ised議事録

06-111. 設計研第4回: 井庭崇 講演(1)

題目:「自己革新的な社会に向けての教育とメディア」

設計研第四回:自己革新的な社会に向けての教育とメディア

井庭崇 IBA Takashi

http://web.sfc.keio.ac.jp/~iba/
慶應義塾大学総合政策学部 専任講師 / 国際大学GLOCOM 客員研究員

  1974年生まれ。2003年、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程修了、博士(政策・メディア)取得。専攻はモデリング・シミュレーション技法、複雑系科学、進化経済学。共著書に『複雑系入門:知のフロンティアへの冒険』(NTT出版、1998年)、『総合政策学の最先端IV:新世代研究者による挑戦』(慶應義塾大学出版会、2003年)、『進化経済学のフロンティア』(日本評論社、2004年)。大学時代に表現活動を行うが、その後、技術と社会の問題に取り組む。特に、複雑系・自律分散システムを研究している。一貫して、人間の感じるリアリティに関心をもつ。現在は、社会シミュレーションの道具づくりを通じて (Boxed Economy Project: http://www.boxed-economy.org/)、社会科学におけるシミュレーション技法の普及と、現実の事例への応用に取り組んでいる。



0. はじめに

 今日は、「自己革新的な社会」*1 のための教育とメディアという話をします。そこで提案したいイメージは、「これからの情報社会は万人が『つくる』社会である」ということです。この提案の背景には、いまの世の中は予測したり解釈したりすることが多く、どうも他者依存的になっているのではないかという問題意識があります。そこで、もっとみんなが能動的にものをつくったり働きかけたりする社会にしていくためにはどうすればよいか、について考えてみたいと思います。つまり情報社会というものを、自分たちで自分たちの未来をつくっていく「自己革新的な社会」として構想したいということなんですね。

 では、このようなヴィジョンの実現に向けて、教育とメディアをどのように設計していけばよいのでしょうか。今日は、コミュニケーションということに注目し、さらに私の研究分野でもある「社会シミュレーション」というものを照らし合わせつつ、考えていきたいと思います。ここでいう「メディア」とは、コミュニケーションのメディアのことで、コミュニケーションを支えるツールのことです。「コミュニケーションのためのメディア」と「シミュレーション」というのは、一見遠く見えるかもしれませんが、この講演では、「シミュレーションは、コミュニケーションのための新しいメディアになる」ということを主張したいと思います。


背景:関心領域

 話をはじめる前に、まず私自身の関心領域とものづくり遍歴についてお話ししておきたいと思います。

 高校時代は、映画監督になりたいと漠然と考えていました。映像のもつ力に興味があったんですね。その当時は、CNNが湾岸戦争報道で映像のトリックを用いたことが話題になっていました。そういう時代ですから、もっと違ったかたちで「異文化理解のための映像メディア」をつくれないか、ということを考えていました。1990年代の初盤なので、まだインターネットも一般的ではありません。そこで、衛星を3つ使って地球をぐるっと囲んで、「世界放送」をするというようなことを構想していたわけです。

 この頃、私が興味をもっていたことはいろいろあるんですが、主要なものとしては、「映像」と「人工知能」と「異文化コミュニケーション」が挙げられます。これらすべてを普通の大学で学ぶことは難しい。そこで当時完成してまもない慶應義塾大学SFC((慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス))に入りました。大学時代は映像製作やイベント開催などをやってきたのですが、そのとき、たまたまめぐり合わせで、環境問題やエネルギー問題に取り組んでいる人たちと一緒に活動することになったんです。私は主に映像担当だったのですが、単に危機感をあおるのではなくて、「こういう未来の社会になったらいいな」「新しい環境にやさしいスタイルはかっこいいな」と思ってもらえるような草の根の試みを行ってきました。

