ised議事録

04-0910. 設計研第3回: 共同討議 第2部(3)

D3:共同討議 第2部
(開催:2005年4月9日 国際大学GLOCOM / 議事録公開:2005年6月11日)

情報社会における「無限のメタ化」の耐えがたさ

八田真行(以下、八田):

 一点だけ東さんに伺いたいんですが、たとえばそれはドストエフスキーの小説は電車男よりも上だという価値観があるということですか。もしくは、あったほうがいいということなんですか。

東浩紀(以下、東):

東浩紀

 いや、そういう価値観の話はしていません。あったほうがいいとも思いません。

 どうもうまく伝わらないようですが、僕が言いたいのは、欲望のシステムの話です。こうした末期的な事態を「再帰的な構造」といえば聞こえはいいんですが、それだけではないだろうと。

 繰り返しになりますが、「いいものだから人は欲望する」という次の段階に、「他人が欲望しているから自分も欲望する」という段階がある。ここまではいい。しかし、人間はそんなにメタ構造には耐えられない。「他人を欲望する、他人を欲望する他人を欲望する、その他人を欲望する他人を……」という無限のメタ化が始まれば、そこにはもうシニカルさは存在せず、隣がなにか書いているから、とりあえず自分もリンク張っておくか、という動物的な反応にならざるをえない。

鈴木謙介(以下、鈴木謙):

 具体的には、最近mixiで流行っている、なにかの占いをひとりリンクすると、何十人も連鎖していく現象に近いんですか。またはソーシャル・ブックマークもそうかもしれない。

東:

 そうですね。そして問題は、これでは全員にとってコントロールが効かないということです。消費者ひとりひとりが『電車男』をどう思っていようが、関係ない。賢いもなにもないんです

 第一段階はこうですね。「ドストエフスキーはいい、電車男はダメだ、だから俺は電車男を買わない」。第二段階は、「でもベストセラーになっているみたいだから買う。つまらないけれど、あえて買う」という段階です。しかし第三段階は、「電車男はヒットしているらしい。じゃあアフリエイトで紹介しておくか」となる。つまり、ベストセラーにみんなアフィリエイトのリンクをはるようになる。こうなると『電車男』の良し悪しは関係ない。とりあえず繋がっておけば小さいお金が入ってくるよね、ということになる。こういうコミュニケーションのなかで、ウェブじゅうに電車男という単語が蔓延してしまっている。

鈴木謙:

 いまのお話は、ケインズの美人投票*1とは違うんですか。

東:

 違います。ケインズの美人投票は第二段階でしょう。

近藤淳也

近藤淳也

 東さんのお話を聞いていて、つまり、質的にいいものがきちんと標準になっているのか、ということだと思ったんですね。標準として選ばれるとはどういうことか、ずっと考えていたんです。

 たとえばブログではトラックバックがずいぶん標準的な機能になってきましたが、はてなダイアリーの機能では、はてなidを文中に載せれば勝手にリンクするという仕組みを独自のトラックバックとして提供していまして、いわゆるふつうのトラックバック機能は実装していなかったんですね。これは、どちらが優れているという問題ではないんです。いまや圧倒的にトラックバックが世界標準になっていて、はてなのリンクシステムは内部用ですから、「はてな村は独特な繋がりをしている」みたいなことを言われてしまう(笑)。

 この差はなんだろうとずっと考えていて、東さんがおっしゃったことと関係があるのかもしれないと思ったんですね。つまり、標準が正統なものになるというのは、誰に対してその技術を提供しているのかという感覚を設計者が持っているのかどうか、あるいはコミュニケーション能力に依拠しているんですね。つまり世界標準的な技術にきちんとしたものが採用されていくためには、設計者のコミュニケーション能力を均質にする、といった議論が重用だと思うんです。たとえばトラックバックにしても、全世界対応のドキュメントを用意したり、働きかけをするといったことが大きな要素だと思うんですね。平たくいえば、世界に向けて情報発信できる人を養成しましょう、そのために英語勉強しましょう(笑)、といった話が社会的にもありますし。

