ised議事録

08-207. 倫理研第5回: 共同討議 第2部(1)

認知限界という根本問題――必然的に奪われるプライバシー

東浩紀(以下、東):

 では後半を始めましょう。まず討議前半で主題となった表現の匿名性については、すでに結論が出ていると思うんですね。表現をするとき匿名性が欲しいユーザーもいれば、そうではないユーザーもいる。ならばコミュニティをアーキテクチャで分ければいい。無断リンクやコメント問題も技術的に解決できる。高木さんもいうように、この方向性で決着は見えていると思います。

 それに対し、崎山さんは「しかしそうはいってもインターネット上に公的な言論の場は必要ではないか」というコメントを寄せられた。これは昔からよく議論されている問題です。しかし、倫理研第3回で北田さんが詳論したように、CMCが持つ原理的な性格によってインターネットは、従来の意味での「公的な言論の場」にはなりえない。むしろ、インターネットは、「繋がりの社会性」的な存在、あるいは脱社会的な存在がうようよする空間を作り上げる傾向にある。これは現状認識としても正しい。ここも、倫理研としては結論が出ているところだと思います。

東浩紀
東浩紀

 そのうえで、つぎの問題はこうですね。アーキテクチャの工夫によってウェブが複数に切り分けられ、多様なコミュニティ・サービスが並列するようになった。しかし、選択肢が莫大に増えた結果、人々の選択能力はフリーズしてしまう。そこでどうなるか。倫理研第1回で話題になったのは、そこでは、「サイバーカスケード」、つまり大衆が極端な意見へと雪崩れこむ現象が見られるだろう、ということでした。この現象は、何度も繰り返しているように、「繋がっている」という形式だけが連続する「繋がりの社会性」のコミュニケーションによって支えられている。この問題でも、倫理研ではコンセンサスが取れている。倫理研は、けっこう多くの問題に結論を出しているわけです(笑)。

 しかし、まだ残った問題がある。それが存在の匿名性の問題です。繋がりの社会性の暴走を防ぐためには、個人が的確な状況判断を行えるような環境を整えるほかない。そのためにはどうすればいいか。ひとつの解決は、Googlezon*1のように、それぞれのユーザーに適した情報を的確に収集するボットをばらまけばいいというものです。しかしそれは、企業が個人情報を収集し、その代わりに、各自にカスタマイズ化されたソリューションを提供することを意味する。人間の判断能力をコンピュータが肩代わりするためには、個々人の趣味嗜好を解析する必要がある。これは、ある意味では正しい方向だろう。しかし、同時にそれは、存在の匿名性が失われることを意味する。別の言葉で言えば、監視社会化です。ではどうするのか。

 といったところで、高木さんいかがでしょうか。


高木浩光(以下、高木):

 そういうサービスを使いたい人もいて、そのサービスを本当に使いたいからこそ、それをつくる技術者もいるわけですね。一方、機械におすすめされるのは気持ちが悪い、といって使わない人もいる。従来の典型的な議論だと、「そういう人は単に使わなければよい」というだけで片付けられていた気がします。

東:

 使いたい人だけが使えばいい、使いたくない人は使わなければいい。しかし、それでは単に無限後退になるだけですよね。たとえば「個人情報は売り渡したくない」と思う人がいる。しかし彼には、商取引サイトのプライバシーポリシーをいちいち判断する能力はない。だから、ブラウザに勝手に判断してもらうしかない。そしてブラウザに勝手に判断してもらうためには、あるていどの個人情報を渡すしかない。となると、これは個人情報を別の場所に渡すことでしかない。

高木:

 そうですね……。難しい問題です。そもそも、そこで技術的にどう匿名性を担保するかが技術者の課題になるはずです。しかし結局世の中に普及するのは、初期の段階で簡単に実装されたもの、たとえば匿名対策などが十分でないものなどになりがちです。つまり、ダメなアーキテクチャがどうも普及してしまう悪い構図がある。それが私の講演でいいたかったことでもあります。

