ised議事録

03-123. 倫理研第3回: 北田暁大 講演(3)

題目:「ディスクルス(倫理)の構造転換」

E3:ディスクルス(倫理)の構造転換
(開催:2005年3月12日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年5月14日)

3. CMC空間の社会哲学――公共圏から遠く離れて

 それでは、最後の第3章に入りたいと思います。ここでは、先に見た討議倫理・ジャーナリズム倫理的なものとCMCのアナーキスティックな行為空間という認識枠組みを超えて、CMC空間の「よりよい」設計に向けて求められる社会哲学のあり方を模索することにしたいと思います。

 とりあえずここまで確認してきた「事実」はふたつあります。ひとつに、CMCにおいては、相互理解の前提となる「状況定義」を可能にする「慣習」といったものが共有されにくいということです。これは前回の白田先生の「常識を形成するフィードバックループが働かない」というお話*1にもつながるポイントですね。そうであるがゆえに、CMCにおいてはコンテクストの構築そのものがコミュニケーションの重要な課題として先鋭的に浮かび上がってくるわけです。こうしたコンテクストの闘争を避けるための一番簡単で安易な方法は、送り手に一方的な状況定義権が与えられる環境を整えるということです。それこそがマスメディアが無意識のうちにやってきたことといえます。この点が私たちが確認してきたふたつめの「事実」です。第1章のジャーナリズムをめぐる議論に立ち返れば、そうしたコンテクスト闘争回避の方法論は、偶然的に成立してきたマスメディア的環境のなかで実定化されてきた、ということになります。

 さらに、事実の位相に続いて、規範の位相についても確認すべきことがあります。ひとつには、相互理解を遂行するためには、了解指向的な行為、つまり発語内行為を指向するような行為が展開されなくてはならない。これがハーバーマス的公共圏の理論的前提でした。裏返していえば、理解を指向しない行為を「不適切」なものとして排除することは、倫理的に正当化されうる。これが公共圏のハーバーマス的な論理であり、これはまたジャーナリスト倫理に近いものがあると思うんですね。そうした倫理はいい悪いというものではなく、公共圏的世界観においてはいわば文法的に要請されるものです。

 そしてもうひとつは、CMCにおいては、こうしたハーバーマス公共圏的な規範とは異なる、別種の行為倫理が前景化しているということです。了解指向的/戦略的という区別、あるいは発語内的/発語媒介的という区別を、第三者的な基準にもとづいて提示することはCMCではきわめて困難になる。むしろ、その第三者的な基準なるものは、「状況定義権を特定の送り手が占有すべき」という無根拠な前提的規範を密輸入することでしか成立しないのではないか。となると、その状況定義権の無根拠な占有を批判することに、一定の倫理的正当性があるともいえます。つまり、コンテクストや状況といったものをその場その場でアドホックに構築していくべきである、という新たな規範が、CMCにおいては立ち上がってくることになる。

 CMCの現状は、このふたつの規範的立場が対立している状況であるとも考えられるわけですね。

3-1. CMCにおける複雑性縮減戦略としての「イズム」たち

 さて、このCMCにおけるコンテクスト闘争の前面化という話をシステム論的な用語系に翻訳すると、「行為が他でもありえる/ありえた可能性を認知するチャンスの上昇」ということができます。つまり、行為の意味を一定の枠内に収める文脈が構造的に拡散することによって、「自分の行為」を行為以前に画定すること、自分の行為をあらかじめ統御することの困難の上昇です。これはある意味で「予期の予期」の不確実化と表現できます。要するにコンテクスト構築の前面化とは、複雑性が上昇した事態ということができるでしょう。

 こうした視点から見たとき、たとえばハーバーマス流の「討議」とは、複雑性を縮減し行為の連接可能性を高める、一種の社会的装置ということができます。討議においては、行為者が互いに自らの行為の(事後的な)正当化可能性を引き受けている。つまり、理解可能性、誠実性、正当性、真理性を参加者がみな指向することが前提とされている。個別の伝達内容についてはともかく、メタレベルでのコンテクストの調整メカニズムが整えられているわけですから、とりあえず「誤解」の可能性に過度に神経質になる必要はない。事後的に正当化する可能性を参加者に保証することによって、複雑性を縮減すること、それがおそらく討議の機能なのではないかと思います。これはハーバーマスと論争した二クラス・ルーマンが、「討議って結局システムじゃん」と論じたことと同じことです。

 では、CMCの方はどうか。もちろんコミュニケーションである以上、参与者は過剰な複雑性に耐えることはできない。とはいえ、すでに述べてきたように、討議的なコミュニケーションによって対応することはきわめて難しいわけです。

