ised議事録

05-1410. 倫理研第4回: 共同討議 第2部(2)

アクセス・コントロールによる私的領域の確保は処方箋となるか


東浩紀(以下、東):

 なるほど。まさに『嗤う日本の「ナショナリズム」』の問題ですね。

 白田さんの話に対して、ほかの委員のかたからなにかありますか?

石橋啓一郎(以下、石橋):

石橋啓一郎
 僕はまったく反対の立場なんです(笑)。僕はネットを文化としては捉えず、純粋に技術だと考えています。つまり、加野瀬さんのいうような初心者のニーズがあるならばそれを提供するべきだし、ある技術的な実装が社会に対して悪影響を与えているというならば、それを戻すような技術を逆に考えて導入すればいいのではないか。こういう発想を僕はするんですね。

 たとえば「チラシの裏にでも書け」という話がありましたが、プライベートなことを書きたい人は確実に存在するわけです。パブリックを追求せよというけれども、すべての人が近代化された自立した個人で、朝から晩まで立派な発言をしているかというと、そんなことはない。であるならばプライベートな部分を満たす機能もあるべきです。技術者としてはその存在を認めるほかないと思います。

 さきほどの白田さんの話では、プライベートなチラシの裏に書かかれるべきネタが、公的空間に侵略してくるのは防がねばならないということでした。つまり公的な空間からチラシの裏を隔離する機能を提案されていると受け止めています。公論は表で、プライベートのコミュニケーションは裏でやる、という棲み分けですね。であるならば、逆にパブリックな議論は強まるのではないかと思うんですが。

白田秀彰(以下、白田):

 そもそも私がわからないのは、なぜチラシの裏に書けばいいようなことをネットに書くのかなんです。これはメンタリティの違いかもしれないのですが、ネットに書くというのはけっこう大変なことですよね。私はいま講演を聴きながらメモを紙の裏に書いていますが、今日はこんなことが楽しかったとでも紙に書けば、自分の心のなかにしまうだけでいいのにと思うんですよ。

東:

 とはいえ、そういうひとが多いのは確かですね。メモ用にwikiなどを使っているのは高級なほうで、普通はブログに平気でプライベートなメモを書いている。ローカルなファイルの延長線上にmixiのようなアーキテクチャが存在し、さらにその延長線上にブログがある。そしてそれらはすべてシームレスにつながっている。

白田:

 わかります。そのような世界を目指してエンジニアさんが頑張ってきたわけですから、それはわかるんです。しかし、ネット上でwikiを書く人というのは、自分以外の誰かに見せたいから書くのではないですか。純粋に自分にしか見せたくないものをネットに書くということはありえない。自分以外の誰かに見せた瞬間、外に漏れて炎上の起きる可能性はあるわけです。見方によっては、自分以外の誰かに知られたらそこはパブリック領域だという見方も可能なはずであって、アクセス・コントロールをかけることにどれだけの意味があるのか。

東:

 そうなんです。しかし、いま白田さんがおっしゃったのは、やはりかなり「強い」意見です。発言は必ず誤解される可能性を生むわけだから、誤解されたくないならば発言するな、と。それは確かに正しい。しかし、人間はそういうふうにできていないから、昔からさまざまな問題が起きるわけです(笑)。それは、ネットの問題というよりもコミュニケーションの欲望そのものが持っている矛盾であって、原理的にクリアできない。したがって、ネットのようなツールがあれば、人は必ずプライベートなことを書く。勝手に書いて、勝手に誤解されたといって怒る。

白田:

 そう。そして喧嘩が起きる。

石橋:

 ただネット以外のことを考えると、たとえば電話でしか話さない話があり、紙に書いてコピーしてみんなに配るというコミュニケーションがあり、講堂に全員集めて話すというコミュニケーションがあるように、その文脈や情報を伝えたい範囲によって、さまざまにコミュニケーションの手段を使い分けているわけですよね、柔軟に。

 しかしここまでの議論というのは、「ネットは0か1かだ」というほとんど極論に聞こえてしまう。すなわち、ネットの上で書く以上は完全にパブリックで、それが無理ならば表出することは許されないわけです。しかし僕の考えでは、ネットはあくまで道具なんだから、さまざまな使い方に合わせたランクのものを作っていければ便利になるわけで、それでいいと思うんですよ。

白田:

白田秀彰
 いや、たしかにどんなツールがあったとしても、結局外に見せてしまえば炎上は起きるんです。そこで私はネットをパブリックにしか使うな、という類いの極論を主張したいわけではない。むしろそれを前提にして問題にしているのは、いかなる規律訓練を選択するかなんですよ。すなわち、2ちゃんねる的なスルーの言論のモードを受け入れるべきだという規律訓練をやるのか、あるいは一応パブリックな表に出るという覚悟をして書くべきだという規律訓練をやるのか。このふたつの規律訓練があるとしたとき、前者の2ちゃんねる的な嗤いの感覚を身につけることを強制するのは公的領域を縮退させるのでまずいのではないか、と私は思うわけ。

東:

 話を聞いていて思ったのですが、白田さんのいう公的な空間を確保するためには、もっと別の戦略が必要ではないでしょうか。

 さきほど白田さんがおっしゃったとおり、2ちゃんねる的な感覚はさまざまなBBSのなかで「勝って」いった。その勝利は技術に支えられたものではない。規範として普及していったんです。つまり、2ちゃんねる的な規範を受け入れる環境が、この国には歴史的に存在している。それがまさに北田さんが論じたことです。

 だとすれば、ネットにおける公的空間の確保が問題だとして、「いままでは近代的な公共空間が存在したのに、それをネットが侵略しているから防げばいい」という提案だけでは足りないと思うんです。もう少しポジティブな戦略がなければ、絶対に2ちゃんねる的なコミュニケーションが勝ってしまう。この国にはそういう文化的条件がある。だとすれば、ここで必要なのは、石橋さんがおっしゃったような設計者的な発想、すなわち、ネタ的コミュニケーション志向のこの社会において、公的空間を実現する技術は果たしてどのようなものか、という観点のはずです。

高木浩光

高木浩光
 それについては、ちょっと悲観的に考えています。結局アクセス・コントロールをしたとしても、現状の技術では、まさにゼロイチで明確にラインを引くしかないわけです。そうすると、結局リアル世界の人間関係に従って、知り合いにアクセスを許可していくことにしかならない。それは単に物理的に離れていても、そこにいるのと同じようなコミュニケーション手段としてネットが使われるにすぎません。

 ところが白田さんが訝しむように、チラシの裏的なものを書いて見せたい、という特殊なコミュニケーション欲求を持っている人々が現実には数多く存在します。彼らがいったいなにを期待して書いているのかを考えてみると、よく私が見かけるのは「こんな個人のどうでもいいことに反応してくれる人がいてくれた」と喜んでいる感情なんですね。つまり、よくわからない通りすがりの人が、自分なんかに興味を持ってくれるということを求めているわけです。となると、この期待は決してアクセス・コントロールの世界では実現できないんですよ。アクセス・コントロールとは、よくわからない通りすがりの人を排除するものですから、この手の欲望を満たすことができない。

 だからネットはパブリックにしてしまうしかない。でもそうすると、「あなたパブリックなところに書いている限り、すべて責任を持ちなさい」と言われてしまう負担に耐えられない。それはもうパブリックである以上、仕方のないことですね。ですから考えないといけないアーキテクチャはこういうものでしょう。あいまいなアクセスの線引きが可能で、ハードな責任の追及からも免除されつつ、通りすがりの他者からの反応という欲望が満たされる、といったものですね。

 この議論は以前も倫理研でも出ました*1。そのときmixiはそれではないか、という指摘があったと思います。たしかにmixiも初期は人が少なかったのでよかった。でも登録者が膨大になってくると、単に現実の延長として、明示的に友達として登録しているか否かでアクセス制御されていきますから、もはやその手の欲望を満たす世界ではなくなってしまったのではないでしょうか。

東:

 ええと……。これはたいへんすばらしい指摘を行ってくれました。

 「繋がりの社会性」を欲望しているユーザーにとっては、アクセス・コントロールは実はなんの意味もない。そして、日本のネット文化を支えているのは繋がりの社会性であるのだから、アクセス・コントロールは本質的に対策たりえない。これは、前回と今回のいままでの議論を根本からひっくり返す、重要な問題提起だと思います。

 話を整理しましょう。前回の結論は、ごく簡単にいえば、ネットで私的領域を確保するためにはアクセス・コントロールしかない、という話だったと思うんです。

 ところが今日の議論で、そうはうまくいかないことが明らかになってきた。いまの高木さんの指摘は実にクリティカルだったと思います。つまり、アクセス・コントロールを求める人というのは、そもそも公/私の区別ができ、「私はプライベートの人にしか公開しません」と判断可能な人であって、しかもそれは、そういう私的領域を曝してもいい友達がいる人に限られる(笑)。しかし、それはすでに強い人なのではないか。弱い人はむしろアクセス・コントロールを求めないはずではないか。なぜなら、彼らはインターネット上で誰も友人がおらず、なんとかして注目されたいはずだから。そのためには、公/私の区別なんてどうでもいいと思っているはずだから。少なくとも、北田さんが「繋がりの社会性」と呼んだように、そのような欲望はいまのネットに満ちている。だとすれば、弱い人はアクセス・コントロールを行って私的領域に閉じこもり、強い人はネットの荒波に打って出ればいい、という構図は成立しない。

 これはたいへん説得力があります。弱い人はアクセス・コントロールして閉じる、強い人たちは公的な空間で開かれる。僕たちはこの二分法を暗黙に前提としてきたけど、実はそもそも、その二分法が成立していないから問題が起きているのではないか。20世紀末の日本で、2ちゃんねる的なメンタリティ、繋がりの社会性だけが特化した新しい公共性とでも呼べるものがどうしてあれだけの力を持ったのか、というのが、僕たちの議論の軸だと思いますが、それを支えていたのが、まさに、「弱いからこそ開かれたい」という欲望だったんだと思うんです。

 そして今日は、2ちゃんねる的公共性がなくなった現在、果たしてその欲望をどうコントロールすればよいのかを問題にしているわけですね。

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