ised議事録

04-094. 設計研第3回: 共同討議 第1部(2)

D3:共同討議 第1部
(開催:2005年4月9日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年6月11日)

デファクト・スタンダードの公共性とは――八田真行からの応答

東浩紀(以下、東):

 それでは八田さんからコメントをいただきます。

八田真行(以下、八田):

八田真行

 楠さんのおっしゃった論旨や現状認識についてはおおむね賛成といいますか、おそらく認識を共有していると思います。ですが、私としてはそれを解決するための具体的な方法論に興味があって、その部分には不満が残りました。要するに「結局どうすればいいんだ」ということを僕は知りたい。わからないかもしれないけれど、とりあえず知るという方向で行きたいんですね。

 まず「事前の設計」に対する評価について、僕と楠さんでは似ているようですこし違う気がします。鈴木さんもおっしゃったように、要するに情報社会の設計とはなにか、よくわからない。しかし設計という考え方を放棄しても、うまくいかない気もする。そこで僕も楠さんも「設計プロセスの設計」が絶対的に重要だと考えている。つまり、個別具体的な制度の設計ではなく、その制度を決めるプロセスの設計が重要だということです。つまり「場の設計」と言っているのはそういう意味ですね。

 しかし、この議論は設計プロセスの設計の、プロセスの設計の、プロセスの設計……と無限後退に陥ってしまう傾向があるんですね。

東:

 倫理研とつながる部分があるので、司会として補足させてもらいます。この問題では倫理研では第2回の白田さんの講演で扱われました。白田さんは、それをデュープロセスの問題として捉えている。民主主義の設計が必要だとすれば、そのときは法をつくることが必要なのではなくて、法をつくるプロセスそのものの設計が必要なんだ、という議論です。これも、いま八田さんが指摘されたものと同じ無限後退へと突入してしまう。

八田:

 そこで前回の設計研で僕が出した処方箋は、いくつか制度のキーになる要素だけを確保し、あとは競争に任せればいいのではないか、ということだったんです。オープンソースの議論を一般化したとき、その要素を4点抽出したんですね(図:正当な環境管理型権力の条件)。

図:正当な環境管理型権力の条件
図:正当な環境管理型権力の条件

 ただ問題は、キーの抽出を誰がするのかということです。そして、その正当性を誰が保証するのか。その点、僕の講演はやばい橋を渡っていて、その正当性は自分自身で決定してしまっている。しかし、僕が正しいと思っていても、他人が正しいと思うかはわからないし、そもそも僕自身が正しいのかどうか僕にもわからない。ひとつの論点として、先ほど楠さんの講演から具体的な方法論が見えないと申し上げたのは、この「キーの抽出」をどうするのかということなんです。そもそも僕たちは、このキーの抽出のための方法論の蓄積がない。

 もうひとつ、楠さんのお話のなかで、デジュレからデファクトへという流れがあるのは共感するところです。こんなことを言うと村上さんには怒られるかもしれませんが、官僚の持っている知識だけでは制度の設計はできなくなっている。そして企業の力が国家に対して相対的に強くなってきたということもあるでしょう。

 ただ、標準にはある種の公共性が必要になってくると思うんです。標準化の担い手は、いままで官僚だったり、またインターネットの場合であれば、たまたま初期のハッカーたちだったりする。ハッカーたちは、たまたまある種の公共的精神を持っていたためにうまくいきました。しかし、標準化の担い手は誰か、標準化の公共性をどのように担保するかという問題は残る。東さんがはじめに正当性の話を出されていましたが、同じ問題ですね。

 たとえばソフトウェア特許を例に考えてみましょう。まず、ソフトウェア特許はアイディアの保護として重要ですよね。アイディアというのは稀少なもので、ある目的に対するアイディアは数が少ないうえに、効率のいいアイディアはおそらくひとつしかない。こうした希少性は特許というかたちで保護する必要がある。一方、著作権というのはそのアイディアを表現する著作物についての保護であって、アイディアを表現する著作物はどう書いてもいいし、無数にあるわけです。だから1986年にソフトウェア・プログラムを著作物に入れてしまった*1のは、いつも僕は「制度のバグ」だと言っていて、失敗だと思うんです。中山信弘先生もそうおっしゃっている。しかし最近、僕は「これはこれで良かったんじゃないか」と思うようになりました。たしかにこれは間違っていたけれども、結果としては色々なソフトウェアがコンピートする状況をつくった。その原因は著作物によって保護してしまったことにある。