 そこで現在観察することのできる特徴的な「複雑性の縮減」の様式は2つあると思います。これを鈴木謙介さんによるサイバーコミュニタリアニズムについての報告を受けて、1)闘争的コミュニタリアニズム、2)多元主義的コミュニタリアニズムと呼びましょう。いずれも、価値をめぐる共同体を生成すること、集団分極化することによって、過剰コンテクスト性がもたらす複雑性を縮減しようとする、いわば機能的に等価な「戦略」であるといえます。

3-1-1. 闘争的コミュニタリアニズム

図:CMC空間の社会哲学(闘争的/多元主義的コミュニタリアン
図:CMC空間の社会哲学(闘争的/多元主義的コミュニタリアン

 まず1)闘争的コミュニタリアニズムのほうですが、これは、コンテクストを共有しやすい言論集団を構成し、コンテクストを共有しない外部に向けて「コンテクストの政治学」を仕掛ける、といった方法論です。たとえばこれは、サンスティーンサイバーカスケードと言う場合に想定しているものですね。「外部」を定めたうえで、ダッーと雪崩をうつように「祭り」状態になる2ちゃんねるや、ブログの「コメントスクラム」などの動きを想定してもらえればいいと思います。もっとも、最近では闘争的コミュニタリアニズムの舞台は、2ちゃんからブログに移行しつつあるように思いますけれども。

 この闘争的コミュニタリアニズムは、内的にコンテクストの共有性・凝集性を高め、対外的にコンテクスト闘争を激化させる。あるいは、対外的な闘争を激化させることにより、内的な集団の凝集性を高めようとします。行為者はこうした共同体に属することで、行為接続の蓋然性を高めることができるわけです。ただ、諸々の共同体を鳥瞰する観察者の視点からすれば、別の意味でこれは行為空間の総体の複雑性を上昇させているともいえます。そして討議的な「正当化」は、妥当な行為調整のメカニズムとして機能できません。行為の正当化の方法論自体が共同体ごとに個別化される、と言うこともできるでしょう。

 もちろん、こうしたメディアを介した価値共同体の強化という現象は、マス・コミュニケーションにおいても観察されることです。マスメディアが行為に及ぼす影響についてはいまだ様々な議論が展開されている状況ですが、マスメディアが個々人の先有傾向を強化する機能を持つ、ということはある程度コンセンサスの得られた知見といえます。その意味で、価値共同体の強化というのはCMC固有の特徴ではない。しかし、CMCにおいては、他の価値共同体とのアクセス可能性、対面可能性がきわめて高いために、マス・コミュニケーションでは前面化しなかった、コンテクストの闘争が表に出やすいわけです。また、CMCにおいては、共同性を担保する「価値」というものが、必ずしも従来的な意味での政治的・道徳的価値ではないことも少なくない。さきほどブログにおける「作法」への自己言及の多さについて話しましたが、ある人の「語り口」への違和が共同性を成り立たせることも少なくない。つまり、形式の価値とでも言うべきものが、闘争的コミュニタリアニズムを成り立たせることもあるわけです。

 ちなみに、「語り口」をめぐる闘争というのは「たかが形式」と言うことのできないものであって、たとえばフェミニズムでは散々論じられてきたことです。セーラ・ベンハビブという人が論じていることですが、フェミニストの闘争とは主張内容のみならず、「どのような語りが妥当か」をめぐる闘争でもあった。つまり「討議的ではない語り口は聞く必要がない」と簡単に言うわけにはいかないのです。「討議的なコンテクスト調整のメカニズムへの異議申し立て」と「便所の落書き」はコインの裏表であり、そこに政治的価値にもとづく境界線を引くことは、どうしても倫理的な恣意性を免れないのではないでしょうか。

3-1-2. 多元主義的コミュニタリアニズム

 次に「多元主義的コミュニタリアニズム」の方に移ります。闘争主義的コミュニタリアニズムには、「共同体外部としての敵」を見いだすことにより、内部と外部の境界線、共同性を再生産しているという部分があったわけですが、こちらのコミュニタリアニズムはそうした否定的なアイデンティファイを必ずしも必要としません。これは価値もしくは行為のコンテクストを共有する他者との、まったりとした共存を指向する共同体です。たとえば2ちゃんねるのネタスレや、フレーミングを徹底的に回避するタコツボ的共同体、あるいは、Amazonなどのカスタマイゼーションにそれほどの違和を覚えることもなく、自己の価値を実現することを図る「動物」的な行為者*2などを想像してもらえればいいと思います。すなわち、他なる価値との折衝・遭遇あるいは文脈闘争を回避し、「快適」な情報環境を追及するという方法論。これもひとつの複雑性縮減の方法論であるわけです。

