ised議事録

03-125. 倫理研第3回: 共同討議 第1部(2)

E3:共同討議 第1部
(開催:2005年3月12日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年5月14日)

ゆるいリベラリズム批判――白田秀彰からの応答

東浩紀(以下、東):

 それでは、白田先生からのコメントをお願いします。

白田秀彰(以下、白田):

白田秀彰
白田秀彰

 はい、今日の研究会のために北田さんの本を読んで勉強したので、なんとかついていけていると思ってホッとしております(笑)。

 さて、北田さんはさきほど「リベラリズムとしてはゆるい」とおっしゃっていたんですけれども、まあ実際「ゆるいなあ」と思ったんですね。北田さんの立場は、全体を統括するようなコンテクストや形式を設定するべきだが、そこから逸脱してもいいよ、という非常に「優しいリベラリズム」ですよね。私の立場は、「それではやはりまずいんじゃないか」というものなんです。北田さんの議論だと私はリベラルの範疇に入っていたのですが、本当にそうなのかなと思ってしまう。

 まず、多元主義的コミュニタリアンはいてもいいけれども、できるだけ減らさなければいけないと私は考えます。もちろん、縛りつけを厳しくすればするほど、そこから降りてしまう多元主義的コミュニタリアン的な状況に陥る人は出てしまうでしょう。「陥る」という表現は失礼かもしれませんが、ともあれ必然的に出てしまうものであれば、その存在をわざわざ容認せずともいいのではないか。あるいは、多元主義的なコミュニタリアンを本気でゼロにしようとすれば、相当に全体主義的な締めつけをしなくてはできませんから、普通はやらない。だから、あえて正面きって存在を認める必要はないと思うんです。これ、「犯罪はだめだけど、やはり犯罪者はいるものだよね」という感覚と似ているかもしれない。

 また、なぜ多元主義的コミュニタリアン的な存在はだめかというと、システムに対するフリーライダーに見えるからなんですね。インターネットは、たしかに参加するも降りるも自由な空間ですが、実際にはそのネットのアーキテクチャは、政治的に選択されているわけで、その恩恵を全員受けているわけです。ところが多元主義的コミュニタリアンはコンテクストを巡る政治的な闘争から降りてしまっている。つまり、政治的な決定の結果に乗っていながら、政治的なコンテクストは引き受けないという逃げのアプローチなわけです。となると、その存在は認めないという立場を基本的には取り続けねばならない。やはり、人間誰しも「楽しければいいじゃん」という感覚を持っていますから、逃げのアプローチが容認されてしまっては、はたして誰が政治的な決定を支えるのか。勝手にやっていいよということになると、技術的なエリートたちによる環境管理/監視社会の構築に歯止めがかからなくなってしまうでしょう。

 というわけで、私のサイバー保守主義の立場は、「多元主義的なコミュニタリアンをできる限り少なくするようなアーキテクチャを実装する、という政治的な決定を行うべき」というものです。そして設計するとき全体主義的な危険が生じてしまう可能性がありますから、そこで過去の歴史にさかのぼって、私たち人類社会はどうやって全体主義的な失敗を逃れてきたのか参照する必要があるだろう、というものです。

 つまり、リベラリズムという枠は賛成だが、多元主義的コミュニタリアンOKには反対、これが私の立場です。

北田暁大(以下、北田):

 おっしゃることはわかります。ただ私が思うに、自分の快適さを追求することだけが多元主義的コミュニタリアンの生存形態ではないと思うんですね。多元的というのは、コンテクストの過剰性がもたらす複雑性にどう対応するかという「様式」のレベルにおいて、多元主義的という意味です。ネット上に討議的な場があるに越したことはないし、実際討議倫理学的な立場も許容されている。そういう語りの様式が採られている場じゃないと生きていけない人たちが少なからずいるわけです。同様に、動物的に徹底した多元主義的コミュニタリアンたちのための場所がなければ、CMCにおける過剰コンテクストが生み出す複雑性に対処しきれないのではないか。これが私の基本的な考えです。

