ised議事録

05-1411. 倫理研第4回: 共同討議 第2部(3)

陰口で繋がる自由――繋がりの社会性という日本的欲望


小倉秀夫(以下、小倉):

小倉秀夫
 すこし前に、アメリカの電子フロンティア財団(EFF)が「how to blog safely*1というコラムを公表して話題になりました。これはブログの記事を安全に公開するための心得のような内容で、前半は匿名を使えばブログを通じた表現活動は大丈夫だという話、後半はブログをきっかけに解雇されないために、特定の法的保護のかかった話題を扱えば安全である、という話をしています。ただこの前半をよく読むと、単に匿名を使えばいいという話ではなくて、たとえば限られた人のなかだけで話をすべきであるとか、検索エンジンにかからないようにすべきということを言っているんです。つまり今日の話でいえば、チラシの裏に留めておきなさいというわけです。

 しかし、これはなぜか日本のブロガーには非常に誤解をされていて、「匿名ブログで他人を公的に誹謗中傷することを、電子フロンティア財団は正当化した」と受け取られているふしがあります。そしてもしそのように日本のブログ文化が発展してしまうとすれば、紙メディアに書けるような人々はむしろブログを作らなくなる気がするんですね。まず紙メディアで知られている人であれば、いくら匿名で書いたとしても、その発言内容で誰なのかはなんとなくわかる。ですから、匿名で書くということにはまったく意味がない。一方、ブログを実名で書いてしまうと、匿名の大群が押し寄せる。そして、かなりの確率で人格攻撃をされてしまう。こんなことではブログで質の高い議論をする気は失せてしまうわけです。

 これに対して、「コメント欄を閉じればいいじゃないか」という議論があります。しかしコメント欄を閉じてしまうと、ブログで発表する意味がこれはこれでなくなってしまう。もちろん原稿料をもらってブログを書くときには、コメント欄の有無は本質ではないでしょう。ただ任意にブログをつくるときには、書いたものについて適切な批判や賛同をする人がコメントをしてくれれば、プラスになると期待しているわけです。つまりコメント欄のないブログというのは、閉じたところで書くのと同じくらい意味がない。

 ではどうすればよいのか。おそらく、他人を批判する側が、批判をするばかりで返り血を浴びないシステムであるからおかしなことになると思うんですね。つまり、コメンテイターの匿名性を弱めるようなシステムを、ブログ事業者で作ればいいのではないでしょうか。ただしブログごとに登録しなければコメントがつけられないのは面倒ですし、さらに実名との対照可能性を高めていくとなると、場所が増えるほど面倒です。となると、ある程度ブログ事業者が共通して使うことのできる、実名と仮名のトレースネットワークみたいなものを作るという話にならないと、いろいろと難しくなるのではないかと思います。

東浩紀(以下、東):

 韓国のネットはそうなっているかもしれませんね。アバターを使っても、国民登録番号によって最終的には実名に全部リンクされている。その保証のもとでブログにコメントを寄せる。

小倉:

 そうですね。どこまで仮名と実名とのトレースを許すかについてはいろいろと条件づけがありえますが、そういう方向に流れない限り、なかなか質の高い言論がブログでやり取りされることにはならないと思うんです。チラシの裏的な話はできたとしても、質の高いコンテンツを作成できる人間は、いくらブログの底辺が拡大したところで増えてこないでしょう。そういう人たちがどんどんブログに参入してくれるシステムをつくるためには、いい加減なコメントやトラックバックで批判をする人間に対して、それなりに返り血を浴びるリスクを高めていく必要があるはずです。

辻大介(以下、辻):

辻大介
 ただ返り血を浴びないことが問題だ、というのはわかるんですが、やはりそこではお互いの力関係が対称的であることが前提になると思うんですね。結局、匿名性がなぜ公的な討議の場で重要になるのかということとも関係してきます。要するに、弱い人は返り血を浴びてしまうと押し潰されてしまうわけです。ある種の権力に対して異議申し立てができなくなるという問題にも、これは重なってくる部分だと思うんですが。

小倉:

 それに対しては、仮名と実名とのトレーサビリティに条件を設ければいいと考えています。たとえば内部告発は匿名性を保護しなければいけない事例としてよく挙げられますよね。それが保護されるべき内部告発なのか、それとも単なる誹謗中傷の類なのかといった基準を設けて、返り血を浴びさせるべきかどうかを検討する受け皿をつくればいい。匿名性を守らなければいけないものはきちんと守ればよいし、他方でいい加減な発言は躊躇させる。こういうシステムは作成可能だと思うんです。

東:

