ised議事録

03-1212. 倫理研第3回: 共同討議 第2部(4)

E3:共同討議 第2部
(開催:2005年3月12日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年5月14日)

情報社会における私的領域の確保――公共圏の確立にかわって

東浩紀(以下、東):

 もういちど話を整理してみます。

 インターネットであれ情報社会一般であれ、今後、共通のアーキテクチャの上にさまざまなコミュニティが乱立する社会が来たとする。それぞれのコミュニティは価値観的には閉じているということになっているけれども、実際にはアーキテクチャの部分でつながっている。これが新しい公共性の基盤なんでしょうが、その外延は実は検索エンジンのBotが決めている。それぞれがプライベート領域で遊んでいるつもりでも、ちょっとやばいことをやったら通報がいくという世界。たとえばGoogleが治安当局と全面協力すれば、いまでもそういう世界は出現するのかもしれない。むろん、ここでいう「検索エンジン」は比喩というかモデルです。ユビキタス社会においてそれに相当するものが、いつか出現するでしょう。

 もし私たちの社会がそういう方向に行くとすれば、いくらさまざまな価値観が共存する社会だとはいえ、他方ではかつてよりもはるかに管理が激しくなる。しかも、その管理は機械が自動的にやっていますから、いままでの近代社会における管理とは異なり、反論可能性や改善可能性が担保されていない。そんな世界がいま現れているということなんでしょうか。

 そういう社会について考えるモデルケースとして、mixiで犯罪予告を書くのはどうなのか、というのは確かに面白いテーマだと思いますね。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

 mixiでも転載問題は一時期ありましたね。

加野瀬未友(以下、加野瀬):

 mixiにプライベートな日記を書いたら、どこかに転載されて問題になったという話ですね。実際にはテキストデータである限り、パブリックな場にコピペで引きずり出される可能性というのは完全には否定できませんけど。

東:

 メールやMLを無断転載してはいけないというルールぐらいは、共有されていますよね。

加野瀬

 メールなら、それこそコンテクストがはっきりしているから「通信だ」と言えるじゃないですか。でもmixiはいろんな状況がありますからね。日記にしても、全体に公開、友達まで公開、友達の友達まで公開というように、コンテクストが自由にいじれる。

高木浩光(以下、高木):

 そしてそれを理解しない奴が出てくる、と。

加野瀬

 そういうことです。

東:

 そうすると、結論としてはこうですかね。

 北田さんの発表にあったように、CMCにおいてはコンテクストがいくらでも多重になるし、決定不可能になる。したがって、反社会的な行為がどういう行為かは、決定がたいへん難しい。よって、「反社会的存在を排除したリベラリズムの空間を作ろう」という北田的プログラムは、必然的に崩壊する(笑)。

北田暁大(以下、北田):

 ただ、リベラリズムをどう捉えるか次第だと思うんですよ。道徳のレベルで働くリベラリズムもあれば、法律のレベルで働くリベラリズムもある。私が論じたかったのは、集合性の形成に関して、CMCにおいては「複雑性を縮減する」いくつかの方法論がある、それらを討議倫理的な論理でまとめあげていくのは不可能であり、事実としてはアナーキーというか闘争的あるいは多元主義的なコミュニタリアニズムに向かっている。こうした状況に対して、それでいいのか、機能主義的に捉えられたリベラリズムを活用する道筋も考えられるのではないか、そういう問題提起をしたかったわけです。

東:

 わかります。北田さんがリベラリズムという言葉で、コミュニケーションのありかたを指しているのはよくわかるんです。簡単にいえば、「インターネット上でもリベラルな生き方をしよう」ということですね。

 ただ、それとは別にアーキテクチャの設計という側面もある。北田さんも「コミュニケーション・デザイン」という言葉で触れられていますが、これは制度の問題ですから、各人がリベラルな考え方を持とう、というのとはちょっとレベルの違う話になる。反社会的存在の参入をどう扱うのか、という問題はそちらの話ですね。isedは実はいままで、この問題をずっと討議してきたわけです。

