ised議事録

06-114. 設計研第4回: 共同討議 第1部(1)

なめらか」な社会――情報社会の執拗低音

鈴木健(以下、鈴木):

 今回から、東さんにかわりまして、私が設計研の司会をつとめさせていただくことになりました。どうぞ、よろしくお願いします。

鈴木健
鈴木健
 それでは共同討議の第1部をはじめたいと思います。井庭さんの講演を引き受けて議論をする前に、まず井庭さんの講演についてコメントします。そして今回の司会交代にあたって、私の司会方針をお話したいと思います。その後、ゲストコメンテイターの江島さんとディレクターの東さんからコメントをもらうという順番です。

 まず井庭さんの今日の講演についてですが、非常にオフェンシブで面白い議論だったと思います。今回から設計研の司会を担当にあたって、井庭さんにはディフェンシブな議論はしないでほしい、とお願いしていたんです。というのも、10年、20年スパンの議論をするとき、ディフェンシブな議論をしてもしょうがない。ツッコミどころ満載だったとしても、オフェンシブな内容ゆえですから、それでいいわけです。

 ただ今回の井庭さんの話を聞いていて、「つくる」ということと情報社会の関係が明確には述べられていなかったと思いますので、司会として補足させていただきたいと思います。「情報社会において万人がつくるようになる」というのは、「すべての人がプログラムを書けるようになると世の中は変わるんじゃないか?」ということなんですね。

 アラン・ケイがそもそもパーソナル・コンピュータをつくった動機はまさにそうしたものです。パーソナル・コンピュータというのは、いまではラップトップ・コンピュータのことだと一般的には思われていますが、アラン・ケイは違うといいます。いわば識字率が100%になるように、すべての人がプログラムを書けるようになったら世界が変わる。しかし、実際には日本でプログラム書ける人は100万人くらいでしょう。つまり100分の1ぐらいの人しかプログラムを書いていない。そうではなくて、1億人がプログラムを書くようになったら、ということをアラン・ケイはいったわけです。

 コンピュータ・リテラシーという言葉も誤解されています。すべての人がプログラムを書いて、しかも創造的なプロセスとしてプログラミングをする、絵を描くようにプログラムを書く。アラン・ケイはこれこそをコンピュータ・リテラシーという言葉ではじめて表現したんですよ。いま巷でいわれているコンピュータ・リテラシーというのは、そうではなくてマウスやインターネットの使い方、メールの受け取り方や書き方という意味に堕してしまっている。

 また井庭さんの講演にも出てきましたが、メタメディアという考え方も重要です。プログラミングをすべての人ができるということは、全員がパーソナル・コンピュータというメタメディアを使って、自分自身のメディアをつくるということです。そのために、彼は「オブジェクト指向」などの新しいプログラミングのパラダイムをつくって、もっとプログラムという行為をやさしいものにしようと考えました。さらに彼は、6歳の子供を対象にしたプログラミング教育などを行うなど、独自の教育論を展開しています。

 そして今回の井庭さんの話は、アラン・ケイの影響を非常に強く受けながら、新しいパースペクティヴを打ち出していると思います。それはなぜかというと、アラン・ケイのいうパーソナル・コンピュータはやはり「パーソナル」、つまり個人というところから出発している。しかし井庭さんはそうではなくて、「コミュニケーション」に着目するわけです。つまり、個人としての天才がものを発明するのではなくて、複数人がコラボレーションするという、「コミュニケーションの連鎖」という点を明確に打ち出しているところが新しいと思います。

 また、「すべての人がメディアをつくる」とアラン・ケイがいうとき、彼は非常に優秀な神童だったことは見逃せない事実です。たとえば、彼は子供の頃にクイズ番組で優勝した経験があったくらいでした。だから彼にはある種のエリート主義的なところがあったというか、彼自身にそういう考えはなくとも、優秀すぎるがゆえに求めているものが大きすぎた感は否めない。けれども井庭さんはそうではなくて、「小さなイノベーション」が大事なんだというわけです。天才的で巨大なイノベーションを生み出すというよりは、小さなイノベーションをコミュニケーションの連鎖のなかから生み出していくということが、これからの社会では大事なんだと主張されていたと思います。

司会方針

 次に私の司会方針についてです。

 ised@glocomの研究会は設計研倫理研の2つがあって、こちらは設計研なんですが、今回で4回目です。これまでの3回でどのような議論がなされてきたのかを総括しつつ、今後の議論に向けていきたいと思います。