 この場合、コンテクストを調整してくれるのは主にアーキテクチャです。たとえばフィルタリング機能であったり、P2Pファイル共有ソフトだったり、SNSであったり、またクローズドな共同性を担保してくれるコミュニケーション・デザインであったりするわけです。いずれにせよ、多元主義的コミュニタリアニズムにおいては、CMCが生み出す複雑性、コンテクストの過剰性は環境の側から一挙に「解消」されてしまう。ここに現れているのは、実社会のコミュニケーション以上に、コンテクストが統制された行為空間です。コンテクストの違和がコミュニケーションを駆動させ、社会を作り出していくと考えるなら、これほど「社会性」を欠如させた行為空間もない、といえるかもしれません。別様の表現を与えれば、ノージックの言う「メタユートピア*3が、ある意味喜劇的な形で実現され、政治性や社会性を漂白した「脱社会的」な共同体群が乱立する、という感じでしょうか。

 さらにいいかえれば、闘争的コミュニタリアニズムはしばしば「反社会的」でありうるわけですが、多元主義的コミュニタリアニズムはむしろある意味「脱社会的」な様相を呈してしまうというわけです。たとえばサイバーカスケードを危惧するサンスティーンは、「反社会性」により大きな危惧を持っているように読めるのですが、他者との対立・否定すら否定する多元主義者、「脱社会的」な多元主義的コミュニタリアニズムの方が、ある意味で「非人間的」ともいえるわけです。

 このように、CMCにおけるコンテクストの過剰、複雑性の上昇に応じて、2つのコミュニタリアニズムが現出している、というのが私の見取り図です。「討議」も含めるなら、これで3つの「複雑性縮減のメカニズム」を検討してきたことになります。しかし、機能的に等価なメカニズムは、もちろんこの3つに限定されるものではありません。倫理研初回の鈴木さんの見取り図にならって、このほかに「リバタリアニズム」「保守主義」を入れることもできるでしょう。私自身はどうしてもリバタリアンというと、自己所有権、私的所有権から出発するというイメージを持ってしまうので、少し言葉を変えて「自生的秩序論者」と呼ぶこととしたいと思います。また白田先生も標榜されている「保守主義」についても、「価値を調整する何らかのメタ価値、調整方法が必要」という立場と翻訳して、ここでは「リベラリズム」と言いかえておきたいと思います。そして広い意味では、ハーバーマス流の「討議倫理学者」も、「リベラル」ということになります。ただし、これは個人的ターミノロジーの問題にすぎませんが。

3-1-3. 自制的秩序論者(=サイバーリバタリアニズム

図:CMC空間の社会哲学(自生的秩序論/リベラリズム
図:CMC空間の社会哲学(自生的秩序論/リベラリズム)

 まず自生的秩序論ですが、これは慣習に水路づけられた集団的行為がもたらす創発的効果を重視する、という立場です。コミュニケーションの総体としての世界の複雑性を、全体を俯瞰する設計的態度で操縦することは不可能であるばかりか、有害ですらあると考える。つまり、CMCが生み出すコンテクストの政治を、第三者的な観点から合理主義的に調整しようとするのは、まず無理があるし、また自生的な相互行為の試行錯誤が生み出す「創発性」の芽を摘み取ることにもなりかねない、と。たとえば「サイバースペース独立宣言」*4や、ロマン主義的に解釈されたハッカー倫理などはこうした立場に近いように思われます。

 この立場取りは、初回の倫理研でも話題になったように、コミュニタリアン、とりわけ闘争的なコミュニタリアンの指向性と共犯関係を取り結ぶ場合が少なくありません。自生的秩序を重視するという立場取り自体が共同体主義的なアナーキズムに近い発想なわけですから、当然のことです。

 また、先程も述べましたように、闘争的コミュニタリアニズムというのは、いわゆる実質的な政治的価値にもとづくものだけではなく、ある意味文脈や「語り口」をめぐる違和感の共同体となる場合もあります。ネット固有の話法、コミュニケーションの形式が賭金となるような場合、問題化されているのは、《「現実界」における複雑性縮減のメカニズムを、そのままサイバースペースに持ち込んでいいのか》ということです。闘争的コミュニタリアンは、「現実界」的な合理性の規準によって、CMCを規制することに懐疑的な態度をとることが多いのではないか。彼らがはたして創発性云々ということに関心を持っているかどうかは甚だ疑問ですが、しかし「現実界的合理性を短絡的に適用する」ことへの反発を共有する点で、闘争的コミュニタリアニズムは自生的秩序論と親和的な発想である、ということができるでしょう。

3-1-4. リベラリズム(≒サイバー保守主義?)

