ised議事録

08-209. 倫理研第5回: 共同討議 第2部(3)

国家からコンピュータへ移る「複雑性の縮減」装置――情報社会倫理と憲法

白田秀彰(以下、白田):

 東さんが、私たちの社会にはその外枠を決めるものとして、人間の認知限界があると述べていました。確かに、私たちは、私たちの認知・認識力の限界は超えられない。また、認知限界には個人差がある。すなわち複雑性の処理の能力が高い人もいれば、低い人もいたでしょう。それでも、これまでの社会は、なんとかそれをやりくりしてきたわけですよね。

 たまたま、この夏休みにメディチ家ハプスブルク家*1に関する歴史の本を読んでいたのです。読んでいてつくづく思ったことは、中世末から近世にかけて社会かと統治とか親類とか縁者とか、もうウンザリするくらい複雑だということです。しかも、そうした複雑さのなかで家同士の争いが絶えなかった。だから、その頃における政治的能力というのは、そうした複雑な人間関係や勢力関係に敏感であり、かつそれらを操作する能力のことを指していたのだと思います。

白田秀彰
白田秀彰
 そのあと近代国家に移行して、そのあたりの複雑な人間関係は、法律によって規定された機械的あるいは抽象的関係に整理されたわけです。実際は相変わらず複雑だっただろうけど、法のタテマエとしてはスッキリした。近代国家制度が歓迎された背景には、複雑怪奇な中世的制度にウンザリしたという要素は大きいと思います。

 こうして考えると、私たちは、小さな都市国家だの世界帝国だのといった、統治という複雑な人間関係を整理するための機構、いいかえれば人間関係の複雑さを縮減する装置である国家形態に関する実験を何世紀にも渡ってやってきたあげくに、近代立憲国家という枠組みを暫定的に作ったといえる。そうした、複雑性縮減機構である国家に対して、私たちは、すでに「存在」を登録しているんですよね。いつ生まれたのか、いつ死んだのか。住所はどこで稼ぎはいくらで税金はいかほど払っているのか。こうした個人情報を国家にすでに渡している。そのかわりに、国家は人間関係の複雑さを縮減する仕組みや規律を与えてくれている。仮にそれらが破られたばあいは、強制力をもって回復してくれる。こうして複雑な近代社会において、人々は社会生活を送ることができるわけです。ひとまずこう考えることができる。

 しかし国家は時として暴走する。その暴走への安全装置として作られたのが憲法です。国家はこうしたことをしてはいけない、という縛りをかけるものとして、憲法は機能してきた。そしてこの200年、近代国家というモデルはわりと成功してきたといえます。ただ、このモデルをきちんと踏襲している国は数えるほどしかない。そして私たちは意図せずに日本という国に生まれ、たまたま日本人になっているにすぎない。他の国に生まれていたら、国連の提供する粥をすすっている身だったかもしれない。それは不幸なことですが、しかしこの国家をめぐる偶然性に対して、とりあえず私たちはそんなものだと納得しているわけです。

 さて、情報化が進むなかで、私たちは人間関係の曖昧さ複雑さより以上に、自らの将来の決定に関する情報の爆発的増大に直面し、認知的な限界に到達するわけです。こうした状況において、情報処理が追いつかず決定できなくなった人々が多数発生し、社会活動が停止してしまわないような手当てが必要になりつつある。これはいいかえると、私たちの選択をなにか別の主体に委ねる状況に入りつつあると言えるわけです。これが東さんの認識だと思います。これからの情報社会を構想していくうえで、私たちは「自分が何を欲しており何を選択するのかを知るために、自分自身に関する情報を誰かに提供すること」を前提にせざるをえない。個人情報を渡すとか渡すのがイヤだとか、それはもはや論点ではない。渡さざるをえないのだ、と。そういう社会に私たちは入りつつある。私はそれに納得しました。

 というのも、この個人情報を渡すことで政治的関係・私的人間関係・消費行動・世界観等をうまく切り分けてくれるシステムというものは、おそらく国家の代替物として機能するだろうからです。私たちは遠くない将来、個人情報・生体情報・行動情報をなんらかの主体に提供せざるをえない時代に入る。情報社会の複雑性は、私たちの脳の情報処理能力では処理しきれない。

