ised議事録

04-098. 設計研第3回: 共同討議 第2部(1)

D3:共同討議 第2部
(開催:2005年4月9日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年6月11日)

宿命か、革命か――宿命論に抑え込まれる「再定義可能性

東浩紀(以下、東):

 それでは後半です。

 楠さんの講演では、いまや設計、すなわち標準の決定プロセスとは、プレイヤーが複雑に絡み合う市場競争の過程であって、設計するものと設計されるものとをきれいに分けられるものではない。そこでは、そもそも設計とはなにか、設計者とは存在するのかという問題提起が提出されました。つぎに八田さんが問題提起したのは、設計がサブオプティマルな解に落ち込んだ場合、はたしてどうすればいいのか。倫理研の言葉で言えば、デファクトの標準に「公共性」をどう担保するのかといった論点でした。他方村上さんは、消費者は賢いという前提ゆえに、すべてを可視化することで流動性を上げていけばその問題は乗り越えられるのではないか、と政策的視点から解決策を提示された。こういう流れだったかと思います。

 それに対して僕は、さきほど、「賢い消費者は自明なのか」「消費者の欲望は誰がつくるのか」といった消費社会論な問題提起を行いました。設計者は存在しない、ということではたしていいのか。設計者の責任という因果性を導入しなければ、「そうではなかったかもしれない社会」を構想することができなくなってしまうのではないか。経路依存性を肯定し、消費者の欲望に従うままでは、設計の他なる可能性を想定できなくなるのではないか。鈴木謙介さんからも補足が入ったのですが、ここではもしかしたら、倫理研的な問題意識と設計研的な現実認識がぶつかっているのかもしれません。

 そして最後に、近藤さんからは市場競争について異なる視点が提起されました。まずいシステム設計が普及してしまったとしても、新たにシステムを提案すればそれが普及するチャンスはいくらでもある。潜在的な消費者のニーズに訴求できれば、競争のレイヤーは積みあがっていくのではないのか、という問題提起がなされたと思います。

 このように、設計とはなにかという議論を軸に、市場競争の論理をどう捉えるべきかをめぐって、倫理研設計研が対立する構図になってきたという感じですね。ここまでの話を聞いて、楠さんどうですか。

楠正憲(以下、楠):

 ここまでの議論をお聞きしてきて、設計者とはなにかという抽象論から、いまの政策がどうなっているのかという具体論も含めて、勉強不足だったなと反省しています。ただ立場としては、僕も近藤さんと非常に似ていて、もはや市場の競争に委ねるしかないし、流動性を上げていければ、という期待感もあるんです。そこで正当性が宙に浮いてしまうというのは考えさせられるところなんですが、そもそも革命権、つまりルールの書き換え可能性を担保しないものはいまや社会的に大きくなるのは難しいと思うんですね。八田さんは再定義可能性を許容しないものがデファクトを取ったらどうすると問題提起されましたが、そもそもルールは書き換え可能であると提示しない限り、そのプラットフォームには乗ってこないと思うんですよ。

東:

 はたしてそうでしょうか。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

鈴木謙介

 革命権という言葉が出ましたが、今日の発表ではもうひとつフィードバックという言葉がキーワードになっていたと思うんです。ある種の革命権、つまりルールの書き換えというのは、フィードバックを通じて実現されるわけです。インターネットサービスの多くは、ユーザーとのフィードバックのなかからニーズを吸い上げることでサービスを進化させ、そこにコミュニティの価値が生まれるという仕組みになっている。たとえば前回設計研で、はてなは人文系オープンソースだという議論がありましたが、まさにそういうことを意味しています。

 しかし僕や東さんは、それを革命やルールの再定義可能性と呼んでいいのかどうか、逡巡していると思うんです。なぜなら、それは単に消費者のもともと持っていた欲望をデーベースによってエンハンスして、「お前はこういう存在だった」という宿命論を加速させているだけなのではないかという疑問もあるからですね。つまり、本質的になにか新しいものへと書き換えられるという作業は、そこには起きていないという気がするんです。

東:

 さきほどの近藤さんの例を使えば、信号機かロータリーかという道路設計があったときに、信号機のほうが増えたとしますね。そのとき、「信号機の交差点が増えるのはいいことだったのか」などと過去の選択にこだわっても先に進まない、と近藤さんはおっしゃった。道路がいったん敷かれれば、その道路上でトラック輸送などのサービスを展開していったほうがみなの利益になるからです。

 しかしここで重要なのは、その過程で、いままでの選択がどんどん下層へと蓄積されていき、不可視化されることだと思うんです。それは、鈴木謙介さんの言葉を使えば「宿命だと思う」ということですよね。つまり、それは所与の事実である、と。競争は、その前提のうえで、あくまでも上のレイヤーで機能するにすぎない。

 たとえばいまコンピューターをはじめる人にとっては、Windowsの独占状態は所与の条件ですよね。たいていの人はそれに疑いを持たない。信号や都市計画の場合であれば、プラットフォームができるには何十年もかかるので、それでもまだいいかもしれない。信号という選択でいいのかどうか、慣れていくのに時間がかけられるから。しかし、情報技術の場合は速度も流動性も高い。そこに問題があるんじゃないか。

楠:

楠正憲

 逆に、それは非常に流動的だから問題ないという意見なんです。たとえばコンピューターのアーキテクチャでもっとも長いのは、おそらくIBMメインフレームアーキテクチャでしょう。それが本当に重要だった期間はおそらく20年から30年で、1964年から1990年代の半ばまでは圧倒的な存在でした。いまでも大事なところでは使われています。

 流動的だが、実は宿命に縛られてしまうと鈴木さんはおっしゃるんだけども、どうも違和感があるんですね。市場競争においては、要は「それは違う」「違うありかたを提案したい」と主張する人が出てくる。こうした主張が許容されているのが、そもそも市場のルールですよね。

 しかし、実社会ではそうした異論が疎外されてしまう領域もあります。たとえば極端な例ですが、天皇制はあるべきではないと考えている左派の人たちがいたとしても、しかし彼は天皇制のない日本にいますぐ住むことはできない。ただ、これがOSの選択であれば話は簡単です。BSDが世界を制すべきだと思うならば、僕は明日から自分のパソコンにNetBSDをインストールすればいい。実際、そうやって暮らしているエンジニアもいる訳です。

東:

 うーん。やはりそれは違うと思う。楠さんがそう選択できるのは、NetBSDを知っていたからだし、NetBSDに触れたことがあるからなんですよ。問題は、たとえば、いま10代後半の世代がネットBSDという「他なる可能性」にどこで接触することができるのか、ということだと思うんです。実際にはいまや、OSといえばWindowsで、エディタといえばWord、メーラーといえばOutlookでしょう(笑)。この状態では、その他の選択肢がありうるという想像力は及ばないんじゃないか。

鈴木謙:

 ただ、どうも議論が膠着しそうな気がします。補足なんですが、第1部の最後で東さんが、なにげなく「彼岸」という哲学の言葉を使われたのが重要だと思うんです。たとえば彼岸の価値とよくいいますが、この世から視点を離した、超越的なところからなにごとかを構想するのが重要だと考えられていた時期があった。そこでいま想像不可能性を問うというとき、それはなにも決して「マイクロソフトがOSの世界を握っていてまずいよね」という現実的な話をしたいわけではないんですよ。あくまで彼岸の価値の話をしたいわけですから。しかし、東さんは設計者という主体に帰責させていくことで、他なる可能性も想像可能になるともいう。すると具体的にはマイクロソフトという設計者を糾弾することになって、たとえば「マイクロソフトの支配許さん!」といった話に落ち着いてしまう。

 議論をしたいのは彼岸の価値の話なんだけれども、「具体的にどうすればいいのか」という議論をしようとすると、「マイクロソフトには引き下がってもらうしかないよね」と主張することになってしまう。こうした議論はあまり生産的ではないと思うんですね。

東:

 それはそうですね。

石橋啓一郎(以下、石橋):

