ised議事録

04-096. 設計研第3回: 共同討議 第1部(4)

D3:共同討議 第1部
(開催:2005年4月9日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年6月11日)

賢い消費者」は存在するか――コンシューマー・エンパワーメント論の前提を問う

東浩紀(以下、東):

 今日のテーマは僕にとってはとても司会をしにくいのですが(笑)、村上さんのコメントで僕が関心をもったポイントは「可視化」です*1。つまり、とりあえず目に見えるようにする、と。

 ただ、裏返せば、「見えるようにすればそれでいい」とお考えなのかどうか。すべての情報が目に見える状態になり、不完全な情報が補われれば、そこでユーザーがなにを選択するのかは問わないのか。先ほどの八田さんの言葉を使えば、競争に任せてサブオプティマルなところに選択が落ち着いてしまったとしても、情報が可視化された結果そうなったのであれば、仕方ないということなのか。いかがでしょう。

村上敬亮(以下、村上):

村上敬亮

 回答は三段階になります。一段階目の割り切りとしてはまさにおっしゃるとおりです。逆にいえば、それだけユーザーが賢くなっていますから、以前のようにサプライサイドがあまりにも強いために徹底的に消費者がいじめられるケースは少なくなっていると思うんです。かつてはそうしたケースを想定して、裁定者としての政府の機能を磨いてきた。もちろんこの機能は残しておくべきですが、いまはお客さんも賢いですから、そもそもそういったサプライサイドは選択しない。ですから、情報を可視化して賢い消費者になりましょう、というのが第一段階の議論です。

 ただ、課題は残っています。まず第二段階ですが、状況としてはいまだに縦割りの系列関係が残っていて、流通構造全部サプライサイドの意向に引きずられているといった問題があります。さらに、せっかくkakaku.comさんのようにディマンドサイド側に立って消費行動を助けるナビゲーション・エージェントをやろうとするプレイヤーがいらっしゃるんですが、サプライサイドに総イジメされてしまうみたいな構図があるわけです。こんな状況では、「kakaku.comに就職したら一生食わせてもらえそうもないし、やっぱりメーカーに行こうか」と選好してしまいますよね。こうした流動性障壁があるとすれば、どうやって取り除くかの議論はやらなければいけない。それはセーフティーネットの議論なのかもしれないし、スキル標準のような新・メートル原器の議論なのかもしれないし、大学教育改革というアプローチがあるのかもしれませんが、ともかくこうした課題は残っています。

 最後に第三段階の課題ですが、全体の構造を可視化し、流動性を確保したとしても、それでも動かない分野が存在します。たとえば先ほどの例で医療の情報化のような問題はそうです。これまで厚生労働省と一緒にやっていますけれども、医師会と大学、そして病院の医局のつながりは非常に強固で、いくら評価を情報外に出して医療機関を患者が選べるようにすべし、といってもそうは簡単に動かない。民間のプレイヤーだと医師会を敵に回すことを恐れてしまって動かないというのであれば、政府自身が乗り出すしかない。そこはガバメントの正当性をもって介入していくかどうか政治決断しましょう、という話です。

東:

 なるほど、「賢い消費者」が村上さんの前提になっているんですね。

村上:

 相対的にみれば、政府職員のほうが「賢くない」。知らないことが多すぎて、もはや一人では判断能力を持っていない。でも、編集者として振る舞うことは出来る。ここをはき違えないことが重要なんです。

東:

東浩紀

 世界的にはどうなんでしょう。

 これは素人ながら経営学の本を読むたびに感じるのですが、日本の消費者は目が肥えているというのはとてもよく言われますね。実際にそうなんでしょうが、IT化によってすべての情報をオープンにし、消費者の選択を支援すれば市場もうまくいくはずだという発想、いわゆる「コンシューマー・エンパワーメント*2の発想というのは、日本独特の商慣行や信頼関係を前提としているような気もするんです。ほかの国の消費者も、IT化によってどんどん賢くなるんでしょうかね。

村上:

 程度の問題はあれ、全世界どこでも機能はするのではないでしょうか。

石橋啓一郎(以下、石橋):

 ただ、ちょっと議論がすり替わってきている気もします。最初のほうは、八田さんが情報社会において設計の正当性をいかに確保するかという論点を提示された。そこで続けて「可視化によってみんなが選ぶようになるから正当になる」といったような議論になるのかと思いきや、いま村上さんが出された三段階というのは、正当性についてではなく、変化を起こす原動力を得るための議論ですよね。

村上:

 そうです。政府の正当性というのは、むしろ色々なものを集めて知識に仕立てていくための手段として使うべし、という議論なんですよ。もちろん警察権力のような話はそれとは別で、むしろ本来的な政府機能としてきちんと機能しないといけません。しかし、自分が正当性について語るときの立場は、たとえば産業構造に変化を起こすという目的に対する、手段としての正当性です。

 そこで僕が強調したのは、僕自身の能力に正当性があるのではなく、過去の経緯が引きずってきた政府の正当性というギミックをうまく手段として活用してほしい、というわけです。エンフォースメントにあたって、その能力を持つ人間が政府にいようが民間にいとうが、その課題ごとに選択すればいいだけですよね、と。

東:

 わかりました。政府という口実を使って、流動性を高めろという話なんですね。

村上:

 ある意味そうです。ヒト・モノ・カネ・知識すべての。

石橋:

 ただ、その正当性をうまく利用できる人が、はたして賢い消費者の代表しているのかどうかは別の問題ですよね。

村上:

 それはもう、そこまでいくと「賢い」という言葉の定義の問題ですから。

石橋:

 そうなんですが、伝統的に政府へのアクセスルートを持つのは、基本的にはインカンベントな(既存)組織の側に偏っているわけじゃないですか。

村上:

 そこが一番問題になっていますね。というのも「小さい政府であるべきだ」という批判の根っこに本当に潜んでいる課題は、「政府に対するパスを持っているのはロクでもない奴しかない」ということだと思うんですよ。そうしたパスしか開けない政府ならば、いっそ小さな政府になれというのが基本的なメッセージのひとつなんじゃないか。

東:

 なるほど。ようやく村上さんの立場がわかってきました。国家という口実を使って、流動性を高めろ、そして人々は賢くなろう、という立場ですね。

 それはずばり宮台真司でしょう(笑)。

村上:

 もちろん、警察庁や外交の世界はまた別の国家の枠組みですから横におくとしての話です。経済産業省みたいなところは、逆にいうとそういうところで生きていくしかないんですね。

東:

 村上さんの立場が分かったところで、あらためてさきほどの質問に戻りますが、賢い消費者って本当に実在するんでしょうか。

 たしかに消費者はさまざまな商品を買っている。ネットでは無数の情報が公開され、たとえばkakaku.comのようなサイトもある。結果として、プラズマテレビなり液晶テレビなりへの消費者のリテラシーが高まり、みな高水準の商品を低価格で買えるようになる。それはたいへんけっこうなんだけれど、そもそもそんな新商品が必要なのかどうかが、僕には疑問なんですよ。

 消費社会論の前提ですが、欲望は簡単に必要性から切り離される。一般には「ニーズ」とかいう言葉で意図的に混同されていますが。したがって、適度な一撃さえあれば、ひとはなんでも欲望できる。そしていちど欲望が与えられれば、その欲望に対して最適なシステムはいくらでも開発できる。「可視化」のお話はそこに関わるわけですが、では最初の一撃はどうなっているのか。そこはぜんぜん可視的じゃない感じがするんです。

 そして、この最初の一撃の謎はどんどん高まっている感じがします。一昔前はもう少し簡単な話でした。たとえば1980年代の消費社会論においては、「差異」の欲望、平たく言えば一種の階級上昇志向が消費のドライブになっているという話だった。いい服を着て他人よりも尊敬されたい、いい車に乗って他人に威張りたい、そういった欲望が新商品へのドライブになっていたというわけです。これはシンプルですよね。

 しかしいまはどうか。たとえば、いま消費者はブログやSNSを必要としているということになっている。そこで「繋がりの社会性*3という論理も構築される。しかし、それは本当に現実なのか。みな本当にそんなに繋がりたいのか。もともとひとはネットで日記を公開したいなんて思っていたのか。少なくとも、つい10年前まで、インターネットや携帯でたえず繋がっていたいという欲望は存在しなかったはずです。そもそもその可能性がなかったのだから。じゃあ、どうしてそんな欲望が生み出されたのか。その部分を棚上げしたまま、ネットの充実が語られて、コンシューマー・エンパワーメントが語られても、正直同意できないものがあるんです。

 これは村上さんや近藤さんの前では暴言かもしれませんが(笑)。

(右から)東浩紀八田真行村上敬亮近藤淳也

村上:

 現状認識としては同じです。たとえば『日本発イット革命―アジアに広がるジャパン・クール』(岩波書店、2004年 asin:4000242334)を書かれた奥野さんの話に共感するところが多いんですが、たとえば放送メディアの役割についてこう言っています。なぜテレビのような同時受信型のマスメディアが意味を持ってきたかというと、サプライサイド側がつくった「力道山が見えるテレビ」というギミックを、なかば無理矢理欲望に転化することで消費させてきたんだ、と。たとえばボードリヤールのいうような、差異を生み出しながらそれに追いつこうとする運動として、消費というか消尽の仕組みがあったとする。そしてそれをマスで同時に起こしてしまうためのメディア的な仕掛けとして、テレビという同時型メディアとテレビCMはなくてはならなかったわけです。高度成長期においては特にそうだった。

 それでは、現にだんだんとマスメディアの広告料が下がってきたのはなぜか。それはゴールデンタイムの広告料が不当なまでに高止まりしているとみんなが気づくようになるほど、テレビがつまらなくなってきたからですが、それはなぜかという話になると、価値観の変化が起きているとしか表現できない。なんというか、ある種同時メディアがつくってきた全体的なものが、そもそも虚構でしかなかった、ということがいよいよバレてきているといいますか。

 はたして何がそうした状況を引き起こしているのか。これは別途社会学的な議論をしていただくとして、明らかにそこで起きているのは、マスメディアが提供する価値観に対する不信と自分探しゲーム*4ですよね。特に後者は、日本国民全体が境界性パーソナリティ障害のようになって、とあるネットワークでなんらかの自分を演じたかと思えば、あっちでまた別の人格に切り替えるみたいなことを、みんなが平気でやっている状況に入ってきている。こういう現実がある以上、それに対して産業はどう乗っかって儲けるのかということを考えざるをえない、ということなんだと思います。




*1:註:isedキーワード可視化」参照のこと。

*2:註:isedキーワードコンシューマー・エンパワーメント」参照のこと。

*3:註:isedキーワード繋がりの社会性」参照のこと。

*4:註:たとえば上野千鶴子『「私」探しゲーム――欲望私民社会論』(ちくま学芸文庫、1992年 asin:4480080058

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