ised議事録

05-145. 倫理研第4回: 共同討議 第1部(2)

道徳的全体主義――北田暁大からの応答

北田暁大(以下、北田):

 コメントというよりは、ほとんど質問事項に近いのですが、大きく分けて4点ほど述べさせてもらいたいと思います。

 まずひとつは、2ちゃんねるモデルブログモデルというふたつのモデルの差異についてです。ヒエラルキー的な構造か否かという大枠は理解できるのですが、より細かい部分についてお聞きしたい。いわゆる2ちゃんねるモデルにおける「まとめサイト」と、わりと自己発生的に生じてくるブログの「まとめブログ」のあいだには、それほど大きな機能的な差があるのか、いまいちピンとこないんですね。この点についてご説明いただければと思います。

図:2ちゃんねるモデルブログモデル
図:2ちゃんねるモデル、ブログモデル

加野瀬未友(以下、加野瀬):

 実際の事例では、このふたつのモデルのようにはきれいに分けられませんし、もちろんブログのまとめサイト的な記事も、いままでと同様に機能することもあります。ブログでまとめサイトが発生しないわけではありません。しかし、それはあくまで従来の形式が混じっているだけであって、ブログモデルでは本来まとめサイトがなくても情報流通は可能なはずです。一方2ちゃんねるモデルの場合、大規模な祭りが起きやすくなるためにはまとめサイト的なものが必要とされてきましたし、今後もそうであろうと考えています。

北田:

北田暁大
 分かりました。さらに、同じくこのふたつのモデルの違いについてお聞きしたいと思います。ここでは「規範意識」という点から問題提起がなされています。2ちゃんねるモデルでは、外部に迷惑をかけないようにある程度の規範的意識が維持されていたんだけれども、ブログモデルではそのような規範意識が希薄化していて、祭りが加速しやすい傾向があるのではないか、と説明されていますね。ここでいう「規範」とは一体どういうものなのでしょうか。

 たとえばこの2ちゃんねるモデルの規範とは、はたして規範と呼びうるものでしょうか。2ちゃんねるの外部にはちょっかいを出さないにしても、一方で2ちゃんねる内ではジャーゴンアスキーアート(AA)を使った「荒らし」が跋扈しているわけですよね。そうした香ばしい人たちが、なぜ外部にちょっかいを出さないのかといえば、それはウォッチ対象のサイトを荒らしてしまうと自分たちの観察対象そのものが変化してしまい、ときには閉鎖されてしまうということを避けたいだけなのではないか。つまり、観察者と対象の距離をおき、あくまで観察者として楽しみましょう、という意識ですね。それは規範というよりは、むしろ楽しむための知恵とよぶべきものだと思うんです。

 それに対して加野瀬さんのブログモデルでは、観察者が対象を直接変えてしまうことに積極的です。つまり2ちゃんねるモデルブログモデルの違いは、規範意識ではなく観察者と対象の関係についての発想の差異として捉えるべきではないかと思います。


加野瀬

 たしかに北田さんがおっしゃるように、2ちゃんねるの場合、規範というよりも観察者の心構えというか、対象に影響を与えないための知恵と呼ぶべきだと思います。2ちゃんねるの「ネットウォッチ板」では、「突撃禁止」というまさに分かりやすいルールが存在しますし(笑)、「なんかブロガーが突撃しているよ、困るなぁ」といった書き込みも多く見受けられます。つまり、対象に対して直接影響を与えることを不快に感じる傾向がある。

 一方、ブロガーやブログのコメントに書き込むような人は、相手のサイトに影響を与えることに対してさほど抵抗がない、という印象を受けます。やはりそれは2ちゃんねるを経由していないからではないか、と考えられるわけです。これは想像ですが、2ちゃんねるを「見てはいたが書き込んではいなかった」というROMユーザーたちが、ブログになって楽しく遊んでいるのではないかと思います。

北田:

 それでは2点目に移ります。私の前回の議論も参照されていた「ネット作法」についてです。ネット作法に慣れていない新規参入者の存在が、ことを複雑にしている部分が大きいのではないか、炎上というのはそうした「不慣れ」がもたらしたものなのではないか、というご指摘をされています。しかし、そう考えると、書き込み人たちやブロガーが将来的に成熟していけば、そういった問題は消える、ということになりそうですが、はたしてそうでしょうか?

 私はというと、この問題は単にスキルの成熟では解決できない、より構造的なものだと考えています。というのも、必ずしもネットに不慣れな人たちのところが炎上するというわけでもないし、逆に非常に手練れの人でも簡単に炎上することもよくあると思うんです。つまり書き込む人たちの成熟さ、未熟さといったものは客観的に判断できるものではなく、むしろその都度オケーショナルに構成される性格を持つのではないか。つまり、いったん「こいつは未熟だ」「こいつは傲慢だ」という定義がなされてしまうと、作法に関するメタコミュニケーションが頻発してしまう。こうした状況定義をめぐる闘争こそが問題なのではないかと私は考えています。

 そこで加野瀬さんは、成熟するだけで炎上はなくなるとお考えなのですか。


加野瀬

 うーん、僕は基本的にそう思っているんですね。やはり初心者がことを複雑にしている面があると思っています。初心者同士でむやみに挑発し合っている例が多く見受けられるんですが、そうした挑発的なことをせずに、誠実な対応をしておけば落ち着くのにと感じる事例が多い*1

東浩紀(以下、東):