 そういう意味では、今回も前回、前々回と同じ議論を繰り返しているわけですが、今日ちょっと進展したと思ったポイントは、その根底に公的空間と私的空間の溶解という現象を発見したことです。ネット心中が出発点になったのがよかったのかもしれません。前回までの議論でフリーライダーといえば、Winnyのユーザーや、飛行機で突っ込んでくるテロリストだったわけで、「それはまあ排除するしかないんじゃないの」ということで、意見の一致を見かねない雰囲気も漂っていた(笑)。しかし、公的なものと私的なものの溶解によって、犯罪を決める基準そのものがあやふやになるのだとすれば、問題はそう簡単ではない。

 たとえば、最近警察の締めつけが厳しくなってきて、茶髪で歩いているだけで職質されるというのであれば、これは警察に文句を言えばいいわけですよ。しかし、ネットでの通報はもっと厄介ですね。自分がなにかを書いていたら、それが犯罪だと思われて通報されてしまい、そんなつもりはないのに犯罪者にされてしまう。しかも、さきほど加野瀬さんが指摘されたように、そこで処罰する主体は警察ですらないかもしれない。インターネットにおいては、意図せざる行為が、異なるコンテクストで反社会的行為に読み替えられてしまうという問題が日常的に起こる。となると、反社会的な存在をとりあえず横に置いておく、というわけにはいかない。

北田:

北田暁大
北田暁大

 よくわかります。つまり、どこからどこまでがリベラルな、正当化可能な介入なのかどうか、公私の曖昧化によってその境界線がわからなくなっている。その境界線もコンテクチュアルに作られていくようになってしまうと、「全体主義」とほとんど同じことになってしまう可能性もある、というお話だと思います。

  ここで、ひとつ白田さんにお聞きしたいことがあります。たしかに、境界線がどこにあるかはわからない。しかし、だからといって、境界線がないということにはならない。私は、境界線が「ある、ない」というのは「どこにあるか」とは別の次元の話であって、どんな政治社会でも「境界線がある」事実性を否定することはできないと思うんですね。

 白田さんのサイバー保守主義も、「境界線はある」ということを前提として、過去の知識をもとにしてその線引きラインを考えていくものと理解しています。しかし、「そうした提言は、、公私区分が曖昧になってしまっている状況下では、結果的に環境管理型権力を擁護してしまい、リスク社会化を加速させてしまう」と反論されてしまう可能性がある。そうした反論は社会学的には正しいと思うんです。

 しかし、一方で私たちの社会においてもっとも重要な行為の調整メカニズムである法は、どこまでも境界線の存在を前提とせざるをえない。もちろん「どこ」に引くかは可変的なわけですが、法が境界線を引くこと自体を否定することはできません。さて、どうするか。このあたり、白田さんはどのようにお考えですか。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

 白田さんの考えとしては、パブリック/プライベートの境界線を法律的に引いていくことは可能だということですかね。

白田秀彰(以下、白田):

白田秀彰
白田秀彰

 まずですね、北田さんがおっしゃるように、法律学の枠を外れて社会学的な視点で見ると、たしかに公私の区別はつけられないと思うんですよ。ただね、法律というのは、「様式」なんです。つまり、その境界線は「ある」ということにしている。あるということを前提に、すべてのシステムが動くように構成しているわけですよ。

 だから、法なるものがネットワーク上で機能するためにはたとえ構造的にどんなに複雑に入れ子状になっていたとしても、公私の境界線をどこかで決断しないといけないんです。決断するということは設計するということと同じなわけです。だからネットワーク上で公私の区別がつけられないという話ではなくて、つけられるような設計をすればいいじゃないか、ということなんですね。実際できると思う。

 しかし、たとえばBotが入らなければプライベートで、Botが入ると全部パブリックだというやり方でいいのか。そこに正当化可能性が曖昧だという問題は残る。そこで私が前回の発表で主張したのは*1、その正当化のためにどこの知恵を参照すればいいのかということなんです。つまり、数百年の間、人間は公と私をどう分けてきたのかをさかのぼって見ていく。現在の判例理論ではどうかを見ていく、と。