 ただ、多元主義的なコミュニタリアンが充足できるアーキテクチャを作り出すことは、たしかに価値のあることだけれども、それによって逆説的な複雑性の上昇は起きないだろうか、という留保もつけておきたいんですね。たとえば複雑性の問題を一挙に討議倫理学的に解決してしまおうとすると、そのこと自体が新たな複雑性を生んでしまう。これと同様の逆説がありえるのではないか。

 環境管理型権力の問題に批判的に関与していくと同時に、動物的・フリーライダー的な生のあり方をどのように社会に吸収していけばよいか、どのように社会に軟着陸させていくかという問題も考えたいんですね。動物化が社会全体の構造変化に対応するかたちで現れるひとつの生の戦略だとするならば、彼らが生きていく場所を用意することも必要だと思う。たしかに白田先生もおっしゃられるように、多元主義的コミュニタリアンはなるべくいない方がよい。しかし、この「いない方がよい」という価値を、公のレベル、つまり法や政治といった次元で実現していくというよりは、社会的な次元でどうにか対処していくべきではないかと私は考えます。ここはたしかに見解が違えるところかもしれません。

白田:

 対話の様態として多元主義を取りたいというアプローチの人がいるのはわかるんです。ただ、こんなことを言うと白田はまた根性論だということになるんでしょうけど、要するに、「ゆるゆると闘争していくだけで結果的にそうなってしまいました」というニュアンスにどうしてもひっかかってしまうんですね。

 たとえば討議倫理学者や私のようにガチガチに縛った方がいいと思っている人がいたとして、また一方に自分独自の会話の様態を選びながら、ゆるゆると自分の自閉した世界に退避していく人たちがいる。彼らを「だめだ」と言い切ってしまえば、これは変な言い方ですけれど、「闘争的多元主義的コミュニタリアン」みたいな立場として立ち上がってくれると思うんですよ、逆に。「自分たちは好き勝手やるんだ」という立場が明確になるならば、それでいいんです。一番私が懸念しているのは、「降りてもいいよ」と言われてしまうことで、ゆるゆるとみなが多元主義的コミュニタリアンのポジションに流れ着き、結果として政治的な言論を支える人たちが大幅に減ってしまうことです。

 「多元主義的な対話のモードを選ぶ人がいてもいいけれども、自覚的になってくれ」というわけです。それを自覚的にやらせるためには、むしろ公的には禁じるのがいいのではないか。宗教でも何でもそうですが、禁止すれば禁止するほど先鋭化しますよね。ゆるい方向へ向かうことに歯止めをかけるならば、あえて禁じるのがよいのではないか。非常に戦略的な考え方なんですけどね。

加野瀬未友

 お話を聞いていると、投票するか・しないかの話を思い出しますね。投票しない、という政治表明をどう扱うのか、という。

白田:

 そうですね。たとえばオーストラリアでは投票しない人には罰金をかけたり税金を増やして、公的に否定的な価値づけを行っていますね*1。そうすれば、それでも投票しない人はあえて政治的に「投票しない」というポジションを選んでいるということになる。「俺は金を払ってでも投票しないぞ」というわけ。ゆるゆると惰性的に投票しないということと、いまの政治は徹底して駄目だから俺は絶対に投票しないと考えることは違う。

北田:

 いまお聞きしていて、たぶん私も近いことを考えているのかなと思いました。多元主義的コミュニタリアンの生き方を無前提に肯定するのではないが、公の立場としては、ここでいう「ゆるゆるなリベラリズム」を取っておく。そのうえで、「あなたが動物的な生き方、多元主義的なコミュニタリアニズムを継続していくことはひとつの選択なんだよ」と自覚してもらう。「禁じ」なくとも「自覚してもらう」ことは可能なのではないか、ということです。自覚させていくための環境を構想していくという意味では、同じ考え方だと思います。

東:

 いや、違うのではないですか。

 というのも、投票しないことに罰金を設けるということは、脱社会的な行動のオプションをなくすということだと思うんです。金を払ってまで選挙に行かないか、金を払わないで選挙に行くかのどちらかしかないわけだから、単に「忘れた」というのはありえなくなってしまう。しかしいまの日本の問題は、本当に忘れているだけだったり、面倒くさいから降りてしまっているということなんですよ。たしかにこうした無自覚的な存在は、罰金をかければ消えるでしょう。そして白田さんは、脱社会的存在はそのような方法で少なくした方がいいという意見ですね。他方、北田さんのほうはいま同じ考えであるとおっしゃったけれども、それでは「動物的なひとをどう吸収していくか」という問題にはならないでしょう。だって、自覚して動物的であることを選択できるならば、それはそもそも動物的ではない(笑)。そういうひとを許容するのはいいわけで、問題はその彼方にいるひとびとだと思うんです。

 僕は『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001年 asin:4061495755)で、大雑把に言えば、「昔のオタクはわざわざオタクであることを選んでいたんだけれど、いまのオタクは無意識にオタクになっている」ということを書きました*2。この部分は、「無意識なオタクはオタクなのか」的な反論を引き起こしたのですが、だからこそ現状は問題だと思うんですよ。結局、人々があるライフスタイルを自覚的に選んでいるのであれば、それがどれほど奇妙であっても、動物的でもなんでもない。犯罪者を選ぼうがニートを選ぼうが、そこに自覚があるのであれば、「社会に抵抗する」という意味で社会的な存在であって、本当の問題ではないと思うんですね。

 問題なのは、「選ばない」というより、そもそも「選んでいると思えない」ひとびとが増えていることでしょう。鈴木謙介さんがよく引くように、渋谷望が「宿命論の台頭」といっている現象です*3。自分の人生を宿命的に捉えてしまう人々が増えていて、「なんとなく年収三百万だしこんな人生なのかな」で終わってしまう(笑)。「おいおいそうじゃない、もう少し世の中いろいろあるはずじゃないか」といっても、別の可能性をイメージできない。それは社会空間に参与していないからです。こうした脱社会性の蔓延こそが現代社会の問題だとすれば、自覚させればいいという対策では歯が立たない。

北田:

 すごく重要な問題だと思います。少しさかのぼりますが、罰金云々の事例でいえば私の場合は「罰金を課すべきではない」という立場です。リベラルのやるべきことは、政治宣伝としてのみ、「選択なんですよ、選択なんですよ」と叫ぶことしかない。叫ぶことへの税金の投入は正当化されうる。しかし、罰金というかたちで、あるいはアーキテクチャレベルで「選挙にいかないということを選択肢として可視化すること」は、回避するべきだと思います。

東:

 つまり、討議的理性というか、「啓蒙」しかないんだという立場ですね。それしかないと思う。

北田:

 そんな気がします。討議倫理学者ほどにも熱くはない啓蒙ですが。

石橋啓一郎

石橋啓一郎
石橋啓一郎

 質問です。機能主義的にリベラリズムコミュニタリアンといった立場を捉えるということなんですが、つまりそれは人の属性の話なのか、場の性質なのか。それとも世界がこうならなくてはならないという話なのでしょうか。島宇宙化という話がありますが、人間というのは複数の場に同時に属しているものですよね。たとえば多くの人は人生のなかで90%くらいは動物的に反応しても、10%くらいは理性的・討議的に反応している。僕もそうです。そう考えると、この問題はどう捉えたらいいのでしょう

北田:

 場の性質だと思います。おそらく我々はこれらの場を使い分けており、たとえば討議倫理者がある場に行くと闘争的になったりするということは十分ありえます。むしろこの使い分けの度合い、つまり文脈選択の多元性が高まっているのがCMCではないかということです。