 いままで国家に「存在」を登録することで、自分を取り巻く複雑な世界が、あるひとつの枠組みによって整理され、またそうした枠組みが保障されてきた。こうして人は、ひとつの世界を前提にして、生産なり消費なりに知力をより多く割り当てることができた。こうした図式を前提にすれば、さらに複雑化する社会において同様の機能が必要とされることは、必然的帰結なのです。そして東さんの悲観的な見方に私が納得したのは、この個人情報を登録しないと生きていけないという流れが、近代国家成立の時代から一本筋だと思うからなんですね。

 いままで我々は、人間関係の複雑さに困ってきた。だから、個人はどこかのネーション・ステイトに登録した。登録しないという選択肢もありえますが、今そんなことをする人はほとんどいませんね。国家にも性能差がある。ある国はうまくまわっていて、そうでない国もある。けれども、それはそんなものであると皆納得しているのです。1000個のサービスから最高のものを選ぶ云々という話がありましたが、いまでもどの国に生まれてくるかは選べないように、今後たまたま選択したSNSサービスに入って、「世界はこんなものか」と思って終わっていくのかもしれないわけです。いまでも私たちは、国家に対してそのような感覚で接している。

白田秀彰
白田秀彰
 たとえば総務省の「安全・安心ネットワーク」というのは、そのようなサービスを日本政府が旗を振ってやるというわけですね。しかし、政府がそれを担う必然性はもはやありません。私たちがそれに納得しないのであれば、政府を選ばないこともありうる。そして私たちは、その国家に代わるだろう主体を縛るにはどうするかを考える必要がある。これまで憲法によって国家を縛ってきたけれども、その次はなにかということです。

 ともあれ、SNSのようなサービスが私たちの個人的な趣味志向を計算しながら、うまく世界を切り分けるような時代がくる。この東さんの認識は、近代国家成立の過程を考えるとむしろストレートにつながると思う。そして私たちは、いままで国家に預けてきた以上の個人情報を与えるようになるでしょう。それに抵抗感を感じるというのは、次世代の倫理としては間違いなんじゃないかと思うわけです。

東浩紀(以下、東):

東浩紀
東浩紀

 なるほど、いまの話は本質を突いていると思います。聞いていて思ったのですが、所有権の話と繋げるといいのではないか。

 よくいわれることですが、中世の財産権の制度は、現在と異なってモノへの所有権が1対1で決まっておらず、さまざまな使用権がバンドルされてぶら下がっていたところにある。特に土地がそうです。領主がいて、農民がいて、ひとつの土地に対しさまざまな権利が重なっていた。だから土地の売り買いができない。それを「所有権」というかたちで単純化し、流動性を高めることで、資本主義は走り出した。いまの白田さんのお話は、これと似ていると思うんです。近代社会は人間関係も所有関係も単純化した。ひとつのモノはひとりの人間が所有する。ひとりの人間はひとつの国家に所属する。すべてが一対応で単純化されたわけです*2

 しかし、いま現れている状況はそうではない。たとえばソフトウェアを購入しても、たいてい複製は不可だし転売もできない。これは、買っているようで買っていない状態に近い。つまり、近代社会=資本主義社会がつくりだした単純なシステムを、情報社会は再び複雑なものに戻そうとしている。これが情報化やグローバル化といわれているものの本質なのではないか。ところが、私たちはその複雑さに耐えられない。それは心理的にではなく、認知的に無理なのです。そこで、個人情報をどこかのシステムに預ける、という近代国家設立時のドラマがもういちど別のかたちで繰り返されようとしている。そこで、白田さんは、その個人情報の利用を受け入れたうえで、人間社会の混乱を食い止める新しい倫理が必要だ、とおっしゃるわけですね。

 このように、中世以降の近代化の流れと認知限界の話は連続的に捉えることができるのかな、と思います。どうでしょうか、北田さん。

北田暁大(以下、北田):