 まず第1回では、石橋さんから特にIETFにおけるインターネットの設計プロセスについて分析を加えていただき、「設計の場の設計」が重用であるという議論をしました。さらに第2回、八田さんからオープンソースの「フォーク」についての分析をもとに、環境管理型権力ガバナンスのためには「再定義可能性」、つまりあるルールがあったときにそのルールを書き換えられる可能性が担保されていることが非常に重要である、という議論がなされました。そして設計研第3回で楠さんが問題提起したのは、そもそもこの研究会には「情報社会の設計」というタイトルが付いているけれども、設計とは可能なのか、そもそも設計者とは誰か、という深遠な問いでした。

 こうしたこれまでの議論を振り返ると、「情報社会の設計」についてというよりも、「設計論」が中心的に議論されてきたと思うんです。もちろんこれは非常に重要なことで、設計論というのをしっかりと押さえることで、これまでの歴史がいろいろとわかってきた。そこで残る4回は、それを引き受けるかたちで、具体的な社会設計を提案していきたい。そこで今回は、特に教育というテーマについて井庭さんに講演いただいたわけです。

スケールチェンジ

 それでは、今後の議論をどのようにスケールチェンジさせていきたいか。3点あります。

 1) まず、時間スケールを変えたいと思います。2年3年のスケールの話は基本的には倫理研のほうにお任せして(笑)、設計研のほうでは10年20年先を見据えた非常に長いスパンの議論をしたいんです。10年後20年後に読んでも面白い議論を展開したい。

 2) 次に、空間スケールです。たしかに日本という空間や、あるいはあるひとつの企業について議論することも非常に重要です。しかし今後は世界レベルで意義のある議論をしたいと考えています。ですから日本について議論をしたとしても、その背景に「これはどれだけユニバーサリティがあるのか」ということを踏まえて議論をしたい。

 3) 最後に、テーマスケールを変えたい。というのも、ここまで3回の議論は、絶対に他の業界の人たちにとっては理解できない議論だったと思うんですね。つまりテクニカルタームがあふれていて、ネット業界・IT業界の人でないと興味を持たないような議論が多かったのではないか。そこでこれからはそうではなくて、あらゆる分野の人たちが関心を持つような、幅広いテーマのスケールを持って議論をしたいと考えています。

 こうしたスケールチェンジによって、「情報技術における設計論」ではなく、まさに文字どおり「情報社会を設計していく」という議論ができると思います。要するに普遍性のある議論を目指していきたいということです。

執拗低音としての「なめらかな社会」

 では、ここでいう普遍性というものはなにか。そこで設計研の「執拗低音」についてお話したいと思います。執拗低音というのは丸山真男の言葉で、要するに議論や思想の下に流れている、何度も何度も執拗に繰り返して現れるテーマのことです*1。そして今回、僕は「なめらかな社会」というものを持ってきました。

 なめらかな社会とはいったいなにか。まず、「なめらか」ということを説明するのに、「シグモイド関数」という非常に良い関数があるのでご説明したいと思います。この時点であらゆる人が興味を持たなくなるんじゃないかという気もしますが(笑)。

図:シグモイド関数
図:シグモイド関数

動画:シグモイド関数 (883k)(再生にはWindows Media 9以上が必要です。)

 数式は置いておくとして、下に曲線のグラフがあります。中学や高校時代の古い記憶を思い出していただきたいんですが、X軸とY軸があって、この2つの関係を「関数」といいます(笑)。大事なことは、Xが変化するとYが変化するということです。いいですか、ここは大事ですよ(笑)。そしてこれがシグモイド関数というものなんですが、図を見てもらえばわかるように、すごくなめらかな感じがしますね。この「λ」(ラムダ)という変数を変化させることで、この関数のかたちがなめらかでないものに変わったりします。

図:step
図:step

 ラムダが大きくなると、切り立ったかたちになります(図:step)。これをステップ(step)と呼びます。

図:flat
図:flat

 逆にラムダが0に近付くと、フラット(flat)になります(図:flat)。

 このように、関数はラムダの値次第で、切り立ったものにも、なめらかな曲線にも、フラットなものにもなります。これがシグモイド関数の性質です。

 そして「なめらか」というのは、既存の社会関係におけるステップのような切り立った二者関係、つまり二元的なものを、なだらかな曲線にすることです。たとえば消費者と生産者の関係は二元的ですし、それに対してプロシューマーはすごくなめらかな感じがする。ここで重要なのは、ラムダという値を拡大していくと、なめらかになるということです。つまりステップなものは実際には存在しません。スケールを変えていくと、ものすごくなめらかに見えるということなんですね。