北田暁大(以下、北田):

 さきほど東さんのおっしゃった認知的限界の話と重なってくると思うのですが…。いわゆる市場メカニズムの範囲においては、誰がなにを買おうが、私がキヨスクでタバコを買おうが、そこでは基本的に「存在」レベルでの匿名性は担保されている。その市場に参加する個人は限定された合理性、認知的有限性によって制限された合理性を持っているにすぎないが、匿名のアクターの行為の総体である市場全体は「自己組織」的に秩序を形成する。市場メカニズムと個人の限定合理性*2はマクロ-ミクロ的にリンクして、全体的な情報処理はうまく調整されうる。市場を範型とした社会理論の発想の下では、ざっとこのように考えられてきたと思うんです。しかしインターネットというものが出てきたことで、おそらくそれだけでは情報をうまく制御できなくなった。市場的メカニズムはこれまで個人の匿名性をある程度保証しながら情報の整理役を担っていましたが、いまや「存在」レベルでの顕名性を前提とせずに経済的――経済に限定されるものではありませんが――コミュニケーションを動かすことはできない。ネット空間においては、市場こそが、もっとも「存在の顕名性」を要求するものとなりつつあるわけです。個人は、限定的でしかない自らの認知状況を「改善」するには、個人情報を差し出さなくてはならない。限定的な合理性と、匿名性、そして市場の論理との「幸福な」関係性が現在崩れつつある、ということができるでしょう。

北田暁大
北田暁大
 こうした状況のなかで、個人は、限定的な合理性すらなくてもやっていけるともいえるし、スーパー合理性、つまり無限定な合理性を志向しているともいえる。Googlezonは、限定的な個人を無合理化するとも、超合理化する、ともいえる……。

東:

 そのとおりですね。いまの話は公/私の区別をめぐる議論とパラレルです。まずプライベートな世界で限定的で合理的な判断をして、その上でパブリックな情報にアクセスして選択をする、という二段構造が取れなくなっている。

北田:

 だからこそ、あらためて表現の匿名性存在の匿名性の区別が重要になると思うんです。情報環境がかくも変化しているにもかかわらず、どうも私たちは表現の匿名性のようなものに対する信仰がある。崎山さんや高木さんのようなてだれのユーザーではない限り、いまだに「インターネットは匿名的な表現が可能な場所だ」と思い込んでいるわけです。結局、自分が表現の匿名性を前提に「表現をする」という行為が、同時に、存在の匿名性を放棄することにもなりうる、という逆説性が見えなくなってしまうわけですよね。だとすれば、最終的にこれは啓蒙の問題にならざるをえないのではないか。

東:

 結論はまだ措くとしましょう。とりあえずの状況認識として、「情報社会においては人々は判断ができなっている」ということを出発点にしたい。なぜなら、そこを出発点にしない限り、「プライバシーポリシーを読めばいいじゃん。書いてあったでしょ」という類の議論に陥ってしまうからです。「約款」然り、「ライセンス」然りです。しかし、インストールのときにライセンスを読んでagreeをクリックしている人はほとんどいない。高木さんはちゃんと読んでいるのかもしれないけれど(笑)。普通はただ単に押しているだけであって、判断なんてしていない。みんなそう思っているし、ソフトウェア会社もそう思ってばらまいている。

 こうした状況、つまり判断放棄が常態化した社会において、代わりに判断してくれるサービスが台頭してくることは間違いない。そして、そのサービスは人々の個人情報をどんどん獲得し、複雑な世界を処理し、私たちに結果を投げてくるだろう。しかし、このサービスをどうコントロールするかについて、私たちは答えを持っていない。

高木:

 補足すると、講演でも一瞬触れたP3P(Platform for Privacy Preferences)ポリシーというものがあります。あらかじめ自分用の個人情報ポリシーを定義しておくと、それに沿ってエージェントが自動的にやってくれるわけです。こうしたものが高度化していくというわけですね。

