ised議事録

02-1210. 設計研第2回: 共同討議 第2部(3)

D2:共同討議 第2部
(開催:2005年2月12日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年4月9日)

多様性のパラドクスと「設計者の設計」問題

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

鈴木謙介

 わかりました。3つ問題点を提起したいと思います。

 まず一点目ですが、オープンソースをモデルとした組織論はかなり大きい問題につながると思うんですね。それは八田さんも環境管理型権力という言葉を使って強調されていたように、オープンソースは内面に期待しなくてよいシステムであるということです。つまり、ある特定の意思や倫理をもっているから信頼できる、といった他者の内面的部分への期待を必要としないで回るシステムであるということです。

 こうしたシステムを政治の場面にも適用する必要があるのではないか。実は政治学や政治哲学、法哲学のなかでは、ここ20年ぐらい議論されているテーマのひとつなんですね。キーワードとしては「アリストテレス」か「マキャベリ」か、という風に言えます。アリストテレスは「人はかくあるべし」ということを人に要求するタイプの思考法で、マキャベリは「人はかくあるべし」ということを人に期待「しない」という方法です。

 倫理研というのは、文字通りもちろん、できればアリストテレスをできれば志向したいと考える人たちの集まりで(笑)、つまり情報社会の問題とは倫理の喪失であると考えるわけです。しかし、マキャベリ的な発想は、たとえばサイバーリバタリアニズムとして立ち現れ、非常に強い力を持ち始めているというのが研究会としては言われているわけですね。たとえば楠さんがソフトウェア設計と制度設計の差異を論じた際、社会制度は簡単にやり戻せないという話が出てきました。しかしリバタリアン的には、「失敗しちゃったみたいだけど、自己責任でよろしく」という形で、個人に責任を帰属させようとするわけです。はたしてここに問題はないのかというかたちで、倫理研にこの問題は引き継いでいけるのかなと思います。

 次に二点目の論点ですが、憲法論の話をします。というのも憲法というのは、ある種の「設計の設計」、そもそものその社会が目指すべき価値を選択するものとして存在してきたものなんですね*1。つまり憲法は、法がどのように書かれるべきであるのかを定義するメタ定義なわけです。つまり、八田さんの今日のお話でいうところのOSDという存在は、個別のライセンスを法とみなせば憲法と呼ぶべきものです。憲法的な枠組みがあり、そこから法が書かれていくという構図ですね。

 OSDを憲法としてみたとき、再定義可能性の問題がまず出てきます。憲法もたしかに再定義の方法については明示されています。そして改正もできる。変えようと思えば変えられる。ただ、この「定義の定義を行うようなもの」は複数存在してよいのか、という問題が残ってしまう。というのもこれは佐藤俊樹さんという社会学者が論じていることですが、たとえば人権はすべての人に平等に備わっている。ならば、論理的には人権を保障する機関は世界にひとつしかないはずであるだ、と。しかし実際には、人権を保障し守ってくれというときの宛先は国家であって、国家の憲法が個別に保障している。つまり複数存在してしまっている。これはなぜか、と佐藤さんは論じているんです。その理由は、つまり人権保障の宛先がひとつしかない社会というのは、言葉の定義上、全体主義の社会でしかないわけで、これでは選びなおしができないという問題が生まれてしまう。そこで国家が個別に複数の人権を保障することによって、選びなおしを保障していると考えることができるわけです。そこに国家と憲法の複数性の機能がある。

 そこで話をオープンソースに戻したときに、それは再定義できるというだけでなく、複数存在するということはありえないのか、ということを問うておきたいんですね。

 最後に三点目の論点になりますが、それは「設計者」の設計についてです。「もののつくり方のつくり方」は設計できるとしても、設計者を設計できるかという問題は重要だと思うんですね。さきほどから、組織論的なオープンソースをめぐる議論が展開されてきました。お金だけがモチベーションではない働き方といった話や、オープンな情報共有によって縦割りを超えるといった話ですね。こうした職業集団の話を近代/前近代というレベルにまで引き上げてみたいんです。

