ised議事録

05-146. 倫理研第4回: 共同討議 第1部(3)

遊戯場としてのインターネット――辻大介からの応答

東浩紀(以下、東):

 では、次に辻さんのほうからコメントをいただこうと思います。

辻大介

辻大介
 私のコメントですが、北田さんがさきほど3点目で指摘された、ネット上における公/私の区別についてになります。

 電網メディアの特徴を考えてみると、コミュニケーションの場としては公/私の区別が未分節な性格が強いと思います。なぜならネットというのは、私的な内容に不特定多数がアクセス可能であるという、非常に開かれた場になっているからです。この問題があるからこそ、アーキテクチャによるアクセス・コントロールで領域的に私的空間を確保しようという話になる。たしかにそれ自体は必要だろうと思います。

 ただし、それによって問題が一件落着するかというと、どうもそうではない。そのもうちょっと先のことが問題になると思うんです。たとえばmixiへの私的な書き込みがブログに転載されてしまう問題に象徴されるように、アーキテクチャ上で公/私を分けただけでは、その区別を決定する審級が不確定なために問題は完全には解決できません。すると、むしろ個人の利用者がどういう作法でネットに接するのかが問題になってくると思うんです。

 たとえば信頼という点で考えると、公的な信頼と私的な信頼というのは違うものです。私的な信頼にあたっては、「顔の見える相手」というように人格的信頼の確保が求められますが、公的な領域での討議にあたっては、むしろある程度の匿名性や仮名性が必要なケースも当然存在します。匿名性を確保したうえで信頼をどう確保するかという問題が考えられるわけです*1

 さて、そこで調査データを示すのが私の役目だと思います(笑)。インターネットにおける匿名性と信頼を利用者はどのように考えているのか、2003年に行われた全国調査の結果を見てみたいと思います(表:2003年全国調査)。

 まず、「インターネットでは匿名で発言する自由が保障されるべき」と考える人が、インターネットユーザーの場合は46%、非利用者は32%です。つまりネットユーザーのほうがノンユーザーよりも匿名の発言の自由は保証されるべきだと考えている。しかし、匿名性が原因なのかどうかは分かりませんが、「誹謗中傷が多すぎる」と考えるネットユーザーも過半数を占めている。また一方で、「情報には信頼に値しないものが多い」と考える人については、これはユーザーとノンユーザーに特に差はなく、35%程度となっています。つまり、匿名性は保証されるべきだが、誹謗中傷は多すぎる、しかし情報はある程度信頼できると考えている、と要約できます。

表:2003年全国調査
図:2003年全国調査

 それでは、匿名発言の自由を保証したい理由とはなんでしょうか。普通に考えれば、「匿名であっても、誹謗中傷はそれほど増えないだろう」であるとか、「匿名であっても、情報自体は信頼に値するものが出てくるはずだ」という期待があるからだと考えられます。しかし、どうもデータを見るとそうではないらしいのです。たとえば「匿名で発言する自由が保障されるべき」と考える人は、むしろ「ネットは誹謗中傷が多すぎる」と考えている傾向があり、67%を占めています(表:匿名自由×誹謗中傷)。もうひとつ、匿名性は保障すべきだと考える人は、ネットには情報の信頼性はあまりない、と考える人が多いのです(表:匿名自由×情報信頼性)。

表:匿名自由×誹謗中傷
図:匿名自由×誹謗中傷

表:匿名自由×情報信頼性
図:匿名自由×情報信頼性

 これはさしあたり次のように解釈することができます。つまり、匿名性を保証してほしいのは、ネットを公的な場と考えているからではなく、「好き勝手にできるような場」として捉えているからではないか、と。もちろんこれだけのデータからはそこまで断定することはできません。ただ、ネットという場に匿名性の必要を認める人であっても、それはネットを「公的な場」として捉えているがゆえの必要性ではなく、それゆえにまた、誹謗中傷からの保護や、情報の信頼性といったものが担保される場である必要はない、と捉えている可能性がある。

 こうした傾向があるとすれば、ネット上で公的領域と私的領域を分けるだけでは、問題は解決しないことを意味します。むしろ必要となるのは、公的領域/私的領域を分けたとして、さらにそれぞれの領域での信頼の作法をどのようにして立ち上げていくのかではないでしょうか。その点に関して、加野瀬さんのほうでご意見や面白い事例があればご紹介いただきたいと思います。