東:

 そうです。レッシグの『CODE』で紹介されていましたね*3

高木:

 それを心地よいと思うのか思わないのか、その先が見えないわけです。しかし一部には、プライバシーをとにかく守りたい、自分の把握できないところで機械に処理されるのは気持ちが悪い、という人も一定量いるんですね。

高木浩光
高木浩光
 ただ、「気持ち悪い」ということは歯止めになるのでしょうか。たとえば小学生のランドセルにタグをつけるというセキュリティ実験がありました。そのときの意見に、「子供のうちから監視的な環境に慣らされてしまうと、彼らが大人になったとき、すべて受け入れてしまうのではないか」というものがあった。つまり、いつか気持ち悪いとすら思わなくなる可能性はいくらでもあるわけです。ではどうすればいいのか。

東:

 子供の安全については、現在はちょっと異常な状況だと思います。しばらくすると冷静な方向に揺り戻すのかもしれません。

 しかし、認知限界の問題にそうした揺り戻しはない気がします。自分で判断できる「強い個人」は、機械を使わなくてもいいかもしれない。しかし、「弱い個人」は機械に頼らざるをえなくなる。それに、環境が複雑になればなるほど、「強い個人」の数は減ってくる。ここで気持ちが悪いかどうかというのは、問題にならないと思うんです。本屋に行ってもなにを買っていいのかわからないので、Amazonに頼る。これはいまでも決して不気味とは感覚されていない。


小倉秀夫(以下、小倉):

 ただ認知限界が訪れたときの対処法は、実はふたつあると思います。ひとつは東さんのいうAmazon的なものですね。自分がいままでどんなものを買ったかという履歴をサービスに送信し、その蓄積されたデータを解析して消費傾向を分析したうえで、その結果を消費者に返す。さらに販売履歴だけではなく、性別や年齢や学歴も送ったほうが、より正確な趣味嗜好を把握することができる。こうしたソリューションのタイプは、たしかに個人情報を提供する必要がある。

小倉秀夫
小倉秀夫
 しかし、そうではないタイプの対処もあるわけです。これは音楽業界の方と会話するとよく出てくる例なのですが、たとえばiTunes Music Storeが出てきて、メジャーとインディーズの区別がなくなり、大量の音楽があふれている状況にある。そこでいま消費者たちはどうやって自分の聴きたい楽曲を選んでいるのかというと、「この人の聴いている曲なら自分も聴きたいはずだ」という「目利き」的存在を選んでいるというんです。すなわちセンスの近い人を見つけている。実際iTunes Music StoreでもiMixという機能があって、プレイリストを見せあうことができます。このタイプがもっと著名人も絡めて提供されるようになれば、人々の情報処理コストは低減されることになるでしょう。

加野瀬未友(以下、加野瀬):

 いまでも、みのもんたがテレビでやっていることですね。

東:

 たしかに。著名人は昔からそうした機能を果たしてきた。情報を一部に集中させて、世界の複雑性を縮減する。つまり情報のハブですね。

 ただ、どうでしょう。実際には、インターネットはその著名人の数を増大させてしまうわけじゃないですか。たとえば、莫大に増える書評ブロガーのなかから、誰を信頼すればいいのかという問題が新たに出てしまう。

小倉:

 ただこの目利きという解決策の利点は、消費者はあくまで能動的に「この人の趣味嗜好は私に合うんだ」と選択できることです。個人情報を渡す必要もない。

東:

 おっしゃることはわかるんだけど、結局、その「最初に信頼する著名人」をどう選ぶのか、という問題が生じるだけじゃないでしょうか。

 テレビ局も音楽番組も10個程度しかないのであれば、吟味も可能でしょう。しかし1000のオーダーになってしまうとどうか。まず考えられるのは、最初にたまたま出会った番組をとにかく妄信する、という判断です。しかしこれは判断停止でしかない。だとすれば、1000個のなかから自分の好みの目利きを選ぶなければならないわけだけど、そのとき「能動的」とはなにを意味するのか。

