ised議事録

03-122. 倫理研第3回: 北田暁大 講演(2)

題目:「ディスクルス(倫理)の構造転換」

E3:ディスクルス(倫理)の構造転換
(開催:2005年3月12日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年5月14日)

1-2. 言説の稀少性と公共圏――ジャーナリズム論

図:言説の希少性と公共圏(1)
図:言説の希少性と公共圏(1)

1-2-1. 公共圏としてのジャーナリズム

 まず、言説の希少性という条件を考えるために、ジャーナリズム論をみていきます。ジャーナリズム論では公共圏がよく引き合いに出されるのですが、そこには次のふたつの論調があります。

 まずひとつは「頽廃の歴史」というものです。たとえば経済システムという機能システムの侵食によってマスメディア・ジャーナリズムが「社会的なもの」に覆いつくされてしまい、かつて人々のあいだに存在していたサロン的な公共性が失われてしまっている。発語媒介行為の肥大によって、発語内的な行為空間が失効する、つまり「システムによる生活世界の植民地化」が起きている、という図式ですね。こうした議論は「昔はよかったけれども、だんだんダメになっていった」という話になりやすい。

 もうひとつは、これはハーバーマス自身が『公共性の構造転換』の90年新版序文のなかで述べていることですが、「受け手の能動性」に着目するというものです*1。「情報の受け手はそれなりに能動的で、マスメディア・システムの情報を多義的に受容しているのだ」と考え、受け手サイドの批判的可能性を強調する。頽廃史観を反省し、頽廃の過程のなかで生まれている抵抗の可能性を読み解く、というわけです。一種の抵抗的公共性の構想だといってもいいでしょう。

1-2-1. ジャーナリズム理念の歴史的意味転換

図:言説の希少性と公共圏(2)
図:言説の希少性と公共圏(2)

 ここで私としては、前者の「頽廃の歴史」言説のほうを細かく見ておきたいと思います。というのも私の問題意識としては、そもそも「昔はよかったが徐々にダメになった」のではなく、この頽廃の歴史そのものが、さきほど述べた「言説の希少性」を生み出してきたのではないかと考えるからです。たとえば「ジャーナリスト列伝」的なものによく見られるパターンですが、「マスメディア・ジャーナリズムは、政論ジャーナリズムの失効後、ダメになった」というのではない。そうではなくて、「マスメディア・ジャーナリズムは、政論ジャーナリズムの失効後、新たなかたちで言説の希少性を調達するようになった」と考えるべきではないだろうか、と。

 事例をふたつ挙げておきたいと思います。ひとつは「不偏不党」というジャーナリズムの理念的立場を表す概念です。最近、メディアの公正性や不偏不党性が話題になっていますが、その歴史的な意味も考えておく必要があると思うんですね。これは「d/sign」という雑誌に連載している論文*2で考察したのですが、日本においてこの言葉がいわゆる「客観報道」の理念と結びついて考えられるようになったのは、インパーシャルな「事実」の列挙がある種の商品性を獲得していく明治10年代~20年代のことだったのではないか、と私は考えています。もちろん、「虚偽」と対照されるような「事実」への指向は明治8年の新聞紙条例の改正と、讒謗律(ざんぼうりつ)の制定によって、制度化されています。検閲的な発想と表裏をなす不偏不党指向、政治的な意味におけるimpartialityへの指向が、明治8年以降強まっていく。そうした政治的な不偏性が、明治10年代から20年代にかけて「意味論」*3的に転態していったのではないか。ここでは時間の関係上詳しくは説明できないので、資料の結論部分だけを読み上げておきたいと思います。

「近代日本におけるマスメディア・システムの自律化は、相当に複雑な歴史的プロセスのなかで可能になったものといえる。政治的意味における不偏不党性 impartialityが、次第に文体論敵・意味論的なimpartialityへと読みかえられ、超越的な第三者に担保される「事実」へのまなざしが誕生した。主観・立場を紛れこませないという意味における「客観報道」とは、impartialityを担保する超越的第三者が具体的な対象(政府など)ではなく、もっと抽象化された超越者として擬制されたときに成立する。たとえば現代における「客観報道」という場合、それを担保するのは政府でも具体的な権力者でもなくきわめて空虚な-不可能な世界そのものである。共同体内的な物語から「事実」を解放するこの空虚な超越者への志向が、明治10~20年代にかけて共有されるになったこと-これこそが本稿で確認してきたことであった」。

