ised議事録

10-082. 倫理研第6回:辻大介講演(2)

題目:「開かれた社会へ向けて存在の匿名性を擁護する」

倫理研第6回:開かれた社会へ向けて存在の匿名性を擁護する

2. プライバシーの道徳的「価値」ではなく、社会的「機能」を再考する――存在の匿名性の積極的な擁護

 ここまでの議論は、ビッグイットの必要性や実効性は薄いと論じることで、そこから消極的に存在の匿名性を擁護するという論法でした。ここから先は、より積極的に擁護を試みたいと思います。

 そもそもプライバシー存在の匿名性というふたつの概念は非常に密接に関係していますが、プライバシーは単に道徳的な「価値」ではなく、社会的な「機能」を果たしてきたのではないか。そして私たちは、その積極的に認められる機能を確保しておく必要があるのではないか、という議論をしたいと思います。

“right to be let alone” としてのプライバシー――責任のインフレを回避するために

 これは前回小倉さんがおっしゃったことですが*1プライバシーはそもそも“right to let be alone”(放っておいてもらう権利)として、19世紀のアメリカで生まれました。しかし現在ではその考え方が変わってきており、再び原点である「放っておいてもらう権利」に戻るべきではないかという議論がありました。私も原点に立ち返って考えてみたいと思います。

 なぜ放っておいてもらう権利というものが、特に近代社会で必要とされるようになったのか。私はこう考えます。それは「責任を問われる“行為(act)”の領域」と「責任を問われない“振る舞い(behavior)”の領域」を分節する必要が出てきたからではないか。そしてこの必要性それ自体、私たちが認知限界を持つ存在であるところに由来しているのではないだろうか、と。

 より具体的に説明するために、北田さんの『責任と正義』という本のなかから、「責任のインフレ問題」*2という問題を借りてきたいと思います(北田[2003:p.14-31,62-4])。まず、あるひとつの動作を記述するときには、因果系列をたどることで幾通りもの記述が可能です。たとえば、私が人差し指を動かす。そのことによって(by)部屋の明かりをつける。これは一般に、「辻は部屋の明かりをつける」と記述できます。そして部屋の明かりをつけたことによって、寝ていた妻を驚かせてしまうとしましょう。そうするとこの動作は、「辻は寝ていた妻を驚かせる」という行為として記述できる。さて、この悲鳴が、複雑系でいうところのバタフライ効果のようなものによって、北米でカトリーナ台風を引き起こしたとしたらどうか。台風はニューオリンズに上陸して甚大な被害をもたらしたわけですが、その因果系列をたどっていくと、「辻はニューオリンズの人々を死に至らしめた」という記述が可能になってしまう。これは分析哲学の行為論の分野で「アコーディオン効果」といわれているものです。かといって、私がアメリカの法廷で「お前がニューオリンズの人々を殺したのではないか」と裁かれてはたまりません。仮に指を動かすことで本当に暴雨風が起きていたとしても、限定された合理性の持ち主の私にとって、これは予見可能な範囲を完全に超えています。これが責任のインフレにあたるものです。

 そしてこの責任のインフレを回避するための社会的な仕組みというあたり点に、放っておいてもらえる権利としてのプライバシーの萌芽があるのではないか。つまり「辻が指を動かすことによって暴風雨を引き起こした」というのは、仮に因果関係の記述としては適切だとしても、これは責任を問われるような“行為”ではなく、「責任追及を免れる=放っておいてもらえる」“振る舞い”として記述される必要があるのです。

複雑性の縮減装置としてのプライバシー

 社会の複雑性が増大するにともない、動作の結果の予見も困難になっていきます。複雑な社会とは、つまり個人が複数の制度的な役割を担わねばならない社会のことです。たとえば私は大学教員としての役割を担わなくてはならないし、日本国民としての役割も担わなくてはならない。あるいは、インフォーマルな家族という制度のなかでは、夫や親という多数の役割をも担わなくてはならない。そうなりますと、役割どうしがコンフリクトを起こすことが十分考えられるわけです。親としての適切な振る舞い、たとえば人々の前で子供を叱り飛ばすことが、実は関大関西大学の教員としては不適切な振る舞いになるかもしれない。それを観ている人々に、「関西大学の先生っていうのはヒステリックだなぁ」と思わせてしまうかもしれないからです。このように、同時にいくつもの制度的役割を担うとすると、心理的、あるいは認知的負荷がかかってしまうことになります。

