ised議事録

06-115. 設計研第4回: 共同討議 第1部(2)

「つかうメディア」から「つくるメディア」へ――江島健太郎からの応答

鈴木健(以下、鈴木):

 それでは、江島さんから今日の講演についてコメントをいただきたいと思います。江島さんはオブザーバーとして何度もised@glocomには来ていただいていたんですが、今回はゲストコメンテイターとして参加されています。

 現在インフォテリアUSAの社長ですが、すこし内輪的な話をすると、1年半ぐらい前からアメリカのビザ取得に手間取っていて、ついに先日取得に成功し、来月渡米することが決まりました(笑)。江島さんのいるインフォテリアという会社はXMLの専業ベンダーとして有名なところです。井庭さんが社会シミュレーションをヴィジュアルにつくるツールを開発されていたんですが、これと同じように、"ASTERIA (アステリア)"というヴィジュアル・プログラミング環境を江島さんはつくっています。またご存知のかたも多いと思いますが、CNETでブログを連載していて*1、非常にアグレッシブで論争を巻き起こすようなエントリーを数多く書かれていますね。

 それでは江島さんお願いします。

江島健太郎(以下、江島):

江島健太郎
江島健太郎
 今回の井庭さんの発表をお聞きして、いいなと思ったキーワードが「つくる」という部分です。このつくるという言葉は、いろいろな解釈のしかたがあると思うんですが、とても前向きな感じがしますよね。要するに人間は前向きに楽しいことをやっているときに、内発的になにかをやろう、変えていこうというモチベーションが生まれるものです。また鈴木さんからも紹介のあったASTERIAというソフトウェアなんですが、これも実は「『使う』から『つくる』へ」というテーマ性をもっているんですね。これについては、のちほど紹介させていただきます。

図:ポジション
図:ポジション

 コメントの前に、まず私自身のポジションについて簡単に説明させてください。まず職業についてですが、インフォテリアというソフトウェア会社で働いておりまして、この会社は日本で1998年にXMLの専業ベンダーとして創業されました。いまではXML専業ベンダーというカラーはそんなに強くないんですけれども、もともとロータス・ジャパンの中核で働いていたメンバーがスピンアウトし、日本発のソフトウェアをつくりたいという思いで創業された会社です。いままでは日本でソフトウェアをつくってビジネスにしてきましたが、これからは米国に対していま我々がもっているソフトウェアを展開していくという段階に来ています。

 また私の現在の個人的な関心としては、「生命から社会までを駆動する意味作用」というテーマに興味があります。いわゆる情報学、つまり情報が生命に対してどのような作用を持っているのかというところから興味の手を伸ばしているところです。

 そして、設計研に望んでいるのは、射程の長く広い議論です。これは鈴木さんの司会方針でも打ち出されていたので、望むところという感じです。

 今回、執拗低音としてなめらかという言葉が出ていました。私が日々感じているなめらかでないことはなにかというと、エリートと大衆という二元対立なんですね。たとえばコンピュータのインターフェイスにCUI(Character User Interface)とGUI(Graphical User Interface)という区別がありますが、従来の古いタイプのエンジニアはCUIの世界が当たり前で、なんでもコマンドラインでシステムを扱う、コントロールする、それから開発するというパラダイムにいました。これがGUI、つまりマウスを使って簡単に使えるようになったとき、PCというのが大衆化したというのはみなさんご承知のところだと思います。こうして世の中はどんどん変わってきたんだよ、というとき、ただその裏ではエリートと大衆という隠れ対立構造は保持されていて、たとえばCUIの世界が居心地がいいと思うお歴々がGUIの世界の新参者をバカにしているというような、お互いがお互いのことを理解できないままにいまに至っているのではないか、ということを問題として感じています。いまどきの若いもんは……っていうアレは、単に世代論というよりも一種のエリーティズムだと考えることもできるわけですね。

 あとは同じような話が続くのですが、純文学と漫画という対立の構図も、なめらかではない。これについては、私たちのつくっている製品が、純文学と漫画というメタファーで理解できる対立構造を持っているというお話につなげていきたいと思っています。また、プロデューサーとコンシューマーの対立もなめらかではない。これは今回プロシューマーというキーワードでいわれていたものですね。