 次にリベラリズムですが、これは、CMCが生み出す複雑性を、コニュニケーション内容についてではなく、コニュニケーション形式について一定の拘束・規制をかけることにより、縮減し、現実界との連接可能性を担保しようとする立場ということができます。思想・表現の自由、価値の多元性を最大限尊重するが、かといってコミュニケーションのスタイルを自生的な慣習にゆだねきるのではなく、何らかの形で調整することを目指す。行為の意味を確定する文脈・状況を一義的に定めてしまうのも、また、状況構築の逐次的な構築が生み出すコンテクストのインフレを端的に肯定するのでもない。コミュニタリアニズム的な行為空間では、自分と異なる価値に触れることができないし、状況を一義的に定めてしまえば自由が枯渇してしまう。そのあいだをぬって、人々が表現の自由を享受するとともに、多元的な価値を知ることができるように、コミュニケーション様式を整序すること、そうした指向を持つ発想をリベラリズム、サイバーリベラリズムと呼んでおくことにします。

3-2.文脈の相互調整メカニズムとしてのリベラリズム――討議倫理コミュニタリアニズムのあいだ

 さて、それではサイバーリベラリズムの思考はどのような施策に踏み込むのでしょうか。

 たとえば、キャス・サンスティーンが『インターネットは民主主義の敵か』(毎日新聞社、2003年 asin:4620316601)で提示している「提案」などは、リベラリズム的思考の典型といえます。サンスティーンは、ネット上では現実界における所有・権利が失効するというロマン的な発想に異議をはさみ、サイト「所有者」は政府による規制の恩恵を受けている、といいます。そして、共和主義的な自由民主主義を実現するために、ネット上においても「内容中立的」な規制、あるいは「視点差別」を排除した規制はある程度正当化されうるのではないか、としています。

 内容中立的な規制というのは、たとえば「深夜の公道での拡声器の使用を禁止する」といったもので、ネットでいえば「CNNの許可なく、CNNのウェブサイトを使ってはならない」といった、かなり形式的な規制です。「内容にもとづいているが視点には中立」な規制というのは、放送局に課せられる公正原則などです。特定の視点・意見が制約の対象となるのではなく、コンテンツの公共性やその提示の仕方などが規制の対象となるわけです。ネットの場合でいえば、公共性が高い問題を扱い、公開討議を喚起させるサイトに補助金などを与えるとか、党派性が強いサイトや人気サイトに、異なる見解を持つ他のサイトへのリンクを義務づける(マスト・キャリー・ルール)といったものになります*5

 マスト・キャリー・ルールがはたしてどれほど現実のCMCにおいて有効なのか、疑問点はあるにはあります。しかしここで重要なのは、サンティーンが内容中立的な規制によって、CMCが生み出す複雑性、あるいはコミュニタリアニズムの跋扈に対処しようとしている、ということです。個々の価値が、自閉的な共同性のなかに回収されずに共存するために必要なメタレベルでの価値、いわば「善」に優先する「正義」をCMCの行為空間に実装する。それがリベラリズムの目指すところです。

 もちろんサンスティーン的なものとは違った方向性もありうる。たとえば、CMC空間に対して、言説を生産する主体の責任を帰属する可能性を持ち込もうとする発想です。匿名性を完全に否定するわけではないけれども、どこかに追跡可能性くらいは残しておこうというものですね。念頭においているのは、白田先生の議論です。たとえば白田先生は「新聞研究」に書かれた『網論との共生関係構築へ』という論文のなかで、ネット上において「少なくとも発言の検証可能性を担保する程度の連絡先を明示する、責任ある慣習を成長させる必要がある」と書かれています。公的な機関による規制ではありませんが、ネット言論者に「行為主体性」を帰属する必要性を言われているのだと思います。

 現状をみますと、「プロバイダ責任制限法」などによって事実上、ネット上で言論することのリスクは増大している、つまり本人が意図しようがしまいが事実上「行為主体性」を与えられてしまっているのに、そのリスクを踏まえているとは思えない「放埒」な言論・行為がまだまだ少なくないように見受けられます。東さんもおっしゃるように、今後は巨大資本が本気になって個人発のネット言論を潰しにくる可能性が高まってくるはずです。そうしたときに、コミュニタリアニズムを無条件に肯定し続けることは、自分たちの首をしめることになってしまうのではないか。そうなる前に、自分たちが依存しているコミュニケーション・デザインを総体的に見直しておく必要がある。リベラリズム的発想は、その見直し作業の方向性を定めるうえでの有力な道しるべになるのではないでしょうか。

