ised議事録

04-093. 設計研第3回: 共同討議 第1部(1)

D3:共同討議 第1部
(開催:2005年4月9日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年6月11日)

設計者は存在するのか/デファクト競争における正統性の不在

東浩紀(以下、東):

東浩紀

 ありがとうございます。楠さんの問題意識を簡単にまとめさせていただきます。

 ひとつは、設計の複雑さの指摘です。いままでの設計研では、設計とはなにか、設計者とは誰かということが議論されてきました。しかし、楠さんとしては「設計といっても複雑だ」ということをまず主張したい。デジュールなりデファクトなり、設計というのは標準競争の場が複雑に絡み合って成立しているのであって、主体としての設計者は存在しないというわけです。

 そしてもうひとつ、設計する側と設計される側の関係は、能動と受動が明確に分かれているものではないということも指摘されました。消費者のニーズが不透明になっていくなかで、いまは消費者からのフィードバックを設計段階に組み込んでいく俊敏さが求められる。したがって、設計する側とされる側の境界は明確に分けられるものではない。

 そのうえで楠さんは、消費の「エコシステム」の形成をめぐる競争こそが情報社会では活性化されるとおっしゃっている。別の言葉でいえば、消費者を囲い込むバリュー・ネットワークですね。現在では、ある商品をモノとして市場に出すだけでは設計プロセスは完結しない。ひとつの商品が消費者にどう解釈され使用され、他の商品との関係性を結んでいくのかという連鎖的な関係をひっくるめて設計しなければ、市場競争には勝ち残っていけない。総じて今日の講演では、設計と被設計の境界があいまいとなっている現実が語られてきました。

 設計プロセスは、強い主体的な作用ではない。それは市場によって自己生成的に、いわば創発的に生み出されるものである。楠さんはこの認識のうえで、ネット犯罪などの事例を挙げながら、「じゃあ市場まかせですべてうまくいくのか? いや、そうではないだろう」と問題提起されたわけです。

 楠さんご自身、結論を出しているわけではないと思いますが、おそらくここで感覚されているのは、「情報社会における設計は複雑だから、ガバナンスできない」ということだと思うんです(笑)。なにかを設計したとしても、それを乗り越えようとする設計が次々と現れる。マイクロソフトのような(笑)、単独の設計者が存在するわけではない。

楠正憲(以下、楠):

 はい、そこの認識は間違っていないと思います。

東:

 とはいえ、僕の素朴な感想を言うと、楠さんの議論は、「設計者同士の競争」になっていると思います。エンジニアのかたはそういう話をしがちなのですが、それに対して社会学者や人文系の学者は、「マイクロソフトハッカーも要はエリートでしょ」と指摘すると思うんです。

 情報技術エリートが多数いて、そのあいだでどれだけ覇権が移り変わり、ルールが変わったとしても、エリートと大衆の非対称性は変わらないのではないか。コンピューターのことをまったくしらない大部分のひとからすれば、マイクロソフトだろうがハッカーだろうが、設計者側として一枚岩に見えることは否めない。いくら設計者の側で競争があったとしても、社会全体からみればごく一部の変動にすぎず、より大きな視点で「アーキテクチャを握っているもの」の権力は変わらないよね*1、とは言える。

 楠さんは、フィッシング詐欺やコンピューター・ウィルスを、設計上での予測が不可能なものの例として挙げられていました。しかし、視点を変えれば、それはGoogleAmazonなどの情報サービスと同じものと捉えることもできる。フィッシング詐欺Google Adsenseも、人々生活がネットワークに過剰に依存していることをうまくついた、巧みな搾取形態だと考えることができる(笑)。むろんこれは冗談ですが、しかし、非技術者から見ればそういうふうに感じてもおかしくない。つまり、単独の設計者はいない、という主張はよくわかるけれども、そうした見方自体が、情報社会の根本的な権力構造を温存したうえでの主張というか、設計者=エリートのなかでの議論でしかないんじゃないの、という視線はありうると思いました。この研究会では、そこまで視野を拡げていきたいと考えています。

 ところで、今日の講演では、市場によるガバナンスは不可避的に失敗するので政府の役割が求められるという流れだったのですが、その説明がいまひとつあいまいになっていたかと思います。いかがでしょうか。

楠:

楠正憲

 難しいところです。政府であろうと任意団体・非営利組織であろうと、情報社会のフィールドにおいては、ときにレゾンテートル(存在理由)を共有し、ときに競合するものだと思います。たとえば認証というのはかつては公的機関の仕事でしたが、いまは民間の認証局はビジネスでもうまくいっているものがある。それぞれ得手不得手があると思うのですが、お互いにそれぞれの領域を補完しあうことができるのかは議論しなくてはいけないと思います。

 もうひとつ、伝統的な政府の役割として、市場の失敗にどう対処するかというものがあります。あるいは伝統的な役割といえば国防や警察がありますが、エンフォースメントの力はきわめて弱くなっていますから、本当に昔と同じ程度に期待してよいのかどうか。ある時点の市場の失敗があったとしてウィルスの大量発生が起こったとして、当然OSのベンダーには対応義務もありますし、アンチウィルスソフトのような民間側からのエコシステム形成も出てくる。そして行政から告知をすることで、いままでリーチしていなかった層への警告を届けることも必要でしょう。しかし、政府はそこで本当に特権的に機能し続けられるのだろうかと思うんですね。

東:

 とはいえ、一般には行政と市場の差異というのは「正統性」にありますね。Justification(正当性)ではなくlegitimacy(正統性)のほうです*2。市場のアクターにはレジティマシーはなく、勝負したら勝った、負けた、ということでしかない。しかし行政は「ねばならない」という行動原理で動いている。だからこそ権威を必要とする。となると、企業も個人も行政もすべて同じプレイヤーとしてひとつの平面上で争う、というモデルはいささか単純かもしれません。

 とはいえ、他方では、情報社会の進展は行政の正統性をも揺らがせるわけですが。

楠:

 そうですね。

東:

 それでは討議を始めましょう。まず最初に簡単な質問を受け付け、そのあと八田さんと村上さんから長めのコメントをいただきます。

石橋啓一郎(以下、石橋):

 最後の論点に、「『市場の失敗』の定義 あるべき権利像、公共の福祉」というキーワードがスライドにありました。ただ、プレゼンテーションではセキュリティの例がほとんどでわからなかったんですが、「公共の福祉」というのはどんな例を想定されていましたか。

楠:

 たとえばアクセシビリティ、いわゆるデジタル・ディバイドの問題ですね。そもそもデジタル・ディバイドという言葉は多義的に使われすぎているのも問題だと思いますが*3、実際問題として、ハンディキャップのある方がイノベーションによってパソコンが使いにくくなるという問題があります。たとえば私の部にはアクセシビリティを担当している盲目のプログラマーの方がいますが、彼はDOSのころであれば健常者とほとんど同じ感覚でパソコンを利用できたのに、Windowsになってからはどれだけアドオンを入れてもギャップができてしまう。

 かつてユニバーサルサービスといえば電話だけを意味していましたが、まさに石橋さんが地域情報化で取り組まれているように*4、ネットへのアクセス権はもっと幅広く認められるべきですよね。ただ、市場だけに頼っていても「通信線を引いても過疎地は儲からないからやめておこう」となってしまうこともある。こうした問題は「公共の福祉」にネットワークも組み込んでいかなくては解決できません。

 ほかにも教育の例を挙げてもいいでしょう。たとえば最近はなくなりましたが、一昔前であれば開発環境は大変に高価で、アーキテクチャ再定義可能性どころか、そもそも言語を勉強するチャンス自体が貴重でした。ただし最近は言語を勉強する人が増えればエコシステムも拡大し、後々のビジネスに大きなプラスがあるとベンダーも気づいたので、何百万円もするCADソフトを2万円くらいで提供するようになりました。これは市場でうまく調整できているパターンですね。

鈴木健

鈴木健

 楠さんの問題意識は、情報社会、あるいは情報技術の世界において、そもそも設計者は存在するのか、というものだったと思います。しかしその前段の言葉をはずしたとき、そもそも社会の設計者はいるのか、という問題がある。あまり自分も明るくないんですが、人文社会系の世界ではたとえば権力理論として議論されている問題があって、いろいろ研究した最終的な結論としては「一番権力を持っているのは赤ん坊だった」というオチがついたりして(笑)、そんな笑い話のような結論に行き着くわけです。これはこれで権力者とは誰なのか結局わからないんですよ。もちろん設計と権力は別の問題だと思いますが。

 ともあれ、そもそも設計者が存在するというのはどういうことか。ここをはっきりさせない限り「情報社会における設計」という枠で議論をする意味がないと思う。だから、まずここを確認したいんです。