 前近代においては、アルチザンと呼ばれる熟練工、職人たちがモノを作っていました。アルチザンというのはいまの英語に直せばアーティストということですが、レオナルド・ダ・ヴィンチをイメージしてもらえばわかるかと思うんです。つまりアルチザンにおいては、職業工としてモノを作ることと、芸術家として世界に触れることが一体となっていた。しかし、近代に入ると産業革命が起き、工場労働が中心になると、熟練工という存在は不要になっていきます。命令された通りに分業をすればよいというのが近代社会なわけです。こうした過度の専門化、分業化は近代における合理化のひとつですが、最終的には鉄の檻となるだろうと言ったのはマックス・ウェーバーでした。

鈴木謙介

 かように近代は非アルチザン的な社会である。しかし、オープンソース的なある種の楽しさ、面白さに基づいて労働を行うということはなにを意味するのか*2。つまりハッカーたちはアルチザンなのか非アルチザンなのか、それとも「アルチザン的な非アルチザン」なのか、ということがおそらく問われなければならないのではないかと思うんですね。

 なぜかというと、八田さんは講演のなかで、「ハッカー倫理を持つハッカーはいなくなる」ということをおっしゃっていたからなんです。ハッカーがいなくなる、あるいはハッカー的な倫理を内面化した人がいなくなるとすると、それに対処をしなくてはならないでしょう。つまり、たとえばいまはインターネットの中身について知らなくとも、ネットに接続できるような環境があります。中身を知る設計者など必要なく、そもそもそうした人間がいないくともまわるシステムを設計するのか。それとも、アルチザン的に内面化された規範ありきで、設計者になりたいと思うような人間が一定数出てくるようなシステムでなければならないのか。これがひとつの大きな分岐点になると思っています。

 ここまでの議論ですと、こうしたアルチザンがいなくともいいという方向に傾いている気がします。あるいは、全体的なシステムの設計図や、システムのイニシャルステップを意識しなくとも、皆がアルチザン的にコードを書いているといつのまにか全体としては最適になっているような世界。もちろん、皆さんも完璧に倫理などない世界に突入してよいとは考えていないと思うのですが、ともあれ設計者の設計という3番目の論点はこういう問題意識なんですね。八田さんはどうお考えですか。

八田真行(以下、八田):

 非常に面白い論点ですね。できれば僕がしゃべらずに済ませたいと思っていた部分です(笑)。まず二番目の論点から、要するにメタライセンスは「オープンソース」だけでいいのか、ということだと思うんですが、僕としてはオープンソースの重要性は「多様性を確保すること」だと論じていた。

鈴木謙:

 では、多様性を確保しないというメタライセンスの存在は認められるのでしょうか。つまり多様性を許容しないものを許容する多様性、ということですね。複数のメタライセンスということを考えると、こういう問題に突き当たると思うんだけれども。

八田:

 いや、それは認められないのでは? ただ現実問題としては、オープンソースは必ずしもオープンソース内部からだけではなく、ストールマンフリーソフトウェアなど、様々なところから批判の攻撃にさらされているわけです。しかし、それによってオープンソースがまずい方向へ向かうこともないですし、OSIが勝手にオープンソース的なものを決めるということもできない。というように、鈴木さんがおっしゃった水準での多様性も、十分に鍵になっていると思います。今回のプレゼンではそのあたりの話をうまくできませんでしたが。

 それから2番目におっしゃった設計者の設計をどうするかという話ですね。今回の話に関しては、フリーソフトウェアを提唱したストールマン、あるいはオープンソースという言葉をつくったエリック・レイモンドのふたりとも、結局ハッカー倫理があった時代の生き残りなんですね。そして彼らは設計者を作り出すことに成功してはいない。たとえば僕は、彼らと同じ倫理は全然共有していないんです。あくまで僕はオープンソースをめぐる話が好きだから勝手に勉強しただけであって、僕と同世代くらいの人がハッカー倫理を内面化しているかというと、全く内面化していない。だからオープンソースにせよフリーソフトウェアにせよ、昔の人が昔のほうがいいなと思って設計したという構造になっているとも言える。決して設計者を設計することを意識したわけではないですね。