コミュニケーション

 さて、それでは井庭さんの発表を受けたコメントを始めたいと思います。キーワードとしては3つあったと思います。ひとつはコラボレーション、つまりコミュニケーションによってつくるというところですね。それから教育論、そしてシミュレーションという流れでした。それではまず、コミュニケーションとはなにかということについて、私が理解していることを整理したいと思います。

図:コミュニケーションを担保するもの(1):共有体験
図:コミュニケーションを担保するもの(1):共有体験

 まず、コミュニケーションというものがなぜ成立するかというと、それは話者の間で過去に共通の体験が存在しているからです(図:コミュニケーションを担保するもの(1):共有体験)。コミュニケーションは単なる伝達ではない、というお話があったと思うんですが、まさにその通りなんですね。最終的に情報を消費するのは人間であるというところに立ち返ると、複数の人が同じ言葉を聞いたとき、脳の中にどういう情動が起きるのかというと、その反応は同じではない。たとえば幼少時に辛い虐待にあった経験をしている人とそうでない人とでは、ある同じ文章を読んだ時にも受ける情動の質というのが異なってくる。これはかなり常識的な範囲で理解されることだと思います。

 このように、言語コミュニケーションには、「AならばBである」という単純なロジックだけで説明がつかない「解釈項」がある。これがいわゆるパース*2の記号論などでいわれていることです。つまり、観測者の視点を持ち得なければ情報は意味をもたず、情報というのはそれ自体が客観的な実在ではないということです。これが私の根源的な問題意識として強く持っているものですね。

図:コミュニケーションを担保するもの(2):欲望の三角形
図:コミュニケーションを担保するもの(2):欲望の三角形

 それからもうひとつ、これはコミュニケーションという論点からはやや意表を突いた考えかも知れませんが、ルネ・ジラール*3の「欲望の三角形」というものを導入したいと思います。社会学は門外漢なので突っ込みどころ満載かもしれませんが、要は動機付けということですね。コミュニケーションを生む動機はどこから生まれるのか。それは楽しいからやるんだとしても、では楽しいというのはどこから来ているのかを考えるとき、この概念は斬新な視点を与えてくれます。

 どういうことかというと、この三角形で表現されているのは、つまり主体が対象を欲望するという単純な図式で人間の欲望はできていないということです。実はそこにはライバルという存在があって、これをメディエーターと言っているわけですが、そのライバルとしての他者が欲望するものを欲望することで、人間のコミュニケーションはつくりだされている。他者の視線の存在によってコミュニケーションは無限に自己増殖する性質を持っているというわけです。なぜなら、ライバルとの差異を媒介にしているために、コミュニケーションの完了によってその差異が「なくなる」ということは実は前提とされておらず、むしろ差異を生み出すためにコミュニケーションを行うということが基本的前提にある。そしてこのライバルという存在が、他者から見られているという自意識的な欲望を生み、それがコミュニケーションの発生を担保している、という仕組みとして理解しています。

 つまり「解釈のブレ」と「動機付け」という2点を、コミュニケーションにおける基礎づけのポイントとして押さえておきたいということです。

プロシューマー

 次にプロシューマーというキーワードについてです。私自身、プロシューマーが本当にどうしたら可能なのか、ずっと堂々巡りを繰り返していたんですね。そもそもプロデュースする、ものをつくるということと、それを消費するということが非対称な構造であるがゆえに、自分が目立ちたいがために作品をつくって世の中に知ってもらいたいという欲望の源泉になっている部分がある。これがなくなるという意味でのプロシューマーというのは、かなり苦しいキーワードになってしまうのではないか。このように、差異が消滅するという路線で考えるとプロシューマーはある意味ミスリーディングな言葉になってしまう。

 つまり、実際のところなにかをつくっているのであれば、最終的にはプロデューサーの立場から記述すべきではないでしょうか。なめらかという話がありましたが、プロデューサーかコンシューマーかというゼロイチのステップな世界ではなくて、一方でフラットでもない中間のという意味での答えは見つかるはずではないか。それをうまく表す言葉というものが生み出せれば、よりこの研究会の意義というのが出てくると思うんですね。さもなければ、コンシューマーとプロデューサーの両輪をプロシューマーと名づけてしまえば、それは結局リテラシーの高い人ということになってしまう。つまり、一部のエリートやアーティストなどに限られた議論になってしまうことを危惧しているんです。

