ised議事録

03-121. 倫理研第3回: 北田暁大 講演(1)

題目:「ディスクルス(倫理)の構造転換」

E3:ディスクルス(倫理)の構造転換
(開催:2005年3月12日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年5月14日)

北田暁大 KITADA Akihiro

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/2948/
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/
東京大学大学院情報学環学際情報学府 助教授

 1971年生まれ。東京大学大学院人文社会研究科博士課程退学。専攻は理論社会学、メディア文化史(広告)。主著に、広告研究の著作として『広告の誕生』(岩波書店、2000年)、『広告都市・東京』(廣済堂出版、 2002年)。倫理学・リベラリズム思想の検討を行う『責任と正義――リベラリズムの居場所』(勁草書房、2003年)。メディア論として『<意味>への抗い』(せりか書房、2004年)など。また情報社会論として、「世界」(岩波書店)、 2003年11月号掲載の「嗤う日本のナショナリズム――『2ちゃんねる』にみるアイロニズムロマン主義」では、現代の匿名掲示板文化を、日本のテレビ文化史という時代的背景から説得的に分析し、大きな反響を呼ぶ。その守備範囲の広さと理論的思考の綿密さから、現在もっとも期待される若手知識人の一人。

0. はじめに

 今日は「ディスクルス(倫理)の構造転換」というタイトルでお話したいと思います。これまで倫理研では「インターネット上の価値形成のメカニズム」や、ある種の集合行動性などが議論の対象になってきましたが、今回はそれらを機能論的、機能主義的に整理したうえで、政治哲学的/規範論的な問いへと送り返していきたいと思います。「機能主義的」というのは、たとえばコミュニタリアニズムアナーキズム保守主義などといった立場を「価値にもとづく共同性、関係性の構想」として捉えるのではなく、社会システム論的に「複雑性を縮減するメカニズム」として考えるということです。

 そこで叩き台的に考えていかなければならないのが、社会学の土壌でインターネット研究と倫理・規範論を接続してきた、ユルゲン・ハーバーマスの「公共圏」という概念です。講演タイトルの「ディスクルス」というのは、その公共圏思想の中核になっている「討議」を意味するドイツ語で、公共圏を支えるある種のコミュニケーション形式のことです。最終的には、この公共圏という発想自体も機能論的に捉えなおすべきという立場をとっていくことにします。

0. ネット公共圏論に対する問題提起

図:問題提起
図:問題提起

 それでは、CMCによる電子民主主義(e-democracy)、電子公共圏と呼ばれるものに関する問題提起からはじめましょう。この“CMC(Computer-Mediated Communication)”というのは社会心理学の用語で、Eメール・BBS・チャット、そして最近であればブログやSocial Networking Service(SNS)なども包含する幅広い概念で、「コンピュータを媒介したコミュニケーション」という意味です。ただし二者間の「通信」的な要素が強いものは議論の対象から外し、第三者がコミュニケーションに介在する公的な性格の強いものを念頭に置きながら話を進めます。

 さて、この議論に、以下の3点から問題提起していきたいと思います。

 1)ひとつめはメディア論的視点、あるいはコミュニケーション論的な観点からの問題提起です。そもそも公共圏とはハーバーマスが西欧近代のサロンやカフェ、といったコミュニケーション空間を前提にモデル化したものですから、それに似たものがCMCにも観察されるといっても、それは単なるアナロジーにすぎない。それがあくまでコンピュータによって媒介されているということ、そのコミュニケーション論的な意味をきちんと考えていく必要があるのではないか。たとえばサイバーカスケードやフレーミング flaming(炎上)の発生するメカニズムを、メディア的条件から考えていく必要があるでしょう。

 2)ふたつめは規範論的な視点からの問題提起です。つまりCMCにおける関係性、共同性はいかなる倫理的価値を持つのか、持つべきなのか、ということについて社会哲学的な考察が必要だろうということです。

 3)そして最後に、ised@glocomで今後もっとも検討されていくであろう、いかにしてアーキテクチャを設計していくのかという視点。別の言葉で言えば、コミュニケーション・デザインの観点から公共圏を考えねばならないということです。

0-1. 社会学の現状

 さて、現状の社会学や社会心理学においては、1番と2番の視点が分裂状況にあるのではないかと考えています。つまり、社会心理学者を中心にコミュニケーション論的な研究が進んでいる一方で、人文寄りの社会学では規範論的な色彩が濃く、コンピュータによって媒介されているという事実性が希薄になっているように思える。その両極に二分化されているのではないか。