東浩紀(以下、東):

東浩紀

 ちょっと口を挟みますね。さきほど鈴木謙介さんが展開した論理は、人文系ではよく見かけるものです。「多様性を認めない存在がいたとしよう。それを認める多様性はありうるのか。これは根本的なパラドクスだ」というわけですが、これは古典的な論理パズルにすぎなくて、実践的にはたいして重要な問題じゃないと思うんですよ。多様性は多様性を認めない存在よりもつねにメタレベルに立つ、なぜならば多様性とはそもそもメタに立とうとする「運動」としてあるからだ、ということで簡単に片が付くと思うんですね。「設計者を設計できるか」についても同じです。そのような問題を静的論理で捉えようとすること、それそのものが間違いだと思う。

 だから議論は具体的かつ実践的に行うべきなんだけど、そうすると、はてなアーキテクチャは、あるていど「設計者を設計する」のに成功していると思うんですね。少なくとも、そういう可能性は見いだせる。順を追って説明しますとね、僕の考えでは、たいていのはてなダイアリーのユーザーは、最初は自分のダイアリーページしか作らないつもりなんですよ。でも、日記を書いていると、いつのまにかキーワードリンクを介して半ば強引にはてなコミュニティ全体へと結びつけられてしまう。自分のページだけを作っているつもりが、あちこちが勝手にハイパーリンクになっていて、それらをクリックするとキーワードが載っている。そしていろいろ見てまわっていると、自分に納得のいかない解説が書いてあるキーワードを見つけるわけです(笑)。すると、これを直すにはどうしたらいいんだろうというモチベーションが生まれて、キーワードの修正や作成へと自然に誘導されていく。そういう過程は実際に機能していると思いますが、この誘導方法はかなり優れていると思うんですね。

 こうした誘導と、さきほど石橋さんがいわれたような再定義可能性の担保をうまく掛け合わせることができれば、自分のことしか考えていなくても、実はいつの間にか自分を存在させているアーキテクチャ再定義可能性に触れることができるような構造を設計できるのではないか。

 そして、さらに付け加えると、このようなアーキテクチャの性質の問題と、鈴木謙介さんが言う「価値」の問題は切り分けるべきだと思う。たとえば、ユーザーがはてな全体をよくしたいと思う、というのが価値ですね。そして、その価値をひとりひとりにビルトインさせるのは教育の問題です。ただ、教育には二種類ある。価値そのものを教え込む規律訓練型の教育と、特定の価値へと自然に誘導してしまう環境管理型の教育です。はてなの場合は後者ですね。とりあえず自分のページだけをいじりたいという個人的な欲望だけでも、必然的にキーワードシステムに導かれるようになる。それそのものが巧みな洗脳なのではないか、と問題提起することもできるとは思うけど(笑)、とりあえず、それは価値の押しつけとは区別されねばならない。

楠正憲(以下、楠):

楠正憲

 設計者を設計できるかというとき、八田さんの議論のポイントはハッカー倫理が残らないであろうという点ですよね。そもそもハッカー倫理自体が70年代的なカウンターカルチャーの影響をものすごく受けていて、イヴァン・イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』(日本エディタースクール出版部、1989年 asin:4888881480)を読んでインターネットを設計していたという世界ですよね*3。その同時代性はもはや共有しようがない。あるいは僕らは歴史性として学ぶほかはない。

 しかし、設計自体はエッジの効いた技術領域で起こるのが常であるわけです。一方でなぜインターネット・エンジニアは30代後半から40代が中心かというと、それはもはやインターネット・エンジニアリングという分野自体に新しいことは何もないということでしかないとも言える。だからおそらく、同時代的な設計者が新しい設計のスタイルを作っているとしたら、そこでならばもっと暴れられそうだということで盛り上がっていくしかないのではないかと思うんです。

