ised議事録

03-124. 倫理研第3回: 共同討議 第1部(1)

E3:共同討議 第1部
(開催:2005年3月12日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年5月14日)

アイロニーとリベラリズム――80年代テレビ論という補助線

東浩紀(以下、東):

東浩紀
東浩紀

 ありがとうございました。共同討議の前に、ふたつほどポイントを出しておきたいと思います。

 ひとつは、マスメディアとCMC(コンピュータが媒介するコミュニケーション)が根本的に違う、ということです。前者は中央集権型ですが、後者は分散型です。その差異があるために、討議的公共圏はCMCでは成立しない。これは構造的な問題であり、インターネットのユーザーがバカだから公共圏が成立しないということではない、というのが北田さんの主張の中核だったと思います。裏返せば、電子的なコミュニケーションが台頭してきたことによって、逆に従来の公共圏がどのような前提のうえに成り立っていたのか、明らかになってしまった。

 そしてもうひとつのポイントは、ではCMCはどのようなコミュニケーションを求めるのか、という問題です。インターネットに適したコミュニケーションの様式は、公共圏を形成する討議倫理ではなく、社会的アリーナに対してつねに「降りる自由」を確保している多元主義的なコミュニタリアニズムなのかもしれない、しかしそれはあまりに不毛なのではないか、というのが北田さんの問題提起でした。おそらく北田さんとしては、そこでもう少し普遍的なリベラルな感性が必要だと考えている。しかし、リベラリズムは多元主義的なコミュニタリアニズム、あるいは、僕流の言い方をすれば「動物的な自由」を許容することしかできない、とも留保されている。つまり、動物的自由は不毛だが結局それしかないのか、というきわめてアンビバレントな結論になっているわけですね。

 この2点に対して、さらに補助線を引いておきたいと思います。北田さんは、今日の報告のような理論的志向の強い議論を展開されると同時に、きわめて精緻で実証的なメディア論も行われており、そこではテレビやラジオや広告についての歴史社会学的な研究もなされている。

 最近では『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス、2005年 asin:4140910240)という話題の本を上梓されていますが、これは、2ちゃんねる論として書かれた小さな論文を拡張して、60年代の連合赤軍から80年代のメディア文化論をつなげて、現在の2ちゃんねるにいたる流れを記述されているところに特徴があります。そのなかで北田さんは、とくに80年代のアイロニカルなテレビ的感性に着目されているのですが、そこで発達した「お約束」的なネタを「笑いつつ笑わない」といった二重感覚が、90年代後半以降の2ちゃんねるに移植されたときにどう変化したのか、鋭い分析をされている。

 あまり指摘されませんが、北田さんにおいては、こうしたメディア論的研究と、今日のような理論的な研究が、表裏になっていると思います。きわめて乱暴に要約すると、メディア論におけるマスメディア的なものとインターネット的なものの対置が、実は思想的にはリベラリズムと多元主義的コミュニタリアニズムの対置とパラレルになっている、そういう感性で仕事をされているのではないか。つまり、北田さんの問題意識は、旧来型のマスメディアこそが「降りつつ降りない」といった独特のアイロニーの構造を可能にしていたにもかかわらず、インターネットの空間になるとその二重性が失効してしまう、それをどうするべきだろうか、というものではないかと思うんですね。その失効があるこそ、2ちゃんねらーは、アイロニカルな二重性を持って振る舞っているつもりでも、いつのまにかベタなサイバーカスケードに取り込まれてしまう。北田さんによるCMCの現状についての認識は、このように整理できるのではないでしょうか。

 今日の報告の後半は、『責任と正義』(勁草書房、2003年 asin:4326601604)に寄った理論的なものでしたが、そこに『嗤う日本の「ナショナリズム」』や『広告都市・東京』(広済堂出版、2002年 asin:433185017X)などのメディア論的な仕事を補助線として挟み込むと、実はきわめてアクチュアルなメディア論としても聴けるものではないかと思いました。共同討議は、その方向で進めることができれば、と思います。

 それでは共同討議を始めましょう。まず講演についての用語的な質問をしたうえで、白田さんと鈴木謙介さんからコメントをいただきたいと思います。

石橋啓一郎(以下、石橋):

 非常に社会学的なタームが散りばめられていたので、どこから伺えばいいのか……(笑)。

白田秀彰(以下、白田):

 それでは私からよろしいでしょうか。北田さんの「コンテクスト闘争の前面化」を私の言葉でいえば、インターネットは物理的な限定を超えてしまうために、発言されている内容を解釈するための参照枠がどんどん拡大し、集約できなくなる、ということでしょうか*1。そしてこの解釈の枠組みをめぐる争いが起きているんだ、ということですよね。

 発言する内容がコンテクストに相当依存するという状況は実際あるわけで、発言の内容ではなく、それをどう解釈するかという文脈をめぐってケンカが起きているんだ、と。

北田暁大(以下、北田):

