ised議事録

04-097. 設計研第3回: 共同討議 第1部(5)

D3:共同討議 第1部
(開催:2005年4月9日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年6月11日)

帰責先としての設計者の必要性――他にありうる社会の想像のために

東浩紀(以下、東):

東浩紀

 たとえば携帯電話は日本で急速に普及しました。しかもその普及は、世界的に見ても特殊なものだった。いまや日本では、電車に乗れば、乗客の三分の一は携帯をいじっているという状態になってしまった。

 そうなってしまったんだからしかたない、といってしまえばそれまでです。しかし、なぜこうなったのだろうというのは謎として残る。マスメディアの時代には、誰が欲望をつくったのかは比較的明瞭だったと思うんです。テレビが力道山を観よというからみんな観た、それでいいわけです。ブラウン管の向こうに「騙す側」が存在し、視聴者は「騙される側」という一方向的な構図があった。そしてそのあいだに知識人なり運動家なりが立って、騙す側に対して「やりすぎだ」と訴えればよかったし、騙される側には「騙されすぎだ」といえばよかった。しかし、いまや、『電車男』がいい例ですが、騙す側が存在しない。あるいは匿名的な大衆に溶けこんでしまっている。

 じゃあこれはなんなのか。創発的に生まれてきた欲望だといえばそれまでです。賢い消費者を前提とすれば、「みなが合理的に選んだ」と言えば謎は消えます。しかし、それはトリックにしか思えない。八田さんが指摘したデファクト・スタンダードの話と近いんですが、このような状況があるとき「そうなってしまったんだから仕方ないよ」という議論に終着させずに、別の議論の軸を立てられないか。

井庭崇(以下、井庭):

井庭崇

 石井淳蔵さんが書いた『マーケティングの神話』(岩波現代文庫、2004年 asin:4006001355)という本があって、「ニーズが先かシーズが先か。いや、結論としてはその相互作用だ」と論じていて、まさにいまの議論と関連していると思います。そして今日のお話は、つまり社会システム論でいうところの「オートポイエティック・ターン*1にすごく関連していると思うんですね。つまり、主体に注目して社会を見るのではなくて、コミュニケーションを中心に社会を見ようというパラダイム転換のことです。

 つまり、ここまで「設計者は誰か」という議論をしてきたけれども、そもそも設計者は存在せず、むしろ設計的なコミュニケーションの連鎖として捉えるべきだ、という方向へと議論が移ってきました。いままでは「設計者」という主体的なメタファーにとらわれすぎていたんだ、と。つまり、ものづくりには設計者がいるという図式をそのまま社会にあてはめて、「社会を設計している誰かがいる」という話をしてきたけれども、そうした横滑り的な適用は間違いだということです。ある意味ファントム・コンプレックスのような、「誰かが裏で操っているんではないか」という陰謀論的な考えと紙一重だったともいえます。

 さきほど村上さんは「そもそも情報社会に限らず、社会に設計者は存在しなかった」「私という一個人が設計しているのではない」とおっしゃっていたのが興味深いと思うんです。もちろん、誰かがいなければ設計的コミュニケーションは生まれない。しかし、主体がすべての設計をコントロールしているのではなく、その人はむしろ過去から未来へと連続する、設計的コミュニケーションのパスをつなぐ役割を果たしている。そして「品質から信頼へ」という議論も、オートポイエティックにみれば、品質というモノへの信頼から、それが生まれる過程の信頼へ移っているとみなせる。つまり、主体やモノといった存在ではなく、プロセスやコミュニケーションへといったものに、社会性を捉える主軸が移っているというわけです。

 そのとき可視化が重要になると村上さんはおっしゃるわけですが、それはなぜか。簡単にいえば、生産プロセスはいままで隠蔽されて不透明だったから、それを可視化していくんだということですよね。これは前回設計研鈴木健さんが「生産プロセスの可視化」と指摘していた議論とつながります。そこでオープンソース的なものはモジュール化とは違うという話もありましたが、モジュール化は設計プロセスの隠蔽化をするけれども、むしろその徹底的な可視化の方向が可能だという議論だったと思うんです。

 さらに論点として、可視化のためのプラットフォーム化、参加者のモチベーションの確保、正当性といったものがありました。これもつまり、設計的コミュニケーションのパスをどのように繋げていくのかという視点から見る必要があるということですよね。さらにいえば、賢い消費者も主体ではなくてコミュニケーション過程としてみなせるんじゃないか。つまり日本の消費者は個々人が賢いのではなく、なにかを評価するためのコミュニケーションがうまい具合にネットワーク化されているんだとみなせる。たとえばそれが2ちゃんねるだけでいいのか、といった話はあると思いますが。