 ともあれ具体的な政策には議論の余地はあるとしても、リベラリズムにおいて提出されている基本理念とは、なんとか「交通性」をもたせようというものです。内容を直接規制するというよりは、コミュニタリアン的に分極化してしまう行為様式や、討議倫理的にガチガチに固まってしまう行為様式でもなく、異なる行為様式同士を媒介していくようなメタフレーム、交通の回路を作り出していこうとする指向性を総じてここではリベラリズムと呼んでおきます。もちろん細かくみればいろいろなタイプがあると思うのですが、大枠で表現するとこのようなものになると思います。

 さて、通常はリベラリズムには分類されませんが、はじめに検討してきた電子公共圏論というのも、かなり濃くなった「サイバーリベラリズム」であると言うことができます。というのも、ハーバーマスは繰り返しコミュニケーション的行為の理論の「形式」主義的性格を強調しているからです。ただしその条件は厳しく、おおよそCMCの実態には適用不可能な達人倫理になってしまう。かといって、逆に「公共圏」の要件を緩めて「連帯するアソシエーション」といったような話にしてしまえば、それは結局コミュニタリアニズムと大差ないものになってしまう。とりあえずここでは、討議倫理リベラリズムを別のものとして議論を進めていきたいと思います。

 そこであらためてリベラリズムの立場を考えるとき、それはすなわち、闘争的であれ多元主義的であれ、コミュニタリアニズムを構造的に生み出してしまう現行のコミュニケーション・デザイン(アーキテクチャ)を問題視するというものということがてきます。「善good」による集団分極的な結び付きを現行のアーキテクチャが駆動させているという認識をもち、メタの次元の「正義」を指向する主体のハビトゥス、もしくはそうした態度を可能にするコミュニケーション・デザインを構築していこうという発想ですね。おそらく白田先生がサイバー保守主義を掲げ、「全体的な価値」が必要だとおっしゃるとき、そこで想定されているのは、全体で共有されるべき共有善というよりは、個々の善を調整していくメカニズムとしての「正義」なのではないか、と解釈しております。

 ところで、これは「正義を基底的に捉えるリベラリズム」という問題系からはズレてしまう、あくまで余談ですが、適切なかたちでCMCにおける「行為主体性」を調整すると、功利主義的にいっても好ましい結果が得られることがあります。たとえばブレーンストーミングの例が有名です。ウォーレスの『インターネットの心理学』(NTT出版、2001年 asin:4757140274)にも書かれていますが、日本語サイトでも概要を読むことができます。中山満子先生の解説などをご参照ください。「相手を批判することなく、自由に意見を交換しあい、アイディアを洗練させていく」というブレーンストーミングは、対面的である場合よりも、CMCによる場合の方が効率的であるということが、実験などで確かめられています(ただしアイディアの質というよりは、量にかんしてなのですが)。その理由については、CMCの方が他者によって思考が中断されたり、時間的に急きたてられることが少ない、といったことが挙げられます。また興味深いことに、同じCMCブレーンストーミングでも、匿名性を担保した場合――識別可能性を低下させた場合――のほうが、効率・成果が低下するといった議論もあります。A三浦麻子先生のご研究などで示唆されている見解です。CMCにある程度行為主体性、というか主体の識別可能性を担保しておけば、ある種の集団的なアイディア生産においては「よりよい帰結」が得られる可能性があるということですね。

 慎重に検討されなくてはならない問題ではあるのですが、とりあえず、ブレーンストーミングの場合は、適切に行為主体としての「個」を条件付けたCMCのほうがむしろ、個と集団をよりよく媒介する装置として機能しているということができるのではないか。2ちゃんねるやブログにしても、ブレーンストーミング的パッチワークになる場合と、サイバーカスケードへと流れ込む場合とがありますね。支援のうまくいった場合のグループウェア設計を、政治哲学的な観点から眺め返し、逆に政治哲学的考察の側にフィードバックするという実験哲学的な試みも面白いかもしれません。

3-3. アリーナの他者――多元主義的コミュニタリアンの「降りる自由」

 さて、以上で「闘争的コミュニタリアニズム」「多元主義的コミュニタリアニズム」「自生的秩序論」「リベラリズム」という、4つの類型が出揃ったことになります。蛸壷化するコミュニタリアニズムと自由放任的な自生的秩序論とのあいだをぬって、討議倫理ほど濃くはないリベラルなコミュニケーション・デザインを構想していく必要がある、というのがここまでの結論になります。ここで、CMCの実態にそくしたリベラルな共同体のあり方を具体的に構想していくということもできるのですが、その前に、ひとつ考えておきたいことがあります。