 しかし、草の根で活動し続けていてもラチがあかないとわかってきます。そこで環境問題に対するマクロ的なアプローチも必要だと思い、経済政策学者の竹中平蔵さんのゼミに入ったんです。そこで炭素税によるマクロ経済政策が云々という分析をしましたが、これはこれでしっくりこない。マクロ的な視点になってしまうと、人々の気持ちや行動といったものはまったく無視されていて、いままでの草の根の活動はなんだったんだろう、と(笑)。この2つの経験から、ミクロとマクロの視点はあまりにもかけ離れていて、そのあいだをつなぐものがどうも見えないという不満をもちました。これが、のちに私が、ミクロとマクロの中間のメゾ領域を扱う「複雑系」の分野に関心を持つことにつながっているんだと思います。

 また、当時興味があった人工知能の関連として、ニューラルネットワーク、つまり脳の仕組みをまねたコンピュータモデルの研究にも取り組みました。解析的に解くことが難しい問題を解いたり、学習・成長するシステムを設計するためのモデルです。脳も複雑系なので、この研究も、のちに私を複雑系へと向かわせる流れをつくりました。

 その後、修士の大学院生時代に、複雑系に関する大規模な勉強会を開催し、それを『複雑系入門』(NTT出版、1998年 asin:4871885607)という書籍にまとめました。複雑系の分野では、研究対象をより理解するためにコンピュータ・シミュレーションをつくるのですが、私自身もこのころ実際にいくつかつくりました。でも、これがなかなか大変な作業なんです。そこで、シミュレーションというものを誰もが簡単につくれるようなツールが必要だと思って、後半で紹介するシミュレーション・プラットフォームをつくる、という研究開発を行ってきました。


背景:ものづくり

 一方ものづくりについては、製品化されたような本格的なものはやっていませんが、ゲームや映像作品など、いろいろなものをつくり続けてきました。Webには94年に出会ったんですけれども、当時ほとんど日本のコンテンツがなかった状態で、オリジナルの絵本を描いて公開したり、ゲームを提供したりしました。バンドで音楽もやりましたし、写真の個展もやってみました。さきほどの『複雑系入門』という本も、ある意味作品だといえますし、最近は授業もひとつの作品としてとらえています。本質をついているけれども、普通ではない面白い授業のスタイルをつくることに取り組んでいます。

 さて、なんでこんな話をしてきたかというと、私が「つくる」というとき、それは必ずしもコンピュータ・ソフトウェアだけではないし、逆に物理的なモノをつくるという話ではないということです。情報社会の関連で「つくる」という話をすると、すぐソフトウェアの話だと勘違いされるので、あえて強調しておきたいと思います。以上の点を踏まえたうえで、今日の話をさせていただきたいと思います。


講演の方向性と構成

"The best way to predict the future is to invent it."

「未来を予測する最良の方法は、未来をつくってしまうことである」

by Alan Kay

 講演を始める前に、パーソナルコンピュータの父といわれる、アラン・ケイ*2の「未来を予測する最良の方法は未来をつくってしまうことである」という言葉を紹介したいと思います。これは未来をみんなで占っているだけではなくて、「こうしたい」と思ったことを能動的に提案することが大切だということですね。すごく好きな言葉なんですが、先述した「予測ではなく、つくるほうにシフトする」という話にもつながっています。

 設計研第1回でも鈴木健さんがこの言葉を引いていました。今回から鈴木さんが司会になるのですが、より具体的な設計の話に入っていくという方針を打ち出されています。そこで今日の私の講演の方向性も、正確な未来を予見するというよりは、「こういう未来にしていきたい」「こういう方向に自分は活動していきたい」という、具体性とメッセージ性の強い提案になると思います。

 今日の話は大きく三部構成になります。まず、1) つくるということ自体について考えてみたい。つまり、情報社会化が進むことで、コミュニケーションの連鎖によってつくるという現象があちこちで起きはじめている。こうした新しいコミュニケーション連鎖型の「つくる」という現象について掘り下げていきたいと思います。

 ここで議論したいのは、「万人がつくることができるようになる」には、いかなる教育とメディアを設計すればよいのか、ということです。そこで後半からは、2) 教育、つまりつくる能力を向上させるための方法論と、3) メディア、つまりツールによる底上げの方法論について議論していきます。