教育

 次は教育論についてです。一番興味を持ったのは、「シミュレーションが新しいエクリチュールになるのではないか」というところでした。シミュレーションという可視化する方法、つまり自分が思っているアイディアを表現する動的な表現メディアを使って、相手とコミュニケーションができるようになるというヴィジョンはとても刺激的です。シミュレーションがわれわれの既存の言語を拡張し、ノンバーバルなコミュニケーションとして成立する可能性を模索していければ面白いと思います。

 そのとき問題になるのは、たとえシミュレーションという手法であろうと、それがコミュニケーションである限り、体験の共有は必要だろうということです。その点で、教育がキーになってくるという先読みはさすがだと思いました。

 一方で疑問に思うのは、シミュレーションをつくりたいという動機はどこから生まれるものなのかということです。たとえば私はシミュレーションのソフトウェアを見ていておもしろいなと思うんですが、じゃあ具体的になにをやるかと問われると、まだ自分のなかにテーマを持っていないので答えられない。その最初の動機付けはどう生まれるのか? という問いが、一般的な問題として立ち現れてきます。

メタメディアの権力性

 またアラン・ケイのいうメディアをつくるメディア、つまりメタメディアという部分についてもコメントします。現代においてはパーソナル・コンピュータによってメディアをつくることができるようになった。たとえばSNSのようなものをつくって世の中で使ってもらうというように、一種のメディアを構築すること、場を提供することが簡単になった。そういう力としてメタメディアを捉えたときに、そこにはやはり権力が発生する。

 そもそも権力というのはナイーブな議論になりがちですから、私があまり突っ込んだ議論をするのも危険な香りがします。しかし、続けましょう。権力を媒介するメディアの歴史を振り返ると、古くは神話が権力を裏付け、口承される神聖な音声言語があって、それが文字に置き換わり、法や宗教という体系を備えたものが生まれて、それが複製能力を飛躍的に高める活版印刷によっていわゆる「メディア」となり、いまは新聞やテレビがあるという流れがあります。

 このメッセージの媒体としてのメディアというところまで人類社会は到達したけれども、いよいよメタメディアのリテラシーというのは、権力として非常に強いものになるのではないかという問題意識を持っているんです。要はプログラムを書ける人は、非常に世の中に対して強い影響力を持つ存在になる。現在は情報社会の初期段階にあると私自身も思っているのですが、この段階においてはやはりプログラマーは非常に大きな力を持っています。それは自分が決めたスペックどおりに人の行動パターンを規定することが可能だからであって、これはつまり、メタメディアが新しい権力のかたちになるということです。

 ここで考えなくてはならないのは、それが権力になるのは構わないとしても、メタメディアをつくるということが、アラン・ケイが理想としたように大衆のものになるのはいつなのかということです。権力として発動してしまうほど特権的なメタメディアというものを、誰もがリテラシーとして獲得できる時代が来るというのは、その能力を発揮する動機に照らして矛盾ではないのか。プログラマーと大衆のリテラシーの差異がなくなってくれば、この権力構造はほんとうになめらかになるのか。これは私自身が普段から感じている問題意識の告白に近いのですが。

ASTERIA 「つくるメディア」から「つかうメディア」へ

 次に、インフォテリアという会社が開発している、ASTERIAというソフトウェアについて紹介したいと思います*4GUIの登場がパーソナル・コンピュータを使うということを万人のものにしたことは、みなさん非常によく耳にされる史実だと思いますが、これはあくまで対話的にコンピュータへ命令を与えて「使う」という次元の話であって、新しいメディアを「つくる」というレベルには至っていません。

 そして私たちがASTERIAでやろうとしていることは、グラフィカル・スクリプティング・インターフェイス、すなわちプログラムを書くということ自体を、マウスとGUIの画面の上で行うというパラダイムの転換を行うことなんですね。それによって、メディアをつくるための敷居を下げる力を働かせることができるのではないかと考えています。そしてこの背景にある狙いは、井庭さんのシミュレーション・プラットフォームと同じものです。つまり画像言語のレイヤーを既存のプログラミング言語の上に重ねることによって、より大衆に力を与えるという視点ですね。

 ASTERIAがグラフィカル言語だといわれても、皆さんは唐突でよくわからない印象を受けると思います。この製品は二年半ほど前からビジネスを始めて、現在大企業を中心に180社くらいの方々に使っていただいているのですが、ここまで使われるようになった歴史的背景を説明したいと思います。