 そこで議論の方向性を変えると、東さんが最初に口火を切った「消費者の欲望は、誰生み出しているのか」という問題提起を別の角度からとらえていきたいんですね。

 たしかに、欲望は誰かによってつくられる。こうすれば便利になるはずだといえば、みんな説得されて、もともとはなかったニーズが生まれる。しかし、人々が欲望を抱ける対象には限りがあって、なんでもかんでも欲望できるわけではない。そうしたなかで、みんなが消費者の欲望を喚起しようとしている。つまり、欲望の奪い合いになる。あるいは関心の奪い合いということです。

 つまり、企業が資本獲得をめぐって競争するように、世の人々の欲望や関心についても奪い合いが起きていて、自分の主張を説得させるべく、実現しようとしているアーキテクチャに視線を向けさせるべく、切磋琢磨しているといえるわけです。

 そこで情報社会の正当性はなにかという話に戻せば、勝ち残ったものはそれなりに説得力があるわけですよね。少なくとも、ほかの人たちは説得のゲームに負けたといえるわけですから。

東:

 そうした考え方はありうる。ただ、人間の社会はもともとそんなに欲望に溢れたものではなかったでしょう。

石橋:

 わかります。そこでもうひとつ考えているのは、たとえばロックイン現象*1についてです。僕は最近IT調達改革*2の議論をしているんですが、一度あるベンダーが食い込んでしまうと、低コストで次のシステム提案ができるという傾向が見られます。すると、仮に正しく競争が起こっていたとしても、ひとつの企業が取り続けてしまうことが起きてしまうんです。競争ですべてが解決できるわけではないというのはここにも現れていて、こうした問題は社会にゴロゴロしているわけです。

 また革命権の話でいえば、Winnyは革命だったと言えます。あれはアーキテクチャのレベルで、既存のコンテンツ流通のルールを書き換えようとしたわけです。ただ、その革命は既存の社会システムからは認められないとなれば、情報に関する権利や考え方を既成事実として積み上げていって、それを国がエンフォースメントするというバックをつければ、革命を絶対に起こせない状態、つまり宿命的に革命は起こせない状況をつくることができる。

楠:

 ただ、そういうWinny史観に僕は反対なんです。いや、結局のところ、当局はWinnyの作者を逮捕することしかできなかったわけですよね。あいかわらずWinnyは使われているし、逮捕によって日本でWinnyのようなソフトを作れば逮捕されると日本人プログラマーが萎縮してしまったとしても、ロシアやルクセンブルグプログラマーは新しいなにかをつくるはずなんですよ。

石橋:

石橋啓一郎

 たしかにWinny革命とでもいうべきものが成功なのか失敗なのか、まだ判断できないと思います。ただ、革命が起こることが困難な状況になっているのははたしかです。

 別の例を出せば、たとえばあるブロガーが講演の議事録を正確に取って、発言者の許諾を得ずに勝手にアップすると怒られるわけですよね。怒られるというか、「発言がコントロールできないから、それは困る」と言われてしまう。ただ、そのブロガーの心理はごく素朴だと思うんですよ。自分の書いたメモをアップすれば、講演に来てなかった人は喜ぶと思って、と(笑)。これはこれで自然な考えだという解釈もあって、十分な数の人たちを説得できてしまえば、勝手に議事録をアップするという行為も定着するかもしれない。

 しかし、そうした説得の余地を抹消することもできるわけです。慣習レベルで「それはだめだよ」としつけることもできる。法制度を整備して禁じることもできる。そうすることで、最初の例に出したロックイン現象をつくりだすことができるし、既存側が絶対に勝つ構図を維持できてしまうのではないか。

楠:

 Winnyに非があるとすれば、いわゆる商業コンテンツではなくて、クリエイティブコモンズのライセンスをつけたコンテンツがどんどん流通していればよかったと思うんです。そうすれば、社会的に否定されることにはなっていないはずです。Winnyが問題になったのは、既存のルールで流通しているコンテンツをいわば横流し的にクリッピングしてしまったからですよね。エコシステムとして自立しておらず、コンテンツを商業パブリッシャーに依存しながら、商業パブリッシャーのビジネスモデルを壊す、いわば自分の足を撃っているんです。

 制度間競争を担保するという観点から見ると、コピーフリーからよりよいクリエイションが生まれると思うのであれば、CCコンテンツだけが流通するようなWinnyをつくって、そこで実現してみるべきなんですよ。