北田暁大「「かたち」の向こう側(3)」(『d/sign』No.7、太田出版、2004年 asin:4872338464))

 このような不偏不党の意味論が成立してはじめて、『万朝報』のような、事実定位型のスキャンダリズムが成り立ちえる。スキャンダリズムは「頽廃」の典型のように語られることが多いのですが、おそらくはそうではありません。不偏不党の意味論とスキャンダリズムは、「事実」に対するまなざしの共有という点において、共犯関係にあるのです。

 もちろん起源の問題と、現在の意味とは別に考えるべきですが、ここで言いたいことは、不偏不党性というのは歴史的にみると別段すばらしい普遍「倫理」でもなんでもなく、それ自体特定の言説空間のなかで構築された制度的産物にすぎない、ということです。改正新聞紙条例は、事実の定義権、「何が事実であるのか」を決める権利を政府の側が握る、ということを制度化するものでした。事実上の「検閲」ですね。逆説的なのは、そうした「検閲」の論理のせり出しこそが、「物語からの事実の離脱」を促したということです。政府批判を不可能にする論理が、「客観的事実」を指向する不偏不党のハビトゥスを生み出した、といってもいい。「不偏不党」とは政府に対する妥協の産物であると言ってもいいでしょう。また、そして、大新聞/小新聞という区別が揺らぐ明治十年代前半には、「事実」に対する新しいまなざしが定着していく。それは、事実を列挙するという伝達様式そのものが、商品的価値を獲得していく過程である、ともいえます。先ほども述べたように、私は、「客観報道」の理念と、スキャンダリズムとは同根源的である、と考えています。「客観報道」は、「事実の商品化」という社会意識の変容と密接に関係した理念なのではないか、と。要するに、不偏不党にせよ、客観報道にせよ、ある歴史的過程のなかで構築された制度的産物なのであり、それ自体最初から高い倫理的価値があると承認されていたわけではない、ということです。それらは、ルーマン的にいえばマスメディア・システムの自律化を担保する、理念的装置だったということができるでしょう。

 このように考えると、不偏不党概念というのは、「政論ジャーナリズム→商業化されたジャーナリズム」という「頽廃」史とともに成熟、制度化してきた、ということができます。ジャーナリズムの核心的倫理のように語られる不偏不党は、その「頽廃」とともに成長してきたものである。しかし、成熟するジャーナリズムは「不偏不党」を倫理化する――高い道徳的価値を与える――ことによって、そのことを不可視化していくようになる。「不偏不党を目指す言説」と自らの言説を定義づけ、そのことによって、他の言説との差異、自らの言説の希少性を再生産すること、それが近代マスメディア・ジャーナリズムの「構造」原理だったということができるのではないでしょうか。はなはだ粗い説明で申し訳ありません。詳しくは、資料のほうをご覧いただければと思います。

 もうひとつ、「言説の希少性」に関連する事柄として、放送の「公正原則」*4を挙げておきます。意見が対立している場合には多くの角度から論点を明らかにすべし、という公正原則は、たしかに公共圏という討議空間の必要件といえますが、表現の自由という原理から考えるとこれに固執するのは奇妙にも見えます。

 皆さんご存知の通り、表現の自由を制限する公正原則は、「周波数の希少性」*5や、「強力効果」といった物理的な事情の存在を根拠として正当化されています。きわめて偶然的な「理由」によって正当化されている、といっていい。であるならば、この偶然的理由を理由たらしめている物理的事情が変わるなら、こうした「表現の自由」への制約は不要となるはずです。それはある意味では、放送ジャーナリズムの「表現の自由」を「奪還」する条件が整いつつある、ということのはずなんですが、どういうわけか、現代では、放送ジャーナリスト自身が「公正原則」に固執してしまっている。むしろ新規参入を阻み、マスメディアの言説の希少性を確保するために「公正中立」が流用されているのではないか、などと言われても仕方のない状況といえる。もちろん「公正中立なんか糞食らえ」という話ではありません。その倫理的スローガンが言説の希少性を生み出す機能をもってしまっている可能性を考えなくてはならないということです。

