ised議事録

08-206. 倫理研第5回: 共同討議 第1部(4)

表現/存在/匿名――情報が曖昧にする法的境界

東浩紀(以下、東):

 さて、どうも議論が循環しはじめていますが、白田さんいかがでしょう。

白田秀彰(以下、白田):

白田秀彰
白田秀彰
 いつも話を中断してしまって申し訳ないのですが……。なぜmixiの話ばかりをしているのか、さっぱりわからないんです。(笑)

東:

 まったくそのとおりですね(笑)。第1回のときも、「なぜ2ちゃんねるの話ばかりなのか」と口火を切られてしました。そういうところから白田さんは出発されている。

白田:

 まったくの思いつきなのですが……ここまでの議論に触発されて、「『表現の自由』の制限に関する理論的枠組」みたいなものを思いついたのですよ。

 そもそもの出発点はこういうものです。現行の法の世界には「表現/存在/行為」というマトリックスが存在していたと見ることができる。つまり、表現は表現として、存在は存在として、行為は行為として概念分けが明確になされていて、それぞれどう扱うかが明確に決まっていた。しかし、情報社会になってこの三項の境界が曖昧になってしまった。これが問題の本質ではないかと思うんですね。

 この三軸についてもうすこし解説します(図:行為/存在/表現の三項図(1):法の想定)。

 法は基本的に、客観的に観察しうる社会的関係を制御するものです。これは言葉を変えて言えば、特定の種類の「行為」を制御するものだといえます。今度のHotwiredの連載記事「刑事分野について考えてみる II」で、「刑法は人間の『行為』に着目し、それを制限することを目的とした社会的規約である」という話を書いています。また、民法においても、法が作用するいくつかの行為が法律行為として規定されている。いずれも内心の意思が外部に言語あるいは行動として表示され、社会的に作用した段階で、法はそれを取り扱うことにしています。この領域において法は能動的です。

 一方、我々の「存在」は自然的なものですから、存在を法で規制することは難しい。たとえば、法によって存在を禁ずるということは、死刑・禁錮・懲役・国外追放ということですから、よほど重大な場面でしか発動されない。基本的には、ある人が存在する・その人の状態がどのようなものだという事実を事後的に承認し、それに対応した権利・義務の付与が行われるにとどまる。この領域において法は受動的です。

 そして残る「表現」についてです。表現が作用する精神世界は、私たちの存在する物理世界とは別の世界として把握し、ここに法は関与しないという原則を採用しました*1。精神的自由権である言論・表現の自由がまさにそれです。もちろん、表現のなかでも猥褻物のように、反社会的行為に直結すると考えられたものは刑法でも処罰していましたが。この領域において法は謙抑的なものです。

図:行為/存在/表現の三項図(1):法の想定
図:行為/存在/表現の三項図(1):法の想定

 さて、表現に対して法ができる限り関与しないという態度をとっていたとはいえ、事態は単純ではありません。言論・表現の自由における議論においては、"speech plus"(行為的表現)という概念があります。これは「実際には行為なんだけれども、表現活動と緊密に結合しているがゆえに、表現活動の一環として保護を与える」という概念です。たとえばデモや座り込みやストライキのように、ある社会的メッセージを伝えようとする行為のことをイメージしてください。

 ところが、たとえばコンピュータウィルスは、こうした三項のマトリックスからはみだしてしまうわけです。いままで私たちは処罰の対象を行為に限ってきましたが、コンピュータウィルスはプログラムすなわち文書ですから表現にあたる。だから、簡単には規制できない。けれどもコンピュータ上では、完全に文書(プログラム)の記述のみによって、特定の結果を一義的にもたらすことが可能になった。つまり表現から結果がダイレクトに繋がる状況が生まれたわけです。これはいいかえれば、「行為的表現」を逆さまにした「表現的行為」という新しい概念枠が出現したことを意味します。「実際には表現なんだけれども、行為のような帰結をもたらす」ものというわけです*2。そしてサイバー犯罪条約をはじめとする、電網界への法適用を目指す人たちが懸命に取り組んでいるのは、この新しい枠をどう扱うかということだと思われるのです。

 ここまでが「刑事分野について考えてみるII」で考えていたことですが、今日はさらに一歩踏み込んで、プライバシーの問題を統合的に考えるに至りました。それが「存在」という枠にあたります。私たちはこの世界に自然的に「存在」すると同時に、社会的に「行為」している。いままで法律は後者をのみを規制対象としてきた。しかし、さきほどの表現的行為をもじっていえば、情報社会において「表現する存在」/「存在の表現」という枠組みが出現したということなんです。これは東さんがいうところの、表現の匿名性存在の匿名性に対応していると思います。まず表現する存在というのは、存在すること自体がなんらかの社会的な表現になっていて、社会性が問題になってくる領域です。もう一方の存在の表現というのは、私がここにいるということ、私が何者であるかを記述しているもの、つまり個人情報のことです。