石橋:

 いや、そういうのは革命とは呼ばないと思うんです。革命とは暴力的にいまあるものを打ち倒すことですから(笑)。

楠:

 そういう意味で情報社会というのは、昔であればコンフリクトが起こるようなことが、同時にいくつものルールが共存できる時代なのでは。

東:

 どうだろう。そんな共存は実際には起きてないんじゃないですか。実際のところ、僕はGoogle以外の検索エンジンなんて使っていない(笑)。競争相手にはなっていないと思うんですよ。Googleとほかの検索エンジンを比べて、「俺はこっちが向いているな」という棲み分けはない。

楠:

 それは2005年のある時点でのマインドシェアであって、時系列をもっと延ばしてみれば長持ちしていないと思いますよ。たとえば6年前だったら、AltaVistaだと言っていたわけでしょ(笑)。

石橋:

 そう、たしかに言っていましたね(笑)。でも楠さんが制度間で共存できるというのは、こういうことですよね。たとえばフランス革命を起こす代わりに、「現制度に不満なフランス人たちは王権の及ばない森のなかにでも入って、勝手にコミュニティつくればいいじゃん」と(笑)。しかしそれは革命としては意味がない。Winnyについても同じことがいえると思うんです。

村上敬亮(以下、村上):

村上敬亮

 いまの議論は正当性という言葉がごっちゃになっていて、権力の正統性という本来の議論と、マイクロソフトの独占状態に文句を言えないとだめだよね、というソフトな意味での正当性を分けたほうがよいと思います。

 むしろここで議論したら面白いと思うケースがあります。それはサービスレベルやリスクが可視化されていないせいで、とくに否定する理由が見つからずに、そいつがそこに存在していることを周りが認めているにすぎない、といった状態ですね。そのことについて、いわば経緯的に正当性があると表現している場合があると思うんです。これは革命というか、世の中をひっくり返そうというときの権力の正統性とは違う議論ですよね。ですから、そこは分けたほうがいい。ソフトな正当性というのは、サービスの違いやリスクをより可視化できるようになれば、マーケットメカニズムによる資源再配分はもっと最適化されるのではないかといったものでしょう。いままではみんなマスで満足してきたわけですよね。生産する側と消費する側の構図はシンプルに分離していました。しかし、いまは多様なプレイヤーがさまざまな動機で動くようになってしまったので、ゆるいほうの意味での正当性が問い直されているということではないでしょうか。

鈴木謙:

 その可視化によってはたしてうまくいくのかは疑問です。可視化をすれば市場の原理も含めて選択可能になり、正当性が把握され、再配分システムが有効に働くようになるというわけですが、それは逆だと思うんですよ。ある大枠のなかで流動性が高まり、その流動性のなかで選択をすれば、むしろこうなるでしょう。すなわち、大枠については共有し、そのなかでの選択や欲望はバラバラでいいんだけれども、その結果、大枠の正統性倫理性を判断するための基盤が失われてしまうのではないか。

 ハンディキャップド・ピープルの例を出しましょう。いままでの福祉国家体制・再配分体制は、ハンディキャップをもった人たちに対して一方的なあてがいをしてきました。これはこれである種の生き方しか許容しなかったわけです。ところがいま、すべてが自己責任の社会になっている。『セックスボランティア』(新潮社、2004年 asin:4104690015)という本のなかで僕が一番印象的だった話があって、インターネットの掲示板で「私はハンディキャップをもっています」ということをカミングアウトしつつ、セックスボランティアの相手を募集することが可能になる、ということなんですね。

 そのこと自体の倫理的な良し悪しはさしあたって問題ではないんです。重要なのは、こうした選択が可能になった社会になれば、その社会の良し悪しを判定する足場はもはやどこにも存在しなくなることです。なぜなら従来型の再配分的で一元的なあてがいは不可能になりますから、掲示板に書き込むのも、福祉国家的な制度に頼るのも、すべて自己責任でよろしく、というところに持ち込まれてしまう。ここではなんらかの正統性は呼び出されないわけです。




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