ised議事録

04-099. 設計研第3回: 共同討議 第2部(2)

D3:共同討議 第2部
(開催:2005年4月9日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年6月11日)

繋がりの社会性」の全面化――消費社会の末期的段階としての情報社会

東浩紀(以下、東):

 つまり可視化された社会においては、すべてが自己責任になる、暗黙の倫理的基盤がなくなる。ここまではいいと思うんです。ただ、僕は今日はもう少し違ったことにこだわっていて、その前段階、あるいは下層というか、「そもそもひとびとの欲望はつくり出されるものではないか」という問いが気にかかる。

 たとえば、いまmixiがすごく流行している。「繋がりの社会性」が全面化し、みんなSNSをやりたいと思っている。ユーザーも増えている。ちょっと前までは顔写真をネットに出すなんてとんでもないことだったのに、SNSではけっこう公開している。しかし、僕らは本当にこんなことをやりたいのか。たった2年前でも状況は違った。その欲望がどこから来たのかを問いたいんですね。

楠正憲(以下、楠):

 ただそれは、東さんの周りのサンプルが偏っているということもあるんじゃないですか。みんながSNSをやりたいと思っているわけではないでしょう。もしアンケートをとれば、意外と個人情報を入れるのは怖いと思っているのかもしれない。

東:

 SNSはあくまで例であって、別にその話じゃなくてもいいんです。僕が言いたかったのは、むしろ繋がりの社会性がなぜ急速に上昇してきたのかということです。

 欲望そのものが変わるというのは不思議なもので、それに応じて過去の記憶も書き換えられるから話にくいんだけど、僕なりの記憶で言えば、つい3,4年前まで、インターネットで人と人が繋がるという話は強くなかったと思うんです。それ以前は、むしろ図書館やデータベースみたいなイメージだったのではないか。しかし、ある時を境にして、インターネットが繋がりの場としてイメージされるようになった。欲望がいちどそのようにロックインされてしまうと、「インターネットはもともと人と人を繋げるメディアなんだ、だからmixiが出てくるのは当然だ」という歴史観になってしまう。しかし、はたして本当にそうか。違うインターネットの姿もあったんじゃないか。

 僕がこういう問題意識をもっているのは、さきほども触れましたが、消費社会論を学んだからです。20年、30年とさかのぼれば、人々の欲望はずいぶん異なる。1980年代であれば、人々は「あいつは50000円のジャケットを着ているから、俺は55000円のもの着る」といった差異化ゲームをやっていた(笑)。さらに10年さかのぼれば、全共闘で石を投げていた。だから、いまから10年経てば、なぜあのころmixiとかやっていたんだろう、と思う可能性もある。

近藤淳也

近藤淳也

 いまの議論は、多くの人は選択できないがゆえに、正当性を吟味できないという問題ですよね。ただ、ユーザーにとって幸せなことはなにかという議論をすると、1回覚えたものをずっと使えることの良さもあると思うんです。たとえばGoogleという検索エンジンを1年間苦労してやっと覚えたのに、翌年にはなくなってしまったらそれは不幸なことですよね。ずっと使い続けることができる権利はそのサービスの良し悪し自体とは別に存在していて、だからこそ続いているサービスもある。そのことで幸せを得ているユーザーもいる。こうしたことは無視できないと思うんです。

東:

 もちろん無視する必要はない。全共闘世代は、いまでも当時が幸せだと思っているでしょうし、実際に飲み屋や新宿ゴールデン街なんかで盛り上がっている(笑)。それはそれで問題ないんです。

 僕がここで言いたいのは、人間の欲望は変わっていくし、変えることができるということです。そのなかで、あるときある欲望がロックインされると、その欲望に応えるための競争が始まって、勝ち負けが決まる。それが市場原理です。しかし、だとすれば、情報を可視化すれば最適な財が市場から生まれるという話にはならない。最初に欲望のロックインがあるのだから。

