ised議事録

03-126. 倫理研第3回: 共同討議 第1部(3)

E3:共同討議 第1部
(開催:2005年3月12日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年5月14日)

アイロニーの復興か、地域主義か

東浩紀(以下、東):

 ここで北田さんの話に戻したいと思います。

 北田さんは『嗤う日本の「ナショナリズム」』のなかで、80年代のテレビに焦点を当てました。その意図はこうじゃないかと思うんです。テレビ・ラジオ的なものは、一方でサブカルチャーでありながら、もう一方で国民的な全体性を担保し、ある種の擬似的な社会空間を作り続けてきた。だからこそ、視聴者を、社会空間から脱落させているかのように見せかけて、実は救いとるということができた。

 それが90年代にインターネットが出てくることで、討議空間というか、アイロニーのコミュニティがバラバラに分解してしまった。そのとき、アイロニーという形式、あるいはリテラシーだけは残った。でも、どこに使っていいのか分からなくなってしまった*1。その結果、アイロニーが目的なく連鎖している2ちゃんねるが誕生した、というのが北田さんの分析だと思うんです。

 だとすると、いまの話と関係していると思うんですよ。

北田暁大(以下、北田):

北田暁大
北田暁大

 なるほど……、まさかそういうふうにつながると思いもしませんでした。

 いわゆるマスメディアにおいては、アイロニーの空転をせき止めるというか、アイロニーに戯れつつも、その戯れ方の作法を指示する空間、つまり「ギョーカイ」的なものが信じられていたと思うんですね。しかしギョーカイが信じられなくなれば、もはやアイロニーの空転しか残らない。

 ですから、ギョーカイなき時代に、ガチガチの討議倫理的なものを差し込もうとしても、それは当然うまくいかない。そこまでリジッドでもなく、なおかつアイロニーの空転、つまり動物的な生の連鎖だけを無前提に肯定するわけでもなく、なんらかのルールやコミュニケーションの構造を作っていくことは不可能ではないだろうと思うわけです。その規範的な準拠点になりえるのが、リベラリズムなのではないだろうか。それ以上に濃くとも薄くとも問題があるだろうというのが私の見解です。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

鈴木謙介
鈴木謙介

 つまり、具体的にはこういうことでしょうか。討議倫理的なものといえば、たとえば木村剛さんのブログなどでも議論されたことがある、「匿名で発言するのはいけない、実名で発言して責任取れ」といった素朴なネット倫理の提示*2などがあたると思うんですが、実際ほとんどの人はその倫理を守ることはないでしょう。一方、ネット右翼だのネットリベラルだの、はたしてそうした政治的ラベリングに実効性があるのかわからないような議論がブログ論壇では行われている、と。

 この2つのあいだに「きちんと」という評価基準を差し込むことはおそらく不可能で、どちらが倫理的に優れているというものでもない。かといって、「実名で発言しろ、責任取れ」と声高に叫ぶのでもなく、「ぼくたち2chで楽しく右翼やってます」と開き直るのでもない。その中間的態度をさしあたりリベラリズムと呼ぶのである、と

北田:

 そうですね、その実体がはたして何であるのかを議論しないといけないわけですが。

東:

 それにしても、なんで社会学者ってそんなに難しいのよ?(笑)

鈴木謙:

 社会学者の問題ではないと思いますよ(笑)。

東:

 今日はどうも抽象論に流れていますが、具体的な話もしたいと思います。

 北田さんは、『嗤う日本の「ナショナリズム」』で、連合赤軍の失敗が新人類を生み出したと言う。学生運動も結局は全部遊びだったという見方もあるとは思いますが、とりあえずデモをやっていたわけですし、普通の意味で「政治」とは関わっていた。全共闘が政治じゃなかったとしても、マルクス主義は政治ですよね。こんな留保をつけなければならないのも、変なのですが。

 こうしたいわゆる大文字の「政治」の根っこのようなものが、80年代的な「業界」のなかにも入り込んでいたと思うんです。新人類は政治的にシラケていたことになっていますが、たとえば中森明夫が遊びでいろいろと書いている、田中康夫が戯れでいろいろ書いているというとき、彼らは一見するとネタ的に書いているんだけども、それが政治的なインプリケーションを帯びてしまう場を向こう側に想定できていたと思う。いわば、遊びつつも政治的であることができた。

 しかし、時間が経つにつれ、その根っこは切れてしまった。その後にインターネットが現れると、遊びの感覚と形式だけは残っているから、みんな楽しくアイロニー・ゲームをする。しかし、昔みたいに「政治」というフックが余韻としても残っていませんから、なにをやっているのかが自分でもわからなくなってしまう。こういう状況で「政治的」になろうとすると、本当にベタな実感主義的市民運動か、もしくはネット右翼しかないわけですよ。