1-1.「つくる」とはなにか

人間の知性と「つくる」

「人間の知の大部分はアーティファクトを造る能力から来る」

(D.A.ノーマン*3

※アーティファクト (Artifact)=「人工物。思考や道具を改善するために人間が開発したモノ」

 そもそも「つくる」とはなんでしょうか。たとえば上の言葉は、インターフェース論で著名なノーマンのものですが、彼は「人間の知の大部分はアーティファクトをつくる部分から来る」といっています。アーティファクトは「人工物」と訳されますが、これは具体的なモノや抽象的な概念をひっくるめたものです。

 また、人間は「ホモ・サピエンス(知性人)」といわれますが、「ホモ・ファベル(工作人)」と名づけたベルクソンの言葉も引いておきます。

「知性とは、その根原的な歩みと思われる点から考察するならば、人為的なものをつくる能力、とくに道具をつくるための道具をつくる能力であり、またかかる製作を無限に変化させる能力である。」(アンリ・ベルクソン『創造的進化』(岩波書店、1979年 asin:4003364511

情報社会の本質

 こうしたアーティファクトをつくるという人間の知性の本質が、情報社会において発揮されるのではないか、と考えてみることができます。アラン・ケイは、パーソナルコンピュータを「創造的思考のためのダイナミックなメディア=ダイナブック*4として構想しました。たとえば、声でしゃべる、絵に描く、文で書く、映像でつくる、プログラムでつくる……とさまざまなつくり方があるわけですが、これらをひとつの統合的なツールで可能にしようというわけです。彼はこういっています。

「だれもがダイナブックを所有する世界が生まれたら、どういうことになるだろうか。そういう機械が、ユーザーそれぞれの目的に合わせて、その能力を鋳型にはめられるようなかたちで設計されたら、既存のメディアから、いまだ発明されていないメディアまで包含する、新種のメディア――メタメディアが生まれることになる。」(アラン・ケイ

 ここで重要な点は、ベルクソンと同じように、「メディアをつくるメディア(メタメディア)」という考え方ですね。このメタメディアとしてのパーソナルコンピュータが普及した情報社会においてこそ、だれもが「つくる」ことを可能にし、そしてインターネットがそれを目に見えるかたちにしたわけです。

プロシューマーの時代と「遍在する小さなイノベーション」

 また昨今「つくる」をめぐる議論の文脈として、イノベーション論があります。イノベーションというのは多くの場合、技術的な話として語られることが多いのですが、私がここでいうのはより社会的なものも含みます。たとえばドラッカーは『ネクスト・ソサエティ』(ダイヤモンド社、2002年 asin: 4478190453)の日本語版序文のなかで、いままでイノベーションといえば技術の革新のことがいわれていたけれども、いま重要なのは「社会的な革新」(ソーシャル・イノベーション*5)だ、と述べています。さらに、ドラッカーは、日本ではとくに教育システムの関連が重要だと付け加えています。このドラッカーの見解に代表されるように、いまイノベーションというのは必ずしも技術のイノベーションだけではなく、プロセスのイノベーションや社会システムのイノベーションという領域に拡大して語られる必要があると認識されているんですね。私もその視点を取っています。

 私がここでいいたいのは、情報社会は「プロシューマー(生産-消費者)*6」の時代だと語られ、あるいはマーケティング論で生産者と消費者の境界はあいまいになっていると語られるとき、それはある種の社会的なイノベーションの遍在化と捉えられるのではないか、ということです。

 そもそもイノベーション論を創始したのはシュンペーター*7ですが、彼はイノベーションを「新結合」であるといいます。つまりいろいろなモノや力を組み合わせて新しくすることですね。つまりこの意味では、消費者が多様な消費環境から独特のライフスタイルをつくるという行為も、広い意味では新結合といえます。たとえば、日々の生活のなかで、企業が意図していないようなモノやサービスの組み合わせで、ひとつのライフスタイルをつくる。それを企業が見つけて、新たに商品化するというサイクルも見うけられます。そうなると「生産者と消費者の境界」はあいまいになっていきます。マーケティング論の石井淳蔵氏による、「ニーズが先か、シーズが先かというと、どちらが先でもなくて相互作用的に決まる」という議論*8はこうした事態を説明したものといえます。