 こうした概念枠組みを使っていいたいのは、いままで倫理研で問題としてきた「公/私の枠をどうやって確保するのか」という問題に対するもうひとつの見方を提示することなんです。これまで倫理研では、いかに公的空間をつくるか、そして私的領域をどう確保するのかが問題になってきました。しかし、さらにもう一歩踏み込んだ議論をしたいんですね。

東:

 表現の問題と行為の問題がいまや分けられない。いいかえれば、物理世界と異なる「情報の世界」*3が実体的となり、そのまま社会に大きな影響を与えるようになっている。しかしその領域をコントロールしようとしても、いままでの法の枠組みだとそれは表現の自由の領域になってしまう、ということですね。おっしゃるとおりだと思います。

白田:

 そして存在と表現の区別も曖昧になっていて、そこでプライバシーの問題を扱うことが困難になっている気がしてならないわけです。社会に向けて表現するときには、公共的な責任を負うということが承認されていますよね。これは表現の匿名性の問題です。しかしそれが逆に問題になっている。すなわち、「表現が持つ社会性(公共性)」を足がかりにして、存在に関する問題、すなわちプライバシーの領域が侵害されているのではないか。

白田秀彰
白田秀彰
 それはこういうことです。個人という存在は、情報として表現されることで、存在の表現となった。いままで私たちは「表現の自由」を当然のものとしてきたけれども、「存在を表現したもの=個人情報」をどこまで触れてはいけないのか、私たちはまったく考えてこなかった。それは表現する存在として容易に反転し、ある種の社会性や公共性を持つ表現として見出されてしまう。こうした構図が存在の匿名性すなわちプライバシーの領域を切り崩しつつあるのではないか。これが存在と表現が曖昧化しているということです。

 さらにもう一方、表現と行為の区別も曖昧になっている。さきほど述べたコンピュータウィルスの問題です。ここでは表現の自由という反論困難な近代法の大原則がもたらす、表現に対する法の不可侵性を足がかりにした表現的行為が、法を存立させていた中心的な部分を無効化しつつあるのではないか。コンピュータウィルスはプログラム言語による表現でありながら、特定の結果をもたらす行為として機能する表現的行為である。近代的な刑法の枠組みにおいて、表現は、表現の自由の保護下に置かれているために規制の対象としにくい。ウィルスをばらまく人たちの言い分は、「俺たちはただウィルスを表現しているだけだ。行為はしていない」というものだからです。

 このように、コンピュータの社会への浸透によって、行為と存在と表現が完全に融合した世界に私たちは突入しているわけです(図:行為/存在/表現の三項図(2):情報化によって)。特にそのなかでも、表現という領域が法の世界において不可触領域として放置されてきた。この表現領域が他の領域と融合してくることで、問題がこじれてしまっている。表現の自由という近代法が強固に奉じてきた理念が、法が侵入できなかった領域へ法を展開するための回路として用いられ、逆に、法が規制できていた領域に法が侵入できない結界をつくるための護符として用いられる。そうだとすれば、表現の自由という近代的理念を私たちはいよいよ見直し、新しいマトリックスをつくる必要があるのではないか。これがいいたかったことです。

図:行為/存在/表現の三項図(2):情報化によって
図:行為/存在/表現の三項図(2):情報化によって

加野瀬

 これまで一般の人は、「話す」以外に、見知らぬ第三者に伝達する手段をもっていなかったわけですよね。ところがネットが登場して、伝達コストが圧倒的に下がってしまった。結果として、いま白田さんのおっしゃった表現の問題が出てきた、と。

東:

 表現は「情報」と呼んだほうがいいかもしれない。表現という言葉は、それ自体で行為の意味を帯びているからです。

 白田さんのおっしゃりたいのは、情報(表現)/行為/存在という3つの領域を区別するとして、情報を扱う新しい技術の出現によって、この3つが同じ水準で扱われるようになった。「情報=表現」が行為の領域と存在の領域をまたいでしまった結果、行為と存在を結ぶ「情報=表現」の領域が拡大している、ということですね。

白田:

 そうです。いままで法律においては、表現を現実界から一段階遠いものとして扱ってきたわけですね。しかし情報社会アーキテクチャにおいては、現実界のすべての動きが、そのまま表現の世界=電網界に直結してしまう。ここに問題があります。そうして新たに生まれた「存在の表現」/「行為的表現」という領域を、私たちは区分けする術をもっていないわけです。