 「闘争的コミュニタリアニズム」「リベラリズム」「自生的秩序論」は、異なる価値、異なる形式で生成されたコンテクストの折衝にコミットすることに、同意した立場です。つまり「コンテクストの政治学」に参与することを同意した人々の立ち位置であります。しかしその三者に対して、多元主義的コミュニタリアニズムは異なる立ち位置をとっているように思えます。つまりそれは、コンテクスト闘争のアリーナに上がること自体を拒絶しているのではないか。

 別の言い方をすれば、こういうことです。「こういうコンテクスト設定こそが道徳的にいい」とみんながわいわいがやがやと言い合っているときに、「いや、というか、そもそもなぜ道徳的でなくてはならんのですか? 私は道徳的じゃなくてもいいから、楽しく生きていきますよ」と言ってのけるような感じですね。もちろん、こんな自覚的に言葉を紡ぐ多元主義的コミュニタリアニストはいないわけですが、彼らの生自体がそういう思想を遂行的に指し示している。みんなが規範倫理学の次元で闘争しているときに、メタ倫理学をひょいと提示しているわけです。

 現実世界では、こんな立ち位置はなかなか許容されにくいでしょう。学校で討議はよいものと教えられているし、右は価値闘争を、左派は他者との出会いを推奨している。組織や制度は、「なぜ制度にコミットしなくてはならないのか」というメタ倫理学的な問いをいわば構成的に排除しているわけで、価値のアリーナにのぼることに動機づけを持たない、こうした存在を外部化している。ところが、サイバースペースでは、こうした他者にも居場所が与えられてしまいます。フィルターを通された情報に自足し、他なる価値との出会いを回避し続け、かつ誰にも迷惑をかけることがない、という振る舞いが可能になる。徹底した多元主義的コミュニタリアンは、いわば世界と自己とが一致するような存在であり、アリーナで展開される実定道徳の闘争を相対化してみせるラディカルな他者です。「反道徳」というよりは「非道徳」。前回の言い回しを使えば「脱社会的*6な存在といえるかもしれません。

 さて、CMCで前面化する「コンテクストの政治学」「時間の急き立て」とは、いわば無限の応答責任の肥大を意味します。そこでは「応答しないこと」「応答を高みに立って打ち切ろうとすること」の持つ道徳的意味が、過剰なまでに上昇するのです。異論はあるかもしれませんが、私は法を越える正義、応答責任を希求する倫理というのは、極限までいくと動物的反射の要請にいきつくのではないかと考えています。レヴィナス的な「他者の顔」*7すら、自動化された応答責任の前では力を失うしかない。匿名性が無限責任を解除してくれるかというと、そうはならない。むしろ、匿名性が担保されているような行為空間でこそ、人は動物的に応答へと動機づけられてしまう。インターネットはいまのところ、そうした動物的な無限責任の倫理をアンプリファイしているわけです。

 インターネット、あるいはケータイを通したコミュニケーションにおいて、責任の構成主義はいわば極点に達する。すると当然のことながら、そうした応答責任の無限連鎖から「降りたい」というニーズが出てくる。責任の無限連鎖が生じかねないアリーナ、コンテクストの政治学が展開されるアリーナから「降りる」というニーズです。日本でいえば、2ちゃんねる的なアリーナからブログへ、ブログからSNSへ、といった流れが、そうしたニーズに対応してきた部分があるように思います。アリーナの前線はどんどん変遷していく。かつては、ウェブやマスコミを「ヲチ*8する場であった2ちゃんねるなどは、いまやすっかり「ヲチ」の対象となる「公的」な舞台になってしまったのではないか。それゆえに、逆にSNSを表舞台に引きずり出そうとする試みもあるわけです。

 もちろん、SNSが「脱社会性」を加速する装置だ、などというつもりはありません。SNSにはまるとそれはそれで大変な人間関係が待ち構えているようですから。しかし、それはやはり「アリーナから『降りる』」というメタ倫理学的な回避戦術でもあるわけです。つまり、動物的な応答責任から逃れるために、動物的に自足する場を保証するというコミュニケーション・デザイン。もし仮にmixiの勢いが衰えたとしても、次々と新しいデザインが繰り出されていくでしょう。