 たとえば最近では自己情報コントロール権をめぐる模索などもあるわけですが、もはや近代的プライバシーという装置は有効ではない、ということですよね。近代的なプライバシーという概念は、白田さんのことばでいえば「行為」の文脈で運用されてきた。私の素朴な理解だと、なにか嫌な、不当な介入がある場合や、自分にとって不愉快な個人情報が探られている場合、プライバシーという概念を立てる。それは基本的には、主体の人格尊厳にかかわる何らかの侵害行為に対する対抗概念だったわけです。しかし今日問題になっている「存在の匿名性」のレベルの個人情報採取というのは、そうした性質のものではない、そうした性質のものであるとはかぎらない。なにしろ、「存在」次元で個人情報を差し出すことが、むしろ主体の存在証明になりかねないわけですから。

北田暁大
北田暁大
 そこで白田さんや小倉さんにお聞きしたいのは、こうした問題が法の世界でどう考えられているのかなんです。現代の情報環境のもとでのプライバシーの概念はどうにかしないといけないんだけれども、どの本を読んでもよくわからない。最後は「やっぱプライバシー大切でしょ」と開き直るような議論しかないように感じます。なにか法律の世界における工夫の試みはないのでしょうか。

小倉秀夫(以下、小倉):

 もともとプライバシーというのは、私的領域における行為を「放っておいてもらう権利」として構成されていました。もともとは、自分の家のようにごく狭い範囲を指していたわけです。しかし、日本では佐藤幸治先生などが情報コントロール権といった概念を提唱された結果*3、この考えが普及するに至っています。要はプライバシー概念も先祖帰りすればいいだけのことなんですね。

東:

 重要なのは、情報社会において「放っておいてもらう権利」とはなにか、という問題でしょうね。そう考えると、最初の「無断リンク」の問題とも関係してくる。

小倉:

 プライバシーは、「私的領域だから放っておいてくれ」という話なんですね。リンクは対外的に働きかけてしまっている以上、そこは私的領域ではなくなってしまう。

東:

 しかし、そこでも「対外的に働きかけるとはなにか」という問題が出てきますよね。ウェブに書く、ということは対外的に働きかけている行為なのか。

小倉:

小倉秀夫
小倉秀夫
 もともとプライバシーはプリミティブな状況を想定していて、家庭内で誰がなにをしようとどうでもいいじゃないか、という水準の話でした。それが個人情報コントロール権として捉えなおされたあたりから、どうも話はおかしくなっている気がします。

北田:

 その話を聞くにつけ、近代国家が担ってきた「複雑性の縮減」の方法論が限界にきているのは明らかだという気がしますね。

東:

 そろそろ結論に入りたいと思います。どのようにして世界の複雑性を縮減するのか、いまやその方法論が大きく変わりつつある、ということでは、みなさんのコンセンサスが得られていると思います。私たちは、その結果、公的/私的、表現/存在といった、かつては自明だった区別が溶解する局面にいる。

 「情報社会倫理」という問題が探求しにくいのは、まさにそうした変化と関係している。いままでは、私的な領域ではひとは好き勝手にやっていいけれども、公的な領域では規律正しく生きるべきだ、という話で済んでいた。ところが、肝心の公/私の区別が溶解してしまうとなると、もはやどこからどこまで規律正しくやればいいのかわからない。それでトラブルが起きているわけです。

小倉:

 結局のところ、どこから先が放っておいてもらえる私的領域なのか、法律の世界ではその都度の社会常識によって決めるという以外に結局ないんです。

白田:

 まさにそのとおりです。たとえば購買情報は現在の常識に照らせば重要なプライバシーということになっているけれども、むしろその常識から変える時代になるのかもしれない。たしかに、誰かに自分がなにを買ったのかが知られるのは嫌ですよね。しかし、完全に無人で処理されていればどうか。しかも個人特定的ではなくて、あるカテゴリーに対してデータ処理がされているだけであればどうか。そこにどれだけ個人情報を送信していたとしても、それはプライバシーの侵害といえるのか。議論の次元はこのように変わらざるをえないのかもしれません。

 となると、解決の方向性はむしろこうなります。個人情報や嗜好情報の管理に、認知的な能力をもった人間は一切関与してはならないというルールを明確化すれば、この問題は回避できるのかもしれない。もちろんプログラムをつくるのは人間ですが、誰か特定の個人についてどうする、という類のプログラムを書くことを禁じる。そしてそこには国民的な監査のようなチェック機構を設けるようにする、と。これが新しいプライバシー問題の解決ではないか。