 いままで、法が現実界における存在/行為の線引きを担ってきました。たとえば民法においては、「法律行為」という概念で、強制力をもってしても実行および実現させるものを定式化し、刑法においては、強制力をもってしても禁止し、処罰する「行為」を定式化してきた。そして残るものについては、おそらく「存在」の領域に放り込んでおき、「そこは自然的かつ私的な空間であるから法は関与しない」という態度をとってきた。たとえば、婚姻や家族に関する法の領域は、そのようなものとして存在していたわけです。それら、存在と行為の境界線は、その時代時代のアーキテクチャの条件下で、長い歴史を経て経験的に設定されてきたわけです。

 そしていま我々が取り組むべきことは、行為に近い表現と存在に近い表現のあいだに、新たに線を引くことではないか(図:行為/存在/表現の三項図(3):望まれる区分)。つまりそれは、行為と存在がおのずから分離してくるような、表現世界のアーキテクチャを設計することにほかならない。これを早く分けないと、いつまでも水掛け論になる気がします。そして、その線引きはいずれ経験的に確定してくるのだろうけれども、初期段階においては一部の優秀な人間が線を引いておくしかないのではないか、と私なんかは思っているんですね。そんなことをいうと、また白田は右翼だのナチだのといわれそうですが(笑)。

図:行為/存在/表現の三項図(3):望まれる区分
図:行為/存在/表現の三項図(3):望まれる区分

東:

 いえ、とてもいい問題提起をしていただいたと思います。私たちは前回まで、公的領域と私的領域をどう切り分けるのかという議論をしてきた。しかし、白田さんはさらに抽象度を上げてくれました。

 いままで倫理研は、ふたつの領域を分けるべきだと議論してきました。情報社会の問題は、公/私の区別が曖昧になっていることにある。ゆえに、公的空間=行為/私的空間=存在、僕のことばでいいかえれば表現の匿名性存在の匿名性を分けるべきである。これは情報社会倫理を考える第一段階の議論としてはよかったわけです。

 しかし、白田さんはそうではないという。そもそも問題は、そのふたつの領域がどうしてもマージしてしまうことであって、いずれも同じ「情報」の領域として語られてしまうところにこそあるのではないか、と。たとえば、どこに自分が所在するのかを表現する個人情報も、自分が発言した内容も、同じ情報になってしまう。分けるべきといっても、分けられない。そこに情報社会の抱える厄介な問題がある。ここで、問題がこのように深まったと思います。討議の最初で、表現の匿名性存在の匿名性の問題は最終的に結びつくのではないかと予告しましたが、それはまさにこういうことですね。

 さて、後半に移る前に、白田さんのいまの問題提起を受けて、この方向でもうすこし議論を展開しておきたい。そもそも情報社会の問題とはなにか。こう考えればいいと思うんですね。

 情報社会においては、大量の情報が蓄積し流通する。複製コストも拡散コストもゼロに近い。その結果、個人のアクセスできる情報は莫大になる。ここまではいい。しかし、その結果、ハーバード・サイモン*4のいうところの「認知限界*5が訪れる。あまりに情報が莫大になると、人々はどの情報を得るべきかが分からなくなってしまうわけです。

 するとどうなるか。たとえば「繋がりの社会性」という現象は、認知限界のひとつの帰結だと思います。誰が自分について言及しているのか、あるいは関心を持っているのかは、いままではごく数十人の知り合いの範囲だけを参照していればよかった。しかし、いまはモニターの向こうに何千人何万人という規模の人間が現れる。その圧倒的な数は、巨大な無関心として知覚されてしまう。その無関心なマスへの不安が、逆説的に繋がりの社会性を加速させているのではないか。

 また一方、この認知限界にこそ、情報社会のビジネスチャンスがあるという考え方もある。経営学者の國領二郎氏は――僕は明日のシンポジウムでディスカッションをするのですが――、そう主張しています*6。認知の負担を軽減することこそが、今後のビジネスの中心になるだろうというわけです。あなたはどのような財やサービスを求めているのか。どのウェブサイトにいくべきか。どこで情報を獲得すればいいのか。極端に増えた選択肢のなかから、最適な選択肢はなにかを提示することに、新しいビジネスの方向性がある。宮台真司ルーマン風にいえば、それは「複雑性の縮減」を提供するサービスです。國領氏はこれをプラットフォーム・ビジネスと呼んでいます。

 こう考えると、プラットフォーム・ビジネスは、新しいビジネスモデルというより、情報社会の原理的な問題に対するソリューションのひとつだと言えます。情報が爆発的に増えたために、人と人の繋がり、あるいは人とモノの繋がりが爆発的に増える。この繋がりとは、別の言葉でいえば「選択」です。その結果、無数の対象のなかから「これがあなたが選択すべきものなのだ」という限定された選択肢を提供する、そういうサービスが必要とされるようになっている。そのいちばん簡単な例が、Amazonのレコメンデーションです。しかし、そのような「自分の代わりに判断してくれるサービス」は、今後はますます強まるでしょう。情報社会においては、そのようなソリューションがなくてはならないものになる。

