ised議事録

03-127. 倫理研第3回: 共同討議 第1部(4)

E3:共同討議 第1部
(開催:2005年3月12日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年5月14日)

北田リベラリズムの再整理――鈴木謙介からの応答

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

鈴木謙介
鈴木謙介

 東さんから具体的な議論をしたいというアピールをもらっているのですが、事前に用意してきたコメントは抽象的な整理になっています。

 まず北田さんはネット公共圏論の不可能性を論証されているのですが、そもそも社会学CMC研究に縁のない人にはよくわからない話だったと思います。これをすごく簡単にいえば、ネットで直接民主制ができるんじゃないかということですね。そして北田さんは、そもそも公共圏というモデルはマスメディアという条件を暗に前提していると指摘し、ネットで公共圏が可能だとする議論は、そうした前提を忘却して「公共圏たるべし」とのたまう規範論でしかない、という構造を摘出されたわけです。また公共圏による討議の条件として「言説の希少性」を指摘されていましたが、情報社会化が進むと、電波や電線といった送信路の独占性は崩れていきます。インターネットではだれもが発信・受信しうるというわけですから、希少性は担保されないわけです。

 そこでCMCの言説空間はどうなるか。北田さんは、まずコンテクストが限定できなくなるだろうと指摘されています。これまで、マスメディアに流れるニュースはこう受け取るものだというコンテクストが暗黙的に共有されていたのだとすれば、インターネットではバラバラになってしまう。たとえば2ちゃんねる的な梯子はずしがその一例です。『暴走するインターネット』(イーストプレス、2002年 asin:4872573021)のなかで「ネタ的コミュニケーション*1と書いたような、コンテクストをずらし続けるコミュニケーションだけが続いていく世界が広がるんだ、と。

 北田さんがもうひとつ挙げていたのは、時間的・空間的な無限定性が生じる結果、動物的反射の責任性への転化が起きてしまうということですね。たとえば即レス圧力などがその一例です。携帯のメールは10分以内に返信しないといけない。手元に携帯が置いてあって、かたときも目が離せなくなる、といったものです。あるいは、とにかくレスがついたらすぐレスを返さなくては、というような自己目的化したレスが延々と続いていくことになる。北田さんが指摘しているような「繋がりの社会性*2ですね。

 こうした事態が前景化するにしたがって、「ジャーナリズムの危機だ!」というような議論も当然登場してくるわけです。つまり、みんな梯子はずし、繋がりの社会性ばかりでけしからん、というわけですね。

 これは余談ですが、学問の世界にも同じ構図があると思うんですね。たとえばised@glocomが長文の討議をネットにあげると、「わけのわからないことを長文でアップしやがって、学者は許さん」という梯子はずしが溢れるわけです。

東:

 溢れてないでしょう。むしろ溢れかえってほしいくらいですよ(笑)。

鈴木謙:

 ともあれですね(笑)、たとえば福田和也さんの『イデオロギーズ』(新潮社、2004年 asin:4103909099)の冒頭に「思想なんか勉強して何になるのですか」と聞いてきた学生がいたという話があるんです。福田さんは直接その学生と対峙したわけではないらしいんですが、「『お前みたいなバカにならずにすむ』と答えてやりたかった」とおっしゃっている。これはもちろん「なにを失敬なことを聞いているんだ」という文脈なんですが、学生の側は「授業はサービスでしょ。ならわかるように話して下さいよ」という文脈を持ち込んでしまっているわけです。こうした梯子はずしによって、文系的な学問は失効しはじめているし、「人文の危機だ!」とする見方もあるわけです。このような構造に近いのかな、と。

 

図:コミュニタリアニズムをどうするか
図:コミュニタリアニズムをどうするか

 さて、こうした梯子はずしが電子公共圏を不可能にしてしまうわけですが、北田さんはこうした過剰なコンテクストの闘争に対処する戦略パタンを提示されていました。それを自分なりに整理しなおしてみます(図:コミュニタリアニズムをどうするか)。

 まず闘争的コミュニタリアンは、自分の参与しているコミュニケーションの内容にたいして、深くコミットしていくタイプです。そのコミットメントは他者との闘争を指向しますから、それゆえに反社会的性格を帯びることがありうる。

 一方の多元主義的コミュニタリアンは、コミュニケーションの内容に自足していきますから、他者との討議や闘争を避けようとする。つまり、脱社会的になるわけです。

 この2つは内容に対するコミットメントでしたが、対してリベラルと自生的秩序論のことを、形式に対するコミットメントとまとめています。リベラリズムとは、内容へのコミットメントに対してある種の形式を挟み込んでいくことによって、反社会的な性格をおしとどめようとするものです。サンスティーンが「自分とは意見を異にするサイトへのリンクを入れるよう強制すべし」といった提案がまさにこれにあたります。