 北田さんがおっしゃるリべラルには、この「遊びつつ政治をやる」という感覚が中核にあると思うんです。だとすると、その喪失を指摘するのはいいとして、つぎに、一体いまのネット環境においてそれを実現するためには、具体的になにが必要なのかが問題になるはずです。

 たとえば、いま(2005年3月)、ライブドアニッポン放送を買うか買わないかという話になっている。たとえば、ここでライブドアのようなポータルサイトがメディアの中心を握って、堀江氏を中核に「新・業界」が形成されたとすれば(笑)、そこにはたしかにある種のアイロニーの感覚、80年代的な「遊びつつ政治」という感覚は一時期的には復興するかもしれない。メディアが妙にこの騒動に関心をもっているのは、そういう匂いを感じ取っているからなのかもしれない。しかし、それは本当にネット環境でサステナブルかどうか。

 普通には、いまイメージされているメディアの未来像はそうではないですね。それはたとえば、これも最近話題の『EPIC2014』というFLASH*3で鋭く描かれている。GoogleAmazonが合併してGooglezonになるという未来予測で、各人がニューズロボットを持ち、自分が欲しいニュースだけをコンピューターが勝手に収集して、記事まで自己生成してくれるような世界。キャス・サンスティーンのいう「デイリー・ミー」的なものの最終形態というわけで、まさしく多元主義的コミュニタリアンの夢でもある。この方向もどれだけ現実的かはわかりませんが、少なくとも、テレビ的な業界文化の復興からは遠ざかろうとしていると見ていいでしょう。

 こんな風に議論の軸をたてれば、リベラリズムをどう打ち立てるかという問題は、すごく具体的な話にできると思うんですよ。インターネットにおいて、遊びつつ政治をやるという二重性を維持するためには、どういうサイトやサービスを作ればいいのか。ニューズボットはいいのか悪いのか。検索エンジンの発達は人間をだめにするのかどうなのか。そういう話ではないか。

北田:

 まさにそのあたりが共同討議に投げ返したかったところで、たとえばインターネットの「デイリー・ミー」化に対するサンスティーンの対抗提言が真の共和主義の復興につながるとは私には思えない。とはいえもちろん、私が提議したリベラリズムを具体的にどうやって現象化させるかというと、なかなかイメージが湧かない。狙いどころは行為の調整様式としてのリベラリズムにあるのかもしれないが、具体的にどう設計するのかはこれから考えましょう、というところで報告は終わっています。

鈴木謙:

 ただ、プチ業界的なものであれば多元主義的コミュニタリアニズムにおいては数多く存在すると思うんですね。たとえば、はてなダイアリーエキサイトブックスはそういう方向になりつつある。いってみれば「はてな島」とか「エキサイト島」などがあって、さらに奥へいくと「DIME村」*4とかがあるわけです(笑)。

 これまでの社会では、近代国家と呼ばれてきた枠組みがそうした多元的なコミュニティを内包してきたわけですよね。思想としてのリベラリズムと、制度としての国民国家はセットといってもいい。そこで北田さんに伺いたいのは、その枠組みでなければいけないんでしょうか、ということです。たとえば「地域」であったり、インターネットのなかの村単位であれば、プチ業界的なものを打ち立てることは可能でしょう。そうした林立するコミュニティ間の衝突を避けることさえできれば、別に多元主義でもいいんじゃないかという発想はあり得るような気がするんです。つまり、アリーナ全体を縮小させるという方法ですね。

白田秀彰(以下、白田):

 なるほど。ハンドリング可能な規模に小さくする、と。

鈴木謙:

 そうです。おそらくヨーロッパをはじめとして、世界中の政治思想がリベラリズム近代国家という枠組みにコミュニタリアニズムを取り込む方向へシフトしてきているのは、国家という大枠ではもう無理だということが意識されているからだと思うんですね。おそらくマイケル・ウォルツァー*5なんかが考えているのはそういうことでしょう。

北田:

 そう思います。たとえば「インターネットと社会運動の連動」という左派的な発想をされる方は、地域主義的なものに議論を結びつけることが多いですね。地域という「適正な」規模のなかで、有意義なコミュニケーションを営んでいこう、と。そうしたコミュニケーション像には一定数の需要もあるでしょうし、それなりの効果もあると思います。しかし、地域に向かうことには倫理的必然性はない気もしていて、そもそもネットコミュニケーションの問題のすべてがそこに収束していくとは思えないんですね。