 もうひとつ重要なのは、私たちは内側と外側を分ける切り立った二元的な関係を、通常はよくないものだと考えがちです。つまり、敵と味方を区別するのはよろしくない、と。かといって、フラットもどうか。というのも、フラットな世界には非対称性・差異がないんですよ。ここには文化が発生しない。逆に、世の中はフラットだといってしまう欺瞞も存在するわけです。たとえば完全市場*2というのは公平でフラットな社会だといわれますが、実際にはフラットじゃない。完全市場なんかどこにも存在しないわけですから。そういう欺瞞性がフラットにはある。

 そこで出てくるのが「なめらか」なんですね。本当はなめらかな関係だけれども、なめらかではない概念がこの世の中にはたくさんあって、二元的なもの、たとえば組織の内側と外側を分けるという概念はそのひとつです。

図:なめらかでない概念
図:なめらかでない概念

動画:オートポイエーシスのセルオートマトン (再生にはWindows Media 9以上が必要です。)

 ここでマス目状の図になっているのは、フランシスコ・ヴァレラが1974年につくった「オートポイエーシス」のモデルで、「セルオートマトン*3と呼ばれているものです(図:なめらかでない概念)。詳しく説明すると、1個1個の点がセルという要素で、隣の要素と相互作用するようにプログラムされています。そうしたセルオートマトンという研究分野があるのですが、それを使って細胞を再現しようとしたものがこれです。ひとつひとつの要素は、隣の要素と相互作用するだけなんですが、全体的に内側と外側を分けるような不思議な振る舞いが現れる。1個1個の要素はミクロな相互作用しているだけなのに、マクロ的には膜のような存在ができて、内側と外側を分ける細胞という存在が出現する。つまり非常にフラットな世界から、内側外側を分けるような切り立った世界が生まれているわけです。

 ここで重要なのは、ミクロな相互作用によって内側と外側が生成されているけれども、その内側と外側の差異はクリアなものではないということです。このモデルを動かすとよくわかるのですが、膜はしょっちゅう壊れています。壊れてはくっつき、死んでは生き返ることを繰り返している。つまり実際には中間的なレイヤーがあって、はたして細胞はあるのかないのかわからない状態から細胞はできているということです。

 ただ、「これが細胞だ」と内と外を分けた時点で、それはもう二元的になってしまうわけです。内側と外側、敵と味方、ネットとリアル、生命と機械、人口と自然、こうした二項対立で分ければ非常に分かりやすい議論にはなりますが、そこにはこうした中間的なものが失われてしまっており、繊細さがない。これからの設計研では、そうした繊細でなめらかな議論をしていきたいと思います。

図:なめらかな社会へ
図:なめらかな社会へ

 それでは、なめらかが分かったとして、なめらかな社会とはいったいなんでしょうか(図:なめらかな社会へ)。

 今回井庭さんには、具体的に教育がどうなめらかになるのかという話をしていただいたと思います。これまでの教育には教える・教わるという非対称性があったけれども、その非対称な関係がなめらかになっていくんだ、という説得力のある議論をしていただいた。次回、おそらく近藤さんからは、はてなという会社を実際に経営されている経験をふまえて、どのように企業というものをなめらかにしていくかについてお聞きしたい。そしてその次の村上さんには、国家や行政はどのようになめらかになるのかというテーマでお話しいただきたいと思います。基本的に、これまで教育・企業・国家というのはとても切り立った世界、シグモイド関数でいえばステップなものだと思われていたわけです。これが情報社会において今後どのようになめらかになっていくのかについて、個々の分野で非常に活発な活動をされているみなさんに話していただく予定です。

 ちなみに僕はひねくれているので、ちょっとそのテーマからはずれて、フラットなものからなめらかなものをどうつくっていくか、という話を総括的にお話できたらいいんじゃないかと考えています。

情報社会学における近代化の三局面

図:近代化の三局面
図:近代化の三局面

 さて、教育・企業・国家というものをテーマとして取り扱うことを、別の側面から捉えておきたいと思います。ised@glocomホスティングしているGLOCOMの代表、公文俊平氏の情報社会学スキームによれば、近代化は「軍事化・産業化・情報化」の3つの局面から構成されています*4(図:近代化の三局面)。それぞれのS字波の重ね合わせによって社会システムを捉えていくという考え方なんですが、最初に軍事力がメインの国家というものが生まれ、その後産業化が起こって、企業のアクターたちが強くなってきたというものです。そしてこれからは情報化の時代であるというとき、公文先生はよく「智民」という言葉を使われますけれども、情報・知・説得力というものが社会的な力を持つようになるだろうと分析されている。

