ised議事録

06-118. 設計研第4回: 共同討議 第2部(2)

情報社会論の球体」――東浩紀からの応答

鈴木健(以下、鈴木):

 それでは、そろそろ東さんからコメントをお願いしたいと思います。

東浩紀(以下、東):

 いやあ。司会じゃないとこの研究会はこんなに楽しいんですね。テープ起こしを修正するのがとても楽になりそうです。大変喜ばしい限りです(笑)。

図:つくる?
図:つくる?

 さて、コメントです。いままでの議論をひっくり返すようですが、ここでは僕は、そもそも「つくる」とはなにか? という話をしたいと思います(図:つくる?)。

 司会ではなくなったので言いますが、実は僕は、前回までを含め、設計研の議論にひとつ違和感を覚えていました。みなさんのお話は、ソフトウェアやコミュニケーション・メディアをどうつくるかという話に集中している。たとえば今日井庭さんは、コミュニケーションの連鎖や増殖がスモール・イノベーションを遍在化させると述べ、ブレイン・ストーミングによるアイディアの生産や、シミュレーションなどの例を出されました。このような「コミュニケーションの充実によってなにかをつくる」というイメージは、井庭さんが最初に提示した、「未来を予測する最良の方法というのは、未来を発明することだ」というアラン・ケイの有名な言葉によって示されていた。しかし、それ以外の「つくる」話があまりされていないという印象を受けるんですね。

東浩紀
東浩紀
 どういうことか。アラン・ケイは「発明」という言葉を使っていますが、ちょっと思想家っぽく(笑)、ここで発明=インベンション(invention)と改革=イノベーション(innovation)という言葉の違いに着目してみます。inventionの語源は、in+venireというラテン語にあります。venireとは「来る」という意味です。フランス語のvenirと同じですね。他方、 innovationはin+novusです。novusは「新しい」という意味です。英語で言えば、発明は"in+come"で改良は"in+new"です。つまり、インベンションはなにかが無から「到来する」もので、イノベーションというのは既存のものを新しくリニューアルしていく行為を指します。このふたつは、ぜんぜん違うものだと思うんです。ところが、設計研の議論を聞いていると、どうもこのインベンションとイノベーションがあまり区別されていないような気がします。というよりも、実はその混在こそ、設計研の特徴なのかもしれません。

 そもそも「つくる」とはなんでしょうか。技術は近代では、おおむね「人間が自然を支配するための道具」として考えられてきました。いいかえれば、技術とは、自然と人間をつなぐものなわけです。ところが、この設計研では、というよりも「情報技術」が話題になるところでは、技術は、自然と人間をつなぐものではなく、人間と人間をつなぐものとして捉えられています。いいかえれば、コミュニケーションを改良する技術の話ばかりされているわけです。

 しかし、それは本当に人間社会を新しい段階に導くものなのでしょうか。なるほど、情報技術が打ち合わせの能力やミーティングの効率性をどんどん上昇させるのはわかる。それによって、イノベーションが加速化するのもわかる。しかし、それは、本当に新しい世界を「到来」させるのか。これが僕の疑問です。

 むろん、僕はコミュニケーションの話も面白いと思う。今回の井庭さんの講演もたいへん啓発的でした。にもかかわらず、なぜ僕がこういうコメントを寄せるかというと、鈴木健さんの司会方針によると、今後の設計研は20年後30年後を見据えた大きな話をするらしいからです(笑)。

 未来の情報社会を構想する、といっても、その構想そのものが時代的制約に捕らわれては腰砕けです。僕は、設計研での議論にその危険がないかどうかが気になります。したがった、鈴木さんが20年後30年後を見るのであれば、逆に僕は同じ時間をさかのぼってみたい。いまちょうど「愛・地球博」が開かれていますが、35年前には大阪万博がありました。そのころに夢見られていた21世紀とはどういうものだったのか。1960年代から70年代にかけては、どのような情報社会が議論されていたのか。

図:1960-1970年代(1)
図:1960-1970年代

 例を出してみましょう。アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』(ハヤカワ文庫、1977年 asin:4150102430)のなかで、ITがどう描かれているか。『2001年宇宙の旅』の世界は、衛星軌道上に宇宙ステーションがあって、月にも基地があり、木星にも行くというわけで、いまの現実よりもはるかに進んだテクノロジーの社会になっています(図:1960-1970年代(1))。しかしIT関係ではそうではない。たとえば、「ニューズパッド」というものが出てきます。引用してみましょう(伊藤典夫訳による)。