 アレント的に価値の闘争として公的空間、アリーナを捉えるなら、現在のコミュニケーション・デザインは、1)そうした場におけるコンテクスト闘争を激化させると同時に、2)コンテクスト闘争から降りるニーズにも対応している。そこでリベラリズム的方策は、反社会的な行為に及ぶ闘争的コミュニタリアンを制御していくことはできるかもしれませんが、けっして反社会的な行為をすることのない多元主義的コミュニタリアンを統制していくことはできないのではないか。いや、そもそも明白な他者の自由への侵害をしないかぎり、「なぜ道徳的でなくてはならないのか」と問う徹底した他者、メタ倫理学者の生に、リベラリズムがパターナリスティックに介入することが正当化されうるとは思えない。この「アリーナの他者」たる多元的コミュニタリアニズムが持つ、他の「イズム」とは水準を違えるメタ倫理学の位置価を、私たちはしっかり押さえておく必要があると思います。

3-4. 整理と結論――「アリーナの他者」の居場所を確保するリベラリズム

図:CMC空間の社会哲学
図:CMC空間の社会哲学

 ここまで、現状のCMCアーキテクチャが生み出してしまう複雑性に対応していこうとする戦略、複雑性への対応戦略として、様々な倫理のかたちがありうることを機能主義的に見てきました。ここまでに出揃った「イズム」を列挙しておきましょう。

 現状は、b)闘争的コミュニタリアニズムとc)多元主義的コミュニタリアニズムが広がり、マスメディア・ジャーナリズム的なa)討議倫理学とe)自生的秩序論、あるいはb)闘争的コミュニタリアニズムとの対立が激化している、という感じだと思います。今回の報告のひとつの主張は、討議倫理が成り立たなくなるメディア環境の変容のなかで、d)リベラリズム的な理念を構想し、アーキテクチャを再設計していくことが必要なのではないかということです。つまりサイバーカスケードなどによって、自由主義、民主主義の基本的なかたちを無化しかねない闘争的コミュニタリアニアンどうしの闘争激化に対して、ある程度の「行為の正当化可能性」を担保することが必要である。そして多元的コミュニタリアンどうしの脱社会的な相互無関連化に対して、最低限の他者との出会いを実現することも必要である。討議倫理は無理があるし、そもそもマスメディアのコミュニケーションを前提にしている以上、これを実現せんとするのがリベラリズムであるということですね。

 しかし、問題なのは、前節でみたように、公共性への指向を欠く多元主義的コミュニタリアニズムの動物的な生態を、リベラリズムが統御することはできないのではないか、ということです。もちろん、徳倫理と折り合いのいいラズ*9的な自由主義など、望ましいリベラルな人格類型の陶冶を指向するタイプの自由主義であるなら、闘争的動物のみならず、多元主義的な動物の生態にも介入することでしょう。しかし、私には、リベラリスム理論と徳倫理との関係は必然的なものとは思えない。このあたりは討議のなかで説明できれば、と思うのですが、私は「他者に迷惑をかけない動物的自由」を否定すべきではない、と考えています。リベラリズムは、たしかに「自己陶冶」的な人格類型を好ましいと捉えるだろうけれども、そうした人格類型の形成に政府がコミットすべきではない、と考えることだってできる。

 闘争的コミュニタリアニズムの闘争性が完全に解消されることも、討議倫理的な作法がCMCにおいて定着することもありえない、と考えるなら、私は、「アリーナの他者」に居場所を与えるタイプのリベラリズムを擁護すべきと思います。無限の応答責任へのコミットメントを「選択肢」化する、つまり望まないならコミットしないという態度を可能にするコミュニケーション・デザインは一概に否定することはできないのではないか。というよりは、それを否定することは正当化できないのではないか、と私は考えます。もちろん、民主主義理論的には、人々が「デイリー・ミー*10的生に自足するというのは困ったことなのでしょうが、そもそも私には民主主義という政治技法が、自由主義という政治哲学に優越するとは思えない。このあたりの規範論的緩さを残したコミュニケーション・デザインこそが必要なのではないでしょうか。

3-5. リベラリズムの彼岸と環境管理型権力の問題

 ただ当然のことながら、《「アリーナの他者」の居場所を確保するリベラリズムを》という結論で満足するわけにはいかない、というのも事実です。事はネットの外のことを考えてみれば明白です。現実世界における「アリーナの他者」というのは、「監視カメラを設置してより安全な生活に自足して何が悪い」というようなセキリティ潔癖症の人達です。この場合、その指向は明確な「排除」を生み出す。排除の対象は、「外国人」であったり、「若者」であったりする。そうした多元主義的コミュニタリアニズムの排除の構造は、当然、ネットにおいても観察されうる。闘争主義的コミュニタリアンが明確な形で排除を打ち出すとするならば、多元主義的コミュニタリアンは「リスク考量」という第三者的に見える根拠でもって排除、ゲート化を自然主義的に正当化します。理論的にいえば、純粋な多元主義的コミュニタリアンとは、バーリンの言う積極的自由*11の享受をアーキテクチャによって保証された主体であるということができます。