白田:

 アリーナの適切な規模の基準もない、と。

鈴木謙:

 まあ、無限に縮小していくというのが多元主義の話ですからね。

白田:

 コミュニティの適正規模というのを調べたことがあるんですが、貴族の数というのは大体150人くらいまでらしいんですよ。文化人類学的に見ても、顔見知りとしてコミュニケーションが取れるのは150人くらいまでという説があるらしい*6。ネットワーク上ではもう少し大きいのかもしれませんが、アーキテクチャ的にもその規模を維持することはできるでしょうね。

東:

 今日の発表では、「コミュニケーションの形態」として、多元主義的コミュニタリアニズムリベラリズムが分類されていますね。僕は実はそこに抵抗があって、なぜかというと、「イズム」というのはやはり「主義」のことであって、イズムとつける以上、それは社会をデザインするときの意志、つまり政治的な意志でしかないと思うんですね。だとすると、さまざまな価値観の共存はいいとして、さまざまなイズムの共存というのは、語義矛盾ではないか。

 いくつものコミュニティがあってそれぞれ、私たちのコミュニティはリベラルっぽく運営しています、私たちのコミュニティはコミュニタリアン的に運営しています、となったとして――コミュニタリアン的なコミュニティではなんのことだかわかりませんが(笑)、さらにそのなかに小さいサブコミュニティがたくさんあるということかな――、これはまさに多元主義的なコミュニタリアニズムの世界であって、リベラルな社会をつくるということは違うんじゃないか。

 最初の話に戻ってしまうのですが、やはり、政治という言葉をインフレさせないことが重要だと思います。つまり、「情報社会における政治の場所はどこにあるのか」を定めていく必要があると思うんですよ。そうしないと、ブログのハンドリングも政治ということになり、ネットワークにもいろいろなイズムがあるんだよというような話に落ち着いてしまう。

 またネット上にはプチ業界がいくらでも出現するという話ですが、ブログ的なプチ業界の力が弱いのも事実で、それは、テレビなりラジオなり他のマスメディアへの回路が小さいからですよね。その力関係はまだ変わっていない。出版は最近は『電車男』ブーム*7もあって急にネットに注目しはじめていますが、ブログ論壇の争いが社会構造を反映しているとまではいえない。その点では、いまのプチ業界は、やはり80年代的な業界の形式だけ真似ているという印象がぬぐえないんです。

 それでは、次に鈴木さんからのコメントに移りましょう。




*1:註:北田自身によれば、アイロニーは繋がりの社会性に基づく自己準拠の度合いを高めるようになった、と表現されている。→『嗤う日本の「ナショナリズム」』P.217「『ポスト80年代』のコミュニケーション空間にあっては、『何がベタであり、何がメタであるのか』を教示するのは、擬似的な超越者――アイロニー・ゲームのルールを定める超越者としての『ギョーカイ』『マスメディア』『資本』――ではなく、自分と同じコミュニケーション空間に内在する他者、自分の行為に接続してくれる/くれないかもしれない他者である。」

*2:註:週刊!木村剛 powered by ココログ: モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために

*3:註:dSb :: digi-squad*blog: 「EPIC 2014」日本語訳

*4:註:はてなコミュニティを中心に使われる(ていた)一定のサブカルチャー層を指す隠語、レッテル。冷麺 | DIME層側からのDIME告発

*5:註:1935年生まれ。ブリンストン高等研究所教授。政治学者。単一の平等の基盤を構想するリベラリズムに対し、アイデンティティ形成の場としてのコミュニティが持つ意義を強調し、多元主義的な社会の正義を構想している。著書に『正義の領分』(而立書房、1999年 asin:4880592552)など。

*6:註:辻大介によれば、これはダンバー『ことばの起源』(青土社、1998年 asin:4791756681)のなかで出されている仮説のこと。以下、辻の記述。「霊長類の脳に占める新皮質の比は、平均的な群れの規模と(対数目盛上で)正の相関を示すが、その回帰式にヒトの新皮質比をあてはめると、ヒトの群れの規模は約150人と計算される。そしてこの数が、世界各地の伝統的な農耕社会の村の規模や、軍の中隊などとほぼ等しい。よって、ダンバーはこの推測は正しいだろうと理由づけている。この群れの適正サイズというのは、各メンバーの顔がわかる、誰だかわかる、だけでなく、メンバー間の関係もおおよそ把握できる規模とダンバーは考えている。」(mixiでのエントリーを参考に作成)

*7:註:はてなダイアリー - 電車男とは

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