ised議事録

06-1110. 設計研第4回: 共同討議 第2部(4)

情報技術の外部はどこにあるのか――環境問題という限界

東浩紀(以下、東):

 いや、それも本当は違うと思う。

 さきほどはいわなかったけど、そのような未来観が崩れたもっとも大きな原因は環境問題ですね。たとえば、かつて東京と大阪を1時間で結ぶというプランがあった。第二東名にしても、すべて電子誘導にして自動車も時速200キロでガンガン行く、というような話もあったわけです。こうしたプランは60年代にはけっこう語られていた。

 それが全部だめになるのは環境問題なんですよ。いいかえれば、私たちには未来と生態系を両立させる技術がなかったということです。60年代から70年代にかけて、人間の自然への理解やコントロール能力に限界がやってきてしまった。これ以上人間の粗雑な技術で地球をいじるとやばい。超音速旅客機も騒音でうるさい。あるいは人間の健康にもよくない。このようにいろいろなレベルで限界がやってきてしまって、ではかわりにどうすればよいのか、となったとき、「じゃあSkypeかな」という流れなわけです。

 情報社会のこれからの未来を考えるというとき、この路線で行くこともできます。つまり、物理的な支配能力はもはや高める必要はなくて、メガネをつけてヴァーチャル系でいく方向ですね。しかし、情報技術はそうではない使い方もできる。コミュニケーションをエンハンスするために情報技術を使うのか、それとも人間の物理的支配力を増す、あるいはもうすこし繊細にするために情報技術を使うのか。少なくとも、この研究会がどちらに重点を置いているのかは、知りたいと思うわけです。

鈴木健(以下、鈴木):

 そしてそのふたつの話をなめらかにつなぎたいと思っていて、それは神経接続の話になると思うんです。つまり、コミュニケーションの話とハードの話があったとき、最終的には神経接続の話になる*1。これはけっこう笑い事ではなくて、脳科学が発展したここ10年くらいの影響で、実際に世界中で何百人かの研究者が神経接続の研究をはじめています。実際にアメリカにも神経接続のベンチャーとかがあって、株とかも買えたりするんですよ。そういったところで、実際に二項対立的にならなくなる可能性はインターフェイスの問題としてあると思うんですよね。

楠正憲(以下、楠):

 ちょっと思ったのは、東さんはヴァーチャルでいくのか、もういちど身体や自然の側でいくのか、その選択肢を決めている誰かがいるかのような議論をしているように聞こえたんですね。しかしそれを誰が決めうるのかというと、基本的にファイナンスの問題だと思うんですよ。要するに、どっちの技術に対して誰がどれだけ投資をするのかということです。そしていま、神経接続に投資をする人がいるわけですよね。

鈴木:

 いや、神経接続はヴァーチャルとリアルを分けてはいけないという話なんです。

東:

 いやいや、僕は単純な議論をしているんです。情報社会のイメージの話をしているんですよ。情報社会という言葉で、私たちはなんとなくなにかを共有しているはずです。だからこうして話している。ただ、いまの僕たちのイメージしているのは、無料でニューヨークとテレビ電話ができるとか、携帯電話で巨大なExcelファイルが送れるとか、そういう感じですね。

東浩紀
東浩紀
 しかしそれもけっこう歴史が浅いわけです。1980年代イメージはサイバーパンク*2ですね。60年代70年代までさかのぼるとサイバネティクス*3です。大都市にひとつの「マザーコンピュータ」があって、それが細かく高速道路の交通量を制御し、家に帰ると電送ファクシミリがあって、みたいな感じです。情報社会のイメージはこのように時代ごとに変遷していて、それぞれが時代の欲望を反映しているんですよ。

 そこで僕がいいたいのは、今日の設計研ではコミュニケーションの連鎖がとても強調されていたように見えるけれど、そしてそれはそれで面白いのだけど、同時にカキガッコにも入れたほうがいいかもしれませんよ、ということです。

井庭崇(以下、井庭):