すわって読むだけしか自由のきかない旅だが、暇つぶしになるものはたくさんあった。公式書類とメモと議事録に飽きたら、大型ノート大のニューズパッドを船の情報回路にさしこんで、地球からの最新レポートを読む。世界有数の電子新聞が、彼の意のままにつぎつぎと現われる。大新聞社の符号はすべてそらで覚えているので、パッドの裏側にあるリストを調べる必要はない。表示装置のスィッチを短時間記憶に切り換え、第一面を両手で持って、見出しをざっと捜し、興味のある記事を心にとめる。どの記事にも数字二つの参照番号がついており、数字をボタンで押すと、切手大の記事が、スクリーンにきっちりとおさまるくらいに拡大されるのだ。そして気楽に記事を読む。読み終えたら、また全ページに切り換えて、ディテールを読む必要のある新しい問題を捜せばいい。

 これは世界の新聞が瞬時に読めるという装置です。しかし、この端末はワイヤレスになっていませんし、インターフェイスも貧弱です。しかも、世界有数の電子新聞がいくつかある、つまりこれはホームページがいくつかある状態に相当しますが、それは全部番号で管理されている。その番号を打ち込むことで受信するわけです。つまりテレビのチャンネルの延長線上なんですね。これに較べれば、インターネットのほうがはるかに進んだテクノロジーです。

 これは一例ですが、このほかにも、60年代や70年代のSFを読むと、自然の支配力はいまの現実よりもはるかに進んだ状態を想定しているが、コミュニケーションの技術は低いものしか想定されていないことに気がつきます。裏返していえば、この30年間で爆発的に進歩してきたのは、実は、コミュニケーションの技術、人間社会のマネージメントの効率化の技術ばかりなんですね。いいかえれば、自分たちがすでにもっている技術をより効率的に使うための技術ということです。しかし、自然を支配する能力そのものは意外と開発されていない。

図:1960-1970年代(2)
図:1960-1970年代(2)

 別の伏線を引きます。今度は未来学者*1です(図:1960-1970年代(2))。ハーマン・カーンの『紀元2000年』(時事通信社、1968年)を見てみましょう。ハーマン・カーン*2はランド研究所*3の研究者*4で、当時は世界的に名前が知られていました。この本は1968年に出版されていますがおそらくいまは絶版でしょう。この『紀元2000年』は、タイトルのとおり、2000年の未来社会を予測した本です。当時の一流のシンクタンクの知見が集まっている本ですが、これを見ても、情報技術関係の話題は少ししかでてきません。しかも、その中心はオートメーションです。つまり、情報技術は、ひととひとのあいだのコミュニケーションを支援するというよりも、むしろものづくりを支援する技術として取り上げられている。情報技術がコミュニケーションのすがたをどう変えていくか、というような話は項目になっていないんです。

 SF作家、未来学者と続きましたが、最後に意外なところでもうひとつ。『2001年宇宙の旅』『紀元2000年』とほぼ同時期の1972年に、哲学者の廣松渉*5が『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房、1972年 asin:4326100354)を出版しています。この序文は印象的です。そこでは、こういうことが書いてあります。

 今世紀最初の3分の1世紀は、科学がとても発展した時代だった。相対性理論や量子物理学精神分析学やゲシュタルト心理学、条件反射理論に構造言語学など、さまざまな学問が一気に華開いた。しかし、そのつぎの3分の1世紀においては、実は科学の停滞が起きている。応用はたしかに進んでいる。原爆もつくられた。しかし原理的な認識の進歩はない。廣松はそう述べています。そして1972年というのは、ちょうどその、20世紀まんなかの3分の1が終わる時期にあたっている。廣松渉は、まさに、その停滞を原理的に打ち破るためのこの哲学書を書くわけです。

 廣松の、というか、フッサール*6から受け継がれているその哲学的挑戦が成功したかどうかについては、ここでは問うのはやめましょう。ここで重要なのは、その廣松の言葉のあと、20世紀の最後の3分の1世紀で人類はなにを行ってきたのか、です。設計研の考えでは、ここでこそIT革命が問題になるわけです。私たちはみな、20世紀最後の時期、情報技術によって科学が発展したかのような気がしている。イノベーションが起きているような気がするわけです。しかし、それは本当にそうなのだろうか。廣松渉が1972年に提示した問題提起は、本当に乗り越えられているのだろうか。

 なるほど、ゲノムは解析された。しかし新しい生命をつくったわけではない。宇宙についてもよくわかるようになった。しかし火星に基地を作ったわけではない。私たちは、コンピュータとネットワークの発達によって、たしかに世界についてはるかに大量の知識を処理できるようになった。いいかえれば、情報処理の精度があがった。それは確かに発展=イノベーションではある。しかし、それは発明=インベンションだろうか。私たちが「未来」をイメージするときに、発展だけを考えていいのだろうか。私たちは確かに情報処理能力を高めたけれども、その能力を活かして社会を変えていく、世界を変えていくというステップに足を踏み出しているだろうか。素朴なように聞こえると思いますが、そういう疑問をここで提出したいと思います。