1-2-3. 社会的構築物としての「討議」

図:言説の希少性と公共圏(3)
図:言説の希少性と公共圏(3)

 言説の希少性をめぐるここまでの議論のポイントを再確認しておきましょう。まず、政府への妥協として出てきた不偏不党性が、「事実」の商品化とあいまって、「倫理化」していく過程について話しました。それは、「偶然的に生成された社会制度によって担保された「討議」空間を、倫理的「討議」の場として読み替えること自体が言説-制度的に担保される事態」であるということができるてしょう。つぎに放送ジャーナリズムにおける公正原則の話をしました。なぜ表現の自由を規制する公正原則にジャーナリスト自身が固執するのか。それは「物理的な、偶然的な事情(電波の希少性)に由来する言説の希少性を、自らの生み出す言説の倫理的価値に読み替える」ものと解釈することができるのではないか。ふたつとも仮説の域を超えない議論ではあり、今後詰めて研究していく必要がありますが、私としてはそのように「言説の希少性」という観点から「不偏不党」「公正中立」という理念を捉え返してみたい。それほど的外れでも、また目新しくもない発想だと思います。

 かなり挑発的な言い方をしますが、「不偏不党」「公正中立」というスローガンは、いってみれば偶然的な事情に由来する希少性を、「我々は公共的な責任を持っているんだ」という倫理的な自意識へと転換していく装置のようなものといえるのではないでしょうか。こうしたある種の転倒、読み替えといったものが、ジャーナリズムをめぐる言説のなかで構造化されているのではないか。

 もちろんこうしたことでジャーナリズムのすべてが説明できるとは思いませんし、尊重すべき倫理的理念もあると思います。ただ、その言説空間は、こうした社会的な作用によって構築されてきた部分もあるのではないか、ジャーナリズムの崇高な理念が道具的に使用されているのではないか、そうした疑念が現在生じつつあるわけです。こうしたなかで、「ジャーナリストの社会的使命(責任)」を誇らしげに語る言説はどのように受け取られてしまうのか、ある程度想像がつきますよね。つまり、ジャーナリストの「思い上がり」にすぎないとして批判されてしまうことになる。「もともと「公正中立」な存在だったマスメディアが頽廃したせいで批判されてきている」、というのではありません。ジャーナリズムを批判する言説とジャーナリズムの倫理的自意識が共犯関係を築いてしまうという構造が問題化されているのです。腐った腐った、とは言われますが、道徳談義好きのマスメディア・ジャーナリストは多い。彼らの倫理的自意識とジャーナリズム批判とは結構相性がいいんですね。

 以上、公共圏という思想がどのようなコミュニケーション論的前提に基づいているのかということ、また、ジャーナリズムを事例として取り上げ、「公共圏」が前提とする討議空間がいかなる歴史的・社会的限定性をもつのか、ということについて簡単に見てきました。本当は、公共圏とジャーナリズムの理念は別物ですから――不偏不党、公正中立と、「討議」の成立要件は直接的な対応関係にあるわけではない――、もう少し丁寧に議論を展開していくべきなのですが、そこらへんは宿題とさせてください。さっそく、こうした議論をCMCへと差し戻していきたいと思います。

2. CMCの構造と「公共性の構造転換」――「電子公共圏」の不可能性

2-1. 公共圏概念のマスメディア的性格

図:「電子公共圏」の不可能性が意味するもの
図:「電子公共圏」の不可能性が意味するもの

 「公共圏の条件」を外挿したとき、CMCにおけるその実現は可能だろうかという議論を展開したいと思います。まず、ふたつの問題が挙げられます。

 ひとつはいま述べたことで、公共圏を支える言説の希少性は社会的に構成され、制度的に担保されてきたものであった、しかしこの希少性が成り立たないメディア環境においては、公共圏概念ははたしてどのような意味を持つのかという問題です。これは、いわば「制度論的」な問題といえます。