 小倉さんの意見はわかります。

 しかし、ここで問題になっているのは、少なくとも日本のネットにおいては、繋がりの社会性を求める膨大な弱い人たちが存在しているという事実です。日本のネットは、そういう人たちに生きる力を与える機能も担っている。もし、いまの小倉さんの提案を全面的に導入したとすると、たとえば、住基ネット番号を打ち込んで、統一ブログIDを取得しないとコメントが書き込めなくなるわけですね。すると、繋がりの社会性を求める欲望の行き場はどこへ向かうのか、という問題が残る。

小倉:

 おそらく電子フロンティア財団が前半で奨めたような、チラシの裏に書くような繋がり系ブログであれば、返り血を導入する必要は出てこないと思うんです。コメントスクラムが出てくるのはチラシの裏ではない。むしろすでにある程度アクセス数があるところに、匿名で殴りこみをかけてくるような人たちが出てくる場合にこそコメントスクラムが発生するのであって、そのとき初めて返り血システムが作動するようにすればいいと思います。

 しかし、そういう匿名性に対する信頼がないからこそ、繋がり的なコミュニティにまで萎縮してしまうのではないかといわれてしまえば、そうなのかもしれません。ただ、正しくシステムを理解すればそういうものが萎縮しないようなシステムは可能かな、と。

加野瀬未友(以下、加野瀬):

 いまの話を聞いていて、認識の違いがわかったんです。

 たとえばチラシの裏、つまり自分のプライベートな領域に誰か有名人のことを書いていたとしても、普通その有名人が読んでいるとは意識しませんね。しかし、わかりやすい事例ははてなダイアリーなんですが、自分のキーワードを追いかけている有名人もたくさんいるわけです。そしてその有名人が、たとえば自分について悪く言及している人たちに対して直接コメントをしたりすると、すごく萎縮してしまうという光景が見られるんですね。なぜかというと、本人にしてみればチラシの裏のつもりで楽しく書いていたのが、いきなり公的な場にされたという印象を受けるからだと思うんですよ。つまり、チラシの裏なんだから悪口を書いて繋がってもいいじゃないか、という感覚ではないか。

 するといまの小倉さんの電子フロンティア財団の話には、解釈がふたつあるはずなんです。つまり、ひとつはチラシの裏に他人の悪口を書く自由もあるという考えと、もうひとつ小倉さんはそうではなくて、他人の悪口を書いたらそれは公的な場だから返り血を浴びるべし、という考えですね。このあいだに齟齬があるんじゃないかと思います。

東:

 いや、問題はそのふたつだけではないと思います。いま問題になっているのは、「他人の悪口を書いて繋がる自由がほしい」という欲望だと思うんです。

 実際、有名人の悪口を書くことで繋がりたい人は大勢いると思います。たとえば、はてなダイアリー東浩紀についてなにか悪口を書きたい、という人がいたとします。意外といないんですけどね、はてなだと(笑)。僕がはてなユーザーで、「東浩紀」というキーワードを巡回していることはよく知られているので、なにげにコントロールが効いているのかもしれない(笑)。

 ともあれ、はてなダイアリーで僕の批判を書くことによって、同じように東浩紀の批判を書いているほかの人と繋がりたいという欲望を持っているとすれば、自分の日記をプライベートモードには設定しないはずです。しかし他方で、キーワードでリンクされると東本人が読むかもしれないので、おおっぴらに悪口は書けない。システム上、書く以上は読まれることを覚悟しなければいけない。しかし、じゃあ、その批判は「公的」発言なのかといえば、本当は単に悪口つながりの友達を作りたいだけだったりする。そういう矛盾を抱えた人々が、ネットにはいっぱいいると思うのです。

 いずれにせよ、悪口で繋がる欲望を持つ人が多いとなると、アクセス・コントロールを導入したり、公的な場での発言は責任をもつべしという教育プログラムを発動させてしまうと、彼らの欲望の行き場がなくなってしまう。

加野瀬

 「陰口の自由」ということですね。

東:

 単なる陰口だけだったらいい。「陰口で繋がる自由」だからやっかいなんですね。だからこそ、公的な規範と衝突する。

 つまりは、いまの日本には、誰かの悪口を一緒に言い合うことで、友達を見つけたいという人が膨大な数いるのです(笑)。その人たちの受け皿になったからこそ、2ちゃんねるは支持された。しかし、普通に考えればそんな自由があるわけがない。とはいえ、そんな自由を享受することに慣れてしまった人たちが、2ちゃんねるのせいで膨大にいる。これが日本のネットの状況だとするならば、陰口で繋がる自由をそう簡単に切り捨てることはできない。ここが大きな問題なのではないか。