 これをすべてうまくこなそうとするのは、限定された合理性の持ち主にとっては限界があるわけです。そこでその認知的負担を軽減するために、個人に密着した「人格」という制度が特権化したのではないか。そう稲葉振一郎さんは示唆されています(稲葉[1999:p.9])*3。そうなりますと、人格に関わる制度のなかにプライバシー権が入っているわけですから、「放っておいてもらえる権利としてのプライバシー」も同じく複雑性縮減の装置として考え直せないだろうか、と思うのです。

 たとえば先の例を続けましょう。大学側が私たち教員に対して、大学にとって不利益をもたらさないかどうか、あらゆる言動や行動というのを記録して報告することを義務付けたとする。当然、教員側はこれを許容しませんしないでしょう。私を含め多くの人がプライバシーの侵害だと叫びたくなりますなるはずです。ここで、なぜこの措置が不適切なのかということはを個別の状況に応じて理屈立てて論じる必要はなくて、「プライバシーの侵害だろう」という感覚が必然的に自然に生じているくるのがポイントだと思うんですね。複雑なところを無理に処理する必要がなく、感覚によって一気に問題を縮減することこそが、プライバシーの機能ではないか。つまりプライバシー(が侵害されているという感覚)が果たしている機能とは、第一に、動作(motion)がもたらす予見不可能な結果の責任を負わされるのを回避すること。第二に、他の制度的な役割が適切に行えなくなるのを回避すること。この二点が考えられるのではないでしょうか。

right to be let alone としての「存在の匿名性

 仮にビッグイットがすべての動作のあらゆる結果を予見できるようになり、かつすべての役割における結果の利害を比較考慮して、あらかじめ動作の範囲を調整することができれば、このような問題はクリアできます。しかし、すでに論じたように、おそらくビッグイットはここそこまでのことはできない。とすれば、これまで放っておいてもらえる権利としてのプライバシー概念が担ってきた社会的機能は、何らかのかたちでこれからも維持していく必要があるだろうと思うわけです。

 ここで「存在の匿名性」に関してもう一度考えてみたいと思います。表現の匿名性というのは、行為(act)と振る舞い(behavior)という区別に従えば、「責任が問われるべき“行為”について、非本来的に責任から免れるもの」であると考えられます。それに対して、存在の匿名性というのは、同語反復になりますが、「責任を本来問われざるべき“振る舞い”について、本来的に責任を問わないでおくもの」と定義できます。

 さらに、これは放っておいてもらうということですから、「どこで、いつ、なにを買ったか」という“振る舞い”が、ビッグイットのような存在に知られるようなこと自体は問題ではない、と考えられます。むしろ問題なのは、それが“行為”として、つまりその結果に関して責任を追及されることのほうです。なぜなら、知られることに関してはベネフィットもありうる。たとえば、普通は何時に、誰と、どこのラブホテルに行ったかという情報は知られたくない。しかし殺人事件の容疑者ではないかという疑いをかけられてしまったとき、ラブホテル側に記録が残っているとしたらアリバイを証明できるわけです。つまり、個人情報を引き渡すことからベネフィットが引き出せます。したがって、知られること自体が問題なのではなく、それをどう利用されるのかという側面のほうが、そもそも問題だと考えられる。

 放っておいてもらうというのは、誰からも(everyone)放っておいてもらう必要はありません。おそらく誰かから(someone)放っておいてもらえれば十分だと考えられます。さきほどの例でいえば、私が子どもを叱責したという動作を、大学から放っておいてもらえればそれで十分である。家族からは責任を問われても構わない。ということは、誰を相手あるいは制度として設定するかによって、外部に介入されたくない内部は状況によって変わるわけです。このことからすると、リトルブラザーあるいはリトルイットが複数に分散して存在しているならば、あるリトルブラザーなりリトルイットなりに、限られた範囲の個人情報(振舞)を知られること自体はクリティカルな問題ではないても構わないだろう、と考えられます。つまり特定のリトルブラザー(The Little Brother)にすべての情報が集約され、すべての振る舞いについて責任を問われることのほうが問題なのです。