 もうひとつはよりソフトな問題で、公共圏概念の「コミュニケーション論」とでもいうべきものです。これはつまり、「マスメディア・ジャーナリズムに適合的なコミュニケーション観というべきものが、そもそも公共圏概念に内備されていたのではないか」という問題です。つまり公共圏とマスメディア・ジャーナリズムはなぜか相性がいいというものではなく、そもそも裏表の関係にあるではないか、ということですね。ハーバーマスの用語法を使えば、公共圏はマスメディア・システムによって浸食された、という「頽廃の歴史」を歩んできたというよりは、密接に互いの存在を支えあってきたものではないか、ということです。

 そこで公共圏=マスメディアを支えるコミュニケーション論的前提、1)発語内行為と発語媒介行為とを区別する技術的可能性が担保されているということ。2)「再帰的」あるいは「反省的」な態度を可能にする時間/空間の整備ということ、この両条件がCMCではどのようになるのか、見ていきましょう。

2-2. 電子公共圏はなぜ不可能か ――多様なコミュニケーション「形式」の衝突

2-2-1. CMCにおけるコンテクストの非共有と衝突

 まず1番目の問題からです。またしても粗い言い方をすれば、発語内行為とは発話者の意図が一定の役割をはたすもの、発語媒介行為というのは発話者の意図による調整が必ずしも容易ではない、あるいは当初の意図とはまったく違う効果を生み出してしまう行為と考えることができます。ハーバーマス的にいえば相互了解志向と戦略志向ということですね。マスメディアはその一方向的性格を考えていただければわかるように、「意図によって調整可能な行為」と、「誤配されてしまう可能性のある行為」とを、きちんと分けていくような技術的な可能性を担保しているもの、あるいはその担保が実効性を持つことを目指す言説装置と考えられます。「受け手の能動的解釈」とよくいわれますが、「適切な能動的解釈とそうでない解釈」とを腑分けする権利は、基本的にマスメディア自身のうちにある。「読者の声」「視聴者の声」はマスメディア自身のエクスキューズとしてしか機能していません。

 ところがCMCにおいて問題となるのは、もはや意図ではない。そういうと強すぎますね。言いたいことはつまり、意図の位置価の如何に照準して2つの行為類型を識別すること、つまり「こっちは意図的でこっちは非意図的だ」というような差異づけが、それほど有意味に機能を果たせないということです。行為の適切な解釈を暴力的にでも保証する「第三者の審級*6が失効し、多様なコミュニケーション様式が無媒介に交差してしまう。これは、いろいろな「価値観」がネット上で混じりあう、ぶつかりあうという話ではなく、いろいろな行為「様式」が無媒介に交差してしまう。生活世界における慣習や規約がCMC上ではコンテクストの相互調整にあまり寄与してくれない、コンテクストの共有、内在している状況の同一性への信憑性が希薄化していくわけです。

 リアルの行為空間で「どういう行為が適切か」といったことを考えていく際には、「こういう文脈ではこういう行為は適切だけど、こういう行為は不適切だ」と文脈を考慮するわけですね。たとえば、いまここでみなさんのなかで突然歌い始める人がいたら、その人はコンテクストを踏み外しているがゆえにつまみ出されていいわけです。しかし、別に公園の中で歌っているぶんには……ああ、最近は追い出されるかもわかりませんが(笑)。ともあれ、私たちは通常、文脈によって行為の適切さといったものを測定することができている。というか、「文脈を互いに共有しているということ」をある程度アテにできているがゆえに、「ありえたかもしれない」多くの行為接続の可能性に目をつぶることが可能となっています。しかしCMCにおいてもっとも問題的なのは、なにがいま我々の行為における文脈であるのか、その見解を異にする人々が無媒介に接してしまうことです。

 となると、CMCにおけるコミュニケーションの賭金となるのは、伝達内容の「妥当性」そのものではないということになる。もちろんそれも重要なんだけれども、むしろそれはコンテクストのオペレーションと深い関係をもってくる。つまり自分が内在していると信じている文脈の「妥当性」をどう操作していくのか、どうやって相手が前提としているコンテクストについての信念を改めさせていくのか。こういったことが、困難な課題であると同時にクリティカルな問題として現れているのではないか。