 しかし、これにしても、私たちの社会には臆見というか思い込みがあるわけですよ。だから必要なのは、いったんフラットなネットワーク環境に置き直して、いまネットワーク上で行われている任意のオペレーションがリアルワールドでの公私のどちらに値するのか、もう一回見直す作業をやらないといけないということです。HotWiredの連載(白田秀彰の「インターネットの法と慣習」)で前回話したことをもう一度書き直しているんですが*2、「ドイツでは百年かけてやったわけだから、もし同じような社会変化が起きているなら百年かけて覚悟を持って十分取り組むべし」と締めくくっています。

 ともあれ、法律というのはやはり決断なんですね。別の例ですと、たとえば人の生死は生物学的にきわめて微妙です。脳死の問題なんかを想定してもらえればいい。生まれたときにしても、受精何週間目からが人間なのかは判然としない。だけども、そこに線引きをした上で判断するのが法というシステムなわけですよ。

鈴木謙:

 法学的はたしかにそうですよね。でも、いまの脳死の例でいえば、法的な決定に対してコミュニケーションレベルの予期が追いついていないこともしばしばあるわけですよね。「法的には死んだことになっているけれど、おじいちゃん、まだ暖かいよ」といった話です。

白田:

 まさにその予期を担保していたのは、リアルワールドの共通体験から導き出された「常識」だったと思うんです。つまり、「そんなこと当たり前じゃん」という一言で済んでいたハッピーな時代がここ数千年続いてきた。しかし情報社会になって、「当たり前じゃん」ということが言いにくい環境へと移行しようとしている。

 そこでじゃあどうするかといえば、私の考えはこうです。まだ私たちには、「それ当たり前じゃん」と言えるだけのベースが残っている。だからそれが残っているうちに一定の枠を定めて、その枠が再帰的に新しい認知枠を作るというサイクルを作らないといけない。そうしないと完全にどうしようもなくなるんじゃないか、と。

石橋啓一郎(以下、石橋):

 でも、その枠を作るときに必要なはずの、公私の線引きがあやしいというわけですよね。たしかに百年もかければ「事前にはこれぐらいのことを予期しておくべきだよね」という収束も起きるでしょうけれども(笑)。

白田:

 そう、そして収束しないような環境ができつつあるなら、収束するようなアーキテクチャを作りましょう、というのが私の主旨ですね。

東:

東浩紀
東浩紀

 ポイントは、インターネットにおける私的空間はなにか、ということですね。いままでの情報社会論は、インターネットにおける公共圏、公的空間をどう創るのかについてばかり議論していたふしがある。しかし今日の議論からすれば、むしろインターネットにおける私的空間をどう作るのか、ということのほうが大事なのかもしれない。

 そしてそれと関連して実践的に考えなければならない問題が、ネットワーク上の私的空間への公権力の介入をどこまで認めるのか、ということですね。『情報自由論』の連載版で書いた事例ですが、児童ポルノの自動検索というアイデアがあるわけです。検索エンジンのBotのような働きをするワーム、つまり、ネットワークを介してPCに入り込み、HDDの中身を検索して、児童ポルノの画像を見つけたら当局に通報するようなコンピュータウイルスを治安当局が開発すればいい、と(笑)。こういう提案をけっこう真剣に支持するひともいて、これからの世界は大変なことになるぞと思ったんです。レッシグも、著作権侵害発見のケースで似たアイデアを批判していました。

 児童ポルノに限らず、単純所持が問題になるデータはけっこうあると思うんです。爆弾の設計図なども国によってはそうかもしれない。となると、「いままでは警察の捜査力が足りなかったから単純所持が見つけられなかっただけだ」という論理が出るはずです。だとすると、いくら私的領域を確保したとしても、その領域に介入する権力は残る。その部分をどうするのか。Botが自分のPCに勝手に入り込んで、違法なソフトがないか、違法なデータファイルがないかをつねに確認する時代というのは、実はすぐ近くなのかもしれない。