東:

 まさにその通りで、特定の時代性を帯びた倫理はもはや生き残れない。

 ただみなさんのお話を聞いていて思ったのは、そのような特定の「倫理」あるいは「価値」がなくても全体性が再生されるようなパスはないのか、ということです。価値の問題に触れなくても、全体について必然的に考えざるをえないような仕組み、環境の再定義可能性に開かれるような回路を作ることはできないのか。

楠:

 それはまさに鈴木健さんのPICSYがそういうものとして設計されていますね。

東:

 そうですね。そして今日の八田さんの話は、オープンソースの定義もそういう試みとして捉えることができるのではないか、という提案だったと思うんです。価値はインストールしない。全体を見渡すべしとか、オープンソース・コミュニティ全体はかくあるべしという価値観は叩き込まない。だけれども、ある種の再定義可能性をビルトインしておくことで、つねに個が全体に対して開かれているようなイメージですね。楠さんは、さきほどのコメントで、個と全体=環境のあいだのフィードバックを作る仕組みを環境にビルトインする必要があるのではないかと指摘されていましたが、問題意識は通じます。

鈴木謙:

 たしかにそれでもまわるとは思うのですが、これまで問題としてケアできていた部分がケアできなくなる可能性があるのではないか。というよりは、たとえ内面化した人間がどんどんいなくなったとしても問題がないのであれば、その方向へ向かうことは不可避だと思うんです。

 たとえば、これから社会が二極化する、分断すると言われていますよね。状況はよく似ていて、つまり二極化によって貧乏人が増えたのでよくないとみなすのか、増えてはいるけれどそれで社会はまわっているからいいとみなすのか、というのがおそらく主要な対立になるんじゃないか。

鈴木健

鈴木健

 お伺いしたいことがあって、アリストテレスかマキャベリかという話を初めて僕は聞いたんだが、それはJ・S・ミルの「豚とソクラテス*4ということですよね?

東:

 え?(笑)。なんかそのメタファーは危険な感じが……(笑)。

鈴木健

 どうもメタファーが理解されなかったようです(笑)、倫理学の教科書で昔読んだ気がしたんですが。ともあれアリストテレスかマキャベリかという話がありましたが、つまりこれは説得か設計か、という二元論の話になっていて、いまは「説得から設計へ」と移り変わっているんだ、と。ただ僕はそれが一元論でどちらかだけになってしまうのはまずいと思っていて、両方とも残して二元論の構図で議論しないといけないと思うんですね。どうも、1メートルの幅がある中でちょっと端のほうに1ミリずれたら、一気にすべてが端に寄ってしまうかもしれないというような議論をしている気がしていて、それは意味がないと思う。両者は太古の昔から両立しながらやってきたのだから。

東:

東浩紀

 とはいえ、違いはあると思うんですよ。説得か設計かというのを、あえて規律訓練環境管理というふうに言い直させてもらうと、その両者は確かにいままである種の調和をもって作動し続けてきたんだと思うんです。しかし、そのバランスはいま急速に崩れつつある。その背景にあるのは人間社会の規模だと思うんです。漠然とした話になってしまうけれど、人間にはやはり脳的に、想像可能な集団の規模に限界があると思うんですね*5。ひとり100人までは記憶できるとして、友達の友達の友達までは感情移入の対象にできるとしたら、100万人ぐらいまでは「ひとつ」の集団として組織化できるのかもしれない。しかし、一定数を超えると、ひとりひとりに社会的な価値観を内面化させるという過程が機能しなくなる。鈴木健さんにならって大きな話をすると(笑)、この200年ほど人類社会が直面しているのは、そういう問題じゃないでしょうか。