 繰り返しますと、私たちはどうもイノベーションというとき、技術のイノベーションを中心に考えているために、企業の組織内の技術マネージメントの話に偏りがちです。しかし、広い意味でのイノベーションを捉えるとき、世の中には小さいレベルから大きいレベルまでいろんなイノベーションがあって、あちこちに遍在している、というふうにみることができる。この小さなイノベーションをうまく拾いあげ、連鎖と共鳴を起こすことができれば、新しいモノや考え方をつくっていけると思うんですね。

 この遍在する小さなイノベーションをくみ上げるためには、よりネットワークが発達し、ユビキタス社会になることも必要になります。いわば「どこでも誰でもイノベーション」という意味で、「ユビキタス・イノベーション」という言葉をつくってもいいくらいです。


イノベーション=コミュニケーションの連鎖

 次に、イノベーションを担う主体とは誰か、という問題について考えてみたいと思います。前回の設計研で「情報社会の設計者は誰か」という問題が出たとき、「いや、結局設計者は存在せず、設計的なコミュニケーションが連鎖しているのではないか」という話をしましたが、まさに同じことです。イノベーションもそれを担う人はいるわけですが、その主体に本質があるのではなくて、「コミュニケーションの連鎖」のなかにその人がいるという視点で捉えることがポイントになります。前回の議論のなかで村上さんが、ご自身の政府での仕事について、自分自身の設計能力ではなく、政府の正当性のもとでの「プロセス」として仕事をしただけだ、と述べていますね。このことにも対応すると思います。

 これまでほとんどの場合、イノベーションというのは、個人あるいは組織が行う行為だという「主体」ベースの捉え方だったと思います。でも、実は、シュンペーターは微妙な表現をしていまして、「『新結合の遂行』を担うのは『企業者機能』である」といいます。つまり、「誰が」という視点ではなくて、「どのように」という視点で捉えているわけです。

 ここで、「コラボレーション」ということを想起してみましょう。コラボレーションというのは単なる分担・分業ではなくて、それぞれの人が知恵を出し合いながら、そのメンバーでのコミュニケーションがなければ到達できないような点に辿りつくことです。つまり、コミュニケーションの連鎖によってイノベーションが引き起こされている。この連鎖イメージこそが、イノベーションが遍在し、自己変革的な社会へ向かうにあたって適しているのではないかと思うわけです。

 実際、私たちはイノベーションを起こす主体を想定するとき、主体モデルの神話に囚われすぎている可能性があります。たとえば、かの有名な発明家のトーマス・エジソンは電話や蓄音機、電球を「発明」(invention)し、その普及を手がけて一連の「技術革新」(innovation)を担いました。しかし、それはエジソンひとりが単独で努力して捻出したものというよりは、実は14人のチームの助けを借りて共同開発したといわれているんですね。助手のひとりだったフランシス・ジェールは、「エジソンとは実は、“多くの人びとによる作品”を意味する一つの集合名詞だった」といいます。私たちは、エジソンはひとりでイノベーションを起こしたと思っていたわけですが、よくその内実を知れば、チームによる共同作業であったというわけです*9。そういった意味では、イノベーションを捉えるためには、主体モデルではなくコミュニケーションモデルで捉える方がよいのではないか、と思えてきます。きっと昔からそうだったんです。ただ、情報社会は、コミュニケーション連鎖のモデルをより強調して促進していくことになるのではないかと思います。


「コミュニケーションの連鎖」という捉え方――ルーマンの社会システム論

 ここで、コミュニケーションの連鎖という概念について、社会学の文脈から検討してみましょう。設計研でも何度か言及参照されているニクラス・ルーマンの社会システム理論は、「オートポイエティック・ターン*10といって、社会の構成要素を「コミュニケーション」とする視点の転換を行っています図:「コミュニケーションの連鎖」という捉え方)。社会学では、従来は、社会の構成要素は人や行為だと捉えられてきたのですが、ルーマンは、社会システムとはコミュニケーションがコミュニケーションを生み出す自己創出的(オートポイエティック)なシステムだと捉えるわけです。

