進化論ゲーム理論を導入し、『利己的な遺伝子』のリチャード・ドーキンスなどと並んで知られるネオ・ダーウィニズムの中心的研究者。主著に『進化とゲーム理論』(産業図書、1985年 asin:4782815018)など。参考:進化ゲーム理論とは

*5:註:以下より引用。→CNET Japan Blog - 江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance:ベンダーに騙されないためにITを学ぶ

*6:註:PICSY blog: ぼくらのマントラ

*7:註:「オープンソースの定義OSD)」から逸脱した非オープンソースのソフトウェアを「オープンソース」と名乗って配布・販売・解説される事例は多く、オープンソース開発者からはしばしば「俺オープンソース」と呼ばれる。2003年に起きたIT@RIETI - オープンソースと知的財産権-をめぐった論争について、あわせて以下を参照のこと。→八田真行 japan.linux.com | 『「オープンソースの定義』の意義」。みんなの考えたオープンソースライセンス解説

*8:註:たとえば青木昌彦らの「比較制度分析」が著名。参考:青木昌彦・奥野正寛『経済システムの比較制度分析』(東京大学出版会、1996年 asin:4130421026

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