ised議事録

05-148. 倫理研第4回: 共同討議 第1部(5)

ネット公共圏という理想が引き起こす炎上――コンテクスト闘争の前面化

東浩紀(以下、東):

 ところで、そろそろ高木さんからも意見を伺いたいのですが。

高木浩光(以下、高木):

高木浩光
 まず炎上にいたる理由についての議論があったと思うんですが、これは単に盛り上がっているわけではないと思うんですね。どうも炎上をいろいろ見ていると、メタな議論というか、元の議論からは外れた突っ込みあいになっている。

東:

 なるほど。

高木:

 たとえばこういう構図です。炎上を受けている側は、「発言者の人格に対する攻撃だ」と感じている。しかし突っ込みを入れている側は、相手のブログ主やネタ元に対して、ある種の議論のやり方を強制したいと思っている場合が多いのではないか。すべてがそうではないと思いますが。

 これは加野瀬さんのいう「炎上の原因=ネットの議論に不慣れ説」というものに関係していて、つまり、不慣れな発言には予想通りの反応がきてしまうんですね。注目されて大変なことになっているときに、ああ、これままずいことを言っているなあと思うと、ワーっと炎上してくる。これを眺めているだけの人もいますが、「そういうやり方をしなければいいのに」という思いがあって、そのことを理解していただくために、ますます当事者に突っ込みを入れていくという人がいる。

東:

 それは突っ込みをする側のお話ですね?

高木:

 ええ、そうです。あまり共感する方はいないのかな。私が炎上しているところに行く場合は、そういう観点なんです(笑)。

東:

 なるほど。つまり、高木さんは、小倉さんのように炎上させられる側ではなく、炎上させる側に立って話をしているわけですね(笑)。予想外だったので、すぐに対応できませんでした。これは新しい展開ですね……。

高木:

 いまチャットログを見ますと、「メタな議論で炎上する」というのは、従来のフレーミングの議論とどう違うのかというご指摘がありました。

 たとえば古いインターネットの時代のころ、学術系ネットワークだけで閉じていた「fj」*1というニュースグループには、独特の文化があったと思います。たしかにそこには、あえてメタな議論を生み出すルールがありました。たとえば「それは常識だ」というような発言に対して、非常に強い反発の発言などが多数あった。それはアカデミアたる者、議論のやり方はこうあるべきだ、という規範意識があったからだと思うんです。つまり、権威に対して反発し、本当の議論をしましょう、と考えていた。ある種の討議のユートピアのようなものですね。しかし、いまではインターネットにいろいろな人が来るようになってしまったので、そうしたユートピアの夢は潰えてしまった。

 そこで2ちゃんねるも含めて不思議に思うのは、いまではいろいろな人がいるはずなのに、いまだにかつてのユートピア的理想を持った人が存在するということです。そしていまだ理想をくすぶらせる彼らこそが、「なんでみんなそうなってくれないんだ」と苛立つことによって、炎上を起こしている面があるのではないか。

 現状を考えれば、本当は多様な議論の作法やコミュニティがあっていいはずです。それなのに、議論の理想のやり方から外れたものを見ると、それに対するフレームを起こしてしまう。そのようなフレームを起こしている側は、決して愉快犯的に楽しんでいるだけではないと思われます。むしろ、変わって欲しい! という思いがある。その背景には、ネットという理想的なコミュニケーション・ツールによって議論がより深まるのではないかという期待があるからです。だからこそ、なぜそうならないんだと苛立ってしまう。

東:

 興味深い指摘だと思います。というのも、ここまでの議論では、なんとなく、ケータイ世代が脊髄反射的に記念足跡書き込みをするから炎上が起こるんじゃないか(笑)という常識的な思考が支配していたと思うんです。しかしいま高木さんがおっしゃったのは、むしろ古い世代のネットワーカーこそが、いまの若いブロガーの無知に対して突っ込みを入れてしまうということですね。お前たちのその議論の仕方はいかがなものか、という突っ込みから始まって、ディスコミュニケーションのレベルがどんどんあがり、発言がどんどん発言を過激化していくような現象も、炎上の一要因になっている。

高木:

 そうです。結局最初の対応が悪かった場合、その「最初の対応が悪かったでしょう」という批判をひたすら続けていくという構図があると思うんです。これはネットだけではなく、最近マスコミが特定企業の失態を叩くときも、同じような構図は起きていると思うんですけれども。