 ちなみに、もし私たちがいま、未来社会をコミュニケーションのイノベーションの連鎖としてしか想像できないのだとすれば、それこそが、私たちのいる時代――僕の言葉でいえば「ポストモダン」ですし、「再帰的近代」でも「後期近代」*7でもほかどのような言葉を使ってもいいのですが――の特徴を指し示しています。ポストモダンは1960年代あるいは70年代に始まった。そのもっとも明らかな特徴は、コミュニケーションの連鎖の自己目的化です。それは、ビジネスにおいても、言論においても、理論においてもあらゆる場所で見いだせる特徴です。たとえば金融においては、コミュニケーションの連鎖こそが富を生み出している。「繋がりの社会性」といわれるように、ひとびとはいまやコミュニケーションの連鎖こそを欲望している。そして理論的にも、ルーマンのシステム論のように、あるいは複雑系創発性の研究のように、コミュニケーションの連鎖こそが社会を生み出すのだ、という言説が力をもっている*8。つまり、私たちはいま、コミュニケーション万能論の世界に生きている。そして、この設計研は、あるいはもっと一般に情報社会論の言説は、コミュニケーション万能論という世界観のなかでコミュニケーションを増強させるテクノロジーの話ばかりをしている。私たちは、そういう自己回転、あるいは、「自意識の球体」*9という文芸評論の言葉をもじって言えば、「情報社会論の球体」に少し自覚的であるべきだと思います。

図:まとめ
図:まとめ

 いずれにせよ、情報技術の発展が私たちのコミュニケーション能力を拡大したことはまちがいない。しかし、僕が問いたいのは、その「外部」はどこにあるのか、という問題です(図:まとめ)。なるほど、ネットのおかげでミーティングはいっぱいできるようになったかもしれない。アイディアもどんどん生まれるかもしれない。シミュレーションもうまくいくかもしれない。しかし、それと「つくる」という話は本当に同じなのか。「ものをつくる」という行為は、コミュニケーション能力の拡大という話とは別ではないか。そんなことを、情報社会論の系譜学と絡めて述べてみました。

 以上を、コメントとさせていただきます。

鈴木:

 なるほど。非常に面白い話でした。ただアラン・ケイの話が出ましたが、実は彼はコミュニケーションの話をほとんどしていないんですね。

東:

 そうですね。

鈴木:

 彼がメタメディアといっているのは、実はマクルーハン*10のメディア論の延長線上なんですね。マクルーハンのメディア論自体には、もちろんコミュニケーションの話もあります。「地球村(グローバル・ヴィレッジ)」などがそうですね。しかしマクルーハンの理論の中心的なテーゼは、身体論から出発している。有名なテーゼに「車輪は足の延長である」云々というものがありますが、彼はメディアを身体の延長として捉えているんですよ。

東:

 まったくそのとおりです。マクルーハンの問題意識において、コミュニケーションの拡大は必ずしもは中心的ではないと思います。

 むしろ、鈴木健さんが好きな話に繋げれば、彼は神経接続系なんですね(笑)。彼は、機械やメディアによって身体が拡張すると捉えている。彼の主著に、"Understanding Media: The Extensions of Man"(『メディア論―人間の拡張の諸相』(みすず書房、1997年、新訳 asin:4622018977))というタイトルの本がありますけれども、マクルーハンのメインの問題意識はこちらでしょう。

鈴木:

 そうなんです。そして、アラン・ケイは、マクルーハンの『グーテンベルグの銀河系』(みすず書房、1986年)を半年間なにもしないで読みこんで、メタメディアという概念を思いついたといいます。メディアの上にメッセージがあるというマクルーハンの議論をもとに、そのメディア自体を一人ひとりがつくることができたら、すごいことなんじゃないかと彼は考えて、それを可能にするデバイスをつくろうと思った。つまり彼の頭のなかにはハードウェアが最初からあって、コミュニケーションは二の次の問題だったんですね。

鈴木健
鈴木健
 ゼロックスPARC(パロ・アルト研究所)はこうしたアラン・ケイの伝統を受け継いでいるので、たとえばマーク・ワイザーの「ユビキタス*11という発想にしても、現実の世界にコンピュータが遍在しているという世界観ですよね。ですから、そこはもうコミュニケーションの問題ではない。アップルもハードウェアとソフトウェアを一体化して考えていますよね。それは彼らの影響を受けているからであって、基本的には、リアル世界、ハードウェアの話になる。

 こうした視点を考慮すると、やはりユビキタスの問題は当然考えざるをえない。それは倫理研でもよく話題になる監視社会の話とも関連してきます。

東:

 いま監視社会の問題とおっしゃられたけれども、まさに、僕が監視社会という言葉で考えたいのは、情報技術が物理世界にどのような影響を及ぼすか、その接点の問題なんです。たしかにインターネット上のメールの監視も重要です。しかし、僕のおもな関心は、物理的身体や物体が情報技術を介して監視されることにある。ユビキタスIDなどのテクノロジーは、サイバースペース上の管理がそのままリアルスペース上の管理へと浸透していくための、ひとつのゲートウェイになるわけです。僕の二層構造論*12でいえば、インフラの層とコミュニティの層のあいだのゲートウェイになるわけですね。

 他方、コミュニケーションの方法についての議論というのは、コミュニティの層で閉じた話になってしまいがちです。僕はそこをいいたかったのです。

鈴木:

 コミュニケーションが物理世界にどう影響を受けるのかということですか。

東:

 そうですね。今日の設計研のように、コミュニケーションの連鎖がどんどん豊穣になっていくという話が一方にある。他方、前回の倫理研では、コミュニケーションの連鎖=繋がりの社会性がむしろ人を不自由にするという指摘もなされた。このふたつはともに正しいと思います。それは同じ変化の表と裏です。しかし、これはいずれもコミュニケーションのレベルの話ですよね。

鈴木:

 物理世界、つまり身体性の世界から、グラウンドさせる、と。

東:

 いいかえれば、身体性の世界はコミュニケーションの世界が変わることによってどう変わるのか? という問題です。

鈴木:

 逆でしたね。コミュニケーションや情報を上層、自然や身体性などのハードウェア的なものを下層とすれば、上から下に向かう議論も必要であろう、と。

東:

 まさにそういう話をしたい。

*1:註:現在の情報社会論の起源は、1960年代のダニエル・ベル(「脱工業社会」)や増田米二にまでさかのぼることができる。「情報社会」という言葉をつくったのは増田である。→isedキーワード情報社会」参照のこと。

*2:註:ハーマン・カーンについては、はてなダイアリー - ハーマン・カーンとはを参照のこと。

*3:註:ランド社 RAND Corporation(ランド研究所)は、米国カリフォルニア州にある軍事系シンクタンク。第二次大戦後、空軍の研究所から独立法人となり、おもに物理学・経済学・社会科学などの部門が存在する。フォン・ノイマン、ジョン・ナッシュ、ケネス・アロー、トーマス・・シェリングなどの研究者が関係し、この研究所が育んだゲーム理論は、冷戦期の戦略核構想、いわゆる「恐怖の均衡」という思想を支えた。

*4:註:ハーマン・カーンは、のちにランド社を退き、ハドソン研究所を設立する。ちなみに井庭が講演で紹介していた「シナリオ・プランニング」は、第二次大戦の米軍での演習が起源とされ、ランド研究所を経てハドソン研究所がさらに発展させたといわれる。

*5:註:はてなダイアリー - 廣松渉とは

*6:註:フッサール(1859-1938)はドイツの哲学者。現象学の大家。フッサールは、数学基礎論の研究から(『幾何学の起源』(青土社、2003年 asin:4791760344))、諸科学の基礎付けについて考察を開始している。その背景は次のようなものだった。19世紀には現諸学が「個別科学」に分化し、理性の中心は人文学(ヘーゲル観念論)から自然科学へと移った。そしてその原動力は数学の形式化、つまり直観を伴わないが、論理的には整合的であるような体系(ex.非ユークリッド幾何学)の発展にあった。そしてフッサールは、こうした理性が直接的な基盤を失うことを「危機的状況」と捉え、諸科学の始原・基盤をつきつめようと考えた。その結果彫琢されたものが、後世に強い影響力を残したフッサール現象学である。

*7:註:社会学アンソニー・ギデンズウルリッヒ・ベックの近代概念。「再帰的」というのは、近代社会それ自体が引き起こす問題に近代社会が対処せねばならず、しかもその正当性や根拠は近代社会であることそれ自体にしかない(自己言及的である)、ということを意味する。またそのコノテーションとしては、現代思想における「ポストモダン」概念が近代からの切断・断裂を強調するのに対して、彼らが現代をむしろ近代化の連続・徹底を強調するために区別して用いられる。

*8:註:isedキーワードオートポイエーシス」参照のこと。

*9:註:「自意識の球体」とは、文芸評論家 小林秀雄(1902-1982)の用いた言葉。どこまで思索や表現を試みても、モノローグ的な自意識の檻にからめとられてしまうさま。

*10:註:isedキーワードマクルーハン」参照のこと。

*11:註:@IT情報マネジメント用語事典 [ユビキタス・コンピューティング]

*12:註:isedキーワード情報社会の二層構造」参照のこと。

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