 1の視点の中心を担っている社会心理学の特徴は、「ある特定のコミュニケーション・デザインが実装されているメディアの機能を、コミュニケーション特性の事実的な観察の後に、推定する」というものです。まわりくどい表現ですが、こういうことです。社会心理学者は、情報技術がコミュニケーションの質を変えるという技術決定論的な見方をせず、「技術の特性」をまず括弧入れ(ブラックボックス化)し、そのブラックボックスを通した場合と通さない場合、いかなる差異があるかということを観察します。そこで出てきた特徴的な差異が、当該情報技術のコミュニケーション特性だというわけです。あくまでマクルーハン的な意味でのメディア論にはニュートラルな立場を取っている。

 こうした社会心理学的な先行研究として、今日の文献リストでは池田謙一先生のものを挙げさせていただいています*1池田先生は、ことさらに人間のコミュニケーションの本質がコンピュータによって大きく変わったという視点は採られていないと思います。むしろ、それは一種の増幅効果しか持っていない、つまりインターネットはFace to Faceあるいはマス・メディアを介したコミュニケーションの、ある特徴を肥大させる傾向はあるけれども、そうしたコミュニケーションと大きな質的差異、断絶によって隔てられているわけでない。そのようにお考えなのではないか。もちろん、何も変わらないといっているのではありません。ネットが可能にする「オルタナティブ・メディアの常在」「情報縁の多様な機会の存在」「大小の多彩で無数の集団の増殖」といった「事実」については、突っ込んだ議論を展開されています。要するに、「メディア批評家」*2が想定するようなドラスティックな変化、コンピュータの技術的特性とダイレクトに結びついたコミュニケーションの構造変化があるとはいえない、ということです。きわめて禁欲的な姿勢ですが、それは社会心理学的なメディア研究の方法論的エートスに裏打ちされたものといえます。私は門外漢ではありますが、そういう方法論的エートスは多くの社会心理学者が共有しているもののように思います。

 またこうした社会心理学系の例として、私のお師匠のひとり橋元良明先生の研究されている「インターネット・パラドックス論」について言及しておきましょう*3。インターネット・パラドックス論とは簡単にいうと、「インターネットは人々のコミュニケーション環境を豊かにするというが、どうも調べてみると反対の結果、たとえばインターネット利用によって家族とのコミュニケーションが減少したり、社会的ネットワークが縮小して孤独感が増すといった傾向がある」ということを示した実証的研究です。これはカーネギーメロン大学のクラウトらが研究をしていた*4のですが、その後のフォローアップ調査などでは、同様の結果は得られなかった。橋元先生のグループも同様の研究を日本で試みていますが、やはり「パラドクス」は観察されなかった。日本でのパネル調査では、むしろインターネット高利用者ほど社会的ネットワークの規模は大きく、孤独感などの心理的傾向、家族との会話量はネット利用の有無、利用頻度とは有意な関連はない、という結果が出ています。

 どうしてこのような結果になったのでしょうか。橋元先生は、技術の影響云々というよりは、ネットを取り巻く外的な環境に着目されています。つまり、クラウトらははじめオンラインでの希薄な関係性が孤独感、社会的ネットワークの縮小を招くと考えていたわけだが、結局そうした「仮説」は、調査が行われた時期においてはまだオンライン人口、アプリケーションが少なかった、という身も蓋もない外的原因によるものだった、と。つまり、インターネットという技術そのものが社会に与える影響というのは、実はあまり濃くはないのではないかということですね。インターネットが固有に持つ特性がどうこうというよりは、コンテンツ、アプリケーションなどの未整備が、たまたまある時期のユーザたちを「パラドキシカル」な状態に置いていたにすぎない。文明論的言説から徹底して距離をとる社会心理学者らしい見解です。

 こうした冷静な議論を踏まえることは重要です。私たちは「ITで社会は変わる」式の安易な文明論をいたずらに掲げるべきではない。しかし、こうしたスタンスを強調しすぎると扱えなくなってしまう問題もあるのではないか。たとえば前回の倫理研で白田先生が問題にされていたような、「アーキテクチャによる行為コントロールがCMC空間においては徹底されてしまう」といった問題に対して、この立場(だけで)は積極的に踏み込むことができなくなってしまう。