 それで、西欧と日本ではとりあえず国民国家なるものを作ってみたけれど、これもどうやら耐用年数が尽きている。設計型権力あるいは環境管理型権力の上昇というのは、そういう唯物論的な変化を背景にして起きていると思うんです。だから、それは昔からあったことだ、という意見は違うのかな、と。

鈴木健

 それはつまり、多様性自体が価値になるといわれるのは、規模によるバランスの変化の一つということでしょう。だから「多様性自体が価値である」ということを説得しなきゃいけなくなってしまう。

東:

 多様性そのものを価値して、全体をまとめればいいというお話でしょうか。その場合は「多様性自体は価値である」と言わなくてもいいんです。むしろ、多様性=価値だと考えた瞬間、鈴木謙介さんが述べたパラドクスに足をとられてしまう。「多様性を否定する価値を、多様性という価値のなかに組み込むとどうなるんだ」、と。

鈴木健

 つまり、背理法を使っているからね。多様性に価値があることを示そうとしてもパラドクスに陥ってしまう。無限に演繹できてしまいますからね。

東:

 そうですね。

 さきほどの話に戻りますが、鈴木謙介さんは二極化と言っていました。それは、片方にアーキテクチャのエリート設計者が、もう片方に小さいコミュニティで騒ぐのみの大衆がいる、という発想だと思うんです。踊らせる側と踊らされている側の対立というか。

 他方、さきほど僕が言ったのは、「はてなモデル」とでも呼べる別の発想があるのではないか、ということですね。もはや実在するはてなのサービスと、いま僕の頭のなかにある「はてなモデル」は無関係なのかもしれないけど(笑)、ともあれ、各人は自分の趣味のことしか考えていない、にもかかわらず、いつのまにかアーキテクチャのレベルで全体性に寄与してしまっているような構造が作れるのではないか。もしそうだとすれば、その場合の問題はなにか。

鈴木健

 ええとすいません、そこで話を続けたいんですが。

東:

 あ、そうですね。すいません。司会に徹します(笑)。

鈴木健

 まさにそれを言いたくて、僕はよく「物語としてソフトウェアを書く」と言うんですが*6、僕もはてなのインターフェイスを触った瞬間に、近藤さんに会ったことはなかったんですけど、「あっこれは」と感じるものがあった。そういう伝達力や感覚の入れ物としての性格がソフトウェアにもあってですね、実はプログラマーというのは文学をやっているんだと思うんです。実際、プログラムの物語性に説得されることは往々にしてある。ソフトウェアにより人間の知覚はどんどん組み変わっていくという、こうした新しい説得行為はありうるだろう、ということですね。

 最後にもう一点なんですが、楠さんは「ソフトウェアはやり直しができるけれども、社会はやり直しができない」という話をしていましたが、僕はそんなことはまったくないと思う。いままでの社会の歴史を見れば、本当に酷いことやってはもう失敗しての繰り返しじゃないですか。

東:

 とはいえ、社会はやり直しできるけども人生はやり直しができないでしょう。

鈴木健

 安全保障や自然権の問題だということですか。

東:

 たとえば社会主義は壮大な実験だった。その失敗で人類は教訓を得た。よかったよかった、と言っても、50年前にロシアに生まれた人々にとってはそうはいかないよな、という話です。

石橋啓一郎

 ただ、ソフトウェアにもやり直しがきかないものはいくらでもあると思うんですよ。核ミサイルを発射するソフトウェアはやり直しがきかないわけです(笑)。だからそれは程度の問題でしかない。

井庭崇

 かけた時間の違いもあるでしょうね。たとえば1日だけなら取り戻せても、それが10年経ってしまうともう取り戻せない。

鈴木健

鈴木健

 いや、つまり議論をなめらかにしたいんですよ(笑)。対立するんじゃなくて両方認めることはできないものか。社会実験はもっとやるべきだと思っていてですね、たとえば経済特区*7といったものですね。またアメリカは州ごとに勝手に法律をつくって、うまくいくようならば全州に受け継がれるという仕組みがある。だからアメリカは発展できたと思うんですね。そして日本では中央集権性が強かったので、そういうことはあまり出来なかったわけです。ただ、これからの日本はいろいろそのあたりも変わってきますし、社会実験をもっとボトムレイヤーから盛り上げていこうという気運が高まっている。これはいいことだと本当に思う。