石橋:

 たとえば拳銃所持は違法だけれども拳銃にRFIDがついたりする。

鈴木謙:

 そこもたぶん法的な決断をするしかないんじゃないですかね。警察というのは実績を上げるためになんでも犯罪にしようとするし、いろいろな越権行為というか、プライベートなところにまで介入する組織的傾向があるわけですよね。しかし法律的にそれをだめだとすることで、ちゃんと令状を取ってから、という手続きを踏まなければいけないようにしている。同様に、Botを使って入ってはいけないという法的決断をしていれば、少なくとも法的には警察は入れないということになる。たしかに市民間の通報と監視が増大するという問題はありますが。

楠正憲設計研委員 以下、楠):

 さきほどネット自殺介入の話がありましたが、警察庁のホームページ(インターネット上において人命保護等の観点から緊急の対処を必要とする事案が発生した場合の対応の在り方について)を参照しつつ話題を投げかけたいと思います。

「ガイドラインでは、自殺予告等の緊急の場合には令状によらず警察の要請に対応できることとなっているが、具体的事例がないと判断に困るという点は理解したので、電気通信事業法を所管する総務省にも相談しながら、検討していきたい。

 全般的に、実際のケースが具体的事例にぴったり当てはまることは少なく、結局は個々のプロバイダ等が判断を求められることになるのではないか。」

 いま「法的判断」というのがキーワードになっていると思うんですが、このケースの場合、それでは法的判断は「誰が」するのかが問題になるわけですよ。これは来年国会で議論して判断すればいいという話ではないし、現状はプロバイダの担当者が判断をしている。それでいいのか、あるいは警察の担当者が判断するということになるのか。それとも電気通信事業法を所管する総務省が判断すべきことなのか。これはまさに倫理研の問題だと思うんですね。

東:

 どう思いますか、白田さん。

白田:

 これは法哲学の問題になりますね。「人の命がかかっているという緊急状態において、法的な根拠なく国家が私人の行為に介入していいのかどうか」という問題です。まず、生命は事後的に回復不能だというのがありますよね。死んでしまえば、生き返らせることはできない。ということは、本人が自分の意志で自分の命を処分するということに関して、もし取り返しがつくのであれば放置で問題ないんだけど、そうではない。そこで、一般的理性である国家が、愚かなあるいは誤った判断で自分の命を処分しようとしている主体がもっているはずの理性的判断を保護すべきという立場をとれば、介入してもいいんだという理屈になるわけです。最も重要な利益である身体・生命が危機に瀕しているのだから、緊急避難的に法を乗り越えて救っても構わないんだという理屈になっている。

 仮に、緊急避難が理由となって介入するのであれば、危機に直面した全ての人が判断してよいということになります。ただ、法的な枠組みを作るとなる場合、プロバイダの担当者が判断をしている現状があるなら、判断はプロバイダの担当者、その判断に関する指導監督を行うのは、所轄官庁であるところの総務省ということになるかと思います。

東:

 いわゆる「パターナリズム*3の問題ですね。情報社会は、パターナリズムが技術的に発揮しやすい社会になっているといえそうです。自殺に限らず、そもそも情報技術はパターナリスティックなサービスを提供しやすい。だから監視と紙一重なわけです。「あなたの健康を常時チェックします」「あなたの子どもの安全を常時チェックします」、つまり監視します、と。

白田:

 これは難しい問題ですね。自殺をしようとした当人が、もし助かった場合に、助かってよかったと思う可能性があるわけです。しかし、人が死んだ以上は、復活させることはできない。ですから、目の前で死にそうな人間がいることがわかったのならば、やはり止めるほうがいいだろうと思います。

楠:

 設計研のメンバーとして興味があるのは、白田さんが法的にそれをどう解釈されるかというよりも、解釈する主体は誰かということなんですね。少なくとも現状はプロバイダの担当者が解釈権者ですが、白田さんのようなパターナリズムの意識はなくて、単に「人が死んだら責任とれないよ」ということなのかな、と(笑)。