東:

 「設計者」という言葉が不適切なのはおっしゃるとおりです。ただ僕がここで言いたいのは、それでも設計者――それは人間である必要はなく、抽象的なものでもよいのですが――を仮定しておくことは、ある種の倫理的な要請として必要なのではないかということなんですね。

 それはなぜかというと、現状に対する責任というか、原因を帰責させる宛先として、設計者という概念は必要だということです。「誰も設計者はおらず、自発的に秩序が生まれた」という思想は、事実認識として正しくても、思考停止に陥りがちです。逆に「誰かがやったからこうなったんだ」と認識しておけば、「そいつがやらなければまた違った世の中だったのかもしれない」という議論を立てることができる。なにか現状はおかしいんじゃないかというとき、別の社会の方向性もありえたという認識さえあれば、それを足がかりにして社会をよくする構想が抱ける。

 この意味において、設計者を考えることと、倫理を導入することは表裏一体だと思います。設計者がいないとすれば倫理もなく、自己生成的で一回限りの、経路依存的な歴史だけが生成していることになる。すべてが「しょうがないよね」で終わってしまう。

井庭:

 そこは「場の設計」という議論と関係してくると思うんです。ある種のプロセスの正当性を、可視化などの手法で調達していけないか、と。

東:

 いや、僕は正当性の話をしているのではなく、現状とは異なる社会を構想するためのきっかけとはなにか、ということなんです。

楠正憲(以下、楠):

 それこそ、流動性が担保されていればいいと思いますよ。たとえばYahoo BBに加入したら検索エンジンはYahooしか見られないとしたら、ちょっとまずい。ただ現状はGoogleも選択できる。そこは自由ですよね。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

鈴木謙介

 いま東さんがおっしゃっているのは、まさにそうした流動性が担保されているにもかかわらず、人々はある種の宿命観に基づいて現状を選びつつあって、オルタナティブな社会をイメージできなくなりつつあるということだと思うんです。これは何度か倫理研でも言及されているのですが、渋谷望が指摘する、ネオリベラリズム権力がある種の「宿命論」を呼び起こしているという問題です*2。つまり、流動的に見えていたとしても、それはある種の欲望とデータベース的なシステムが相互循環的に作用し、「Googleでいいや、Amazonでいいや」というかたちで依存していく。つまりAmazonを利用することで履歴が蓄積され、その履歴に基づいて自己の欲望を生産し、さらにAmazonを利用するというマッチポンプがある。そこでは、可能性としては他なる可能性があるにもかかわらず、それしか選ばなくなってしまう。こうした宿命論の呼び出しという問題は僕も重要だと考えています。

石橋啓一郎(以下、石橋):

 そもそもこの設計研に、「設計」というキーワードを最初に設定したのは僕だったので、まさに設計という言葉のあいまいさを残してしまったことに責任を感じています。

 まず、「設計者がいない」という議論はたしかによくないと思うんですよ。個別に責任は問うべきです。ただ、そもそも設計研というのは「情報社会『の』設計」ではなく、「情報社会『と』設計」研究部会の略称なので、なんというか、情報社会全体を設計するというスタンスで議論する必要はもちろんないんじゃないか(笑)。

東:

 おお、そうだったかもしれない……。忘れていた(笑)。

石橋:

石橋啓一郎

 ただし、情報社会において設計をしなければならないというとき、いったいなにが起こるんだという話と、最終的に情報社会はどうなるのかという話は、もちろん議題にする必要があります。

 さて、社会全体をみたとき、神のように目的どおりに設計した人は存在しないのはたしかです。しかし、部分ごとのシステムについて、ある意志をもって設計している主体が存在しているのも事実で、たとえば経済産業省というのは産業政策をやはり設計している。たとえ政策が借り物の輸入だったとしても、それはそれで目的をもって、こういう制度をつくればこうなる、と予測しながら行動したわけですから、それは設計といえる。その人たちが競争して相互作用的に思わぬ結果になったとしても、だから設計者が責任をとらなくてもよいとは言えないでしょう。