 かつての時代には、企業のなかに巨大なメインフレーム・サーバーが1個存在し、そこに基幹システムを導入するため2,3年のプランを立てて、その計画どおりに構築していくというプロセスを踏んでいました。そこへ、UNIXやWindowsのような小型で安価なオープンシステムが登場し、ダウンサイジングが進むことになりました。そしてこのダウンサイジングによって、より小さな意思決定で小回りのきくシステムを導入することができるようになりました。

 その結果なにが起きたかというと、いわば非常に部分最適に、自分たちにとって使い勝手のいいシステムが簡単につくれるようになったけれども、蓋を開けてみると勝手気ままに「つくり散らかし」という状況になってしまった。要は、狭い部門ごとに自分たちが都合のいいものだけをつくってしまったわけです。たとえば経理部門がつくったものと販売部門がつくったシステムは、まったく違うアーキテクチャで構築されてしまっていて、データ構造も大きく異なるという状態になった。

 するとどうなるか。たとえば販売部門で出てきた売掛けのデータを、会計のほうに戻したいというニーズが社内に生まれたとしましょう。それをどのようにつなぐかというとき、そのインターフェイスの調整が発生しますが、これが非常に大きな問題になってしまうんですね。部署が違うと、それぞれに専門用語がちがう。お互いの話している言語がまったく異なるために、お互い相手のことが理解できず、全然システム同士がつながらない。これがシステムの「孤島化」と呼ばれている現象で、分散コンピュータの問題系の根っこにある問題です。

 そしてこの孤島をつなぐところにASTERIAは解を持っています。たとえばwebサービスという言葉をお聞きになったことがある方も多いと思うんですが、XMLのようなデータ形式を使って、システムのインターフェイスを媒介し、データのやり取りをするというものです。これは合意されたプロトコルがインターフェイスとしてあって、それを介してメッセージングや翻訳を行うものですが、Aというシステムからデータを取り出して翻訳してBというシステムに入れるという、プリミティブな連鎖をどんどんつなげていくことで、システムをつなげていくことができる。そしてこのwebサービスを、ASTERIAではグラフィカルなアイコンを繋いでいくだけで作成することができます。

 ASTERIAでは、いまの時代ならではの要請として、「つくり散らかされてしまったシステム」というものを前提としています。あるときこのグラフィカル・ランゲージという考え方について、Rubyのまつもとさん*5に、「グラフィカル言語なんていうものは昔から死屍累々だ」といわれたことがあります。実際、たしかにそうなんです。グラフィカルな言語、絵を描くだけでシステムをつくるということは、みんなアイディアとしては誰でも思いつくし理想としては思っていたんだけれども、誰も成功したことはなかった。

 これはなぜか。そもそもASTERIAのようなデータ処理と、いわゆる一般的なプログラミングでは、処理の粒度が異なるんですね。非常に細かいレベルでif-thenの分岐が発生するプログラミングにおいては、実はこの図示言語は向いていません。しかし、大きなシステムを連携するという鳥瞰的なビューに立てば、データはメッセージとして塊のまま扱っていくことができます。だから完全にグラフィカルでノンコーディングな状態で、システムを連携させることがリアルになる。比ゆ的にいえば、このASTERIAは食物連鎖でいえば一番頂点に立つ肉食動物のような存在といえます。つくり散らかされたシステムが増えてきた現代だからこそ、完全にノンコーディングでグラフィカルな言語が存在可能になったわけで、これもある種の時代の産物であるというのが、私たちがこの製品に対して与えている解釈です。

 もうひとつ、先ほどの部署がちがうと言語が異なるという問題ですが、これは根の深い問題です。インターフェイスの問題というとWebサービスとかXMLとか構文的技術的な面ばかりが論じられるのですが、根本的には意味論的な問題なので、Aという部署とBという部署から人間が集まって話し合って解釈を交換しなければなにも解決しないということです。ところが、その翻訳を実装するプログラマーというのは、さらにAにもBにもチンプンカンプンな第三の専門用語を導入するので、事態をより悪化させてきたんですね。ところがグラフィカル言語の場合、AにもBにも動作がイメージでき、かつ絵になったものは実装として確実に動くことが保証されている。だから、グラフィカル言語というのは、単に開発が楽になるという話ではなくて、やっぱり人間のコミュニケーションのための道具なんです。