 これを踏まえて特許の問題を考えると、標準に特許を持ち込む動きがありますよね。たとえばSender ID*2について、マイクロソフトが標準化を進める一方で特許を申請していたらしいという話があったとして、こうした標準を先行者利益として正当化できるのかという問題がある。制度論としては保護期間が長すぎるのではないかという話もできますが、そもそも根本的な問題として、標準に対して特許を持ち込んでしまえば制度間競争を阻害してしまうことは想像がつきます。前回の僕の講演ともつながるところなのですが、制度間競争を保証するには、ある種のシステムを入れてしまうと決定的にまずい場合があると思うんです。この場合は特許という制度ですね。

 たまたま特許の例を出しましたが、こうした問題は他にもたくさん転がっている。そもそも、こうした問題を抽出するという技術を、僕らは持ちあわせていない。この方法論に僕は関心があるんですが、こうした抽出の方法論について、楠さんはどう思っているのかお聞きしたい。

 さらに問題をややこしくするのは、制度には複数の要素があって、制度自体も複数あるということです。たとえば特許は人事考課と結びついていますから、特許制度だけをやめれば問題が解決するものではない。要するに、制度には多数のステイクホルダーが関わっていますから、一回決まってしまうとそう簡単には抜けられないのです。

 そこでデファクトの標準がサブオプティマル(次善最適)、つまりもっとも最適ではないもので落ち着いてしまった場合、どうすればいいかという問題がでてくる。それをより最適なものにしようというとき、どうすればいいのか。これに理論的な解答を与えることはできます。たとえば経済学であれば、複数均衡が出た場合にどれがもっとも最適かは判断できる。しかし、具体的にどう脱出するのかという方法論については、それは学者の問題ではなくて現場の人がやることでしょう、と切り離されてしまう。それはそれでひとつの立場ですし、僕も学問的な立場からはそう言うでしょう。しかし、個人的にはオープンソースに足を突っ込んでいますから、具体的にどうすればいいのか興味があるわけです。

 制度設計の主体者はこうした問題を考えるべきです。たとえばGLOCOMも関わっているクリエイティブ・コモンズ・ジャパンの例ですと、以前japan.linux.comで「japan.linux.com | クリエイティヴ・コモンズに関する悲観的な見解」という文章で指摘したのですが、要するにクリエイティブコモンズ・ジャパンは法的整合性にのみ拘泥している印象がある。それはたしかに法律に関わってくる以上重要な問題だと思いますが、実際にどうやって普及させるかという方法論の開発も必要だと思うわけです。

 つまり、「現状が間違っているわけではないけれども、他にも方法論的にやることはあるんじゃないか」といったタイプの議論はあまりされていないと思うんですね。では現場に任せておけばいいかというと、現場も案外わかっていない。となると、色々なシステムや制度が存在したとき、そこから最適なものを選択可能な超越的な視点を持つ人間が必要になる。超越という表現はしっくりきませんが、つまり現場と理論の中間に立つ主体が必要だということです。

 それは誰なのか。先日、青山ブックセンター倫理研の北田さんと東さんが対談されたのですが、その場にいた宮台真司さんが「ジェネラリストが重要だ」と最後におっしゃっていた。ここでジェネラリストというのはおそらくシステムに最終的に正当性を与える人のことを言っているのだと思う。しかし、そのジェネラリスト自体の正当性は誰が保証するのか。

 結局、設計はエリート主義を招き寄せる。しかし、設計をしないとうまくいきそうもない。ここに隘路があって、これをどう突破するかという議論をせねばならないのではないか、ということです。結論はないのですが、以上です。

東:

 最後に僕の出演したトークショー*3での話が出たので、ちょっとコメントします。

 この議事録が出るころにはすでに時効だし、あのトークショーでの質問は半ば公的な発言だったと思うので言いますが、八田さんもご存じのとおり、あのとき宮台さんは、「この騒動のなかで僕はいまライブドアに助言する立場にある。そういう立場の人間がジェネラリストで、それはいまも企業や行政から必要とされている」とおっしゃった。ライブドアを持ち出したのは宮台さんなりにファンサービスでしょうが(笑)、しかし、ここでライブドアの名前が出てきたのはけっこう本質だと思ったんです。

 こういうことです。そもそも、そのトークショーでは知識人論というか、今後の知のありかたが話題になっていました。知識人や学者が、今後どんな役割を果たせるのか。そこで、僕と北田さんの結論としては、旧来の知識人のように政治や社会現象一般にコメントを寄せるようなジェネラリストはこれからは必要とされなくなり、専門的なスペシャリストだけが生き残っていくだろうということだったんです。

 それに対して宮台さんはジェネラリストが必要だと主張されたわけですが、そのとき出てきたのはライブドアだった。誰が知識人を必要としているかというと、ほりえもんが必要としている。なぜほりえもんが知識人を必要とするかといえば、むろん宮台さんがそれに乗っているとは思わないけれど、自分を支える言説が欲しいからです。じゃあ、なぜほりえもんは言説が欲しいのか。なぜ稼いでいるだけではだめなのか。それは要は、デファクトで勝っているだけだからだと思うんです。市場原理だけで正統性なしに勝利を収めた人間が、なんとかその現実を正統化しようとするとき、ジェネラリストが必要となる。裏返せば、いまやジェネラリストにはそんな役割しかないのではないか。

 デファクトなものには正統性がない。経済学の言葉で言えば「経路依存性」が強い。平たくいえば「偶然で勝っただけ」のものがたくさんある。有名な例はQWERTY配列のキーボードですね*4。いまや知識人の言説は、偶然で勝っただけのものに対して「それは偶然ではないのだ」という虚構の必然性を与えることでしかなくなっている。今日の話とは多少ずれますが、僕はそれに危惧を感じてます。

 それでは、楠さん、コメントにお答えください。

楠正憲(以下、楠):

楠正憲

 まずマイクロソフトのソフトウェア特許の問題に言及されていたので、組織の人間として反論しておきます。むしろソフトウェア特許については競争に任せられると思うんですよ、制度的に。というのも、標準をパテントとして主張することによって、その標準が普及しなくなるリスクを負うことになる。たとえばsender IDの場合は実際にそうです。たとえばPRAというアドレスの記述の仕方に関する特許があって、それを最初のsender IDでは規格に癒着するかたちで実装していたのですが、その技術を使わないことを選べるかたちで再提出してあらためて支持してもらえた、というドタバタが去年の秋にありました*5

 むしろ、おそらく特許と標準がコンフリクトすることは非常に少ないのではないか。たとえばMPEGなどのインターネットの標準以外の場合、むしろ標準のためのパテントプールをつくり、そこに資金を投入していき、特許の重要度の割合でプロフィット・シェアをするということが非常に一般的に行われています。

 ただしオープンソースの場合は微妙であって、たとえばフォークした場合のライセンスの扱いをどうするのか、そもそも使っている人からどうやってお金を取るのかという問題がありますから、パテントという制度はどうも合わない。しかし、これは特許とオープンソースの相性が良いか悪いかという話であって、特許と標準化一般の相性という問題ではないと思います。

 特許自体、そもそもいい面と悪い面を持った制度だと思うんです。ステイクホルダーが数多く存在するなかで、うまく機能している例もあれば弊害の目立つ例もある。またイノベーション・サイクルが短期化していることによって、ハードウェアであれソフトウェアであれ、特許という制度には権利保護期間が適切かどうかなど議論があります。ソフトウェアの場合は特にそうです。モノが介在すればそこに経済活動が発生するので、パテントのお金の流れも必ず付随して出てきますが、ソフトウェアの場合にはお金を介在せずに情報が移転する場合がありますから、取引費用の問題が出てくる。