 たとえば、牛肉のトレーサビリティがあります。僕は個人的には推進してまったく問題ないと思うけど、そもそも、10年前には僕たちはスーパーで買うものが危険だなんてあまり思わなかったはずです。それが、いったん危険だとなると、ユビキタスIDをつけて管理しないといけない気分になる。そしてそこに巨大な市場が発生する。その市場は、もともと必要とされていたというよりも、ここ数年間に煽られてきた社会的雰囲気によって生み出されたものです。

 情報技術は、欲望と市場をセットにすることで次々と新しい市場を生み出していく。そして最初に市場をつくった企業が一人勝ちする。こうした流れがたくさん繰り返されている気がするんです。

楠:

 それは基本的に産業社会もそうであって、情報化によってなにか変わったわけではない気がします。

東:

 いや、情報化こそが変えていると思うんですよ。

鈴木謙介

鈴木謙介

 議論を整理したほうがいいと思うんですが、そもそも欲望や動機の話というのは、どこまでが欲望で欲求なのかはわかりにくい。そこでやはり線を引かないといけないと思うのは、「繋がっていたかったのか」と問うとき、「人間はみんな繋がりたいものだ、社会的な生物だから」というレベルにまで落とせばそうですよね。ですから、まずはどこのレベルの話かを切ったほうがいい。

 それを踏まえて東さんの話を引き取ると、産業社会と変わっていないとはいえないと思います。たとえば牛肉のトレーサビリティにしてもそうですし、僕がさきほど指摘した、もとからあった欲望の先有傾向がエンハンスされる話もそうなんですが、現代社会は欲望を与えるのではなくて、欲望することそのものを要求する社会なのではないか。つまり、欲望というのは、どこからか与えられるものではなくて、もとあった先有傾向をシステムとの相互作用でエンハンスさせて、「私はこれを欲望したかったのだ、よって自己責任で選ぶのだ」という自己選択するものになっている。

 かつては市場原理が欲望を与えていたというシンプルな話だったわけですよね。消費者は操作されているんだ、騙されているんだというわけです。しかし、いまは操作する側もシンプルには存在しない。だから人々の欲望が捏造されているように見えないし、欲望されたものには正当性があるように見えてしまう。ただ東さんはそれは違うとおっしゃっていて、僕の考えでは、それはある時点から欲望することを欲望させられる社会に変わってしまったからなんだと思うんです。

 ですから、かつての産業社会の段階と同じだからと議論を広げてしまうと、逆に混乱するのではないかと。

楠:

 しかし聞いていると、典型的な消費社会論みたいなところに戻ってしまった気がします。そんなに窮屈な図式ではなく、ネットによってもっと個々人の嗜好はばらけてくるのではないですか。たとえば、僕は個人的に牛の脳味噌とか脊髄を生で食べるのが大好きなんですが(笑)。

一同:

 へぇー……。

東:

 ちょっとみんな引いたね(笑)。

八田:

 体感温度が下がりましたね(笑)。

楠:

楠正憲

 (笑)。いやね、つまりなにが言いたいかというと、僕はあれを食べるよりも、道端を歩いているほうがよっぽど危険だと思うんですよ。何人しか患者のいないBSEがうんぬんよりも、交通事故の方がよほど怖いし、統計的にも明らかなリスクです。もちろん、BSE感染をどこで押しとどめるかという、リスクとは別の防疫という観点は必要なのですが。

 問題は、そういう言葉がマスメディアからは出てこないわけです。マスメディアはなにか社会問題を煽って、新しい関心へと常に持続させていくことによって、新聞も雑誌も売れるという話だったわけですよ。でもそれは典型的な広告論に結びついていく話であって、基本的に情報社会においては人々の関心はばらけていくと思います。

東:

東浩紀

 話を戻しますが、問題は責任者や設計者です。その例として消費社会論が出てきたにすぎない。

 広告は消費者を騙す。極論をいえば、すべての広告は洗脳です。というより、すべての発言や情報は一種の洗脳ですが、ただ、これまでの社会には執筆者やコピーライターのような主体がいた。洗脳する主体は少なくとも存在していた。