 こうした形式的な制約をもってして、闘争をマイルドなところでとどめんとするタイプの思考を、シャンタル・ムフは「ラディカル・デモクラシー Radical Democracy」*3と呼んでいます。民主的なルールのなかで闘争するかぎりは、民主主義が健全に運営されている指標なのだという立場です。「闘争は問題ない。ただし、民主的にやってね」というわけです。

 よく、「あいつは政治家だねえ」というとき、それは「人と人との意見を調整する人」のことをそう呼ぶわけですが、そうした利害対立のすり合わせを志向しないのがラディカル・デモクラシーです。ムフは「アルキメデスの一点」とその落としどころのことを呼びますけれども、こうした点は指向しない。ただし、民主的な枠のなかにとどめるのだとする。このようなタイプの議論と北田さんのリベラリズムの議論は同型のものと受け止めました。

 しかし、こうしたラディカル・デモクラシーをもってしても、それでもこぼれ落ちる脱社会的な存在がいるだろう。その脱社会的存在は、応答責任がきついのでmixiに退却するよ、というかたちで次々とアリーナから降りてしまう。あるいはひきこもってしまう。これはある種のアリーナの分断であり、そこにはなんらかの排除を呼び起こしてしまう可能性があるのではないか、と危惧を表明されていたと思います。

 

図:自生的秩序論によるコミット
図:自生的秩序論によるコミット

 さて、さきほど自生的秩序論者、つまりサイバーリバタリアンを飛ばしてしまったのですが、東さんの「情報社会の二層構造」をアレンジしながら考えていきます(図:自生的秩序論によるコミット)。これは情報社会においてはインフラの層とコミュニケーションの層に分離し、アーキテクチャの上にはさまざまな善=価値を志向するコミュニティが並列して存在するというものですが、北田さんのリベラリズムはこの複数の善を一挙に超越する価値を打ち立てるのではなく、それらを媒介するものとしての「正義」はないのかと論じるわけですね。これは倫理研の第2回で「情報社会における正義とはなにか」というテーマで討議されたところと重なる議論です。

 また通常のリベラリズム論はこういう論法をとります。お前が右翼的な発言をできるのも、左翼的な発言をできるのも、すべて同じインフラを共有しているからじゃないのか。であるならば、そのインフラのうえで媒介的コミュニケーションをすべし、と。しかし「実際にはインフラ共有しているんだから」というのはあくまで「そう語られている」にすぎないところがある。

 いま問題なのは、アーキテクチャリベラルの論理とは関係なく、独自の論理で管理されているのではないかということです。たとえば東さんが「市場の論理とセキュリティの論理の暴走」と指摘する問題ですね。北田さんは自生的秩序論についてはあまり触れていなかったのですが、それは単なるアリーナにおけるひとつの立場ではなく、むしろこのインフラ層を直接に統御せんとする、リベラルとは別の道をいく存在として捉える必要があるのではないかと思います。

 

図:リベラル/環境
図:

 さらに議論をすすめると、コミュニケーションの層とインフラの層では秩序を可能にするもののイメージが異なると思うんですね。それぞれ、リベラル型のコミットと環境管理型のコミットとして説明します(図:リベラル/環境)。

 まずリベラル型のコミットは、コミュニケーションの層においてその「あいだ」を媒介していくわけですから、うまい言い方がないのですが「インター××ゼーション」になるわけですね。一方、環境管理型のコミットは、グローバリゼーション的なもの、つまり、ひとつのシステムの上にすべてが乗るものを要請する。いわゆるグローバリゼーション研究のなかでは、「国際化(インターナショナリゼーション)」と「グローバリゼーション」を区別するのですが*4、まさにこの区別があてはまると思います。

 さてリベラリズムは、そのインター××ゼーションを可能にするために、共通のアリーナを想定せざるをえない。しかしグローバリゼーションは、単に共通のアーキテクチャさえあればいいということになる。リベラリズム、とくにロールズのものは「善に対する正義の優先」*5という命題で知られているのですが、アーキテクチャにはこうした正義は存在しないわけですね。むしろ「利益」「安全」といった単一の価値だけが志向されるわけで、いうなれば「正義に対する善の優先」が起きているということができるかもしれません。

 こうした整理にもとづけば、いまリベラル的なコミットの原理=正義にかわって、環境管理的コミットの原理=唯物論が前景化してきているのではないか。唯物論とはマルクス的にいえば生産手段ということですが、ポストモダニティの状況においてはむしろ流通や消費にかかわるインフラを指します*6。つまり、たとえば「ライブドアがメディア・コングロマリットを握るかどうか」といった問題は、非常に大きな枠組みから議論される必要があるということですね(笑)。