 東さんが前回おっしゃったように*12、セキリティを保証する技術が実装されたのなら、かれらはその技術が稼働しているかぎり、技術導入以前の自由よりもより多くの行為の自由を認めなくてはならないはずです。監視カメラを設置したのなら、子供を夜間遊ばせるぐらいの度量をみせつけなくてはならない。ところが、全く逆に、監視カメラの設置がさらなるセキリティ不安を煽り、さらなるセキリティへと人々を向かわせてしまう。

 それと同じ構造が、ネット上の多元主義的コミュニタリアンにもあるかもしれない。より完全なセキリティ、コンテクストの齟齬のなさを求めて、アリーナの前線がどんどん引き直されて行く。SNSだって、いまやコンテクストの政治のアリーナになりつつあって、今後さらに前線は後退するかもしれない。安全な場所への欲求が際限なく生み出されていくわけです。それによって、ほんのちょっとしたコンテクストのズレすら許容できないような行為空間が生み出されていく。2ちゃんねるだったら「共闘」できたかもしれない人が、SNSでは対立する、といったことだってありうる。「降りる」場所を確保するのはいいのですが、そうした場を作れば作るほど、コンテクストの政治学がセクト化、内ゲバ化していく、ともいえる。徳倫理を否定するリベラルは、「降りること」を否定することはできない。しかし、リベラル社会学者は、「降りること」の場を作り出していくことの不毛さは指摘することができる。「完全なる積極的自由って、そんなにいいもんか?」と水を指すことは可能だと思うんです。

 私は、公的な次元で「降りる自由」を否定することはしない、つまり「降りる自由」を不可能にするアーキテクチャを肯定はしませんが、個人的には「降りる」ことの不毛さも問題にしたいと思っています。完全なる積極的自由を保証することによって、剥奪感を、つまりは消極的自由*13が成り立つ要件を奪っていく環境監視型権力に生きることは、そんなに幸福なことだろうか。それは実は他者の消極的自由を侵害することなく、他者を排除することを可能にする、結構問題ぶくみの社会的装置なのではないか。ゲート化された都市に住んでいれば、真の利益を享受し、かつ、誰の消極的自由も犯すことなく、他者を排除することができる。アーキテクチャの次元で出会わないように設定されていれば、私たちは無垢な差別主義者になることだってできてしまう。本当にそれでいいのか。明白な反社会的コミュニタリアンの場合とは異なる問題が、徹底した多元主義的コミュニタリアンの場合にあるように思えます。

 以上で私の報告は終わりです。今回の報告では、CMCにおいてなぜ討議倫理的な問題設定が意味をなさないのか、を確認した後に、現行のCMCが生み出す集合性の類型とその倫理を概観しました。コミュニタリアン的論理の自然史的な拡大していくなかで、リベラリズムはどのようにしてコミュニティどうしの架橋を図ることができるのか、そこにはどのような限界があるのか。また、リベラリズムの彼岸にある「徹底した多元主義的コミュニタリアン」「アリーナの他者」を私たちはどのように考えて行くべきなのか。そういった論点について、あくまで問題提起に留まるものでしたが、議論させていただきました。ご清聴どうもありがとうございました。

参考文献


*1:註:ised@glocom - ised議事録 - 2. 倫理研第2回: 白田秀彰 講演(2)

*2:註:isedキーワードデイリー・ミー」参照のこと。

*3:註:isedキーワードメタユートピア」参照のこと。

*4:註:ジョン・ペリー・バーロウ「サイバースペース独立宣言」(1996年)邦訳はHotwired Next Citizen/ActiVista - サイバースペース独立宣言・日本語訳などで読める。「カリフォルニアン・イデオロギー」的なものとしても参照される。

*5:註:isedキーワードサイバーカスケード」参照のこと。

*6:註:倫理研第1回共同討議で提起される。isedキーワード脱社会的」参照のこと。

*7:註:エマニュエル・レヴィナス「全体性と無限」(国文社、1989年 asin:4772001018

*8:註:「ウォッチ」「観察する」の2ch用語。対象から距離を取り、安全なところから「生暖かく」見守りつつ嗤いの対象とする、という態度。

*9:註:ジョセフ・ラズ「自由と権利」(勁草書房、1999年 asin:4326350970)。

*10:註:isedキーワードデイリー・ミー」参照のこと。

*11:註:isedキーワード積極的自由」/「消極的自由」参照のこと。

*12:註:倫理研第2回: 共同討議 第2部(2)

*13:註:isedキーワード積極的自由」/「消極的自由」参照のこと。

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