図:「コミュニケーションの連鎖」という捉え方
図:「コミュニケーションの連鎖」という捉え方

 ルーマンの議論からは、今日の議論のインプリケーションを引き出すことができます。たとえばルーマンは、コミュニケーションがコミュニケーションを生み出していくけれども、コミュニケーションは一瞬で消えてしまう出来事なので、社会システムとして繰り返し安定的に連鎖していくためにはなんらかのうまい仕掛けが必要であるといいます。そして、それをメディアと呼んでいるんです。たとえば経済システムというのは、支払いが支払いを生んでいくコミュニケーションですが、そのコミュニケーションを媒介する貨幣というメディアがないと持続的に連鎖していきません。貨幣というメディアがあることによって、その一回ごとの交換関係が担保され、次々と連鎖が起こるようになるわけです。貨幣があればこそ、私たちは経済的コミュニケーションを行うこともできるし、それに参加するためのシンボルにもなる*11

 つまり、つくるコミュニケーションの連鎖というモデルで考えるとき、それはどういったメディアであれば連鎖させていくことができるのかという視点が必要になります。後半の論点であるツールやメディアの議論は、こうした観点とつながっていきます。

  またここでいうコミュニケーションというのは、パイプをメッセージが通っていくという単純な情報移転のイメージではなくて、誤解や新しい解釈を含むものを指しています。たとえばAとBという選択肢があって議論しているとき、私たちの言語的コミュニケーションは、「いや待て、B'があるじゃないか」「Cがあるじゃないか」とオルタナティブを提案できる、ある種のクリエイティビティを伴っている。単に「私はこう思っている」といい合うだけの情報の移転ではなく、そこに新しい意味づけをしていくことができるようなものとしてコミュニケーションを捉えていると理解してください。

*1:註:自己変革というキーワードの含意として、以下の井庭自身の論文を参照のこと。→井庭崇自己変革能力のある社会システムへの道標: 複雑系と無気力の心理学の視点から」(第四回読売論壇新人賞 佳作 読売新聞社、1998年)

*2:註:isedキーワードアラン・ケイ」参照のこと。

*3:註:ドナルド・ノーマンは、認知科学者・インターフェイス研究の第一人者。D.A.ノーマン『誰のためのデザイン?』(新曜社、1990年 asin:478850362X

*4:註:isedキーワードアラン・ケイ」参照のこと。

*5:註:SFCには同名の研究プログラムが開設されている。→「コミュニティ型教育プログラムと地域活性化」: 「ソーシャルイノベーション」クラスター。類義語として「ソーシャル・アントレプレナー」(社会起業家)など。

*6:註:isedキーワードプロシューマー」参照のこと。

*7:註:はてなダイアリー - シュンペーターとは

*8:註:石井淳蔵『マーケティングの神話』(岩波現代文庫、2004年 asin:4006001355

*9:註:こうしたエジソン=一人の天才的発明家という主体、という素朴な歴史観に対する、技術社会学・構築主義的視点からの研究として、トーマス・ヒューズ『電力の歴史』(平凡社、1996年 asin:4582532136)などがある。

*10:註:isedキーワードオートポイエーシス」参照のこと。

*11:註:ルーマンの社会システム理論では、たとえば電話やテレビのような「伝播メディア(伝送路としてのメディア)よりも、権力・貨幣・法といった「成果メディア(シンボルによって一般化されたメディア)」」が理論的に重視される。たとえば経済システムは、「支払うか/支払わないか」というテーマでコミュニケーションが算出されるシステムとして把握される。そこで貨幣というメディア(媒質)は、「支払い/不支払い」という二値的なコミュニケーションのフォルム(形式)を支える役割を果たす、といった具合である。

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