東:

 炎上は、実は、議論がメタレベルになってしまったときこそ炎上になる。この指摘は重要だと思います。前回の北田さんの発表に即していえば、内容の問題ではなくて語り口や議論の作法の問題、つまり背景のコンテクストをめぐる争いこそが、炎上を加速化するという議論です*2

 となると、それこそ、ケータイメール世代からfj時代のツワモノまで、多様なネットワーカーの存在する現在のブログ空間においては、もはや共通地平を探ることはできず、どこまでも炎上が拡がっていくことになる。

高木:

 ですから、最初に反応しなければいい。あるいは最初にうまく対処さえすれば、炎上するまでもなく、ただ面白いネタがあったというだけで終わるはずです。

小倉秀夫

小倉秀夫

 たしかにたくさんの人が攻撃してるとき、そこで支配的なのは自分のいうことを聞かないやつはけしからん、という思いがあるのでしょう。それが典型的に現れたのは「さきっちょ&はあちゅう論争」だったと思います。あれは内容的に政治的なものではないし、彼女がやろうとしていたことはそれほど倫理的にまずいことではなかった。けれども、彼女のブログに集まってきた人たちは、思い描いていた彼女たちの像に反する行為をしたんだ、と憤ってしまう。「俺たちがこんなふうに丁寧に諭してあげたのに、いうことを聞かないなんてなにごとだ」という論争になってしまう。コメンテイターの理想に従え、というわけです。

 もしこの場面でコメントスクラムを避けようと思うならば、早い段階で彼らの考えている「はあちゅう像」に戻らないといけなかった。しかし、はたしてはこれが間違ったことかというと、なかなか難しい話だったと思うんですね。

東:

 なるほど。整理すると、炎上は、動物的な脊髄反射だけではなく、むしろコンテクストをめぐる争い、作法をめぐる争いとして起きているということですね。そして、ブログは作法やコンテクストをめぐる争いを顕在化させてしまうシステムである、と。

加野瀬未友(以下、加野瀬):

 さきっちょ&はあちゅう論争というのは、「信じていたのに裏切られた」という人たちが大勢現れるというパターンでしたね。純朴な女子大生が、彼氏を見つけて幸せになったという話を期待していたら、なんかうさいくさいセミナーとか始めてるじゃん、と(笑)。いまの高木さんや小倉さんの考えでは、「押しつけたい」という論理が炎上を引き起こすというわけですが、僕の見た感じでは「裏切られた」という感情が炎上の原因であるという印象を受けています。

東:

 それはさきほどの辻さん、北田さんのコメントともつながる話で、興味深い。つまり規範意識や信頼が存在しても、むしろそれが複数化しているために炎上が起きている。炎上は、動物的な脊髄反射とコンテクストの争いが交差するところ、僕の言葉で言えば、ベタとメタが交差するところに起きている。

 現在の日本のネット状況が見えてくる面白い議論になっていると思いますが、設計研からゲストとして参加されている井庭さん、いかがでしょうか。

井庭崇(以下、井庭):

 設計研の井庭です。今回、倫理研のほうにも参加しています。

 今回の話で気にかかったのは、アクセス・コントロールについてなんです。2ちゃんねるの場合、公園のように大きな場があって、そこに参加するというモデルですね。だからこそ、仮に炎上が起きても放っておける。一方、ブログモデルは小さな場を個々人が持って、それをトラックバックpermalinkによってネットワーク化しているわけです(図:井庭2ちゃんねるモデルブログモデル)。

図:2ちゃんねるモデルブログモデル
図:2ちゃんねるモデル・ブログモデル

 このとき、いわゆるアクセス・コントロール2ちゃんねるモデルのほうでしかできないと思うんです。たとえば2ちゃんねるの内側は見せる、外側は見せないということができます。しかし、ブログの複雑なネットワーク構造の場合、そうした境界線を設けることが難しいわけです。設計研の観点からすると、はたしてブログモデルのほうでアクセス・コントロールは可能なのかを考えたい。この違いは、公と私を考えるときにもやはり重要になってくると思うんです。