 加野瀬さんがいまおっしゃっていたのは、炎上される側、つまり炎上しているサイトの管理人が成熟すれば、問題は小規模に留められるという話ですよね。しかし、それは炎上そのものがなくなるという話とは違うと思うんです。

 北田さんの質問はこうです。2ちゃんねるとブログというふたつの構造があったとき、ブログという構造のほうがユーザーは突撃しやすい。そこで今後ユーザーのネットリテラシーが上がってくれば、そのような突撃はなくなるのか、それともブログみたいなものが普及してしまった以上、これからもユーザーたちは突撃し続けるのか、ということですよね。

加野瀬

 なるほど、たしかに突撃自体はなくならずに存在し続けると思います。僕は対策側のリテラシーの話だけでしたが、そうした視角からいえば、突撃はこれからも増えるだろうと思います。

北田:

 3点目に、公と私の区別についてお伺いします。加野瀬さんが最後に議論されていたのは、いわゆるアクセス・コントロールによって公的な領域と私的な領域を分けていく、あるいは私的な領域を確保していくという方向性をとらざるを得ない、そしてそうした方向性での模索も始まっているということでした。しかし、これはコミュニケーションに参加している当事者にとっての公/私の区別、あるいは私的空間の確保という話だと思うんですね。

 たとえば前回、mixiなどで発表されている文章をウェブに転載してもよいのかという問題が議論されました*2。また、SNSで爆破予告がなされた場合には、それがパブリックな発言なのか、それともあくまでプライベートなものなのかという問題もあります。mixiのようにアクセス制限がかけられた場所といえども、はたしてそれは通信なのか第三者を巻き込んだコミュニケーション空間なのか、「第三者的」には識別不可能になっているわけです。

 これはつまり、参加者が観察するところの公/私の区別と、法的あるいは「第三者的」な意味での公/私の区別に、どうしてもズレが生じてしまうということです。この点、前回も議論になりましたが、加野瀬さんのご見解をもう少し詳しくお聞きしたいと思います。

加野瀬

 うーん、たとえば警察がどうやって公と私の区別をつけるのかという問題は、たしかに考えなければなりませんね。高木さんがおっしゃっていましたが、いまの不正アクセス禁止法では、なんらかの対策がなされていれば制限されている場所であると規定されています。ですから、「なんらかの管理がされている」とサービス側は主張しておいたほうがいいんじゃないかなという気がしますね。たとえばもしmixiで犯罪予告があったとき、ケースバイケースだとは思いますが、その対処についてやはりサービス側は考えていくしかないだろうと思います。

東:

 北田さんの質問は、公と私の差異を決定するコンテクストというか、それを決定する審級はどこにあるのかという質問だと思います。加野瀬さんは、サービスプロバイダーが決定すると考えるわけですね。

加野瀬

 そうですね。爆破予告をしたユーザーが公か私かを主張したとしても、それはネタかベタかという問題になってしまいます。自分がネタで言ったつもりだとしても、ベタとして捉えられる可能性があるからですね。発言した本人の文脈は、ネットではなかなか重視されないという気がします。

 そこで僕は冗談で、以前「ネタバナー」*3を作ろうと思ったんですね(笑)。「これはネタです」とわざと強調するために付けるためのものです。そのような文脈を強制的に明示するものがないかぎり、アクセス・コントロールをかけている側の問題にならざるをえないと思います。

北田:

 それでは最後のコメントになります。ブログモデルのコミュニケーション空間では、些細なことで祭りになる状況が加速していくのではないか、と問題提起されていますが、これはなにもネット固有の問題ではなくて、よりマクロな社会的な動きと連動している可能性もあるのではないかと思うんです。

 たしかにブログで騒ぎになりやすいのは、いわば「あびる優*4的なものというか(笑)、たとえば未成年の飲酒やタバコといった、つまらないといえばつまらないことなんですね。日常的にいえば些事に入る部類の問題が展開することが多い。こんなことをいうと怒られてしまうかもしれませんが・・・。そうした「道徳化」の傾向は、ネット言論の世界に限らず、世の中全体に広まっているのではないか。喫煙が些事とはいいませんが、たとえば「禁煙ファシズム」なんていう言い方もありますね*5。過剰に道徳的な潔癖症というか、道徳的全体主義というか、そういった方向に向かっているという指摘もある。その点についてはどのようにお考えでしょうか。

加野瀬

 そうですね、あびる優問題はたしかに分かりやすい例だと思います。過剰に道徳的であれというムードがあるのは事実ですし、ネットの動きは社会の大きな動きを反映しているのかもしれない。しかし、それがどうして生まれたのかまでは考えたことがなかったですね。

*1:註:加野瀬のこうした「初心者」への配慮とアクセス・コントロールという処方箋については、以下のエントリーにも見受けられる。→ARTIFACT ―人工事実― | ネット教習所をシステムとして作る-儀礼的無関心について-

*2:註:倫理研第3回: 共同討議 第2部(4)

*3:註:加野瀬による類似した提案として、以下。→ARTIFACT ―人工事実― | リンク上等!

*4:註:2005年2月、タレントのあびる優がテレビ番組にて集団窃盗疑惑とも取れる発言を行い、その問題を糾弾する動きがネットを中心に見られた。

*5:註:たとえば小谷野敦『すばらしき愚民社会』(新潮社、2004年 asin:4104492027)や斎藤貴男『国家に隷従せず』(ちくま文庫、2004年 asin:448042024X)など。

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