 責任に加えて、やはり議論したいのは正当性の問題なんです。今日の楠さんのプレゼンテーションに、競争のプレイヤーとして国・企業・個人あるいは任意団体の3つが整理されていました。これは公文先生が言われている、近代化の三局面のプレイヤー*3と対応しているところが興味深い。たとえば国家ならば、民主主義は歴史的な背景があり、正当性がある。そのうえで、民主主義的なプロセスで決まっていることには従うという合意が存在している。あるいは市場原理にしても、市場は資源を最適配分するという理論的前提があって、事実としてその能力に対する信頼をみんなが共有している。だからこそ、企業のひとつひとつの行動が身勝手に見えたとしても、全体としては最適となるだろうという予期が働いているわけです。つまりここで議論したいのは、情報社会あるいは智のゲームの段階において、こうしたものに替わってみんなが共有できるものははたしてなんなのか。

東:

 そのとおりだと思います。だからこそ、QWERTYのような話が重要なんですよね。競争の結果、だれかあるいはなにかがデファクトを取ってしまった以上、あとはそこにタダ乗りするのがプレイヤーにとって得なのだ、という話ではどうしようもない。「そうならなくてもよかったのだ」という視点がなければ、正統性の問いもないし、倫理も設計も存在しない。

 権力論をやると、もともと権力者なんて存在しないという結論になりがちです。にもかかわらず、事実として人々は権力者という概念をつくってきた。まさにそのことが重要なんですよ。それはなぜかといえば、いま目の前にある現実がそうなっているということの必然性、つまり根拠を設定するためです。本当はその権力者のせいではなくとも、そいつのせいにするわけです。これはそいつを殺すことでみんなが満足するという機能でもあるんですが、おそらくそれだけではない。

 権力者にせよ設計者にせよ、主体を設定することには、現実の因果を人格的なものに帰責させることによって、「そうではなかったかもしれない」場合という仮定法の世界を想像可能にする機能があるわけですよ。しかし、創発性や経路依存性を絶対視すると、そうした想像力がなくなってしまう。つまり、社会はこうあるべくしてこうあった、というところで思考が止まってしまう。

井庭:

 そこでお聞きしたいのは、たしかに設計者の責任の問題は重要だと思うんです。ただ、たとえばたとえば村井純さんは日本の「インターネットの父」といわれるわけですが、ネットワーク犯罪が起きるたびに記者がやって来て、「あなたはどう思われますか、責任がありますよね」と聞かれて困るんですよ、という(笑)。これはこれで責任という言葉が肥大してしまっていて、おかしいと思うんですよ。なにかが導入されてくるプロセス自体を問題にするならばいいと思うんですが、誰か個人に責任を帰属させてしまうのは極論すぎるのではないか。

東:

 それはちょっと違う話だと思います。僕が言っているのは、因果性のことです。なにかが原因でこれが結果だという因果関係を想定するというのは、原因が違えば異なる結果になったかもしれない、という仮定法の想像力に裏打ちされている。つまり、因果的な世界把握と可能世界の想像力は必ず対であって、因果性が設定できなければ社会変革の意志も存在しえない。

 個人にどこまで責任を問うべきか、というのは法的な問題ですね。

鈴木謙:

 補足なんですが、責任という言葉で東さんがおっしゃっているのは、いま自己責任のインフレということで起こっていると思います。市場の論理の肥大したネオリベラリズム的な社会においては、すべてが個人の選択に責任が帰着させられるようになる。そうなると、自己責任に対するオルタナティブとして、あいつが責任者だ、あいつが原因だと言える可能性が担保されなくなってしまうわけです。先ほどの宿命論と結びつければ、そこでは他なる可能性が想像できないために、流動性がどれだけあったとしても、「それを選択したのはあなたの責任であり、宿命なんだ」と解釈されるようになる。主体や責任がなければ可能世界が想像できなくなるというのは、責任がすべて自己に降りかかってしまう場合も同じことです。

井庭:

 その可能世界のほかのパスをイメージすることの重要性はよくわかるんです。ただ、そのフックを主体ではなく、なんらかのプロセスにスイッチングできないかと思うんですよ。

近藤淳也(以下、近藤):

 ただ、いまのお話を聞いていて疑問に思ったのは、そもそも現状がそんなにひどいものだとして、それとは違うものをつくって世に広めることすらできない社会なのか、ということなんです。

東:

 いえ、僕が言いたいのはそういうことではありません。現状は別にひどくないし、おかしくもない。しかし、現状の評価とは無関係に、社会の他なる可能性を想定するための議論をしたいということなんです。