高木浩光

 電話の交換機がそれに近いですね。

白田:

 社会の複雑性を縮減する装置が、国家からコンピュータに移る。そしてコンピュータに相当の個人情報を渡すようになる。そうだとしても、これまで憲法によって国家を縛ってきたように、なんらかの強制的な枠組みをかければうまくいくかもしれない。それこそ、私たちの社会がこれまで歩んできたプロセスの直線上にある。そんな気がしてならないんです。

東:

 なるほど。そして、そこで指針になるものこそが「情報社会倫理」なんですね。それはもう、近代社会の倫理と異なる。

白田:

 そうです。ある倫理観に基づいて、私たちは「個人情報を取るのはけしからん、監視社会はよくない」というけれども、それは違うのかもしれない。ある特定の個人が別の特定の個人を監視するリトルブラザー的な社会になるよりも、完全に非人格化されたビッグブラザー*4のほうがましである、という考え方も可能かもしれない。

東:

 非人格ということであれば、それはもうビッグブラザーですらない。別の言葉を考える必要がありますね。

白田:

 今日の東さんの話と、いま私が話していることはそれほどブレていないと思うんです。そして、この方向性が実現してしまうのではないかと感じているわけです。たとえば、いま私たちは日本国に生きていて、かなり高程度の自由と繁栄を謳歌している。しかしたとえば400年前の人間に対して、子供が生まれたら役所に届け、自分の収入や支出についていちいち帳簿をつけて役人に報告した上で税金を納め、定期的に自分の身体について調査することが義務であり、車を運転するのに免許がいるといったら、大変な束縛だと感じるはずです。しかし私たちはそう感じない。それと同じことだと思うんです。

白田秀彰
白田秀彰
 これからは、現実界の人間としては、いずれかの国家に所属している一方で、社会の複雑性を縮減するための情報システムにも所属するようになるでしょう。それは選ぶのではなくて、自動的に割り振られるのかもしれない。そして現実の国家にも淘汰競争が起きるように、そのシステムも何世代か盛衰を繰り返す。その過程で、近代の自由主義国家が掲げる大原則のようなものが、電網界においても発見されるに違いありません。そうした世界がくるためには、むしろ個人情報を渡すことはやむをえないという世界観を受け入れるところから出発する必要がある。これが情報社会倫理なのではないかと思います。

東:

 司会の僕に変わって、すばらしいまとめをしてくださったと思います(笑)。次回以降も、この問題は引き続いて議論されることでしょう。

 それでは、今日はみなさん、たいへん蒸し暑い会場で、長時間の討議をありがとうございました。僕はこのあとに設計研が控えていますが、みなさんもほかのプログラムをお楽しみください。

*1:註:ともに中世ヨーロッパの歴史の代表的存在。メディチ家はイタリアの有力な家で、14世紀から18世紀ごろまで勢力を持ち、ルネサンスを支えた芸術家たちのパトロンとして著名。ハプスブルク家はドイツ・オーストリアを中心とした貴族の一族で、13世紀頃から各国の国王や皇帝を輩出した。

*2:註:参考として、池田信夫『ネットワーク社会の神話と現実』(東洋経済新報社、2003年 asin:4492222324IT@RIETI - 「領土戦争から情報戦争へ」(第七章第四節)からの引用:「しかし、すべての財産をポータブルにして所有権によって市民に結びつけるのは、かなり特殊な制度である。特に、土地や情報などの無形の資産に所有権を設定するには、登記や特許などの手続きが必要だが、こうした所有権の正当性は自明ではない。通説では、特許権が早く確立した国から産業革命が起こったとされるが、これも最近の研究では疑問視されている」 または池田信夫ディジタル革命の考古学のためのノート(2)」の「所有権」・「情報のコントロール」の項目を参照のこと。

*3:註:佐藤幸治プライヴァシーの権利(その公法的側面)の憲法論的考察(一)(二)」(法学論叢86巻5号、87巻6号、1968年)

*4:註:isedキーワードビッグブラザー」/「リトルブラザー」参照のこと。