白田:

 解釈権者はあくまでも自殺しようとする本人なんですよ。ところが本人の意志が異常状態で確認できない、錯乱していて自殺しかねない。だからパターナリスティックに自殺を止めるという権限を警察に与えるというわけですね。ただ、逆も考えられます。本人の自殺の意志が理性的に決定されていることが確認できるならば、「自殺権」なるものを認めなくてはいけなくなる。一定の法的な手続と方式を整えた上で、公式に自殺を認めるということとセットになるはずです。

東:

 なるほど。

小倉秀夫

 法的な立場から補足させてください。まず他人の生命や身体を守るといった緊急性がある場合は、「緊急避難」という規定が刑法上あります*4。刑罰法規がある場合にはその規定により免責されまして、これは刑法上認められている話です。

 ネット自殺介入の場合、形式的にはまず構成要件として電気通信事業法上の通信の秘密違反を犯している。だけれども、これは自殺しようとしている人の生命を救うために緊急のやむをえない行為であるから、これは免責されるんだという話になる。その正当性を一時的には判断するのはISPの担当者ですが、究極的には裁判所が決めることです。ただ、だいたいは裁判所まではいかずに、警察段階でオミットしますから、その段階で整備をしておくべきだ、と。

 また、自殺をするときはだいたいパニックに陥って錯乱状態になっているからという話であれば、警察は錯乱状態に陥っていて自殺をしようとしている人を止める権限はあるんですね。これは法的に「警職法第3条」*5で認められている。こうしたことから考えると、警察に権限があるから警察の要請に従うのはいいじゃないか、ということはありうるのかな、と。

高木:

 ちなみに、人は死なないけれども似たような事例があります。最近はフィッシング詐欺というものが流行っていて、自宅のパソコンがいつのまにか乗っ取られて詐欺用のサイトになっていることがあるんですね。ただ、通信の秘密の関係上、その人に連絡がつかないとそのサイトを勝手に潰すことはできないということで、いまガイドラインが作られています。

鈴木謙:

 踏み台にされてしまう、という問題ですね。

石橋:

 大学の研究室であれば、誰か悪いことをしたらそいつのLANケーブルを抜いてしまえばいい、というコンセンサスがあったりするんですけどね。ISPとなると、悪さをしているパソコンの線を抜けばいいという話にはならない。

東:

 とはいえ、フィッシング詐欺に使われてしまったディスクは私的な領域だから介入できないという問題も、先ほどのBot基準を適用して、検索できるところは全部公的な領域だと考えれば解決できる。その意味でも、あらゆるデータ領域を公的だと見なすことが便利だ、という発想は十分にありえますね。

 さて、そろそろ時間なので議論を締めたいのですが、第2部では、会場からの意見も相次ぎとてもいい議論ができたと思います。北田さんの講演を裏返すかたちで、「インターネットにおける私的空間とはなにか、そしてインターネットにおける私的空間への介入をどうするのか」という問題が出てきた。北田さんがまず「ネットでは公共圏の構築は不可能だ」と問題提起され、討議では「だからこそ私的空間を確保すべし」という結論になったわけです。

 さて、次回の倫理研は、ブロガーとして著名な加野瀬さんに「個人サイトの情報流通モデル」をテーマにお話をしていただく予定です。ネットリンチなど、豊富な具体例が扱われる予定で、そのなかで「私的領域の確保」という今日のテーマとも密接に結びついたものも出てくることでしょう。期待しましょう。




*1:註:倫理研第2回: 白田秀彰 講演(3)

*2:註:全三回にわたって、倫理研第2回の講演Hotwiredにて再構成されている。→ラジカルな保守という態度について I IIIII

*3:註:「パターナリズム paternalism」=「温情主義」、「家父長的介入」

*4:小倉註:刑法第37条第1項「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危機を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない」。

*5:小倉註:正式には、「警察官職務執行法」。

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