 しかしその東さんのイメージは、あまりにもサイバーな情報社会像だと思うんです。私が情報処理の授業を教えていたときには、ブレイン・ストーミングなどを教えたんですが、それは情報処理=コンピュータ処理ではないと思っていたからこそなんです。普通はWordやExcelを教えているけれども、情報処理というのはそれだけではないはず。情報をいろいろ生み出して、一部処理させたいときにだけコンピュータにさせればいいというだけなんですね。

 さきほどまでのお話を聞いていると、どうも情報社会というとき、社会それ自体はあまり関係がなくて、情報技術が社会にぶら下がっているように聞こえてしまう。僕はあまりそういう話ではなく、今日は実世界で「つくる」ということや、教育の話をしたつもりなんですよ。


石橋啓一郎(以下、石橋):

 それもそうですが、情報技術は激しくハードウェアの部分を変えていると思うんです。たとえばSuica自動改札ができたことによって、駅の処理能力というのは飛躍的に拡大したりしているわけですよね。あるいは、このあいだ電車の脱線事故もありましたが*4、ATSがなければ山手線はあんなに走ることができない。このように、情報技術を鍵にして物理的に構築されているものはたくさんある。ただ世間的には、たとえば携帯が手にできるようになってそのかっこよさを競う、というように、情報技術といってもモノとの連続性のイメージでしか捉えていない人が多いと思うんです。東さんの話は、1980年代終わりごろから90年代の半ばくらいまでの、サイバーパンクや夢の世界を持っていた小さいコミュニティのイメージじゃないかと思います。

東:

 僕はサイバーパンクの話はしていません。サイバーパンクはもう潰えているし、それは僕も知っている。その次に来たのがコミュニケーションの連鎖という像ですね。

 たとえば倫理研では、繋がりの社会性などが議論されています。それはもしかして、この設計研では退屈だと思われているのかもしれない。しかし、実は設計研のスコープもあまり変わらない可能性がある。倫理研設計研も、実はコミュニケーションの連鎖についてばかり語っているわけです。そして僕は、司会を外れたものだから(笑)、本当にそれだけが情報社会のポテンシャルなのか、と疑問を呈したわけです。

鈴木:

 ええ。その東さんの問題意識は非常に面白いので、今後に引き継いで議論をしていきたいんですが、なにぶん時間のほうが限界に近づいています。最後に、村上さんと八田さんにコメントをいただいて終わりにしたいと思います。

村上敬亮

 はい、東さんのコメントを最初に聞いたとき、私も環境問題のことを思いました。最近自分がエネルギー担当に就いたからではないんですけれども、おそらく、省資源・省エネルギーという命題が出てきてしまった瞬間に、日本にとってインベンションや進歩という概念が潜在的に大きく変わってしまっていたのではないかと思うんですね。おそらく、どこまでも膨大にエネルギーを使ってもいいということが是認され続ければ、ひょっとしたらいまごろ、日本の船も宇宙にいっていたかもしれないし、リニアモーターカーも大阪まで走っていたかもしれない。それは技術的な問題ではなくて、資源制約的な問題です。限界費用・限界効率的に見合わなくなったから、この10年20年間、その方向性を捨てたという事実があるわけです。

村上敬亮
村上敬亮
 東さんのおっしゃっていることはこうだと思います。もちろん、コミュニケーションの連鎖がなんらかの小さなものづくりの側面でイノベーションを生んでいくことを、別に否定するわけではない。しかし、もしそこで情報社会という大きなテーマを抱くんとすれば、より大きな文脈を把握する必要がある。それはつまり、地球環境が限界にぶちあたり、自然に対する物理的な支配力を高めるというエジソン的なインベンションのイメージが倒れてしまった現代において、我々はそれに代わってなにを求めているのかという命題を、きちっと設定する必要があるということです。そうでなければ、結局細かい情報の改善活動といった議論から脱しきれないまま収束してしまうのではないか。これが東さんの基本的なメッセージなのではないかと感じています。