 そこで当然のことなんですが、コミュニケーションのデザイン(水路付け)を規定するアーキテクチャと、コンテンツ層のコミュニケーションという二層の結びつきを意識しながら議論をする必要があるだろうと思うわけですね。社会心理学的な研究の成果を積極的に参照・援用しつつ、文明論に堕しない形で「規範論」を展開していく必要があるように思います。

0-2. 本報告の立場と構成

 それでは、本報告における私の視点はどのようなものでしょうか。

 従来のネット公共圏をめぐる議論では、2番の規範論的な視点が一番先に立ち、「インターネット上に公共圏をつくる『べき』である」といった「べき論」がどうしても先行しがちでした。そして、1番目のメディア論的な視点や3番目のコミュニケーション・デザインの視点は不在である場合が比較的多かったように思います。また一方の社会心理学研究は、1番目の問題をきわめてストイックに扱うために3番目の視点に立ち入るための手がかりに乏しい。そこで私の道筋としては、1と2の連関を考察したあとに、最後にアーキテクチャのレベルの問題にも踏み込んでいきたいと思います。

 ただしここで補足をさせてください。電子公共圏論の代表者として吉田純さんの『インターネット空間の社会学 情報ネットワーク社会と公共圏』(世界思想社、2000年 asin:479070825X)という先行研究があります。題名だけを見るとハーバーマスの理論をCMCにあてはめていくという典型的な議論に思えるのですが、実はそうではない。「公共圏」概念のCMCへの適用を考えているうちに、いつのまにか「従来型の公共圏論じゃ、ちょっと無理かもね」という論調になっているように読めてしまう、非常に両義的で面白い本です。アーキテクチャの次元についても問題提起されていて(115頁)*5、そこをもっとつめていくといろいろと出てくるのではないかという気はしています。 本当は吉田さんの議論をしっかりとフォローアップしていくべきなのですが、今日は時間の制限もありますので、かなり理念型化されたネット公共圏を想定しつつ議論を進めていきたいと思います。 

 構成ですが、3つに分けて展開します。まず第1章で「公共圏」という概念の紹介をしながら、それを支えるコミュニケーション観を掘り下げていきます。また公共圏というものが仮にありうるとして、それを支えてきた構造や前提条件とはなにか、マスメディア論やジャーナリズム論などの知見を交えながら明らかにしたいと思います。続く第2章では、第1章の分析に基づいて、サイバーカスケードやフレーミングの起こる要因を機能主義的に分析し、CMCでは多様な価値観がぶつかりあうのではなく、むしろ「文脈操作の闘争」が起きるがゆえに公共圏は存立不可能であると結論します。そして最後の第3章では、その失効した公共圏思想に替わる、CMC空間のコミュニケーション・デザインのための社会哲学を模索したい。まずCMCの現状を「闘争的/多元主義的コミュニタリアニズム」という戦略が強くなりつつあると分析したうえで、「コンテクストの調整メカニズム」としてのリベラリズムを考える、という流れでいきたいと思います。

1. ネット公共圏論のコミュニケーション・デザイン

1-1. 公共圏の条件

 ネット公共圏をめぐる言説は、幾度となく反復されています。これはおそらくCMCが参与者のさまざまな社会的属性といったものを括弧に入れてくれる(と思える)おかげで、純粋な民主主義が可能になるのではないか、という期待感を構造的に生み出すためと思われます。時期的には、パソコン通信が一般的であった頃から、次々と生み出されてきた。もちろん「ネットで民主主義を再生するだなんて無理だ」という批判も当然おこなわれるのですが、何度も生き返っている。ジャーナリズム論の世界でも同じことが起きていて、ハーバーマスの公共圏概念とマスメディアの議論を接合するのは結局無理であると言われても、何度でも回帰してくるという構造があります。このように公共圏概念というのはなかなか根強い人気があって、そもそもなぜこれほどまでに根強い人気があるのかについて社会学的に考えていくこともできるのではないか、などと思っています。

 それはさておき、ここで考えるべきなのは、公共圏概念が前提とするコミュニケーション観とはどのようなものかです。ここでは、公共圏概念にビルトインされているコミュニケーション観がいわば構造的に、CMCにたいする社会学的な観察を阻んでいるのではないか、という仮説を立てます。また公共圏の概念については、「不可能だけれども理想的、理想的だけれども不可能」といったあたりで話が落ち着きがちです。しかし、そもそも公共圏という概念自体がある種のコミュニケーションモデルを自明視することでしか成立しえないのであるとすれば、それをそもそも「理想的」と言えるのだろうか。そこまで議論の射程をのばしていきたいと思います。