 そのとおりです。

辻大介(以下、辻):

辻大介
辻大介

 その部分でもう少し突っ込んでおきたいと思います。

 たしかに「関連性理論」*2では、コンテクストは所与のもの(given)ではなくて選択されるもの(chosen)であると考えられているんですが、北田さんの言葉ではコンテクストが「操作される operated」という表現をされている。こうした考え方は語用論のなかではあまりポピュラーではないと思うんですね。たとえばコンテクストを「操作する」とか、コンテクストをめぐって「闘争する」といったときに、具体的にはどういうシチュエーションを想定されているのでしょうか。

北田:

 chosenと言われたことと同じだと思います。

 もちろん、コミュニケーション論や関連性理論の文脈に照らせばもっと繊細な話が必要になってくると思うんですけど、大枠としてはこういうことです。いまここで私たちはまさに討議をしていますが、そこではさまざまな「文脈」を指示するコンベンション(慣習)が前提とされています。たとえばどういう順番で喋るのかといったことに関して、実に事細かな規約が存在し、なにが適切な振舞いであるかが慣習的に定められている。それを私たちは「実は」逐次的に選択しているんだけれども、よほどの「逸脱」がないかぎり、とりあえずその選択の事実性を意識化することなくコミュニケーションを継続することができる。しかし文脈の共有そのものへの信憑を調達することが困難なCMCにおいては、そうした選択の事実性が前景化せざるをえないのではないか。

 これは、価値観のレベルで異なる人たちがいるということではありません。むしろ行為の形式的な側面、様式的な側面の多元性がもたらす事態であると考えています。幸か不幸か、採用する形式の異なる者同士が出会う可能性がきわめて高いコミュニケーション空間がCMCなのではないか。これが「コンテクスト闘争の前面化」ということです。

東:

 CMCでは、コメントの内容ではなくて、「こいつのコメントの付け方は失礼だ」といった作法こそが問題になってしまう、というですね。

 他に質問はありますか。

石橋:

 北田さんの講演で、最後に5つの立場が整理されていましたね。討議倫理、闘争的コミュニタリアン、多元主義的コミュニタリアン、リベラリスト、自生的秩序論の5つです。

 ただ、北田さんの議論のなかで当のリベラリズムが、「討議倫理よりはゆるい」と否定的にしか表現されていないと思うんですよ。リベラリズムという言葉に明るくない人のために、もう少し具体的にイメージが沸くように説明をしてほしいんですが。

東:

 それはきわめて本質的な質問ですね!(笑)さきほど裏で、「北田リベラリズム否定神学*3じゃないか」という話をしていたんですが、まさにそういう指摘が来てしまった(笑)。

 冗談はさておき、いかがですか。

北田:

 そうですね、私はリベラリズムをひとつの確固とした政治倫理や道徳理論というふうに捉えるのではなく、わりと機能主義的に捉えているところがあります。つまり、放っておくと泥沼の対立に陥りがちな人々の価値や行為、これを「適度」に調整せんとする機能的メカニズムなのではないか、という発想ですね。

 私の考えるリベラリズムは次のような主体を想定します。まずひとつに、自分の行為を正当化する主体。事後的でもいいので、ある程度他者と共有されている―あるいは共有可能な―規範によって正当化を行いうる主体ですね。それからもうひとつは、個々の持っている「善」よりも、「正義」のような行為調整メカニズムを優先させる主体。私は、こうした主体像を前提とすることによって成り立ちうる行為空間があったほうが、そうでないより「順機能的」であると考えます。現代の流動的で複雑な社会においては、そうした行為空間の整備によって、事態に対応していくのが「最善なき次善」の策であろう、と。

 ただ、私がいつもリベラリズムについて論じるときに考えているのは、「こういった考えに同意しない人たちも当然いる」ということです。さきほど東さんに紹介していただいた『責任と正義』という本のテーマは、常に消去しきれないリベラリズムの外部とどう折衝していくのかというものでした*4。つまりリベラリズムというのはひとつの機能的な存在であるからして、すべてを「哲学的」「倫理学的」に包含できるような理論では当然ない。どうしても、そこからこぼれ落ちてしまうものがあって、それにどう対処していくかを考えなくてはならない、ということです。というわけで、ここで私が言っているリベラリズムというのは、おそらく非常に「ゆるい」ものなんですね。哲学的根拠と自信をもって「リベラリズム一番!」といっているのではない。あくまで現代社会の社会学的な観察にもとづき、機能論的に「擁護」しているにすぎないんです。

 行為の主体が、事後的に行為の正当化を求められる場を作っておくということ。それから、公のルールは私的な格率よりも優先されるということを、前提するような主体のあり方を想定すること。この2点に絞ることで、討議倫理ほど濃くはなく、かつアナーキスティックな自由を容認するのでもない、機能的な装置としてのリベラリズムが想定できるのではないか。これが私の考えです。