東浩紀
東浩紀

 これはなにを意味するのか。それは、「存在の匿名性」は必然的に失われるということにほかならない。だとすれば、情報社会においては、個人情報やプライバシーは原理的に擁護できないのかもしれない。

 なぜか。情報があまりに莫大になり、各人の情報処理が限界を迎えてしまうと、消費活動もコミュニケーションも、あらゆる社会活動が止まってしまいます。それはまずい。いままで人類社会は、世界の複雑性を縮減するために社会的システムをある程度単純にしてきた。しかし、いまや制度もサービスも、複雑かつ多様になってしまった。だから、社会に参入する手前の段階で、さらに複雑性を縮減する必要が出てくる。つまり、どのようなサービスやコミュニティを選択するのか、その判断を支援するソリューションが必要になる。そこで出てくるのが、プラットフォーム・ビジネスである。しかし、そこで自分の代わりに判断をしてもらうためには、自分の個人情報をプラットフォームに提供しなくてはならない。これが、いま「存在の匿名性」の脅かされている基本的な構図ではないかと思うんですね。

 表現の匿名性存在の匿名性、あるいはmixi無断リンクの話とRFIDの話は、いまはばらばらの問題に見えます。しかし、こうした「情報過多による認知限界の到来」という軸を導入することで、ひとつなぎに整理できるのではないか、と思うわけです。この前提のうえで、さきほどの白田さんの話を発展させると面白いのではないか、と思います。

 というところで、みなさんもだいぶお疲れのようです。本来ならば、今回は共同討議のあいだに休憩ははさまないはずだったのですが、これあさすがに会場の温度が暑すぎますね(笑)。ここで少し休憩を入れたいと思います。

*1:註:この「表現の自由」について、白田の「刑事分野について考えてみる II : Hotwired」より以下に引用する。「精神的自由権に属する言論・表現の自由を制限する立法には、とくに厳格な審査 strict scrutiny test が適用されることになってる。日本ではそのへん曖昧だけど、アメリカではこの基準は厳格だ。言論・表現の自由を制限する立法は、基本的に憲法違反であることが推定され、その立法が合憲であることの立証責任は、立法者側が負うことになる。その立証では、(a) 止むに止まれぬ(どうしようもなく必要不可欠な)政府(公共)の利益があること、(b) その利益を実現するために、言論・表現の自由をもっとも制限しない手段であること、すなわち同じ程度の効果のある代替的手段が存在しないことの二点を説得しなければならない。これはキツいハードルだ。」

*2:註:この「行為的表現」について、白田の「刑事分野について考えてみる II : Hotwired」より以下に引用する。「言論・表現の自由における議論においては、行為を伴う表現あるいは行為的表現 speech plus という概念があり、デモや座り込みやハンガー・ストライキのような、それ自体としては行為であるものの、その社会的効果としてあるメッセージを伝えようとする行為については、「表現」の枠の中にあるものとして、比較的強い憲法的な保護を与えている。そこで、ここで問題になっているコンピュータを用いた反社会的行為を刑法的に捕らえるためには、刑法が明確に規定された「行為」を引き金として動作開始するという基本構造をふまえれば、「表現的行為」 (described action ... とか言うのかな) とでも名づけられる、「形態的には表現であるが、その作用がある「行為」と確定的に結びついている表現」という概念を作り出す必要がありそうだ。そして、その「表現的行為」は、「行為」の枠組みに入り、従って厳格な審査を必要としないとする必要があるだろう。そうでなければ、一般にもっとも峻厳な手段であると考えられている刑法への規定は、先の (b)の基準をほとんどの場合において満たすことができなくなり、憲法に違反するものとされてしまうからだ」

*3:註:isedキーワード情報概念」参照のこと。

*4:註:ハーバード A. サイモン(1916-2001)は米国の経営学者、認知科学者、システム論者。ノーベル経済学賞を受賞。コンピュータサイエンスの考えを組織論に導入。個々の人間は情報処理能力の限界を持ち(認知限界)、組織とはその限定的な合理性を克服するために形成される、という説を唱えて、人工知能研究などなどにも関わる。また認知科学研究の第一人者でもあり、『システムの科学』(第3版 パーソナルメディア、1999年 asin:489362167X)では「人工物(Artifact)科学」という設計論を提唱した。

*5:註:isedキーワード認知限界」参照のこと。

*6:註:國領二郎研究室ウェブサイト慶応義塾大学環境情報学部教授、専門は経営情報学で、情報社会におけるビジネスモデル研究の第一人者として知られる。認知限界については、主著「オープン・アーキテクチャ戦略」(ダイヤモンド社、1999年 asin:4478372829)で言及されている。

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