 討議倫理的立場であれば、それが推奨する特定の人格類型に人々を当てはめていこうとする。これは近代的な政治的・社会的制度においては、それなりに有効な方法論でした。ところがCMCでは、構造的に各人が各々の人格類型を無自覚に使い分けるようになっている。つまりCMCでは、単純な多重人格というよりも、コミュニケーション戦略を多元的に持つことが構造的に可能になっているのではないか。だからこそ、動物的な生というものを完全には否定しきれないという感覚を私は持っているんですね。

東:

東浩紀
東浩紀

 北田さんの意見に同意したうえで、あえて異論を立てたいんですが、人格の複数性やコミュニケーションの複数性に焦点を当てると、議論がぼんやりしてしまうことがあると思うんです。

 フーコーのアメリカでの受容以降、あるいはポストコロニアリズムカルチュラル・スタディーズ以降*4、ここ20年30年の人文系では「全てが政治だ」ということになってしまった。富の再配分や差別の問題だけではなく、細かなアイデンティティをめぐる政治があるのだ、と。その結果、ファッションも政治だし、アニメを見るのも政治だということになってしまった。これはこれで正しい認識だろうし、そのような政治観そのものが、いま私たちがいる社会の性質をきれいに反映している。それはそうなのですが、しかし、イラク派兵について議論することと、ジェンダーやサブカルチャーについて議論することのあいだには、同じ政治といってもレイヤーの差があると思うんです。そこをすべてフラットに「政治」と呼ぶことに、僕は抵抗がある。

 たとえば、多様なコミュニティは林立しているのはいい。しかし、アーキテクチャの変更の力にアクセスできるコミュニティと、そうでないコミュニティという落差はどうしても存在する。社会には伝統的・歴史的な蓄積と偏りがありますから。

 また『動物化するポストモダン』の話になりますが、僕がそこで、「オタクたちはたしかに脱社会的な存在だが、ある種の社交的な空間をつくっている。しかしそれは擬似的なものに過ぎないのではないか」と書いた*5ときには、こういうことを意識していました。たとえば、コミケはとても大きい市場でありコミュニティです。その運営は、合理的・討議的に行われていて、すばらしい。それは評価されて然るべきだろう。しかし、「それって民主主義社会の真似事に過ぎないでしょ」と言われたら、反論できない面もあると思うんです。オタクたちはコミケという社会を作っているのだから、そのレベルで社会的責任を果たしているのだ、と断言できるだろうか。そこは口ごもってしまうところがあると思うんですよ。

 インターネットでも事情は同じです。それこそブログやmixiでもいいのですが、ネット上に社交的=擬似社会的な空間は数多く林立している。そこかしこにイシューがあり、論壇的な場がある。それはときに「ブログ論壇」と呼ばれたりもする。しかし、それが本当の意味での「論壇」に育つのかというと、いまのところはさっきのコミケに似た限界を感じざるをえないんですね。

 誤解を避けるために付け加えておきますが、僕はコミケは出店もしてるし、ブログ論壇も半ば当事者です。その当事者から見て、そう思うということです。そこにはなにかが欠けていて、人格の複数性といった議論はそこを落としてしまうように思う。

白田:

 たしかにたくさんの立ち位置があってもいいとは思う。しかし、さまざまな立ち位置がネットワークで並列的に存在可能とはいえ、ひとりの人間がすべてに関与することはできない。それに、やはり討議をやるという様式であるとか政治的なイシューに対する知識をみなが持つわけではない。そもそも関心を持つこと自体、相当知的な能力を要求するわけですよね。よく使う表現なんですが、普段は暴走車に乗ったヤンキーでもいいんですよ。ただ、ある日突然イラク派兵の問題について語れといわれて語ることができるのならばOKだと思うんですね。

東:

 北田さんの本*6でいえば「クボヅカ的」なものですね(笑)。

白田:

 いやいや、茶化さないで聞いてほしいんだけど(笑)、つまり、ヒエラルキーがあるという話なんですよ、政治的なきちんとした討議ができるというところから動物的なところまで。動物的になるというのは非常に簡単だけれども、イラク問題について討議ができるだけのリテラシーを備えるというのは、我々が社会化というプロセスで相当長い時間をかけてようやく可能になったという経緯がある。