 最後に論点整理です。ひとつはさきほど白田さんからも提起されていた、フリーライダー問題を考える必要があるということです。リベラル的正義論は、フリーライダーへの内面的対処、つまり「君も同じインフラの上に乗っているんだから協力しようよ」と訴えかける。一方、唯物論的な対処=環境管理型権力は、知らず知らずのうちにフリーライドを不可能にさせるアーキテクチャを要請します。実際、フリーライダーを減らすだけならば唯物論的なほうが効率もいいという話になると思いますが、そこに問題はないのかということですね。これは倫理研の第1回から通低する問題なのですが、とりあえず差し挟んでおきます。

 また北田さんはリベラリズムを実現するにあたって、アーキテクチャの層にまで踏み込むべきかどうか非常に曖昧な態度を取られているように見受けられます。たとえばサンスティーンのような対策は微妙だろうと言うけれども、選挙に罰金を課すというような市場的=アーキテクチャ的な対策は取るべきではなく、あくまで啓蒙でいくべきだともおっしゃっている。しかし東さんが具体的なサイトはどういうものかと問われても、明確な答えは出されていない。しかし、この二層構造モデルに従えばその理由は明白で、おそらくリベラルが取るべき道は規律訓練型の権力だからですね。しかし、この研究会では環境管理型権力が肥大化してしまうという問題が幾度となく指摘されてきたわけで、この問題を回避することはできないでしょう。

 ここで北田さんと白田さんの立場を区別しておくことも必要ですね。北田さんは内面的な対処に留まりがちですが、白田さんは正義へのコミットを誘導するよう、アーキテクチャの設計に踏み込むべきという発想に踏み込んでいる。しかし、アーキテクチャに正義へのコミットメントをインプリメントできたとしても、それはコミュニケーションの層で想定されていた正義と同じものなのか。ここには議論の余地があると思います。

 もうひとつの論点は、メディア論からリベラリズム論という講演の流れを折り返して、メディアの問題を再び考えたいということです。たとえばマスメディアや学問は、いままでその希少性ゆえになんらかの価値を持っていた。しかし情報化によって脱文脈化されてしまい、マスメディアの持っていた「コンテクストを共有させていく力」、つまりメディア研究で「アジェンダ・セッティング(議題設定効果)」*7といわれるような機能が失効してしまっている。たとえばネット・ジャーナリズム的な議論もいくつか出始めていますし、ライブドア問題などもありますから、このあたりは「時事問題」ともいえるでしょう。

 といった感じで報告を終わります。ずいぶんと抽象的な話をしてしまったのですが、これで抽象論は打ち止めにできれば、ということで。




*1:註:isedキーワードネタ的コミュニケーション」参照のこと。

*2:註:isedキーワード繋がりの社会性」参照のこと。

*3:註:シャンタル・ムフ『政治的なるものの再興』(日本経済評論社、1998年 asin:4818809764)など。「民主主義」が、現存する自由民主主義と資本主義の合成物として把握され、法の支配へと一元化されていく言葉として使用されることに反対し、民衆に支配の根拠を見いだすことを、民主主義の唯一の確立とする立場。ムフの他に、エルネスト・ラクラウやC.ダグラス・ラミスなどがこの言葉を使用している。

*4:註:「国際化はあくまで単位としての国、あるいはそこに所属する人々が全体としての社会に参画していこうとするプロセスだが、グローバリゼーションにおいては、特に経済的なファクターにおいて国境を越えた相互依存が強まり、一国でのコントロールが不能になる」(鈴木謙介「政治理論に対するグローバリゼーションの二局面――90年代以降の政治理論に内在する困難とその要因の構造」『ソシオロゴス』27号 17-31、2003年)また、田中宇「グローバリゼーションはどこからきたか」(2000年)も参照。

*5:註:ロールズ『正義論』(紀伊國屋書店、1979年)の前提のひとつ。諸個人における善 good(目的)よりも、正義(権利)という自由の枠組が優先されるということ。自由主義は各人の善には踏み込まない。

*6:註:いわゆる「ポストモダン」が、ダニエル・ベルの言う「脱工業化社会」のイメージとして捉えられているのに対し、アンソニー・ギデンズらの社会学者は、「近代のあとに来る時代」ではなく、「反省的な審級を失った、徹底される近代」という意味で利用している。「ポスト・モダニティとは・・・認識論的な既存の「基礎」がすべて信頼できないことが明らかになったため、何ごとも確信を持って認識できない点にわれわれが気づいたこと、「歴史記述」は目的論を欠いており、その結果、いかなるかたちの「進歩」もまことしやかには擁護できないこと、生態系にたいする関心や、おそらくもっと一般的には新たな社会運動が次第に顕著になるにつれて、新たな社会的、政治的協議事項が生じてきたことを、意味している」(ギデンズ『近代とはいかなる時代か?』(而立書房、1993年 asin:4880591815)P64-65)

*7:註:はてなダイアリー - 議題設定効果とは

トラックバック - http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/05070312