リトルブラザーズとアンリンカビリティ

 仮にリトルブラザーの並立するリトルブラザーズ(Little Brothers)的な状況を考えた場合、そこで課題になるのは、リトルブラザーズが相互に連携することなく分断されていること、いいかえればアンリンクされていること(アンリンカビリティ)の確保だと思われます。もちろんそれに加えて、各リトルブラザーが個人の行為に関してどの程度介入してくるかについても、制限する必要があるでしょう。

 またそもそもアーキテクチャによる環境管理型権力というものを考えたときに、インターネットにすべての情報を集約して一元的に管理する仕組み(ビッグイット)は必要不可欠とはされていません。さらにまた、環境管理型権力は個人情報の収集がないと作動しないのかといえば、それ抜きでも作動しうるわけです。よく出されるマクドナルドの椅子という環境管理型権力の例はまさにその典型でしょう。マクドナルドの椅子はすこし硬く設定されていて居心地が悪い。だから客は長居をせずに、店からすぐにでていく。そのことによって、客の回転効率を上げることが可能である。ではマクドナルドの椅子はお客さんの個人情報を手に入れてオペレーションしているのかといえば、そうではない。ということは、環境管理型権力を作動させる必要があったとしても、個人情報の活用がその作動にとって必要不可欠であるとはいえない。つまり環境管理型権力のベネフィットを受け入れつつ、存在の匿名性を擁護する、というバランスを取ることは可能なはずです。存在の匿名性は限定合理性をもった私たちにとって、複雑性を縮減する役割を果たしてくれている。その機能を保持したまま、環境管理型権力を有効に活用していくべきだと考えます。


*1:註:倫理研第5回: 共同討議 第2部(3)より引用:「小倉秀夫:もともとプライバシーというのは、私的領域における行為を「放っておいてもらう権利」として構成されていました。もともとは、自分の家のようにごく狭い範囲を指していたわけです。しかし、日本では佐藤幸治先生などが情報コントロール権といった概念を提唱された結果*3、この考えが普及するに至っています」

*2:註:北田暁大『責任と正義―リベラリズムの居場所』(勁草書房、2003年 asin:4326601604)での概念。北田は、行為記述と責任付与の関係について、語用論・分析哲学の見地から次のような例を出して検討している。『「野球の試合において、Aが突如大声で「危ない」と叫んだ場面を考えてほしい。周囲の状況としては、この発話の直前には投手の投じた球が打者Bの頭部に当たりそうになる事態があり、さらに発話の直後にはベンチでくつろいでいたCが心臓発作で倒れるという出来事があったとする。そして、Aの挙動が居合わせた野球仲間により事後的に「Aは、音声を発したのだ(D)」「Aは、Bに球に当たらないように警告したのだ(E)」「Aは、Cに(意図的に)心臓発作を起こさせたのだ(F)」というようにD、E、Fによって証言されたとする。ここで勘案されるべきは、証言者それぞれの解釈図式の相違などということではなく、外延的に措定可能な一つの出来事=行為の記述が複数の適切な形をとりうること、したがって、三つの証言が同一の人物によっても語られうるということである。(中略)行為の事後的かつ三人称的な記述は、行為の帰責者とされる者の身体的振舞いの「どこからどこまで」区切りを入れるか(出来事の特定化)、当の記述を真たらしめる信念・知識・意図をいかにして行為者へと帰属させるか(行為の個別化)、という二点の捉え方によって、「正しい」記述を複数個持つこととなってしまう』(p.7から引用)

*3:註:稲葉振一郎『リベラリズムの存在証明』(紀伊国屋書店、1999年 asin:4314008482)から引用する:『「人格」の特権的な地位についてニクラス・ルーマンが行っているような機能主義的説明を与えておけば十分だろう。すなわり、現代の多様な制度が機能的分化した社会においては、同一の個人が同時並行してさまざまな制度と関わり合い、それぞれの精度から異なった処遇を受けるというものである。(この様態は社会学的な役割概念によって記述される)。(改行)しかしながら言うまでもなく、一人ひとりの個人は同時に、ひとつの物理的身体、ひとつの心理的心しか持たない存在である。ここから、同時にいくつもの役割をさまざまな制度との関係において担うことの負荷、ストレスが個人の上に帰結する。このような負荷、ストレスを軽減するために、身体的、心理的個人を保護する「人格」という制度を特権化する戦略が有意味となるのである。』参照されているルーマンの書籍は、『制度としての基本権』(木鐸社、1999年 asin:4833221438

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