 ということでかなり長くなってしまったんですけれど、「つくる社会のために」というところで考えたことを最後に述べたいと思います。

 まず許容されなければならない前提として、つくるものがなにかについては問わないということが重要でしょう。たとえば、つくるひとたちの内部的な動機が間違っていたとしても、そしてつくる側に視野狭窄や可謬性があったとしても、それは問わないことを前提にしない限り、これからの「使うからつくるへ」という時代には移行できないのではないか。というのも、「つくる側」と「使う側」の志向性は、常に非対称で異なりうるからです。要するに、ある意図に基づいてつくられたソフトウェアが、その意図どおりに使われるということはまずない。最終的な使い方を発明するのはユーザーだからです。しかも、その使い方の解釈に幅があるものほど、最終的には成功しているケースが多いということを鑑みると、この前提を受け入れながらやらねばならない。ビジネスとしてやっているとこれは非常に難しいことなんですが、自戒を込めて述べておきます。

 最後に、アラン・ケイの "The best way to predict the future is to invent it." という言葉について補足したいと思います。この言葉は、とにかく思いついたものをどんどん好き勝手に発明していけばいいという意味ではありません。「こうありたい」「こうなるといいな」という未来へのヴィジョンを掲げてそれに邁進すべしというメッセージこそが、アラン・ケイの目指したものではないかと。そこで私のヴィジョンは、プロデューサーとコンシューマーを区別することにはじまるエリートと大衆という二項対立のないなめらかな世界を実現していくことだという意思表明をして、最後のコメントとさせていただきます。以上です。

鈴木:

 どうもありがとうございました。いまの江島さんの話は非常にわかりやすかったと思うんですが、一箇所だけ意図が伝わりにくかったと思うところがあるので補足します。それは、なぜASTERIAが成功したのかということです。実際に180社もユーザーがいるヴィジュアル言語というのは、非常に稀な事例なんですね。

 これがなぜ成功したのかというと、企業にデータがすでに存在し、そのデータをつなぐ部分に特化したからである、ということです。ヴィジュアルでプログラミングが可能という意味では井庭さんのツールと似ている部分もありますが、井庭さんのツールはモデル自体を自分たちでつくっていくもの、そして江島さんのツールは、すでにモデリングされたもの同士を連結する。この違いは今後出てくるだろうというお話だったと思います。

江島:

 そうですね。

鈴木:

 では、井庭さんからコメントをお願いします。

井庭崇

 3点お答えします。プロシューマー、つくりたいという動機、権力の順でいきます。

 まずプロシューマーについてです。そもそもトフラーがどういう意図でこの言葉をつくったのか、そしてどこまでを想定していたのかは計りかねるところがあるので、あくまで私の考えているプロシューマーについてのお答えになります。

 プロシューマーは、プロデューサーでありかつコンシューマーである。この造語の重要な点は、生産者と消費者の関係がなめらかな関係になってきたということだと思うんです。消費者側で最後の結合や組み合わせができる。そして企業の生産者の側がそれを汲み上げて、次の製品に組み入れて行くというサイクルができるようになった。ここでは組み替え可能性、つまり意図せざる使い方も想定したうえでゆるやかな設計をすることがポイントになります。たとえばコンポを買ってきてどういうふうに組み合わせるかが自分で決められるということでもいいですし、材料を買ってDIY (Do It Yourself)で組み合わせてつくるといったイメージですね。

 しかし、おそらくプロシューマーは、それを製品として直接的に売ることはしないでしょう。その組み合わせの具体的な事例や感想、そのコンセプトをホームページや雑誌で発信するかもしれないが、組み合わせたもの自体を売ったりはしないという点に特徴があります。ですから、江島さんは結局のところプロシューマーは生産者なのではないかと指摘されましたが、私は、やはりいわゆる生産者とは違うんだと思います。

 次に動機の問題です。つくりたいという動機をどうやって生んでいけばいいのか。これは大きい問題です。ちなみに、私たちのつくったシミュレーション・ツールは社会科学者のシミュレーション研究を支援するという動機でつくられたものです。コミュニケーション・メディアとしても使えるのではないか、と考えたのは、実はまだここ1年くらいです。まだまだ考えなくてはいけないことが山積みです。本当にシミュレーションで表わさなければ伝わらないものって、あるのだろうか?という根本的なところまで考えます。