加野瀬

 なるほど。そして小倉さんは、陰口で繋がる自由を認めないという立場ですね。

高木浩光

高木浩光
 インターネットのベースは技術的になんでもできるように汎用的に設計してあって、その上でいろいろなアプリケーションを作ればいいという思想です*2。同様にコミュニティの作法もいろいろあってよいはずです。ですから、小倉さんのアイディアのようなシステムを作って、実際に運用してもいいわけです。たとえばはてなはそのひとつかもしれません。はてなだけで閉じていればひとつの統一IDで管理されていますから。それを小倉さんのアイデアのように、複数の事業者をまたがった認証システムにするのもよいでしょう。ただ、それしかない世界にする必要はないですね。そういう認証システムを使いたい人には使う意義がある。でも、それ以外の技術的アーキテクチャによるコミュニティも並存していて、いろいろな作法のコミュニティがあっていいはず。

 ところが問題は、あるコミュニティに慣れた人は、それが普通だと思ってしまうということです。白田さんの指摘するとおりで、2ちゃんねるのネタ的に嗤う感覚が他の領域にどんどん進出することで、それが当たり前だと思う人が大量に育ってしまっているという現象ですね。そうなると多様性を認めるような棲み分けは不可能になってしまう。

 私自身もそれを経験しています。かつてメーリングリストを運営していたんですが、そのなかで私は主催者であるにも関わらず、いろいろとフレームを起こしていました(笑)。なぜかというと、そこでの独特の作法をつくることで、質の高い議論を維持したいという狙いがあったからです。しかし、それは当然そのメーリングリストの内側で期待していたものであって、ほかは自由なんです。そうやって運営しているうちに、2000年の夏ごろ私のスレが2ちゃんねるに登場しました。それができた理由というのは、やはり私の方針に対して窮屈だと思っている人たちがいたからでした。ただ、こうしたほかのやり方があるのは当然であって、2ちゃんねる2ちゃんねるのとおりにやればいいわけですね。

 ともあれ初期においては、実名を基本としたネットコミュニケーションに窮屈感を感じた人々が、2ちゃんねるに別の世界をつくりはじめました。すると、初期の段階ではひどい中傷がかなり出た。しかもそれに慣れていない人も多かったので、2ちゃんねる反対運動的なものも起こりました。

 そして中期になると、いろんな人が入って成長するにつれて、2ちゃんねるの内部で自制を働かせる仕組みができます。つまりネタでスルーする感覚ですね。「これはネタなんですよ。ここは2ちゃんねるですから、あなたはなんでマジに反論してるんですか」とあえて振る舞うことで、ある種良心的なコミュニティになったわけです。

 そしていまは最初からその状態に入ってくるために、こうした前提が理解されなくなってしまったんですね。たとえば2ちゃんねる2ちゃんねる、小倉さんのところは小倉さん、という棲み分けがどうもできない。これはどうすればいいのか。まさにこの問題を問うのが倫理だと思うのですが。

東:

 難しいですね。理想は、それぞれのユーザーがそれぞれのコミュニティにあったリテラシーを身につけ、たとえば2ちゃんねるのときは2ちゃんねる的なモードを使う、といった使い分けをするといったものですね。しかし、これは当然無理であって、現実的ではない。

白田秀彰(以下、白田):

白田秀彰
 昔は2ちゃんねる用語を使うことは恥ずかしいことでしたよね。つまり、2ちゃんねらーであることを表に出すのは恥だという感覚があったんですよ。

高木:

 というか、そういうことにしていたんですよね。

白田:

 そこが大事だったと思うんです。ところが私なんかはそのへんあまり意識せずに、2ちゃんねる用語を授業中にしゃべったりしていたので、いまは反省しています(笑)。このような私の振る舞いこそが2ちゃんねる的なものを一般にばらまくということを媒介していたということをいま思い知ったので、以後使わないようにします(笑)。

 それはさておき、さきほどの「陰口で繋がる自由」ということを考えてみると、これは実はおじちゃんたちが居酒屋でやっていたわけですよね。キャバクラのおねえちゃんたち相手に、あの部長はくそったれだと陰口を叩いていた。いまでもリアルワールドでは陰口というのは恥ずかしいことであって、あまり表でいうことではないという感覚がある。しかし、ネットにはその恥の感覚が薄れつつあることが実は問題なのかもしれない。つまり2ちゃんねるは実は恥ずかしいんだ、見てもいいし書いてもいいんだけれど、みんな黙っているべきなんだ、というのがお約束でなければいけないはずなのに、どうもそうではなくなっている。

