ised議事録

05-1412. 倫理研第4回: 共同討議 第2部(4)

さいごに


東浩紀(以下、東):

 さて、そろそろ最後のまとめに入らなければならないのですが、なにか言い残したことはありますでしょうか。

石橋啓一郎(以下、石橋):

 僕は真にアクセス・コントロールが不可能だとは思っていないんですね。ちなみに僕は技術決定論者でコミュニタリアンなので、「アクセス・コントロール」で問題は解決できないといわれても、どうしても懐疑するんです(笑)。いま世の中にあるアクセス・コントロールというのは、高木さんがデジタルに0か1かの制限しかできないとおっしゃったように、アクセス制限対象者のリストだけなんです。であれば、たとえば属性によるアクセス・コントロールのような方法があって、それはアーキテクチャとして実装することが可能なんですよ。

 たとえばコメント欄を閉じてトラックバックだけを許すというのは、「サイトを持って情報発信ができるような強い奴以外は俺にケチをつけるな」というアーキテクチャですね。これは単に現実世界の人間関係の延長だけでアクセス制限をしているわけではない。あるいは、マクドナルドの椅子は硬いというアーキテクチャもあるけれども、これも完璧ではなくて、3時間いる人もいるかもしれないわけです。ただ、ほとんどの人は30分で出ていく。このような類いの、ある程度緩やかなコントロールをすることは可能だと思っています。

高木浩光(以下、高木):

 しかし、それで実現できるのは、強い人の場だけではないでしょうか。強い人はそういう場をコントロールして作ることができる。

東:

東浩紀
 今日の高木さんの指摘が重要だったのは、とにかく、つながりたい人々は、そもそも原理的にアクセス・コントロールを選ばないということを述べたからです。

 それに対して、石橋さんは多様な選択肢を与えればいいという話をしている。その人のニーズにあった選択肢を与えることは可能だし、技術はもっときめ細かく設計することができるという話です。しかし、さきほどから問題になっているのは、そもそも日本のネットで欲望されているのは繋がりの社会性だということです。「誰でもいいからつながりたい」、「とにかくいろんな悪口をいって注目を浴びたい」といった矛盾した欲望を抱える人々が数多く存在する場合、そこに本当に技術的な解があるのか。

石橋:

 僕がいいたいのは、そういうアクセス・コントロールを選択しないような人々の集まるアーキテクチャも設計可能だろうということです。2ちゃんねるもそのひとつだったと思いますが。

東:

 むろん、そういう人々が多かったからこそ、まさにそういう欲望を支えるアーキテクチャとして2ちゃんねるは生まれた。2ちゃんねるは擬似的公共性をつくるという意味で素晴らしい役割を果たしたし、事実栄えた。ここまではよかった。しかし今日問題になっているのは、その負の遺産ですね。そのひとつが、ネタ的メンタリティや行動様式がインターネットのあらゆる場面を侵食しつつあることです。それに加えて、ブログのような新しいツールが出てきたことで、サイバーカスケード的状況はどんどん加速している。そのとき、加野瀬さんはアクセス・コントロールをすることで私的領域と公的領域を分ければいいと提案したわけですが、繋がりの社会性特有の性質によって、それは対策になりえないのではないかという壁に突き当たった。これが議論の流れだったわけです。

石橋:

石橋啓一郎
 それはわかるんです。つまり人々の欲望や文化の側が、それに合った技術を生み出ししていく、という論理ですね。しかしその逆に、技術やアーキテクチャによって作法や規範が形成されることもあると思うんです。

 うまい例が浮かびませんが、たとえばasahi.comを見ている人がいたとして、asahi.comの記事にはコメントが書けないようになっていますね。asahi.com朝日新聞だと思って読む人は、その文脈で読めるわけです。ブログのコメント欄によって、新しい反応のかたちが生まれるというのもそうだと思うんですね。つまり、あくまでいまは過渡期であって、その繋がりの社会性といった欲望や文化が、すべてを決定していくわけではないと思うんです。

東:

 なるほど、今日の石橋さんは技術決定論的な立場を取られているわけですが、逆に今日の倫理研の議論は社会決定論すぎるのではないかということですね。これはおいおい議論していくことになるでしょう。

 ということで、それでは最後に聴衆の方から質問を受けつけたいと思います。

トラックバック - http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/07120514