東:

 なるほど。ただ、いまのご説明もきわめて抽象的だったので、なかなかイメージをつかみにくいかもしれません。

 そこでまた補助線を引いてみたいと思います。さきほども言いかけたのですが、僕は、北田さんのリベラリズムへの感覚を支えているのは80年代のテレビ文化*5だと思います。理性的な討議をベタにするわけではない、基本的には討議はネタにしかならない、とはいえそのネタに内容がないわけではなく、楽しい議論を進めているといつのまにかマジメになってしまう、といったような多重的感覚が共有される空間として、北田さんは80年代の文化を捉えていると思うんです。そして、それこそを他方でリベラリズムと呼んでいるのではないか。

 消費者のあいだで「自分にとって楽しい番組しか見ない」という動物的な感覚が前面化してしまうと、ベタもネタもなくなって、多様な価値観が闘争せずに済みわける多元主義的なコミュニタリアニズムの世界がやってきてしまう。素朴な相対主義ですね。別の言葉で言えば、内容主義です。

 他方で、「テレビの裏の裏の裏の…」と無限に裏設定を読み込んで、テレビに対してメタレベルにばかり立とうとしていると、極端な形式主義的に陥ってしまう。これもやはりダメです。番組の内容が関係なくなって、すべてが視聴者を巻き込んだゲームになってしまうからです。北田さんは、これが80年代の隘路だと言っていました。そこで、単に相対主義でもなく、かといって形式的なメタゲームをやるわけでもない、中間の立場が必要だということになる。「討議倫理ほど濃くはなく、かつアナーキスティックな自由を容認するのでもない」というわけです。

 そのとき北田さんは、形式と内容の中間をとる「アイロニー」の感覚を持ち出す。それは言い替えれば、テレビ番組をベタに面白いと思いつつ、しかし同時にそんな自分の位置を相対化する態度です。「個々の持っている「善」よりも、「正義」のような行為調整メカニズムを優先させる」という態度は、その相対化がなければ生まれません。このアイロニーこそがリベラリズムの核にあります。そして、『嗤う日本の「ナショナリズム」』では、その態度が日本では80年代のテレビ文化で一般にまで浸透した、と主張されていたわけですね。

 ちなみに言うと、僕と北田さんは奇しくも同い年なのですが、僕たちはまさに80年代にテレビが演出する「業界文化」に魅了された世代です。したがって、その世代から、北田さんのようなテレビ+リベラリズム社会学者が出たのは、ある意味で必然なような気がします。そして、そんなスタンスの社会学者がいまのネットを見たとき、今日のような結論に行き着くのかは、必然かもしれません。インターネットはテレビではない、したがってそこではリベラリズムが育ちにくいのです。

一同:

 なるほど……(笑)。

鈴木謙介

 よくわかる北田暁大(笑)。




*1:註:倫理研第2回: 白田秀彰 講演(2)での「なぜ情報技術は法を揺さぶっているのか」についての記述を参照。

*2:註:以下参照のこと。→インターネット講座第10回語用論 - Wikipedia

*3:註:「○○(ex.神)は存在しない、というかたちで存在する」といったように、「否定的な表現を通してのみ捉えることができる何らかの存在がある、少なくともその存在を想定することが世界認識に不可欠だとする、神秘的思考一般」のこと。→参照:東浩紀存在論的、郵便的」(新潮社、1998年 asin:4104262013

*4:註:リベラリズムの外部とは、「倫理が社会的に構成されているという事実はわかっていたとしても、しかしなぜこの私は社会的であることにコミットせねばならないのか?」「なぜ他者を尊重せねばならないのか」と問う「制度の他者」のこと。これはある制度や規範に反逆する「反社会的」存在ではなく、そもそもそうした規範を成り立たせる制度にコミットすべきと信じることができない、制度に内在することのない者である。こうした「脱社会的」な存在に対して、リベラリズムはどう対処できるかが『責任と正義』でのひとつの論点となっている。

*5:註:北田『嗤う日本の「ナショナリズム」』の説明によれば、80年代のフジテレビの一連のバラエティ番組(「オレたちひょうきん族」や、とんねるずの携わった番組)では、テレビの外部にある出演者の私生活情報やADのあだ名・キャラといったギョーカイネタ(背景知識)を補填することのできる視聴者だけを対象にするような、内輪的な嗤いが提示されていた。すなわち、「いま・ここのネタを「笑う」ためには、お約束を「嗤う」だけのリテラシー、いま・ここの外にある情報を収集する能力を持っていなくてはならない」(P.199)アイロニー・ゲームが展開されていたのである。

アマンアマン2005/06/24 20:51 基本的には、自生的秩序論が一番説得力があるように思えます。というのは、それ以外の立場は独我論の域をでないからです。

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