 さきほど井庭さんが言及された石井淳蔵氏に、『ブランド』(岩波新書、1999年 asin:4004306345)という著書がありますね。彼はそこで、岩井克人の『貨幣論』(ちくま学芸文庫、1998年 asin:4480084118)の枠組みでブランド生成のメカニズムを説明しています。いいモノだから買うのではなく、買うからいいモノである、といった循環のなかでブランドの力は自己強化的されるというわけです。しかし、その初期設定というか、一番最初にその循環がまわりだす起源がなんであるのか、正直なところわからない。そこは石井氏も避けています。伝統のパワーかなにかだろう、というところに落ち着いてしまうんです。

 僕は情報化によって、この初期設定の不透明性が増していると思うんです。情報社会においては、どこかにシーズがあればニーズもついてきて、富が集中していく。それは消費社会のときからあったけれども、情報技術によって強化されているのも間違いないでしょう。これは倫理研第1回のサイバーカスケードの話にも繋がるかもしれません。いずれにせよ、ここで問題にしているのは、そうなっているんだから仕方ない、でいいのかということなんですよ。

井庭崇

井庭崇

 そこで思うのは、「当たり前」化というか、ある種の自明性の底上げが日々行われていると思うんです。たとえばソフトウェアをつくるとき、昔はマシン語だったのがアセンブラになって、高級言語になり、いまはモデルを書けば自動的にソフトができるようになっている。するとその下のレイヤーがすべて隠蔽され、底上げされてしまうんです。僕らのプロジェクトでは、社会シミュレーションのモデル図を書けば、Javaなどのプログラミング言語が書けなくてもシミュレーションできる、というツールをつくっています*1が、そもそもそれでいいのかという議論はあるんです。みんな本当はJavaなどの下のレイヤーを書けたほうがいいのかもしれないのに、本当に隠蔽することはいいことなのか、と。

 ただ、底上げすることで普及することもありますよね。東さんが危惧されているのは、底上げによって「当たり前」のものになってしまうと、その下のレイヤーについて誰も疑わなくなるのはいいのか、ということだと思うんです。となると一段掘り下げて、一度上がってしまったものとは異なるものを選択できるかが重要だと思うんです。これはプログラミングではなくて社会制度の場合なら、それは思想力が問われているということですね。いま存在しているものを疑って、一段下のレイヤーに下がって考え直すことができるかどうか、と。

東:

 いや、僕の問題提起は少し違うんです。鈴木謙介さんは、それを宿命論や自己責任というように主体から見た現象として捉えていますが、僕の考えはこういうことです。たとえば、最近『電車男』がヒットしました。しかし、これがいい小説だと思っている人は誰もいない(笑)。これは構造的にそうなっている。つまり、いまでは、「ヒットしているものがいい」という信頼の構図が崩れてしまっている。いままでは、いいものが売れ、人が欲望するものが売れてきた。しかし、いまや、売れているものが売れるし、それをだれもが知っているという末期的な状況になってしまった。

 この原因は、消費社会の論理が「繋がりの社会性」へと変化してしまったことにあります。鈴木さんが好む「ネタ」*2という言葉がそうですが、もはや内容はどうでもいい。誰かがそれについて言及しているから、自分も言及する。言及する、言及する、と繋がっていくプロセスだけがある。

 そして今度は資本がそこについていく。たとえば、2ちゃんねるは繋がりのゲームでもいい。しかし、いまや繋がりの社会性はお金に変換され始めている。Google AdSenseAmazonアフィリエイトがそうです。基本的にみんなネットワークで繋がっているだけですが、一度ネタというシードがそこに投入されると、売れる商品に対して集中的にリンクが張られる。そのほうが仲介料も入る。そしてその商品はますますリンクされ、アフィリエイトのユーザーもGoogleAmazonも儲かる。こういう状態は消費社会のシステムとして末期的なんじゃないか。この問題意識が、「消費者ははたして賢いのかと」いう問いとつながっているわけです。




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