1-1-1. コミュニケーション的行為(発語内行為)

 では検討をはじめましょう。

 本報告ではハーバーマスが『公共性の構造転換』(未来社、第2版1994年 asin:4624011236)などで提示した公共圏概念に照準して話を進めて行きます。ハーバーマスは西欧近代において、平等性や公開性、自律性といったものを前提としたコミュニケーション空間が、まずは文芸的公共圏として、後に政治的公共圏として成立したと論じています。つまり、近代というのは単に合理性の「鉄の檻」のなかに閉じ込められるだけではなく、「お上的公共性」に異議を唱える新たな公共性といったものを創り出してきた、というポジティブな見取り図を提示しているわけです。その後ハーバーマスはこの公共圏という歴史的概念を、『コミュニケイション的行為の理論』(未来社、全三巻、1985,86,87年)という大著のなかで理論的に詰めていきました。今日は叩き台として、主としてこちらの純粋化された理論のほうを扱います。

 ハーバーマスがまず提示しているのは、「コミュニケーション的行為」と「戦略的行為」というふたつの類型です。コミュニケーション的行為とは「発語内行為」をのみ含む相互行為のことで、戦略的行為とは「発語媒介行為」が入り込んでしまっている相互行為です。ここではあまり時間をかけずに説明してしまいますが、これはオースティンの言語行為論(Speech Act Theory)を下敷きにしたものです*6

 まずコミュニケーション的行為、発語内行為から説明します。発語内行為とは、簡単にいえば、聞き手に対して慣習的な形で特定の作用を及ぼす行為です。たとえば「明日会うことを約束する」と発話するとき、私はたんに一定の文法構造をもった文を発声しているだけではなく、聞き手と明日会うという義務のもとに自分を置くという行為をしている。慣習的に行為の成立要件や適切性が担保されており、発話すること(発語行為)によって同時に遂行されるような行為を「発語内行為」と呼びます。相互行為参加者が規約・慣習をある程度共有しうるような、こうした発語内行為のみによって構成される相互行為の空間、それがハーバーマスの言うコミュニケーション的行為です。ハーバーマスは「生活世界」をそうした相互行為が営まれる可能性の高い場として捉えているように解釈することができます。

 それに対して戦略的行為=発語媒介行為とは、発語内行為の結果として聞き手や話し手などの感情や信念、行為に影響を与える行為です。多くの発語内行為の場合、遂行動詞を含む明示的な遂行文にしてもその発語内効力は失われない。「芝生のなかに入るな」ではなく「芝生のなかに入らないよう命令する」といっても、効力は維持されます。しかし、発語媒介行為の場合はそうはいきません。「君は天才だねえ」という発話を、「君は天才であると皮肉します」などとパラフレーズしたら、皮肉という行為は遂行されえませんよね。「君は天才だねぇ」を皮肉ととるかどうかは、その場の状況や聞き手の受け取り方次第ですから、慣習によってその行為の成功条件が定まるというものではありません。つまり、相手を皮肉るという行為がうまくいったかどうか、慣習によっては制御できない「効果」のレベルが問われるのが発語媒介行為です。こちらは生活世界に対して、「機能システム」と親和性を持つとハーバーマスは診断しているように解釈できます。

1-1-2. コミュニケーション的行為を支える情報制度

 ハーバーマスは公共圏というものを、後者(戦略的行為・機能システム)と区別し、前者(コミュニケーション的行為・生活世界)によって成立する理念的空間として位置づけているようにみえます。実際は、生活世界/システムの対は、必ずしもコミュニケーション的行為/戦略的行為との対に正確に対応しているわけではないのですが、二つの対にはきわめて密接な関係があるのは事実です。慣習を継承しつつ、理性的で他者に開かれた討議の空間=公共圏をつくっていこう、それが近代の「未完のプロジェクト」だというわけです。しかし、なぜ前者が「理想的なもの」、より倫理的に尊重されるべきものとして選択されるのでしょうか。