 そこで、楠さんは最後の部分ではエンフォースメントという言葉を使っていました。エンフォースメントの有無が情報社会の設計においては重要である、という意味で言及されていたと思うんですが、どうですか。

楠:

 設計研第1回で東さんが問題にしたのは、IETFによるインターネットの標準形成という個別具体的なケースはうまくいったかもしれないが、その議論は一般化することはできるのかということでした。ずっとこの問題を考えていたのですが、要は「社会を設計する」といったとき、そこで暗黙的に前提とされていたのは「決めれば決めたとおりにできる」「決めたとおりにやる」というエンフォースメントだと思うんです。

 僕は人文系の議論の積み重ねを踏まえていませんから、非常に定義の曖昧なままに設計という言葉を使って情報社会の問題を考えてしまった。設計という言葉を使うこと自体に疑問を持ちながらも、うまくそれにかわる言葉を提案できなかったように思います。たとえば自分が都市設計の話を出したときも違和感があったのですが、そもそも社会に設計者はいるのかという問題は、結論を出したいですね。

鈴木健

 たとえば現実社会の都市計画に比べると、設計と呼べるような作用が情報社会ではなくなってしまっている、ということですよね。

楠:

 そうですね。

井庭崇

 楠さんの講演では「巨人の肩に乗っている現実」ということで、情報社会における設計がいかに複雑であるかを説明されていたと思います。さて、楠さんの講演のポイントは「主体としての設計者は存在しない」ということですよね。かといって、でたらめにランダムに決まっているわけではない。たとえばデファクト・スタンダードをめぐる競争によって決まっている、という論旨だったと思います。

 そこで情報社会の競争の鍵は俊敏性だと指摘されたのですが、サプライサイド側の強者が常に勝つわけではないですよね。デファクトを取るにはユーザーの利便性がポイントになっていて、たとえばiPodは利便性のエコシステムを形成したという例を出されていた。一方、たとえばオープンソースの場合は特にそうだと思うんですが、ものづくりの考え方への共感があるかどうかというポイントがあって、これが利便性とせめぎあっていると思うんです。

 つまり、情報社会における設計は、完全なカオスではなくデファクト競争で重層的に決定されている。そしてその競争の勝敗を握る鍵は、利便性のエコシステムや共感などが鍵になっているというのが僕の整理です。楠さんは他になにが鍵になるとお考えですか。

楠:

 そうですね。競争には、単に安いかどうか・ファッションとして流行するかどうか、といったポイントが教科書的にはありますが、私が考えるポイントというのは、まだ誰も気づいていない、偶然的に起こるブレークスルーを拾いあげることができるかどうか、だと思います。

 自分が思い出すのはこういうエピソードです。96年に自分がE-commerceの構築をやっていたとき、(E-com(次世代電子商取引推進協議会))のワーキンググループで暗号の強度の話をしていました。そのとき、設計者というのは鈍感とまでは言いませんが、社会が求める本当の要求とは違う方向へと興味がエスカレートしていくんだな、という印象を持ったんです。趣味というのはつまり、この暗号は解くのに何年かかる、この新しいアルゴリズムはブルートフォース攻撃*5と比べて何桁トライアルが少なくて済む、といった議論を技術者たちは喜んでやるわけです。しかし、「そもそもWEBの画面に映っているものは本当の銀行なのか」という議論になると、コンピューターの専門家はイディアルに「サーバー証明書を見ればいいんだよ」というふうにしか答えない。そして、そのRSAのアルゴリズムが安全か、素因数分解ができるかできないかということを心配し始めてしまうわけです。しかし、そもそも鍵マークが付いているかどうかをほとんどの人は気にしませんし、ましてや鍵マークをダブルクリックしてサイトの名前を確かめるなんてことはやらない。

 つまり、設計者というのは目的がしっかり決まっている場合には非常に優秀なわけですけれども、本当の意味で消費者のエンドで起きることは予期できていないという現実があると思うんです。そのエンド側がよく見える人が、ネットの世界では成功していると思います。





*1:註:isedキーワードアーキテクチャ」参照のこと。

*2:註:isedキーワード正統性」参照のこと。

*3:註:デジタル・ディバイドについては以下参照のこと。→富士通総研 - デジタルデバイドとは(digital divide)

*4:註:地域情報化の現状については以下のページなどを参照のこと。→CAN FORUM ONLINE

*5:註:IT用語辞典 e-Words : ブルートフォース攻撃とは 【総当たり攻撃】 ─ 意味・解説

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