 この近代化論は、出てくるアクターがどんどん変化しつつ、その3つが重なり合ったものが近代なのであるという考え方をとっています。そしていま現在はちょうど近代化の一番最後の部分、「ラストモダン」であると公文さんは議論されている。ただこの議論のスキームですと、我々がいま話題にしている情報社会は、ある種の完結したラストモダンとしての革命力を持っているという話になります。しかしそれだけではなくて、比較的古いシステムである国家や企業に対しても、情報社会や情報技術がいかなる影響を与えていくのかまで踏み込んで議論できればと思います。

病気と薬と処方箋

 最後に、「病気と薬と処方箋」という話をしておきます。

 たとえばエイズや脳溢血など、いろいろな病気があります。そしてその病気を治すために、どういう薬を与えればいいかというのが処方箋です。この処方箋というのは、複数の薬を合わせたものですね。昼飯食べた後に飲むというタイミングの調整も必要ですし、この薬の副作用を押さえるために別の薬を飲め、という相互作用も考えなくていけない。

 そしてこの薬のメタファーは、社会問題について議論するときにも通用すると思うんです。社会問題というのは、問題があるかどうかはわからなくとも、とりあえず発見される。その病気が本当にあるかどうかはわからなくても、とりあえず病気が発見されるのと同じです。そして問題が発見されると、その社会問題を解決するためにいろいろなことを議論するわけですね。そのとき、いろいろな薬を使って処方箋を組み合わせて、どうすれば治療できるのかを考えるのが政策にあたります。つまり複数の薬を組み合わせてパッケージ化するわけです。

 そして設計研では、この処方箋の話はしたくないんですね。処方箋をめぐる議論も重要ですが、10年20年スパンを考えてみるとき、いま処方箋について議論してもしょうがないと思うんです。情報技術が社会にこれからどういう影響を与えるのかというスケールで考えるとき、むしろ薬のレベルでまずは考える必要がある。つまり、副作用はあるかもしれないという前提で議論をしなくてはいけない。設計研が議論していきたいものは、むしろ劇薬にあたるものです。実際、薬というのは10年20年というスパンで相互作用を検証されながらつくられているのはご存知だと思うんですが、設計研はまさにそういう議論をしたいんですね。情報技術は劇薬であって、かなりの副作用はあるかもしれないけれども、まずは薬をつくっている段階である、と。副作用を認識したそばから、「だからだめだ」という議論をするべきではないということです。設計研には、劇薬的で、非常にオフェンシブでアグレッシブな議論を期待したいと思います。

 以上が私の司会方針です。

 それではまず井庭さんの講演を受けてご質問を受けたあとで、今回ゲストの江島さんに、長めのコメントを頂きたいと思います。

石橋啓一郎(以下、石橋):

 まず井庭さんへの質問です。井庭さんが「万人がつくることのできる社会」といったことを、鈴木さんはアラン・ケイを引きながら「全員プログラミングできるようになる」と翻訳されていましたが、その翻訳は正しいのかどうか、お聞きしたい。

石橋啓一郎
石橋啓一郎
 鈴木さんへの質問ですが、ステップなもの、つまり切り立った二元的な関係よりも、「なめらか」のほうがよいと考えているその理由はなんでしょうか。

井庭崇(以下、井庭):

井庭崇
井庭崇
  まず最初にお話ししたように、私が言う「つくる」というのは、プログラムをつくるということではなくて、もっと広く、いろいろなものを「つくる」ことを想定しています。なので、ここでいう「万人がつくれる社会」は、「万人がプログラミングできる社会」とイコールではありません。ただ、アラン・ケイのいう「メディアをつくるメディア」という話については、その解釈で正しいと思います。講演では、「道具をつくる道具をつくることができる」ことが人間の知性の重要なところだという紹介をしましたが、同じことですね。

 もちろん、必ずしも全員がそこまでつくれるようになるべきだとは思っていません。つくれるようになればそれに越したことはないんですが、それを目指しているわけではない。

 それに、ただ動くものをつくっても意味がないと思うんですね。動くものをつくり、そこからまた着想を得てコミュニケーションを誘発したり、あるいは考えを深めたりできることが重要です。単にシミュレーションを完成物として捉えると、値を変えて動きを変える程度になってしまう。しかしそれではだめです。「私はこう思う」というロジックをつくり、それを自分で動かしたり他の人に動かしてもらったりできるのが重要だと思っています。ですので、必ずしも全員がプログラミング・ツールをつくるべきだということを私は考えていません。アラン・ケイのいう意味のコンピュータ・リテラシーだけが重要であるとは考えていないということですね。