加野瀬

 たとえばmixiアクセス・コントロールの場合、たしかにアクセス設定は行えるのですが、あまりに複雑なネットワークになったせいで難しくなっている側面もあります。たとえばなにかアクセス制限された日記を話題にする場合、その向こう側の人間関係を考えるようになってしまい、結果的に大変気を遣うようになってしまっている。今後アクセス・コントロールが広がっていくと、情報流通の際にこうした配慮のコストが高まり、とても面倒なことになると思います。

井庭:

井庭崇

 もうひとつ、そもそも僕らはインターネットやネットワーク社会について語っているわけです。しかし、それがアクセス・コントロールの話になると、急にインターネット全体の話ではなく、インターネットの部分の話、つまりSNSの内側のネットワークの話に限定されてしまう。その外側の議論がなくなってしまうのはなぜなのか。

東:

 おっしゃるとおりですね。mixiのなかであればアクセス・コントロールが可能だけれども、mixiのユーザーでない人たちにとっては、mixiからリンクされてもmixiの内側は単に見えない。それはアクセス・コントロールでもなんでもない。

井庭:

 また、さきほどpermalinkではコンテクストがシェアされないという話はその通りだと思うんです。それはマスコミが政治家の一部の発言をとってきて批判しているのと変わらない。ブログというのは、マスコミとは違うメディアとして出てきたはずなのに、同じような問題が起きているのは現象として興味深いと思います。マスコミでもネットでも、コンテクストを共有することが難しいのだとすれば、なにかもっといい仕掛けはないかを考える必要があると思います。

 最後に気になったところというのは、匿名性をめぐる議論です。匿名で発言を投稿したとしても、その投稿されている話の内容には実名やハンドルネームが出てきてしまう。つまり、匿名の投稿で匿名の人の話をするのではなく、匿名で話し合うときに対象となるのは具体的な名前であるということです。

加野瀬

 この場合の実名というのは、要は特定できるということですよね。別に作家さんのペンネームとかでもいい。

井庭:

 そうです。結局、具体的な誰かを指し示すようなかたちで、炎上などは起きているのではないかと思ったんです。ここで問題になっているのは、具体的な個人が批判される・誹謗中傷されるというケースに限られている。

加野瀬

 特定できないケースとしては、「席を譲らなかった若者」はそういったケースですね。ここで対象になっている若者は特定できる個人ではない。さらにいえば電車男もそうです。個人を特定できなくとも、盛り上がる例はけっこう見受けられるんじゃないかと思います。

東:

 面白いですね。匿名の発言者が匿名の主題について話している場合は、むしろ問題は起きない。匿名と実名の関係こそが、問題を引き起こしている。これはいままで倫理研になかった視点のように思います。

 さきほど小倉さんは、フレーミングとは人格攻撃で、それは議論のメタ化であるという指摘をされました。いまチャットのほうを見ると、聴衆から、それは従来のフレーミングの議論そのものなのではないかという突っ込みが入っています。しかし、問題はこう捉えることができる。かつてのメールでのフレーミングでは、たとえば僕と小倉さんが喧嘩をしているわけで、「そもそもお前のしゃべり方が気に食わん」という議論のメタ化は、あくまで名前の見える二者間で起きる。しかしブログはそうではない。小倉さんが開設されているブログに、小倉さんのまったく知らない人間がやってきて、匿名のままメタ的な議論を仕掛けてくる。このようなケースは、それを支えるアーキテクチャがあってはじめて出てくる。

 つまり、小倉さんが指摘されたことは、従来のフレーミングは実名対実名の関係、より正確には顕名対顕名の関係(この場合の名前はハンドル名なども含みますから、正確にはそういったほうがいい)で起きていたけれども、匿名対顕名の関係で起きる新しいフレーミングがある、ということです。そして小倉さんは、後者をコメントスクラムと呼ぶことを提唱されている。

 議論はますます盛り上がってきましたが、ここでいったん休憩に入りたいと思います。

*1:註:エフジェイ。はてなダイアリー - fjとは参照のこと。

*2:註:ised@glocom - ised議事録 - 2. 倫理研第3回: 北田暁大 講演(2)での、「コンテクストをめぐる闘争――CMCにおける「繋がりの社会性」の前面化」を参照のこと。→isedキーワード:「コンテクスト闘争の前面化」参照のこと。

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