 日常における、シミュレーションによる表現とは、たとえば日常レベルだとこんな感じでしょうか。旅行の計画を立てるとき、どういうルートを辿ればいいかを考えるとします。なにかの確率でバスが遅れ、すべての行程がだめになってしまっては困るので、どのくらい幅を持たせればいいのかという話を議論したい場合に、これは使えるかもしれない。

 ここでポイントになるのは、とにかく自分たちが動くということのほかに、周りも動いているということを表現することです。つまり、いろいろな可能性やパスがあるということを考慮し、決定論的ではない確率的な事象をトータルに考察することができる。ビジネスでも政府の視点から見たとき、こうしたツールのニーズはあると思いますが、まだまだ議論の余地はありそうです。

 最後に、権力について。なめらかではない社会においては、一部の人がつくって一部の人が消費するという関係ですから、つくった人の環境上で管理されるというかたちで、権力が発動されてしまう。これが環境管理型権力ということですよね。しかし、私たちはそうではない世界に向けてこのシミュレーション・ツールをつくっているつもりです。なぜならこれはプラットフォームであり、誰でも無料で手に入れることができ、ソースコードも公開されています。このようにどんどん「敷居」を下げて、そして同時に、つくるための「土台」を上げていく、と。

 もしシミュレーションの結果だけが提示されて、これは科学的にこうなんだといわれてしまうと、普通は受け入れるか拒否するかしかない。たとえば経済がこうなると予測されたものを見ても、それで終わってしまう。しかしその背後にモデルがあって、そこまで手が伸ばせるとしたらどうか。いろいろいじって、新しい代替案をつくってみることもできるようになっています。これを世の中全般に広げていくことが大切ではないかと思うんです。

 先ほど述べたアニメーションとシミュレーションの差異で表現すれば、アニメーションの場合、結果としての表層だけを提示することにしかならず、それを受け入れるか否かにしかコミュニケーションの選択肢がない。しかしその奥にモデルがあり、そこをいじることができるのがシミュレーションなんです。あるいはそのモデルを見ることができる、と。

 つまり、いわばこれは「概念のオープンソース」とでもいうべきものなんですね。結果だけではなくて、その背後にどういうものがあって、それがどうして出てきたのかを丸ごとシェアすることができる。私たちはPlatBox Simulatorという名前をつけているのですが、この「プラットボックス」というコンセプトは、いまの話に関係しています。つまり、プラットフォームでありボックスであるというのは、ブラックボックスのまま結果を受け入れることもできるけれども、そのブラックボックスのなかも見ることができるという意味なんですね。一部のプログラマーによってつくられ、それが権力の偏在をもたらしてしまうという危惧については、こうしたコンセプトによって応答することができると思います。

 以上、3点お答えしました。


*1:註:CNET Japan Blog - 江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance

*2:註:チャールズ・サンダース・パース(1839-1914)は、アメリカの哲学者。パースの記号論は、図像 Icon・指標 Index・象徴 Symbolという記号分類、そして「対象」「記号(表意体)」にくわえて「解釈項」を導入した記号過程論などの概念で知られている。現代思想に大きな影響を与えた「構造言語学」を築いたソシュールと並び、記号論の代表的存在。また演繹帰納に次ぐ第3の推論形式として、「アブダクション(類推)」を重視した論理学研究などでも知られている。

*3:註:ルネ・ジラール(1923-)は、フランス出身、後にアメリカに渡った人類学者・文芸評論家。ヘーゲル精神分析学に影響を受け、「欲望の三角形」「模倣(ミメーシス)理論」などの枠組みを用いた文学研究などで知られる。主著に『欲望の現象学』(法政大学出版局、1971年 asin:4588000292)など。

*4:註:江島のブログでのASTERIAの解説記事は以下。あわせて参照のこと。→CNET Japan Blog - 江島健太郎 / Kenn's Clairvoyance:『ASTERIA実践ガイド』の発刊にあたって

*5:註:プログラミング言語Rubyの開発者、まつもとゆきひろ氏(Matzにっき)のこと。→参考:ちえの和WEBページ:コンピュータ偉人伝:まつもとゆきひろ

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