 ただ、問題の本質はソフトかハードかということよりもむしろ、一度出来上がった数多くのステイクホルダーが絡んでしまっている制度をいじるのは、大変に難しいということですね。ステイクホルダー間の同意を取ることも難しいですし、国際的な整合性を持たせないと悪影響も出る。このように特許というのは一般的に難しい問題であって、必ずしもソフトウェア特許が悪いという話ではないように思います。

 また八田さんは、キーとなる要素を確保するにはどうするかとおっしゃっていますが、これは重要な論点です。そもそも、そのキーを決めることも難しければ、それがキーだと言える正当性を担保する人もいないという現実がある、ということです。そこで大きく立場が分かれると思うんですね。ひとつは「正当性自体も競争で決められる。しょうもないことで権利を主張すればそれは破棄されて、そうした権利を迂回した標準ができるだけだ」と言う立場がある。一方に、「そうではなくて、やはり公共性の見地から決定しなくてはいけない」という立場。この大きくふたつの立場がありえます。僕はどちらかといえば、次善策としては、前者の競争に任せられるんではないかと思っています。

東:

 ソフトウェア特許の話はあくまで一例でしたが……。

八田:

 ええ、僕がお聞きしたかったのはこういうことです。つまり、個別具体的な制度の良し悪しの議論ではなくて、設計プロセス自体の設計論というか、設計手法についての議論がなされていないことが、個人的には問題だと思うんですね。楠さんはその点をどう考えているのかな、と。

楠:

 その問題意識は共有しています。その設計論の議論ができなくなっている理由はなぜか。以前ならば制度設計のやり方にエンフォースメント自体も落とし込めることができたと思うんです。しかし、エンフォースメントが設計からこぼれ落ちてしまうようになると、制度に落とし込むことが難しくなっているのではないか。

八田:

 そのとき、設計は誰が担うべきなんでしょうか?

楠:

 うーん、誰といいますか……

東:

 楠さんは、市場原理をもとに設計はデファクト・スタンダードでやるしかないし、実際そうなっているでしょう、という話をされた。それに対して、八田さんは、「デファクト自体が間違っていたら、あるいは非効率的だったらどうするんだ」と問題提起をされている。きわめて古典的な対立ですね。

楠:

 デファクトという表現が適当かどうかわからないのですが、少なくともネット上で起きることは国内に閉じない話になっていますから、国際的に決めなければいけなくなっていますよね。そこでは様々な国際機関が――これらは異なるフォーカスや範囲を持っているわけですが――実際に取り決めている。しかし彼らはなにか特権的に公共性を代表しているのではなくて、メタ的な意味でのデファクトというか、デファクトを取ってしまっているだけともいえる。それはWindowsがデファクトだから正しいんだという意味ではなく、たとえばインターネット・ソサエティはデータ通信のところでISO*6ITU*7に競り勝って、いまのデファクトを取っているという意味です。ITUであれば国連の下部機関であるという正当性があるけれども、電話の世界の延長線上でデータの標準を作れたかいえば、それはできなかった。つまりデファクトをめぐる競争は、ガバナンスにせよ標準化団体にせよ、どこまでもメタ化しているともいえる。

八田:

 公共性を持っていても競争に負ければ仕方ない、ということですかね。しかし、もしデファクト標準になったものが再定義可能性のようなキーをたまたま満たしていなかったとしましょう。その場合はどうすればいいのか。楠さんの考えでは、競争を通じてデファクトになったのだからそれは問わない、ということなのか。

楠:

 そこは、競争に勝ち抜く過程でそういったキーを生得的に得ていなければならないだろうと思います。たとえばWindows APIが同時期の他のプラットフォームと比べて技術情報の提供に積極的であったこともそうですし、インターネットもエッジで機能を再定義できるからイノベーションを貪欲に取り込んでいくことができた。おそらく正当性よりもそうしたコンペティティブネスが重要で、インターネットの場合はそれを満たしていたんだと思います。

八田:

 なるほどわかりました。ありがとうございます。





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