 これをより抽象的にいえば、CMCとは、コミュニケーションにおける一般的な真理――ととりあえず呼んでおきます――、つまり「行為の単位性、つまり自分の行為は何であるのかということは、自らの意図によってではなくて、聞き手の解釈を待って画定される」という真理が、より鮮明な形で前面化する行為空間なのではないか、ということです。そこでは《意図に基づく「行為」の画定》のみならず、《コンテクスト・オペレーションによって自らの「行為」の解釈を適切化する》ことが重要な課題として現れてくることになります。

2-2-2. CMCにおける動物的な反射能力(response-ability)の責任化

 これがまず、CMCにおける電子公共圏の不可能性を示す1番目の問題です。次に2番目の問題、すなわち再帰的コミュニケーションの時間的/空間的な整備について説明しましょう。たとえば、「主体が責任を取る」といっても、無限に行為の因果連鎖の範囲を時間的・空間的に広げてしまっては、責任のインフレが起こってしまうわけですから、討議を成り立たせるためには、何らかの時間的・空間的限定が必要になってくる。

 しかしCMCにおいては、よほど工夫をされた場でない限りは、行為の「正当化」のための時間的な区切りを明確化することはできません。CMCにおいては当然のことながら空間的に「討議」の外延が画定されませんから、時間的な再帰性――たとえば「それってつまりどういう意味なんだ?」という問い返し――が無限に加速していかざるをえないわけですね。

 たとえばCMCにおいては、「沈黙の持つ意味」といったものが、マス・コミュニケーションや文書によるやりとりよりもはるかに高まっていく傾向にある。これは携帯におけるコミュニケーションなどでは顕著な傾向かもしれません。「なぜ昨日の飲み会に来なかったんだ?」というメールに、1日レスをしなければ、それでもう「意味」が発生してしまう。ある種の動物的な反射能力(response-ability)が、CMCにおいては重要な意味を持つともいえます。すぐにレスを返せば責任に応えており、レスを返さなければ無責任か、否定的なレスを返したということになってしまう。この反射能力と責任が一緒くたになってしまいがちなのが、CMCの現状なのではないでしょうか。

2-2-3. コンテクストをめぐる闘争――CMCにおける「繋がりの社会性」の前面化

 こうしたCMCの問題を再度整理しておきましょう。CMCにおいては、稀少な言説を供給する特権的な他者といったものが存在しないわけではないものの、とりあえず「いない」と勘違いしていられる空間ではあるわけです。そういった状況において、時間的に急き立てられたコンテクストの政治学とでもいうべきものが、前面化せざるをえない。これは逆に言えば、マスメディアという制度がなんとか覆い隠してくれていたコミュニケーションの真理、すなわち「実はコミュニケーションとは内容やメッセージの伝達ではなく、あくまでそれを解釈するコンテクストをめぐる闘争なのだ」という身も蓋もない真理をあらわに表面化させてしまったともいえます。ここにおいてはマスメディア的な実定道徳はおそらく失効してしまう。だからこそ、マスメディア・ジャーナリズムは「ネットの反道徳性」を強調して止まないわけです。ただ最近はネットジャーナリズムをめぐる議論も盛んですし、このあたりがどのように展開していくのか私も興味深く見ているところではあります。

 またコンテクスト・オペレーションが前面化するということを、別様にいいかえておきましょう。それはつまり、コミュニケーションというものが「何 what」の次元というよりも「いかに how」の次元によって統制されていくということなんですね。

 といっても、この「状況定義の一次性」――我々の行為の文脈は現在こうであるといったことをあらかじめ定義・提示すること――には「ほつれ」がつきまとうといった議論は、すでに日常的なコミュニケーションに関しても示唆されてきたことです。たとえば「言語ゲーム」論も同様の議論だと思います。つまり、それぞれの行為の意味は、文脈によって一義的に決定されるのではなく、文脈そのものが絶えず個々の「指し手move」によって構築されるものである、と。つまり、発語内行為と発語媒介行為の区別とは、なんらかのアプリオリなかたちではなく、その都度occasionalに構成されていかざるをえないというわけです。