 逆にいえば、これは僕自身まだ信じていない部分がありますけれども、もうひとつの仮説を出すこともできます。たとえば、できるだけモノを消費しなくて済む社会をつくるというのも、ひとつの情報社会の方向性なのかもしれない。極端なことをいえば、家からどんどんモノがなくなって、自然に近いような生活をしているんだけど、それは決して我々がいま享受しているような利便性や満足感を損なうものではない、という方向性*5。つまり自然をコントロールするのではなくて、自然との対話に入っていくために、コミュニケーションなり自然原理の理解なりを深めていく*6。そのためのプロセスを連続的に広げていくために、ITがどう使えるのだろうか。そしてその延長線上にゲノムの議論や、異文化同士が同じ言語で話すことができるようになる、といった萌芽も出てきているのではないか。こう見ますと、またひとつ新しい議論の指針ができるのではないかと思いながら、楽しく聞いておりました。

東:

 整理されるのがこんなに気持ちいいとは……。僕はいままで司会役だったので、知りませんでした(笑)。

鈴木:

では、八田さんお願いします。

八田真行(以下、八田):

 うーん、正直に申し上げると、東さんのおっしゃることがよくわからないんです。単に情報技術の外部というのは存在しないのではないでしょうか? 結局私たちのいる社会というのは、すべて情報のやりとりで構成されていると思うんです。それはコミュニケーションではないかもしれないのですが。

江島健太郎(以下、江島):

 唯脳論ですね。

鈴木:

鈴木健
鈴木健
 いや、むしろそれは環境と主体とのあいだでの情報のやりとりも含めて、ということですね。

八田:

 ええ。ですから、その情報の扱いがソフィスティケイトされていくのは当然ではないかと思うんです。自然に対する支配力や理解力というのは、結局情報の層に還元されるのではないか。

鈴木:

 ただ、東さんは情報の話ではなくて、コミュニケーションの話をされているんですよ。情報とコミュニケーションは違う。

八田:

 いえ、だから情報のやりとりですね。コミュニケーションは情報のやりとりですよね。

東:

 いまの八田さんの表現だと、社会の外部もないし、物理学の外部もないし、言語の外部もないということになりますね。僕はそういう話をしているわけではないんです。もっと素朴な話、たとえば情報技術ということが中心となって改革される領域の外部、というくらいの意味です。

 繰り返しますが、一方では情報技術の外部はないかもしれないけど、他方では「情報」という概念そのものがきわめて20世紀的なものでしょう、ということです*7。前に調べたことがあるのですが、"information"という言葉は1930年代まで現在のような意味では使われていません。シャノン以前は、intelligenceとあまり変わらない、たとえば諜報活動のような意味も強かったんです。ですから、僕たちはいま情報という言葉をすごく普通に使っているし、八田さんのように情報が世界を統御していると考えているわけだけど、実はこの発想自体が非常に歴史の短いものなんだという話をしているんです。もしかしたらあと二世紀くらい経つと、「情報」は古い概念になっていて、だれも使っていないのかもしれない。

 むろん、歴史が浅かろうが、将来古くなろうが、科学的には真実だからそうなんだとおっしゃるかもしれない。しかし、別の議論のレベルがある。たとえば倫理研では正義とか法という概念を扱っているわけですが、正義や法という言葉はとりあえず古代ギリシャまでさかのぼることができるわけ。しかし、インフォメーションという概念はそこまで遡行することはできない。

江島:

 しかし、それは情報の定義によるんじゃないですか?

東:

 ええ。まさにそうで、シャノンによって新しい情報概念が生み出された。

江島:

 量的な情報という意味ですか?

東:

 そうですね。定量化可能というのが決定的なんだと思います。古くから、質料と形式、マテリアル(material)とフォーム(form)という対立がありますよね。しかし、情報という概念はこのどちらにも収まらない。そういう意味で、概念の発明といえる。

石橋:

 ひとつ確認したいんですが、この問いは設計研がどういう方向に向いていくのかという根本的な議論だと思うんです。そして、僕はSkypeバンザイと個人的には思っているんですが、東さんは思っていないということでしょうか。

東:

 うーん、Skypeバンザイというか、僕は一般に思われているほどインドア派ではないので、ニューヨークに3時間でいけたほうがうれしいですね(笑)。しかし、そんな話をしているわけでもなくて……。

鈴木:

 いまの話は、要するに外部性があるかどうかだけの話なんですよ。つまりSkypeの外部性はあるだろうという話であって、決してSkypeがダメと東さんがおっしゃっているわけではない。

石橋:

 いや、東さんはその情報技術の外部はある、ということを仮定されているわけですよね。そのこと自体をテーマにするかどうか、ということです。

東:

 情報技術の外部がだめなら、コミュニケーションの外部といってもいい。

楠:

 つまり東さんのおっしゃっているのは、なぜここでの議論がインフォメーションにフォーカスしているのか、ということですよね。それは、ひとことでいえば、ROIが高くて市場が拡大しているからです。そしてそれはなぜかといえば、処理できる情報の量が急激にのびているために、そこでなにか小細工をするのが一番儲かる。しかし、これはもう止まるんですよ。CPUのクロックも止まったし、DRAMなどの微細加工技術にしても、あと5年10年でかなり厳しくなってくる。となると、市場としては成熟していかざるを得ない。ボトルネックがたぶん変わり、すると情報の次のキーワードが出てくるんじゃないかなと思います。

 なるほど。そういう考え方もありますね。

鈴木:

 それでは本当に最後ですが、講演者の井庭さんにコメントをいただきます。

井庭:

 今日の講演のサブタイトルは、「自己革新的な社会に向けて」ということで、社会づくりの話を本来しようと思っていました。ただ、後半はぐるっとまわって物理的な話やハードウェアの話、つまり情報やコミュニケーションの外部性の話になってしまったので、あまり社会づくりの話にできませんでした。今後、企業と国家の話が出てくるなかで、その話ができていけばいいのかなあと思います。今日は教育やメディアというのはすこしメタな話をしてしまったので、空回りしてしまったのかもしれません。

鈴木&東:

 誰もそんなことは思ってないですよ!

井庭:

 いや、ともあれ鈴木さんの方針だった「具体的に社会の設計をする」という話はあまり深められなかったのは事実なので、次回以降、追及できたらと思います。

鈴木:

 ということで、次回以降に引き継いでいきたいと思います。

 時間が本当にありませんし、質疑応答もないようですので、これで終わりにしたいと思います。

東:

 今回は鈴木健さんに司会をお願いしましたが、おかげで議論に大きな飛躍が訪れたと思います。次回以降も鈴木さんに司会をお願いするつもりですので、みなさん、よろしくお願いいたします。鈴木さん、ご苦労さまでした。

*1:註:たとえばPCの操作にマウスやキーボードなどのインターフェイスを用いず、神経系から直接信号を送ることで制御しようとするものなどを指す。鈴木健による神経接続の紹介は以下。→PICSY blog: 神経接続(Brain Computer Interface)神経接続(続き)

*2:註:サイバーパンク - Wikipedia

*3:註:サイバネティックス - マルチメディア/インターネット事典。また、isedキーワード情報社会」参照のこと。

*4:註:2005年4月、兵庫県JR福知山線で大惨事を引き起こした脱線事故のことを指す。

*5:註:情報化によって産業・消費社会の問題を乗り越えるというスキームについては、社会学見田宗介の『現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来』(岩波新書、1996年 asin:4004304652)が参考になる。見田はこの著作において、消費社会における「情報の消費」という特性を引き伸ばすことによって、資源問題・環境問題南北問題を貫くモノ的搾取・簒奪といった、近代社会の抱える<原罪>から離陸できると説く。

*6:註:自然との対話に情報化が寄与する、というスキームについては、佐倉統現代思想としての環境問題―脳と遺伝子の共生』(中公新書、1992年 asin:4121010752)が参考になる。佐倉は、自然対人間という二項対立を明確に踏まえたうえで「環境とは、自然も人間も包含するDNAのメタ・ネットワーク(テクスチュール:織物)である」という立場に立つ。そしてそのネットワークを、コンピュータという第二の脳によって読み解こうとすることで、自然との対話・共生という方向性に希望が見出せるのではないかと述べている。

*7:註:isedキーワード情報概念」参照のこと。

トラックバック - http://ised-glocom.g.hatena.ne.jp/ised/08100611