村上敬亮

村上敬亮

 東さんがおっしゃるように価値観が非常に錯綜している状況のなかで、いかに資源配分を最適化するかという話に絞ってみると、こういうことだと思うんです。従来はテレビならテレビ、放送なら放送と仕切られた枠のなかで、そこでは認められたひとつの価値観と、階層構造化したひとつのピラミッド型の秩序によって、おそらく資源の最適配分ができた。ところが、テレビがネットメディアと連動し、ネットメディアのなかでいろいろな価値観の人が動き出してくると、そうした従来型の巨大組織型の分配はうまくいかなくなります。

 前回、僕はプロジェクト・マネジメントとプログラム・マネジメントという話をしました*2。従来の企業のコーポレートガバナンスは、各プロジェクトを全部知っているという思いこみをもった人間が上に立って、ビッグ・プロジェクト・マネジメントという構図をつくってきました。しかし、いまそれが通用しなくなっている。そこでどうするかというと、プログラム・マネジメントに替わるわけです。つまりミッションの設定とリソースの配分に関しては権限を持つけれども、現場がどこにどう広げて使うのかはコントロールしません、というマネジメントに移り変わりつつある。それはなぜかというと、いままで権力構造は縦方向、つまり上から下に拡大されるとイメージされていたんですが、いまや下で動いている連中は横に広がりを持ちはじめている。たとえばオープンソースの例でもいいんですが、その人独自の外の世界との繋がりを持つようになっているんです。つまり縦に広がる三角形が、突如として横に増殖しはじているわけです。

 その結節点になっている個々のプログラム・マネジメントをしている連中に、ある種の信頼を与えてやらないと、プログラム・マネジメント型の資源配分は達成できません。そのためにはある種の希薄化した正当性を、みんなに認めるという前提で動かないといけない。ただ、横に広がりはじめたものまで全部コントロールすることが設計だと思いはじめた瞬間、設計という概念は崩壊してしまうんですね。

 つまりこういうことです。東さんもおっしゃるとおり、志向性としての設計概念を破棄するのは間違いでしょう。そこで個別のプロジェクトに対して絶大な信頼を与えて、それに対するプロセスの設計を行うんだけれども、それ自身をコントロールするわけではない。そういうマネジメントのやりかたに移行する必要があるわけです。

 しかし、そのためには信頼が必要なんですね。個々のプロジェクト・リーダーや、横に広がった先の相手に対して信頼がないがゆえに、「僕はそこに乗っかれないんです、僕はその世界に行っていいんでしょうか」と悩んでいる人たちがたくさんいます。この情報社会への移り目において信頼や倫理が意識されるというのは、「こいつを信頼して権限委譲していいのかどうか」という意味での正当性についてだと思うんです。

 どうもいい概念がないので正当性という言葉を使うんですが、整理すれば、いままでは縦割りの世界のなかで認められた正当性があり、定義された言葉があり、それぞれの秩序のなかで暮らし、別の村の出来事は別の村のこととする。これで生活時間の80%は困らなかったわけですよね。しかし縦割りの世界を勝手に横に広げる輩がたくさん出てきて、しかもその上に乗っからないとビジネスも生活も回らないという事態が出てきたとき、縦の正当性ではなく、横に繋がっていくことに対する正当性が必要となる。これをどう理解したらいいのか、ということなんです。

東:

 その「横の正当性」が市場原理ですね。しかし、僕がさきほどから言っているのは、市場そのものが不安定なんじゃないか、ということです。そして市場の最適化と欲望を生み出すメカニズムは別物ではないか、ということです。

 いずれにせよ、もし消費ひとりひとりがしっかりとした意志をもって商品を選ぶのであれば、情報の可視化によって事態は改善されると思います。実際、選択者にとって重要な選択、たとえばインフォームド・コンセントのようなケースではそうだと思う。しかし日常生活でそんな選択が機能するか。僕はちょっと信じられないですね。

鈴木謙:

 消費自体が嗜癖になってしまっていて、選択しているわけではない、という状態でしょうか。

東:

 そういうことですが、もっと数理的にも言える話だと思います。

 さて、ひととおり議論もまわったのですが、最後に発言をずっとされていなかった鈴木健さん、なにかお願いします(笑)。

鈴木健

鈴木健

 今日は話さなくていいのかなと思っていましたので、安心していたんですが(笑)。今日の議論は情報社会論から現代社会論へ接近するというアプローチで、見事に東さんの設計通りに運んでいる。設計ってやっぱりあるんだなと今日は認識しました(笑)。 今日はかなり空中戦になっていましたが、非常に面白い議論にもなっていて、「無限のメタ化」は可能かという論点が重要だったと思います。東さんは自分で問いかけて自分で答えを出されていましたが、たしかに人間は「無限のメタ化*3に耐えられない。というか、無限のメタ化が理論的に可能であるということと、有限時間にそれが起こるかは、まったく別の問題なんですね。実際には無限のメタ化は不可能です。ただ、いまはすごくルールのメタ化の速いために、あたかもそういうふうに見えている。

 しかし、よくよく考えると、情報社会は文明の一局面として何十年か何百年か経てばシステムは安定化していくわけです。安定化した暁には設計が存在しているように見えてしまう。たとえルールがアドホックであったとしても、あとから振り返ればそう見えてしまう。40億年の生物の歴史のなかで幾度となくこうしたことをやってきたわけで、その一局面として我々は存在しているにすぎない。人間が言語を獲得してから3万年から5万年くらいだと思いますが、いま同じようなことをやっていて、不安定化と安定化のプロセスのなかの一局面として我々はいま生きている。無限のメタ化が可能性としてはあったとしても、現実としては起こらないということ自体を我々は理解する必要があります。さらに、ブートストラップ的に着地点が存在しないなかで我々は存在しているということも、生物学・社会学・その他の議論から明らかになりつつある。そうしたなかで、価値の問題と現実の問題において我々はいったいどういう生き方をすべきなのかが問われているわけです。

 僕はそれ自体に答える気はないんですね。僕の想定としては、いまはごちゃごちゃしているように見えるし設計は不可能だと議論されるけれども、直にできるようになるのであれば、僕はその設計案を考えようじゃないか、と(笑)。それは何十年後か百年後かはわからないけれど、僕はその案を考えたい。実際300年くらい前に近代のシステムができたときも同じで、各文明の諸局面でも行われてきたわけで、僕のやりたいことは、それと同じことをやろうというだけなんですね。

東:

 僕の「メタ化」への注目は、消費社会における「繋がりの社会性」の議論に限らず、設計の議論にも関係してくると思います。それを「モジュール化*4と呼んでも、あるいは「パッケージ化」でも「プラットフォーム化」*5でもいいんですが、メタ化の作用は、基本的にはあるレベルをブラックボックス化することにあります。ここから下のレイヤーは隠して、あとは上のレイヤーだけでやりましょう、というわけです。情報技術はこうした作業をとても容易にする。しかし、その過程があまりに早すぎるために、人々はついていけないのではないか。それが基本的にいまの社会に存在するリスク感覚や不安の原因だと思うんです。

鈴木健

 非常に大事な話だと思います。つまり、価値というのはいままで「位置」の制御の話だった。しかし、最近は「速度」の話になったわけです。つまり、どうやってスピードをコントロールするかという話になっている。そしてスピードのコントロールに人間がついていけないために、どこにも着地していないわけですよね。ここが正しいとわかっていればそこに向かえばいい。しかし、どこが正しいのかもわからないのに森のなかを歩いている状態となると、速度くらいしかコントロールするパラメーターがないわけです。これをどう制御するかは安心・安全の話も関係してきますし、すごく重要だと思います。

東:

 といったところで、そろそろ時間です。今日は司会の枠組みを逸脱し、後半ではほとんど僕への質疑応答になってしまいました。次回の井庭さんの講演のときには、そのようなことはないのでご安心ください。

 ほとんど時間もないのですが、質疑応答をおひとりだけお願いしたいと思います。



*1:註:経済学者ケインズが株式投資について語ったメタファー。ある美人コンテストにおいて、美人に選ばれる人を事前に当てると賞品がもらえるというルールだとすれば、投票者は「自分自身が美人と思う人ではなく、周囲が美人と思う人に投票すべし」と考えるだろう、というもの。

*2:註:設計研第2回: 共同討議 第2部(1)

*3:註:isedキーワード無限のメタ化」参照のこと。

*4:註:isedキーワードモジュール化」参照のこと。

*5:註:isedキーワードプラットフォーム」参照のこと。

トラックバック - http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/06100409