 たとえばメディアの例を出しましょう。昔は朝日新聞読売新聞があって、朝日はこう報じているけれどもおかしい、読売はこう報じているけれどもおかしい、という議論が可能だった。記事を書くのもそれを読むのも人間ですから、それに対して違和感を抱くことができる。

 しかし、まだ実現はしていないけれども、このあいだも例に出した*4EPIC2014*5に描かれたGooglezonのnewsbot。そのようなテクノロジーが一般化して、検索サイトが自分の好みに沿った最新情報を機械的に集めて記事を自動生成してくれるようになると、これに対して「おかしい」と思うのがとても難しくなる。これが僕の問題意識なんです。

 現状をひどいと思うかどうかと言えば、日本はもはや飢死するような社会ではない。絶対的貧困は圧倒的に少ない。そういう意味では劣悪な社会ではない。それはそうなのですが、問題は、あるていどの豊かさを達成した社会においても、多様な社会発展の経路はあるということです。可能な世界は無数に存在している。そして民主主義が機能するためには、そのような多様な世界を夢見る多様な人々がいる必要がある。しかし、情報社会の設計不在のシステムは、その多様性を根幹からすり減らす可能性を秘めている。それはまずいのではないか、ということです。*6

近藤:

 Googlezonがひどいことになれば、それにとって替わるものが生まれるはずではないですか。

東:

 ただ、Googlezonを人はひどいと思いますかね。どうもそうは思えない。むろん、まだGooglezonはないんですが(笑)。

近藤:

近藤淳也

 まず僕の立場を説明すると、ここでは現状追認派になってしまうと思うんですね。というのも、そもそも設計者とは誰なんだろうと考えると、社会はこうあるべきだという大枠を決めた人はたしかにいない。しかし、誰が具体的に設計したのかといえば、少数の人間が突き詰めて考えたものが多いと思うんです。たとえば、インターネットの仕組みもそうですよね。

 それは少数で設計したものなのに、なぜ多数に受容されるんだろうかといえば、それはまだ気づかない人間の欲望を満たしているからだと思うんです。それは潜在的に求められていたものであって、偶然のものではない。だから、必然性というか、ある程度の正当性があったからなんだろうと思います。これは裏を返せば、なにかひどいものが出現すれば、そのおかしさに気づくイノベーターが現れて、カウンターを起こすのではないかという期待感が僕にはある。そういう期待感がありますから、ひどいものが実際出てきた場合の規制だけを考えておけば、あながちそんな悪い世界にならないのではないか。こういう楽観的な期待感を持っているんです。

 こうした楽観さは、むしろ競争のためにも必要だと思っています。たとえば道路の制度にしても、「本当は右側通行のほうがよかったのではないか」「信号よりロータリーのほうがよかったんじゃないか」という議論はありうると思うんです。でも、みんながそうした議論に注目しているわけではないですよね。なぜなら、あまりにそうした可能性ばかりを議論していても、そこから上のレイヤーの産業は発展しないからではないでしょうか。基本的にはデファクトの基準を追認しながら、そのレイヤー上での議論、たとえば「車を安全にするには」「環境に優しくするには」といった方向へと向かわないと、少なくとも競争や発展は保てないと思うんです。

東:

 ということで、「設計者はいるのか」という問いをめぐって、議論もいい感じになってきました。

 とはいえ、もはや時間も大幅に過ぎてしまっています。いったん休憩に入りましょう。




*1:註:「自己創出論的転回」。社会学ニクラス・ルーマンは、1980年代に上梓した『社会システム論』(星社厚生閣、1993年 asin:4769907427)を境に、生物学者マトゥラーナ=ヴァレラの「オートポイエーシス」という概念を自身のシステム論に採用した。そこでは社会の構成要素が人や行為だと捉えられてきた社会学の従来の思考伝統に対し、社会の構成要素を「コミュニケーション」とみなし、社会システムをコミュニケーションの自己創出(オートポイエーシス)として把握する視点の転換のことを指す。

*2:註:isedキーワード宿命」参照のこと。

*3:註:公文俊平によれば、近代化は国家化、産業化、情報化の三局面の波で構成されている。以下参照のこと。→情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる: 2.2.2. 深度1の眼:近代化の三局面

*4:註:倫理研第3回: 共同討議 第1部(3)

*5:註:isedキーワードEPIC2014」参照のこと。

*6:註:こうした問題意識は、倫理研でたびたび参照されるキャス・サンスティーンの議論が参考となる。isedキーワードデイリー・ミー」「サイバーカスケード」参照のこと。

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