鈴木:

 ただ、アラン・ケイはプログラミング・ツールをつくれという話をしたわけでは必ずしもなくて、単にプログラムをすべきだ、といったわけです。そして重要なのは、これは全員がプロの小説家やプロのライターになるという話ではないということです。でも、ちょっと日記を書く、文章を書くということはみんなしているわけですよね。これと同じ状況をプログラムの世界にもたらすだけでも、世の中はぜんぜん違ってくるんじゃないか。そのひとつの例として、社会シミュレーションを井庭さんは広めようとしているんだと思います。

 そして石橋さんのふたつめの質問ですが、なぜなめらかがいいのか、これは非常に根源的な質問ですね。なんとなくね(笑)、なんとなくその感覚だけは共有していると思うんですよ。だからこれはちゃんと言語化しないといけないと思っています。

 さて、なぜなめらかがいいのかというと、「絶対悪」というものが世の中から消えつつあるということがひとつあると思います。もちろん世の中に悪はたくさんあるけれども、とある共同体のなかにいるアクターが悪い行動をとるのは、ある意味仕方がないと思うことが多くなっている。つまり、それも一種の正義だと考えつつある。すると現状で起きているのは、要するに正義と正義との対立ですね。すべてのアクターにとって理があるわけです。

 いま、むしろ正義というものを生み出していく固定的なシステムがあって、それを共同体や組織が担っている。多重所属のない固定的なシステムでは、最後は決定的な対立になっていって、組織と組織、思想と思想が対決せざるをえない状況になってしまう。それが、最近起きている世の中の問題のかなりの部分を占めているんではないか、という直感があるんですね。

 だからこそ、なめらかにしていくことによって、そのような敵と味方の対立・区別を変容させていくことが重要なんではないかと思うわけです。情報技術は、その点を社会的なレベルでサポートできるのかということが問われているのではないか、とも思っています。

石橋:

 ありがとうございました。

鈴木:

 ほかに質問はありますか。

近藤淳也

 コラボレーションについての報告をいただいたんですが、その現場においては、構成員が全員フラットな役割を担っていたほうがいいんでしょうか。それともある程度役割を分担して、「今日はこれをやろう」といったことを決める人・アイディアを出す人と分けたほうがいいのでしょうか。

井庭:

 役割が完全にフラットになるということはないと思うんですね。やはり、人それぞれ、それまでの経験や考え方、好みなどがあり、それが組み合わさることが重要なわけです。その違いがある上で、「なめらか」な役割分担がいいと思うんです。誰がディレクションを取るとか、絵を描くのが得意だからスケッチを担当するというような分担はあったとしても、必ずしもそれに固執せずに、その役割を大きく外れて何かをやることも許される、という感覚が近いのではないか。

 たとえば私たちがつくったシミュレーション・ツールの例でいうと、人の入れ替わりはありますが、いつもだいたい4、5人がアクティブに動いているチームで開発しました。その場合、プログラマーとして「つくる」ことに参加する人もいるし、社会モデリングの視点から「つくる」ことに参加する人もいます。ただし、プログラマーであっても、社会モデリングの立場になった発言もするし、その逆もあります。このように、役割分担が緩くなっていて逸脱できることが重要なんだろうと思っています。

 またいろいろな企業での開発現場の話をお聞きしていても、面白く盛り上がったチームというのは役割関係をあえて崩して、ときには越権行為をすることが必要だといわれます。そういう意味でなめらかという言葉が適していると思うんです。

*1:註:丸山真男の日本思想史研究における鍵概念。執拗低音(バッソ・オスティナ-ト basso ostinato)というのは音楽用語で、執拗に繰り返される低音主題のことで、主旋律を変容させる効果をもつ。この言葉を使って、日本思想史において、外国からきた文化や思想という主旋律が日本的に屈折していくことを丸山は比ゆ的に表現した。→丸山真男についての参考:「市民のための丸山真男ホ-ムペ-ジ」、丸山眞男「原型・古層・執拗低音」(丸山眞男他『日本文化のかくれた形(かた)』(岩波現代文庫学術、2004年、所収 asin:4006001282

*2:註:いわゆる自由競争によって、市場による資源配分がもっとも効率化されている(需要と供給の一致)状態。完全競争状態。

*3:註:以下の解説を参照のこと:セルオートマトンと複雑系 - セルオートマトンって何?

*4:註:情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる: 2.2.2. 深度1の眼:近代化の三局面

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