 まず、コミュニケーション的行為は、「超越論的前提」と「規範的目標」という二重の役割を担わされているという点に着目する必要があります。コミュニケーション的行為の成立要件というのは、あくまでFace to Faceの対面的コミュニケーションにおいてつねにすでに機能している超越論的前提ですが、これは規範的な理想状態の成立要件としても設定されてしまっている。この違いは案外重要です。超越論的前提というのは、たしかに抗事実的に措定されるものではあるのですが、それを満たすことが倫理的に要請されているわけではない、いわば「理性の事実」です。超越論というべきかどうか分かりませんが、たとえばポール・グライスの会話格率*7のように、つねにすでに前提とされてはいるが、あるいはそうであるがゆえに、破られた場合の対処を可能にする「前提」であるといえるでしょう。そこには道徳的評価は入り込んでいません。一方、規範的目標とする場合には、「破られない場合」に道徳的に高い評価を与えるという道徳的コミットメントを外すわけにはいきません。「人はつねに・すでに誠実性、真理性……を前提としてコミュニケーションを行っている」というのと、「人はすべからく誠実性、真理性……を前提としてコミュニケーションを行っている」というのとは、全然違いますよね。ハーバーマスの議論は、この両者を巧妙に混同して説得力を獲得しているように思えます。「超越論的前提」は、基本的に対面的コミュニケーションを想定して抽出されたものであり、安易にメディアに媒介されたコミュニケーションに適用するわけにはいきません。ところが「規範的目標」のほうは、道徳的コミットメントのあり方を指し示したものですから、いかなるメディア・コミュニケーションに当てはめてもそれほど問題はない。新聞だろうがテレビだろうが、雑誌だろうが「誠実性、真理性、理解可能性……を重視しなければならない」という規範、「べき論」を適用することは――適用するだけなら――当然できます。「超越論的前提」はあくまで対面的なコミュニケーションにおいて機能する「理性の事実」として限定的に捉えられなくてはならないのに対して、「規範的目標」のほうはあらゆるコミュニケーション様式に適用することができる。私はこの2つの次元は理論的にきちっと分かたれるべきと考えますが、ハーバーマス自身は結構ゆるく考えているのではないか。『コミュニケイション的行為の理論』では、超越論的な指向を前面化しているけれども、『公共性の構造転換』の流れを汲む社会診断では規範的な指向を表に出しているように思えます。「規範的目標」のほうに話を限定した場合には、メディアの差異、コミュニケーションにおける媒介性の差異が透明化されたまま議論が展開されている。ところがハーバーマス本人は、「規範的目標」の次元の話も「超越論的前提」の検討によって済ませてしまったつもりでいるから、「メディアの差異を消去したのではないか」ということにそれほど不安を感じことはない。「規範的目標」の次元と「超越論的前提」の次元を混同することによって、結果的にメディアの差異が不可視化されてしまっているわけです。 

 こうした二つの次元の混同によって、「メディアの差異を付随化している」という事実性の忘却が可能になっている、と考えられます。かくして、「グーテンベルク以降の、近代的な活字複製文化の成熟というメディア論的条件のもとではじめて、発語内行為のみによって成り立つ相互行為が規範的に指向されるようになったにすぎないのではないか」という歴史的な問いが、公共圏論の射程から消え去ってしまう。「コミュニケーション的行為」をことさらに理想的な規範的目標として捉えるハビトゥス(フランスの社会学者ピエール・ブルデューの用語で、性向、態度、習慣を意味するラテン語。一定のものの見方、感じ方、振舞い方などの、心理的な持続的傾向。)の歴史的性格が等閑視されたまま、メディアの差異を踏み越えてコミュニケーション的行為の適用範囲の拡大が目指される。花田達朗*8先生が指摘されているように、『公共性の構造転換』という本は本当は、そういう歴史的な契機、「コミュニケーション的行為の空間」の歴史性を問題しようとしたものだったと思うのですが、「規範的目標」への指向が強すぎて残念なことに「公共性の頽落史」になってしまっています。私たちはむしろ、ハーバーマスが規範的指向ゆえに切り落とした歴史的契機、メディア環境と公共性との関連性をめぐる問題に目を向けるべきでしょう。

 頽落史観から身をひきはがすためには、私たちは次のように考えなくてはなりません。つまり、道徳的に高い価値を与えられる公共圏コミュニケーション的行為の空間の構想は、特定の時代における社会制度・情報技術環境において可能になっているのではないか、と。人間の理性の発露として公共圏なるものを捉えるのではなく、社会関係や情報伝達制度・環境の効果として公共圏を捉える、ということです。社会関係の効果である、というのは比較的分かりやすい話ですね。たとえばヨーロッパ近代における討議の空間とは、具体的には文芸サロンや政論ジャーナリズムのようなものであり、そこに参加できる人々は当然のことながら階層的に限定されていました。そうした限定的な層が生み出した行為調整ルールがハーバーマスが言う意味における「公共性」にほかなりません。当たり前といえば当たり前のことなのですが、「普遍語用論」的な発想の歴史的・社会的ローカリティをまずは踏まえておく必要があります。「公共圏の社会史」というテーマについては、富永茂樹先生の『理性の使用』(みすず書房、2005年 asin:4622071304)がきわめて示唆的な議論を展開されています。以下では、歴史的に踏み込んだ話ではなく、むしろ、歴史的・社会的ローカリティということのメディア論的――あるいは「唯物論的」――意味に照準して話を進めていきたいと思います。