東:

 おっしゃりたいことはわかるけれど、そこはちょっと違う問題だと思うんですよ。価値観が多様になったことで、イラク派兵もアニメの問題も、すべて等価な問題になったとしますよね。一回そうなってしまうと、討議的な能力と、主題に何を選ぶかという話は切り離される。イラク派兵に関心を持っていることが、社会的知性の高さを表すとは言えなくなってしまう。インテリがアニメの話しかしないし、実際そいつらのほうがイラクについて語っているヤンキーよりも頭がいい、ということはありうると思うんです。むしろそれが問題なんじゃないか。

白田:

 イラク派兵の例を使ったのがまずかったかもしれない。とにかく、討議をやるだけのリテラシーを無理矢理に強制しなくてはだめなんじゃないの、ということを言いたいわけです。

東:

 うーん。問題は、その討議能力をどこに発揮するのかが、社会的にコントロールできていないことでしょう。

白田:

 それは個々人の勝手じゃないかな。

鈴木謙介

 それを勝手だと言ってしまうと、こういう問題がでてきますよね。たとえばネット右翼が嫌韓的な言説を掲示板に書き込んでいる。それを政治的だと評価することもできるでしょう。しかし、おそらく白田先生は彼らを「政治的なコミュニケーションとしての討議能力があるからOK」とは判断されないでしょう。だとするならば、そのとき白田さんのおっしゃっている「きちんと討議する能力」の「きちんと」とはなんなのか。

東:

 その「きちんと」には、価値が入っているわけですね。

白田:

 うーん……。




*1:註:オーストラリア発見 | 政治・社会 -民主政治-

*2:註:「あえて」オタクになるという心理的契機が失われ、いまでは萌え要素などの快楽データベースに従うままに、動物的な消費者としてオタクになっている、と『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001年 asin:4061495755)では論じられている。

*3:註:渋谷望「魂の労働」(青土社、2003年 asin:4791760689

*4:註:フーコーの近代論・権力論の特徴は、権力を主体を操作する・される実体的なpowerとして想定するのではなく、「主体を構成する」社会的な作用として記述するところにあった。いわゆる「政治」の領域だけでなく、医学や性といった領域にその作用を分析する、このフーコーパラダイムを取り込むかたちで、英米圏ではいわゆる「ポストモダン政治学」が形成される。たとえばジェンダー・スタディーズやクィア・スタディーズ、ポストコロニアリズム(ポスト植民地主義)や、またカルチュラル・スタディーズなど、「文化左翼」と呼ばれる動きが人文系に隆盛することとなる。マイノリティの問題を扱いつつ、「大文字の政治」だけでなくアイデンティティをめぐる政治こそをリアルポリティクスとみなす傾向が共通される。

*5:註:「オタクは動物的になったとはいえ、社交的な活動もしている以上、人間的な側面もある。動物的とは一面的ではないか」という反論を想定したうえで、「しかしそれはあくまで欲求を満たすための社交性だけを発揮することでしかなく、そこから離れる自由を常に確保したものでしかない」としつつ、以下のように記述している。→P.137「現実の必然性はもはや他者との社交性を要求しないため、この新たな社交性は、現実に基盤をもたず、ただ個人の自発性にのみ基づいている。したがって、そこでいくら競争や嫉妬や誹謗中傷のような人間的なコミュニケーションが展開されたとしても、それらは本質的にはまねごとであり、いつでも「降りる」ことが可能なものでしかない」。

*6:註:『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス、2005年 asin:4140910240)の冒頭にて、北田は香山リカの「自分探しをしながらも屈託なくナショナリズムを抱く」という昨今の若者の短絡的な傾向(「<私>の愛国心」)を紹介しつつ、その例として窪塚洋介を挙げている。

トラックバック - http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/05050312