 CMCはこの状況構築の逐次性を非常に露骨なかたちで前面化していくようなものではないか。私の言葉でいえば、「秩序の社会性」に対して、「繋がりの社会性*7が前面化していく状況ともいえます。

 では、その「繋がりの社会性」はCMCをどのような空間にしているのでしょうか。たとえばCMC上の「フレーミング」や「炎上」では、内容云々についての批判というよりも、ブログ管理人の「対応のマズさ」に対する言及が多く観察されますね。この点については「ユリイカ」のブログ特集に寄せた『「ブログ作法とは何か」とは何か』*8というエッセイで扱ったのですが、どうもCMC上の炎上の経過を見ていると、「発火」したときには内容レベルでの対立であったものが、次第に「語り口」「作法」をめぐる闘争に変容するといった「自然史」があるように思えてくる。争点が「作法」になった頃には炎上の経緯を「まとめサイト」的なブログがあらわれ、あちらこちらで「作法」言説が紡ぎ出される。状況構築の逐次的性格が前面に出てしまった結果、「内容」よりは「状況、コンテクスト定義」の方法をめぐる闘争が重要性を帯びてくるわけです。「ブログ作法」について語るメタブログが存在するのも、コンテクストの政治学がCMCでは重要な課題になっているからだと言えるでしょう。誰かが文脈を強引に統制しようとすると、問題が起きる。CMCは構造的に文脈感応的であるがゆえに、文脈の多元性が作り出す複雑性を一挙に解消、あるいは制御しようとする振る舞いは、きわめて「暴力」的なものと映ってしまう……。

 つまり、CMC上ではふたつのルールがぶつかることで「闘争」が生起する。ひとつに、「状況の一次性」、つまり「あらかじめ状況をある程度設定していく」というルールですね。もうひとつに、「状況はアドホックに・逐次的に構築されていくべきだ」というルール。このふたつのルールの対立が、CMC上の闘争の大半の構図なのではないか。まさしく神々の闘争であり、第三者的に見てどちらがより倫理的、道徳的だということでは全然ありません。

 このように、「コンテクスト闘争が起こる場」「多様なコミュニケーションの形式が衝突する場」としてCMCを捉えることで、フレーミングや炎上といったネット上の事例がなぜCMCでは起こるのか、ということをある程度理解することができるのではないでしょうか。同時に、CMC上で公共圏を実現することの困難さも確認できるように思います。




*1:註:『公共性の構造転換』(未来社、第2版1994年 asin:4624011236)の新版序文で、ハーバーマスは当初「文化をめぐって議論する公衆から、(マスメディアから流される)文化をただ消費するだけの公衆へ」という直線的な理解を提示していたが、アドルノなどの文化消費論・大衆社会論への否定的な見解に強く影響を受けており、文化消費における抵抗能力・批判能力に悲観的すぎた、と述べている。同時に、カルチュラル・スタディーズの基礎的研究として知られる、スチュアート・ホールのテレビの受容者研究などに言及している。

*2:註:北田暁大「「かたち」の向こう側(3)」(『d/sign』No.7、太田出版、2004年 asin:4872338464

*3:註:ルーマンの社会システム論の用法で、ドイツ語ではSemantik(ゼマンティーク)。ゼマンティークとは、社会の複雑性を縮減する、「きわめて高度に一般化され、比較的状況に依存的せずに使用することのできる意味」であり、つまり、その社会において用意される「意味処理規則のストック」のこと。

*4:註:公正原則(フェアネス・ドクトリン)とは、放送法第3条の2(国内放送の放送番組の編集等)のことを指す。「放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。1.公安及び善良な風俗を害しないこと。2.政治的に公平であること。3.報道は事実をまげないですること。4.意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」

*5:註:白田秀彰情報時代における言論・表現の自由」での解説が平易である。

*6:註:「第三者の審級」とは、社会学大澤真幸の中心的なタームで、「共同体の規範的な同一性を実現する(志向作用の帰属先となる)超越的な他者」のこと。

*7:註:isedキーワード繋がりの社会性」参照のこと。

*8:註:北田暁大「「ブログ作法とは何か」とは何か」(『ユリイカ』2005年4月号 特集*ブログ作法、青土社 asin:4791701321

トラックバック - http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/05020312