ised議事録

03-128. 倫理研第3回: 共同討議 第1部(5)

E3:共同討議 第1部
(開催:2005年3月12日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年5月14日)

宮台真司の「リベラリズム」という継承線

北田暁大

北田暁大
北田暁大

 ありがとうございます。今日の講演では前半にジャーナリズムの話を出したのですが、これは強大な言説制度のひとつの例として出したわけでして、もちろん学問も同じような状況にある。いま、おそらく言説構造の組みかえの時期にさしかかっていて、唯物論的な次元でその生産体制が変わり、その矛盾が上部構造に浮き出ている状態だと思うんです。だからこそ、いまジャーナリズムをめぐる議論が大量に噴出しているんだろうと思います。

 東さんの二層構造をアレンジされていましたが、正義はたしかにコミュニケーションの層にあるとしても、私が強調するリベラリズムのポイントは、政治的に多様な価値観の統合(あるいは闘争の奨励)を目指すものではないという点にあります。あくまで、多様なコミュニケーション様式や行為様式、文脈にたいする対処の仕方を調整していく必要があるということなんですね。

 もちろん、単にコミュニケーションのレベルで「こういう風に喋ったほうがいいですよ」と理念を投げかけても仕方がありません。放っておけば闘争的であれ脱社会的であれ、どちらかのコミュニタリアンに流れていくのが現状としてある以上、やはり白田先生が提唱されるようにアーキテクチャという問題に踏み込まざるをえない。アーキテクチャの層で考えないと見えてこない問題がある。こうした点については、私も完全に同意します。私はそうした技術レベルの話に疎いせいもあって、なかなか具体的な例を出すことはできないのですが、なんらかの「薄い」意味での正義を埋め込んでいく方法論を構想してみたいと思う。しかし「他者の自由を侵害しない」多元主義的コミュニタリアンアーキテクチャレベルでの「消去」にまで踏み込むのは、ためらいがあるということです。

東浩紀(以下、東):

 えーと。

 すみません、司会として介入させてください。もうすぐ第1部も終わりですが、ここまで大変に抽象的な議論が展開されてしまって、どうも議論が堂々巡りになりがちです。ここからはもっと具体的な話をしたい。isedとしては、そうでなければ意味がないと思うんですね。厳しいようですが、鈴木さんと北田さんの抽象的議論の応酬は社会学会でやっていただければいい(笑)。

 僕はさきほどからメディア論を伏線にして、80年代的なテレビ文化と北田リベラリズムの繋がりを指摘しているのですが、どうも社会哲学的な議論からメディアの話に踏み込んでいけないところがあります。そこで、もういちど、今度は宮台真司氏の名前を出して説明します。

 

東浩紀
東浩紀

 そもそも北田さんはリベラリズムという言葉を使われているけれども、これは一般に言われている「自由主義」ではないわけですよね。北田さんが使われているリベラリズムという言葉は、おそらく宮台真司から密輸入されたものです(笑)。そしてここには意味がある。

 宮台さんがリベラリズムを前面に出すようになったのは、90年代後半だと思います。それ以前に、テレクラや援交少女のフィールドワークに携わっていたころは、80年代的な業界文化、つまり「サブカルチャー研究をやっていればそのまま政治にもなる」という、遊びと遊びでないものの共犯関係がまだ成り立っていたと思うんですよ。彼はもともとそのような空間で仕事をしていた。つまり、「遊びつつ政治」をしていた。しかし、90年代を通じそのような共犯関係はどんどん崩壊し、そのなかで宮台さんもポジションを変えていかなければならなくなった。そのとき「リベラリズム」という政治的立場を表明するようになったという経緯があると思うんです。初期の宮台さんの感覚においては、『サブカルチャー神話解体』(PARCO出版、1993年 asin:4891943602)の出版がそのまま政治だった。その前提が崩壊したとき、ふたたび自分を再政治化するために持ち出された言葉、それが「リベラル」「リベラリズム」だと思うんです。

 北田さんは、宮台真司のこの言葉を受け継いでリベラリズムと言っている。だから、北田さんがリベラリズムという言葉を使うとき、起源的に80年代的なものの影響が強く残っているのは当然なんですね。北田さんがどれだけ抽象的に語られていても、それは、このようなサブカルチャー史で裏打ちされている。だとすれば、宮台さんの弟子である鈴木さんは、その政治とサブカルチャーの交点で応答すべきだと思うんです。それが、どうも抽象的なまま進んでいる。これはよくないですよ。

 僕の見るかぎり、北田さんと鈴木さんは、宮台真司リベラルの感性をそれぞれ受け継ぎながら、やはりまったく異なったスタンスで仕事をしていると思うんです。具体的な論点はこうです。たとえば、鈴木さんはmixiやブログの積極的なユーザーであり、こうしたツールを非常に高く評価している。他方、北田さんの議論は、『嗤う日本の「ナショナリズム」』がまさにそうであるように、基本的には2ちゃんねるで止まっている。なぜかといえば、おそらく、連合赤軍から新人類、そしてオウムとオタクを通過しつつ、最終的には2ちゃんねらーになりましたという史観を紡ぎだす北田さんの視点には、ブログやSNSが入る余地がないからなんですよ。北田さんの弁証法的なアイロニーの発展図式に収まらないわけです。だとすれば、ここで、ふたりのネット観やメディア観は具体的に衝突するはずだし、リベラリズム云々の話もそこからすべきなんですよ。

鈴木謙介

 ぶつかるはず、という前提が僕にはわからないのですが……。

東:

 プロレスを演出したいわけではなく、北田さんと鈴木さんの意見から一部分を抽出すればそのような論点が立つはずだし、そのほうが議論は生産的になるはずだ、と提案しただけです。ただ、僕としては、そんなにこの両者の理解は間違っていないと思うんですけどね(笑)。ともあれ、具体的な議論を闘わせてほしいんだけど、どうもおふたりとも抽象的な議論で迂回してしまっているような印象を受けるので、いささか挑発的な整理をしたんです。

 つまりね、僕からすれば両者の対立は明確なんです。リベラルであることが仮に正しいものとしましょう。となれば、リベラルであることがどのようにインターネット上に実装できるかが問題になる。そうすると、北田さんは、2ちゃんねる的な「繋がりの社会性」のなかに、リベラル的なアイロニズムの中核が入っていると主張するはずです。他方で鈴木さんなら、ブログやSNSにおいて、もっと素朴に討議的なリベラリズムの再興を主張するはずだと思う。そういう話をしてもらいたい。

加野瀬未友

 そこで興味深いのは、mixiのなかで最近よくトラブル見かけるんです。たとえば荒らしやフレーミングといった問題が起きていて、まさにmixi2ちゃんねる化しているんですよ。つまり、東さんの理解によれば、北田さんが評価していたコミュニケーションがmixiの内部にも発生しているわけです。こうした事態を不快に思う人もいるし、許せばいいじゃんという人もいるんですが、こうしたmixiの問題がどう対処されていくのかは気になっていますね。

東:

 それは重要な指摘ですね。北田さんの今日の講演ではCMCとひとくくりになっていましたが、むろんCMCも多様なわけで、ブログやSNSだけでなく、ポータルやGoogle Newsといったものまで幅広い。そのそれぞれのどの部分に注目し、どこに可能性を見るのか、という話こそが、実はリベラリズムの本質を探る議論と繋がるはずです。第2部では、そういう話をしましょう。




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