 ただ、安全保障とか社会保障の一番下のレイヤーの話がある。自然権や革命権、あるいは戦争をどうするのか、餓死したらどうするかといった話が絡んでくると、非常にエグイわけです。でも、そういうエグイ話以外のレイヤーというのは社会にはたくさんあって、エグイ部分は5%の人たちがずっとその問題に取り組まないといけない。これは仕方がないのかもしれない。ただ残りの95%は、面白さを追求していくというのはいいことだと思いますよ。

楠:

 すごく大事なことだと思いますが、そのためにはですね、政策が失敗することもあるということを積極的に認めていく必要がありますよね。

鈴木健

 認めなきゃいけないですよ、もちろん。人間がやってるんですから、しょうがないよね(笑)。

村上敬亮

 そうだそうだ(笑)。

石橋:

 地方分権というのは本来そういうことだったわけですよね。

楠:

 井庭さんもおっしゃったように、サンクコスト(埋没費用)*8が大きくなればなるほど引き返せなくなるというのは、経済学的にはそういうものなのかもしれない。でも、そうではない道筋をつけられないかということですよね。

鈴木健

 さきほど東さんが指摘した規模の問題も、サンクコストと似た話ですね。





*1:註:isedキーワード価値の選択」参照のこと。

*2:註:アルチザン的な「世界」との直接的で魔術的な接触は、近代化の過程で不要とされ合理的なものに置き換えられていく。この過程をウェーバーは「脱魔術化」として捉えた。しかし、いま「再魔術化」と呼べるフェイズにあるのではないかと山之内靖は論じている。参考:山之内靖『脱魔術化する世界』(御茶の水書房、2004年 asin:4275003217) また、ポストフォーディズム的労働形態において趣味(余暇)と労働が曖昧とされる過程については、酒井隆史渋谷望らの議論を参照のこと。2003.12.01.発行 vol.160.5 [臨時増刊号・バイオポリティクス6] 酒井隆史『自由論』(青土社、2001年 asin:4791758986)/渋谷望『魂の労働』(青土社、2003年 asin:4791760689

*3:註:古瀬幸広・廣瀬克哉『インターネットが変える世界』(岩波新書、1996年 asin:4004304326)には、パーソナル・コンピュータの設計者の先駆的存在であったリー・フェルゼンシュタイン(Lee Felsenstein)がこのイリイチに影響されたエピソードが紹介されている。参考:古瀬幸広「インターネット教育

*4:註:J・S・ミル『功利主義論』には、「ほとんどの人間は、動物的快楽を完全に与えられるという約束と引き換えに、人間より下等な動物のどれかに変えられることに同意しないであろう。知性ある人間存在は、だれも馬鹿者になることを同意しないし、教育を受けた人物は誰でも、利己的で下劣なものになることに、同意しないだろう。(中略)満足した豚であるよりは、満足しない人間であるほうがよい。満足した馬鹿者であるよりは、満足しないソクラテスであるほうがいい。」という著名な比喩がある。「太った豚よりもやせたソクラテスになれ」といった文言もある。

*5:註:たとえばロビン・ダンバー『ことばの起源』(青土社、1998年 asin:4791756681)では、サルと人間の大脳新皮質を比較して群れの規模を計算すると、人間の場合は150人程度ではないか、という仮説を提出している。

*6:註:物語としてのソフトウェアと社会システム -PICSYとgumonji-

*7:註:日本では「構造改革特別区域」という名称。→首相官邸 - 第1弾認定された構造改革特別区域計画について

*8:註:すでに払ってしまって、売る払ったりすることなどができず、戻ってこないコストのこと。経済学では意思決定に影響を与えないコストとして扱われる。

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