図:公共圏の条件
図:公共圏の条件


 公共圏の「唯物論」的条件を3つに抽象化しておきます。まずひとつに、「言説の希少性」です。つまり発話内行為的なものが稀少なものであり、指向するに値するものとして社会的に了承されていなければなりません。次に、「自分の行為を正当化する責任主体」という近代的な主体像が必要です。公的な領域において言説を生み出す主体は、自らの言説を理に適った形、リーズナブルなかたちで正当化する用意がなくてはならない。そして最後に、正当化のための時間と空間が必要である。これはつまり、正当化のためには時間が必要であり、討議空間はそのための十分な時間を組織化したものでなくてはならない。そしてさらにいえば、このような条件の整った討議空間に参加することに「倫理的価値がある」と、メタレベルでの社会的承認が成り立っていなくてはなりません。おおよそ以上のような条件が挙げられるでしょう。



*1:註:『コミュニケーション』(東京大学出版会、2000年 asin:4130341359)、『ネットワーキング・コミュニティ』(東京大学出版会、1997年 asin:4130111051

*2:註:たとえばマクルーハンやポール・ヴィリリオなど。

*3:註:東京大学情報学環 橋元研究室

*4:註:Robert Kraut, Micheal Patterson, Vicki Lundmark, Sara Kiesler, Tridas Mukopadhyay, William Scherlis : Internet Paradox - A Social Technology That Reduces Social Involvement and Psychological Well-Being? American Psychologist, 53(9): 1017-1031

*5:註:吉田純『インターネット空間の社会学』(世界思想社、2000年 asin:479070825X)の第3章では、イタリアの社会学者エレーナ・エスポーシトが、WWW(ハイパーテキスト)のコミュニケーションの特性を、ルーマンに依拠しつつ「仮想偶有性」に求める。つまりWWWでは情報が拡大するだけでなく加工され、その結果が予測しがたいところにあるのだ、と。そして115Pでは、このコミュニケーションを構造化するメカニズムは不可視であると問題提起されている。→次のisedキーワードなどを参考のこと。「アーキテクチャ」、「環境管理型権力

*6:註:言語行為論についての解説として、北田暁大のブログに掲載されている「ヘイト・スピーチと言語行為論」や、辻大介言語行為としての広告」(『マス・コミュニケーション研究』52号、1998年)での記述を参考のこと。

*7:註:ポール・グライス Paul Grice(1913-1988)は、カリフォルニア大学バークレー校教授(哲学)、オーススティンを中心とする「日常言語学派」の一人。会話格率とは、『論理と会話』(勁草書房、1998年 asin:4326101210)のなかで提出される以下の4つのルールのこと。1.量の格率「必要なことだけ述べよ」 2.質の格率「真実を述べよ」 3.関係の格率「関与的なことだけ述べよ」 4.様態の格率「明確に述べよ」。

*8:註:ハーバーマスの「公共圏」概念を積極的に紹介、考察する第一人者。著書に「公共圏という名の社会空間」(木鐸社、1996年 asin:4833222183)、「メディアと公共圏のポリティクス」(東京大学出版会、1999年 asin:4130501453

nonamenoname2005/05/17 04:12北田さんのリベラリズムとは、ようするに世間一般の常識的な態度を、ということだと理解します。もちろん、北田さんは、社会学者ですから抽象的な議論をされていますけど。もしそうであれば、わたしはそれに同意します。ただ、問題は、リベラリズムがどんなに優れた理論だろうと、それを実現する方法がないということです。啓蒙することなど、それこそネット上で不可能なことは自明と思います。この討議も、まじめに読んでいる人間はわずかでしょう。社会学会で発表したところで、何人が聞いているでしょう。これでは、どんなにすばらしいリベラリズムの思想も、机上の空論でしかないのではないか。北田さんは、あるいはここで討論されたかたがたは、自分の発言の実効性について、どこまで考えていらっしゃるのでしょうか。

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