小倉:

 いや、なにも1000個のなかから直接選ぶ必要はないんです。目利きの人を選べばいい。

加野瀬

 そう思います。たとえば健康食品のどれがいいのかを判断するというとき、世の中に健康食品は軽く1000種以上は存在しますよね。しかし、みのもんたがとりあえず紹介したものだけを追えばいい、という人が現実に多数存在するわけです。インターネットも事情は同じで、なにも1000個あるなかから一番いいものを選ぶ人はいない。

東:

 いや、そのとおりです。ただ僕がいいたいのは、その目利きそのものが増えているんじゃないか、ということです。

 いいかえれば、付和雷同の内実が変わっている。著名人を妄信するのはいいんです。著名人の数が少ないのであれば、どの著名人についていくのかという選択もあるていど合理的に行われるからです。それこそ、みのもんたを盲進する視聴者には、「みんなもみのさんを信じているんだから、自分も信じよう」という判断が働いている。しかし、それはワイドショーの数が少ないからできる。著名人自体の存在が爆発的に増えてしまうと、もはやそれもできない。著名人の選択自体がランダムになるし、なんで自分がそのひとを選んでいるのかもあいまいになる。最初に出会ったのがたまたまみのさんだから、「みのさん、神!」(笑)と。実際に、そういうことはブログでは起きていると思う。

 たしかに、その行動は、信頼できる人のレコメンデーションに従っているといえなくもない。昔と同じく、目利きを立てているだけのように見える。しかし、その質は異なるのではないか。いまではプチカリスマばかりが増えている。そして、どのプチカリスマに出会うのかはランダムになっている。「みんなが彼に従うから、僕も従う」という回路さえ成立しにくくなっている。

 わかりやすく言えば、たとえばGoogle以前のinfoseekやAlta Vista*4時代であれば、「東浩紀」と検索したサイトはだいたいすべて見ることができた。だから比較も可能だった。しかしGoogleになってしまうと、あまりに莫大で比較もなにもない。どのブログが著名なのかなんて、まったく分からない。

加野瀬

 10ページ目の結果なんて見ませんからね。

東:

 となると、「東浩紀 ○○○」と単語を加えて検索するしかなくなる。でも、これは僕が見たいと思うサイトを検索しているにすぎない。そこでいくら僕に言及していたとしても、すべてを比較して吟味しているわけではない。「著名人のブログについていく」といっても、これと同じことが起きると思う。

加野瀬

 なるほど。

崎山伸夫(以下、崎山):

崎山伸夫
崎山伸夫
 たしかにその1000個が完全に並列であれば、ランダムなのかもしれません。たとえばGoogle的なものは並列的といえる。ただ、Googlezonが支配的になるかは未知数で、All Aboutのようなポータル的なものが新たなピラミッド構造をつくる可能性はあります。たとえば論壇誌を選ぶと論者も決まってくるように、All Aboutというポータルを選択すればそこで書いている論者を選んだことになる。こうしたかたちで複雑性を縮減する方向性はありうるでしょう。

東:

 今後はポータルサイトではなくてボット*5かな、と思うんですよ。ブラウザで最初に「あなたの好きなジャンル」を細かく設定すると、ポータルが選択される、という感じですかね。

崎山:

 しかしすべてのポータルが無味乾燥になる必要はなくて、たとえば「世界」や「正論」のようなポータルがあってもいい。

東:

 いや、そういった質の話ではなくて、純粋に数が問題だと言っているんです。そもそも右翼や左翼というのは、論壇誌が数誌しかないから成立しているにすぎない。論壇誌がもし50も100もあったら、右翼も左翼もないですよ(笑)。そこでは、読み手が自分の好きな論壇誌を勝手に読むだけの状況が現れる。

小倉:

 どうでしょうか。論壇誌がいくつあろうと、右翼はやはり「正論」しか読まないし、左翼は「世界」しか読まない気もします。

東:

 いや、むしろ「正論」がいくつにも分裂してしまうというか……。こんな話をしてもしょうがないですね(笑)。

辻:

 素朴な疑問があります。東さんのいう認知限界の問題は、ネットに限定すればそうなのかもしれません。しかし、いますぐマスメディアがネットに取って代わられたわけではない。よほどの音楽好きでなければ1000個のなかから選び出すことはなくて、せいぜい数個の選択肢があればいいと感じている。とすれば、マスメディアが今後もある程度の目利きの役割を果たしている限り、完全にネットに代替されることはない気もします

辻大介
辻大介
 そう考えると、認知限界の問題というのはどれだけ危惧すべき問題なのか、ひっかかるところもあるんですね。

加野瀬

 小倉さんの立場は、個人情報を提供せずとも、目利きを選択するといった手段は残されるはずというものですね。だから存在の匿名性が失われる危険性はそこまで考えなくてもいいのではないか、と主張されている。しかし東さんは、たしかに目利きには個人情報を渡さなかったとしても結局は同じなんだという。つまり、どの目利きがいいのかを選択する水準でも、いつしか認知限界が訪れるに違いないということですよね。

東:

 そうです。

 司会を放棄して話続けることにしますが、僕の言いたいことは、要は個人情報を提供しなければ社会生活を送れないような社会になりつつある、ということです。僕がよく出す例として、「SUICAを持っていなければ電車に乗れなくなる」というのがありますが、これはまだ行為が制限されているにすぎない。しかし問題は、その状態が判断のレベルにすら及んでくることではないか。

加野瀬

 ただ、すべてがそうなるとはやはり考えにくい。たとえばこう考えてはどうですか。ニュース報道を観るというとき、インターネット上には無数の真実が転がっていて、一方のマスメディアはいくつかの事実を提示している。しかしそのとき、前者の無数の真実のなかから選択しようという人は少ない気がします。

*1:註:isedキーワードEPIC2014」参照のこと。」

*2:註:限定合理性は、「認知限界」と同じくハーバード・サイモンの概念。主流派とされる新古典派経済学では、「合理的な主体」という意思決定主体を仮定する。しかしサイモンは「人間は合理的であろうと意図するけれども、その合理性には『限界』がある」という前提を導入する。人間は将来にわたる不確実性をすべて予測することはできない。情報を完全に集めることもできない。もし選択肢を数多く集めたとしても、どれが最適なのかを計算することはできない。よって、人々は合理的であろうとしても、完全に合理的な意思決定を行うことは不可能であるとした。この限定合理性を持つがゆえに、人間は組織や制度という人工物を設計し、それによって高度に合理的な意思決定を行うというのがサイモンの基本的な考えである。さらに経済学者のウィリアムソンは『市場と企業組織』(日本評論社、1980年 asin:4535572798)のなかで、「新古典派経済学では、なぜ市場だけではなく、組織が存在するのか説明できない」と問題を立てる。そこでこのサイモンの「限定合理性」の概念を受け継ぎ、組織(階層構造)によって「取引コスト」を低減させるから、という命題を導いた。→参考:國領研究室レジュメ「Williamson, O., “Market and Hierarchies”, New York: Free Press, 1975

*3:註:ローレンス・レッシグ『CODE』(翔泳社、2001年 asin:4881359932)第11章「プラバイシー」参照のこと。

*4:註:IT用語辞典 e-Words : AltaVistaとは 【アルタビスタ】 ─ 意味・解説

*5:註:「ロボット Robot」から来た言葉で、たとえばGooglebot(グーグルボット)といえば、Googleの検索データベースを作成するためにネットワーク上をクロール(巡回)する自動プログラムのこと。以下の解説を参照のこと。→ボット(Bot):RBB TODAY (ブロードバンド辞典)

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