東:

 ただ、ここで言われている陰口で繋がる自由は、全然見知らぬ人と悪口で繋がりたいという大変すばらしい欲望なんですね(笑)。たとえば、僕と小倉さんが居酒屋で白田さんの悪口を言ったとしても、3人ともお互いを知っていて、見えないところでこっそり陰口を言い合っているにすぎない。そんなの面白くないわけです。しかし、炎上コメントスクラムの場合はそうではない。「とりあえず白田の悪口言いたいやつは集まれ!」と号令をかけると、「おっしゃ俺もあいつ嫌いだったよ!」と一気に集まってくる(笑)。こんなシステムはいままで存在しなかったのではないか。

 こういった欲望は普通の社会では否定される。ところが、日本ではその欲望が数年のあいだ肯定されまくっていた。その遺産、というか債務をどうすればいいのか。

白田:

 居酒屋でも、たとえば野球選手や政治家の話の悪口を言っていたら、「俺もあいつ嫌いなんだよ!」とまったく知らなかった隣のオヤジが絡んできて、みんなで乾杯、という光景がありますよね。

東:

 それがいまや社会全体のアリーナに広がっているということですね。

 ところで、ここでちょっと井庭さんに振らせてください。

井庭崇

井庭崇
 いまの話は非常に面白いと思いました。さらに付け加えると、批判されている本人がその批判を見ることができる、というのが問題をややこしくしていると思うんですね。たとえばブログで叩かれていたとしても、無視していると「それに反応しないということはなにかあるんじゃないか」という裏読みも利いてしまって、困ったことになるわけです。どこかの居酒屋で悪口を言われているなら、それは知らないし反応できない。しかしブログだと、その悪口がpermalinkではっきりと存在している以上、それに応答しなければいけないという雰囲気も出てしまう。しかし、反応してしまえば攻撃を余計に食らってしまうかもしれないし、単に批判に対応する時間がないということで萎縮してしまうわけです。これはなんとかしないといけない。

 また、「批判する」ことと「褒める」ことの非対称性があると思うんですね。なにかを褒めるというのは、どうしても言いたい人しか言わない傾向がある。一方、ちょっとでも思いがあれば、悪口はけっこう書きやすい。しかし悪口は言いやすい一方で、信頼は簡単に崩れてしまう。信頼を築くのには時間がかかりますが、その信頼を不信頼にすることは簡単にできる。こうした非対称性が危険だと思うんです。

東:

東浩紀
 もう一度北田さんと辻さんに戻したいと思います。この「繋がりの社会性」や「陰口で繋がる自由」は、基本的には社会学的な問題だと思うんですね。つまり、これはネット特有の話ではない。日本という国の独特なコミュニケーション文化にネットワークというインフラが乗ったとき、2ちゃんねる的な「悪口で繋がる公共性」という、いびつで擬似的な公共性が出現してしまった。しかもそれが、不幸にも、というか半ば必然的に、インターネット・ユーザーの増加期にあたってしまった。この遺産を今後どう処理していくのかというのは、社会学的に大きな問題だと思うんです。

辻:

 ただ、公共性ということで引っかかりを覚えるのは、オープンネスとパブリックネスの違いなんですね。たしかにネットというのは不特定多数のアクセスに開かれていて、これは確かに公的空間(パブリック)であることの一要素ですが、基本的にネットはパブリックである以前に、単にオープンなだけなんですよね。さきほどからオープンであることすなわちパブリックであること、という前提で議論が流れているところに、はたしてそれだけでいいのかと思うんです。たとえばチラシの裏に書くことをインターネットに乗せるとき、そこにはパブリックネスという要素を求めていないわけですね。それこそ彼らはオープンネスだけを求めていて、そこでいかに繋がっていくかが関心事になっている。

 これまでマスメディアとパーソナルメディアという分節が成立しているときであれば、オープンネス=パブリックネスという等号が引かれていた。しかし、ネットではその等式が崩れてしまっている。であるならば、問題をこう設定する必要があると思うんです。やはりオープンネスを再びパブリックネスに転化していくべきなのか、あるいは別のかたちでパブリックネスを確保していくのか。

東:

 具体的に考えるとこういうことでしょうか。つまり、インターネットはあくまでもオープンなメディアでしかなく、パブリックなメディアではないんだ、と。だからネットの情報は別に信頼しなくてもいいんだ、スルーすればいいんだ、という社会的なコンセンサスをむしろ作っていくべきだという話でしょうか。

辻:

辻大介
 そういう路線もありうると思うんです。ともあれ現状の技術や状況を見ると、ネットはオープンなメディアであって、必ずしもパブリックなメディアではない。

東:

 なるほど。北田さん、どうですか。

北田暁大(以下、北田):

北田暁大
 すこしズレますが、いまの話とも絡めながら話そうと思います。加野瀬さんの話にも出てきた映画『コンクリート』上映の事例やスーフリ幹部の事例にしても、よく出てくるフレーズは「被害者の気持ちを考えたことがあるのか」というものです。これは殺し文句として頻出しており、本当にこのフレーズが出てしまうとどうしようもないところがあるんです。反論することが「非道徳」となってしまうような、完璧な正論なわけですから。そこでたとえば表現の自由の理念がそのフレーズに抗うといったようなことは、もはや期待できない。言論文化自体はオープンだとしても、道徳主義者のファシズムのようなものがあるといえなくもない状況かもしれません。ファシズムというのはもちろん極端な言い方ではありますが。

 やっかいなのが、そこに参戦している人たちはいま辻さんが言われたようなパブリックなものを志向している、と思っていることなんですね。自分たちはきわめて道徳的であり、しかもその主張に社会的正当性がある、という確信を持っている。「誰もこの道徳には反論ではないだろう」という確信に支えられて「運動」が展開している。これはある種、非常に動物的な道徳心というか、道徳的な動物たちの行動原理なんですよ。他者との繋がり方の形式に関しては脊髄反射的で動物的であるにも関わらず、その意識としては道徳的である、と。かつてであればマスコミ関係者だけが参加できた道徳祭りに、いまや誰しも参加が可能になっているんですね。

 これは前回も話したことですけれども、現在では、オープンな空間においてパブリックなものを求めるとき、反射可能性と応答可能性とが混同され、脊髄反射と責任とが区別不可能なコミュニケーション空間が醸成されてしまうことがある。いま議論になっていることは、それと似たような問題ではないでしょうか。

東:

 そうですね。

加野瀬

 いまの話をお聞きして、ひとつ思うことがあります。たとえば被害者自身が反対運動をするのであればわかるんですが、なぜそうではない人が必死に反対をするのか、いつも疑問に思うんです。これはどうお考えですか。

北田:

 難しい問題ですが、被害をめぐる「記憶の共同体」、つまりなんらかの否定的記憶を媒介として共同性を作っていく*3というのは、どの世界にもあることなんです。ただ、ネットというのは記憶の共同体を同時に「記録の共同体」にもしていく。被害の記憶の物語化ではなく、被害の記憶の記録化、データベース化によって、「いま-ここ」の共同性を創出していくわけです。コンクリ事件はまさにそういうものです。その事件発生当時を知らない若い人たちは、どんどん記録をたどって記憶の共同体へとコミットしていく。マスコミが仮構する「記憶の共同体」は、時間に対して脆弱であった、つまり時間がたてばたつほど共同性は薄らいでいくものだったけれども、過去と現在とが情報としてフラットに並列するネット空間においては、時間的脆弱性は克服されてしまう。「監視社会化」「道徳化」が過去にまで及ぶ可能性が高まる、ということです。

加野瀬

 お聞きしていて、いわゆる部落差別解放同盟などの形成に近いのかもしれないと思うんですね。最初は本当に差別の解放を目指すものだったけれども、次第に記録だけで運動になっていく。

東:

 つまり、共同体をつくるためにトラウマを共有したいわけですね。加野瀬さんは、近代人的な考え方で疑問を呈していた。差別されていない人間が、どうして差別に対して怒っているんだ、と。それに対する北田さんの答えは、彼らは差別に対して怒っているというよりも、「差別に対して怒る」という共通の記憶をつくって繋がりたいからそうしているんだ、というわけです。やはりここでも、キーワードは繋がりの社会性ということになるし、これは「悪口で繋がる自由」にも繋がる。

 何度も反復されてしまうのですが、そういう欲望をどう扱えばいいか、という問題はきわめて重いと思います。彼らはアクセス・コントロールでは対処できない。

加野瀬

 そしてその人たちはすごく強力である、と。

東:

 しかも莫大に存在するわけですね。

*1:註:日本語訳は以下を参照のこと。→幻影随想 別館: ブログの匿名論2 How to Blog Safty (EFF)

*2:註:設計研第1回:石橋啓一郎 講演を参照のこと。

*3:註:主にナショナル・ヒストリー(国民の歴史)における概念。たとえば石田雄『記憶と忘却の政治学――同化政策・戦争責任・集合的記憶』(明石書店、2000年 asin:4750313025)など参照のこと。

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