加野瀬未友(以下、加野瀬):

 なるほど。ただ、誹謗中傷というのは人によって度合いが違いますよね。たとえばきちんとした反論であっても誹謗中傷だと受け止める人がいるように、誹謗中傷の基準は人によって大きく異なると思うんです。重要なのはその多様性を認めることであって、誹謗中傷に対して反論できる場が確保されていればいいんじゃないかと思います。あくまで理想論ではありますけれども。

 たとえばamazonのレビューというのは、著者は一方的に言われるばかりで、好き勝手にいわれてしまっているという印象を受けることがあります。そこで僕は「著者本人からの反論欄」もあったほうがいいんじゃないかと思うんです。閲覧者が並列的に判断する材料があればいいのであって、いわゆるマスコミのように「これを信じてください」とひとつの情報だけを提示するのはネットには向きではない。たしかに匿名でなくなれば、誹謗中傷などネガティブな発言は減るかもしれません。しかし、ネットをずっとやっている立場としては、それはちょっと嫌ですね。

東:

東浩紀
 ちょっと話を整理します。いま加野瀬さんが「匿名性がなくなるのはまずい」というとき、それは「公正で公的な議論ができなくなるから」と考えていますよね。それはそのとおりです。

 しかし辻さんの問題提起は、一般ユーザーはそう考えていない可能性がある、ということでした。統計データを見るに、インターネットは匿名で自由であるべきだと思っている人は、誹謗中傷が多くても、情報の信頼性がなくてもいいと思う傾向も強い。これは、ネットは公正公明な場でなくてもいい、むしろ好き勝手にやれる場が欲しいんだ、という一種やけくそな(笑)インターネットユーザーが多い、ということを示唆している。匿名が公正さの基礎になる、なんてお行儀のいい考え方は機能していない。

 そして、こうした人々こそが、炎上を引き起こすわけです。だとすれば、mixiなどで多少アクセス・コントロールをしても、転載を自由にされてしまうわけだから、どうしようもない。そこで加野瀬さんはどう思われますか、というのが辻さんの質問なんだと思います。

加野瀬

 なるほど。mixiについてはあれだけ人数も多くなりましたし、もう普通のネットとあまり変わらないなと思っています。僕のいう私的空間というのは、少人数しか見れないように制限されたプライベート性のある場所のことです。コミュニティのようにある程度誰でも読めるような場所になってしまったら、たとえmixiであろうと公的な場所になってしまうという認識ですね。

 さきほど辻さんは私的領域の情報が外に流出してしまう問題を指摘されましたが、これは個別の信頼性の問題でしかないと思うんです。たとえばマイミクが10人いるとして、そのなかに自分が書いたことを2ちゃんねるに転載する奴がいるだろうかと考えたとき、「いや、いない」とか「いや、こいつならやるかも」と想定するしかなく、それはケースバイケースの話でしかないと思うんです。

 基本的な僕の認識としては、そもそもテキストデータにした段階で扱いやすくなる以上、なんらかの流出のリスクを踏まえる覚悟が必要だと思います。たとえばメールで書いたとしても、メールが転用されて公開の場にさらされる可能性は常にあるわけで、メールで書いたお前が悪い、と(笑)。いや、手紙であってもスキャンされるかもしれない。音声であっても記録されるかもしれない。結局なにかが記録されて残る以上、誰かが公開するかもしれないというリスクは残る。それはブログに限りません。これはもう相手との信頼の話になってしまう。

 基本的にCMC、つまりテキスト・コミュニケーションで扱いやすいデータにした段階で、その情報は漏れる可能性は相当上がっていると考えるべきです。いくら信頼できる人であっても可能性を意識しておいたほうがいい。それは僕がパソコン通信のころからの経験則です。

東:

「大事な話は電話でしろ」と(笑)。

加野瀬

 そうですね。

*1:註:ここで言及される匿名性の価値については、辻大介自身による以下のエントリーを参照のこと。→思考錯誤。また、【東浩紀】匿名は本当に悪か? トレンド-オピニオン:IT-PLUSなども併せて参照のこと。

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